遺志

 その町に立ち寄ったのは、本当にほんの気まぐれからきた偶然だった。夕暮れ間近の町の大通りを、今夜の宿を探しながら歩いているときに、突然空から女が降ってくるだなんて、きっと俺だけでなく誰も、予想していなかったに違いない。
「ごめんなさい。大丈夫?」
 頭……いや、正確には俺の背中の上から声がする。
 どうやら俺は見事に、恐らく脇の店の二階から飛び降りてきたらしいこの女の下敷きとなっているようだった。
「ぅぐっ……」
 倒れた時におもいっきり鼻を打った俺は、女が横にどくことでようやく身を起こした。片手で真っ赤になった鼻の頭を押さえ、文句のひとつでも言ってやろうと、涙まで浮かんで来ていた目で俺は女を睨もうとした。が、
「伏せて!」
 叫ぶなり、俺は有無を言わせぬ女の無情な手によって、再びジャリのひしめく道の上に顔を押しつけられてしまった。
「ぐぅ……」
 閉じることもできなかった口の中に小石が入ってくる。容赦ない女の力に逆らおうとすると、ふと、自分のすぐ近くにさらさらで癖のない髪の毛があることに気付いた。明るいオレンジがかった、ブラウンの髪だ。
 別にそれに見とれていたというか、気を取られていたわけではないが、一瞬全身の力を抜いた俺の頭上を、ひゅんっ、と風を切る乾いた音が通り過ぎていった。
「きゃあっ!」
 甲高い女性の悲鳴が上がり、俺の周りで、何事かと騒いでいた町の人々が慌てて走り出した。
「人がいるのに……」
 俺を押さえつけていた女の手がゆるんだ隙に、埃っぽい地面から顔を離した俺は、一体何が起こっているのか分からないまま、何気なしに風の走り去った方向を見た。そこにはテントを張った出店が棚を並べているのだが、店主は騒ぎの中でどこかに逃げてしまったらしく、誰もいない。ただ、暗に存在の異様性を訴えかけるかのように、3本の矢が棚に突き刺さっていた。
「逃げるわよ!」
「お、おい!」
 その出店の反対側、つまり女が落ちてきた方の建物から足音を豪快に響かせて走ってくる人間の姿に舌打ちし、女は状況を全く把握できないでいる俺の手を取って怒鳴った。
「早くっ!」
 いらついた声で躊躇する俺を叱りつけ、彼女は俺を促す。そうこうしている間にも軍靴の音はどんどん近づいてきていて、はっきりと俺の目にも、彼女を狙っているのがこの帝国の兵士達であることが映った。しかも町中であることを全く無視して、新たに矢をつがえ、弓を引こうとしている。
「ちょっと、待て。なんで俺まで……」
「いいから!!」
 俺は無関係だ、と叫びたかったが女の気迫に押され、ついに俺は彼女の言うままに走り出した。
 後方で帝国兵の怒号が聞こえ、足下には放たれた矢が次々に刺さる。狙いが定まらないように通りをぐちゃぐちゃに走り、幾度となく道を曲がった。一体どこをどう走ったのか、まったく覚えていない。とにかく女に置いて行かれまいと必死だった。
 どれくらいの時間を走ったのだろう。ようやく追っ手を完全に撒き、もう大丈夫だろうと足を止めたのは、もう夕焼けが西の空を真っ赤に染め上げた頃だった。
 しかし念のためと、表通りではなく裏路地の、家と家の間の細い道で休むことにし、この時になって俺は初めて、女の顔を真正面から見ることが出来るようになった。
 もう文句は一言ではすまされない。泣くぐらいに言ってやれ、と激しく上下する肩とやかましく耳に響く心臓の鼓動に叱咤して、俺は向かい側にいる女の顔を睨み上げた。だが彼女も相当に疲れているようで、両膝に手を置き、背中を住居の壁に預けるようにしてなんとか立っている、という感じだった。
 けれど、俺が顔を上げたことに気配で気付いたらしい。
 汗で頬にひっついた髪を掻き上げ、微笑みを浮かべながら女は俺を見上げた。
「ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって」
 まったくだ、と言いたいところだったが、俺は初めて見る女の顔に、つい見ほれてしまっていた。
「でも、あのままあなたを放っておいたら、帝国兵達に、私の仲間だと誤解されてしまったかもしれないの。彼らは容赦ないから」
 下手をしたら、逮捕・連行されていたかもしれないといわれ、俺は正直ぞっとなった。
 最近の帝国の荒れ具合は良く知っている。成人の旅の途中で、たくさんの苦しんでいる人々を見てきた。数年前のあの輝かしかった時代は終わり、中央から始まった腐敗した政治が各地で横行している。それを止めるはずの軍部も、私欲に走る連中が後を絶たず、黙認している状態。継承戦争時の英雄達も、北の国境紛争やなにやらで忙しいのか、国民の期待に応える気配はない。
 黄金の皇帝はもういない。それが、赤月帝国の人々の共通する思いとなりつつあった。
「……でも、あの時あなたが下にいてくれて、本当に助かったわ。正直言うと、上手く着地できるかどうか自信がなかったの」
 両手を合わせ、ぺろっと舌を出して彼女は子供のように謝ってきた。
「もういい。それより、どうして帝国兵なんかに狙われたんだ?」
 バンダナをした頭をかきながら、俺は尋ねた。こんな若い女性が帝国軍に追われるようなことをしたなんて、とても思えなかったのだ。
「気を付けていたんだけれどね……。彼らは私が邪魔なのよ。今の状況があまりにも心地よいからといって、多くの人々が苦しんでいることに目も向けないでいる。その間違いを正そうとすることは、決して間違ってはいないはずなのに……」
 後半部分はほとんど自問のような呟きだった。
 呼吸が落ち着きはじめ、俺も彼女も、冷静な判断が出来るようになってきていた。
「この国は傾きだしているわ。夜明けの太陽も、いつか地平線の向こうに沈んでいってしまう。でも苦しむのは町や村に住む人々なのよ。彼らにだって幸せになる権利はあるはずだわ。なのに、圧制を受け、少ない収穫を税として持って行かれ、明日食べるものにさえ苦しんでいる。こんな事を許していてはいけないのよ。このままでは、どんどん駄目になるばかりなの」
 だから、と彼女はそこで大きく息を吸い、吐き出した。真っ直ぐな瞳で俺を見つめる。
「だから、私は戦うことにしたの。まだとても小さな力でしかないけれど、きっとたくさんの人が協力してくれるわ。私たちの考えに賛同してくれる。解放軍という希望に、皆が未来を信じてくれることを、願っているの」
 迷いのない言葉。嘘も飾りもない、心から真摯に訴えかけてくる、優しさと強さを併せ持った声。
「解放……軍……」
 聞いたことがあった。旅の中で何度も耳にした。出来るわけがないと思いながら、それでもわずかな希望を抱いたりもした。
「……ああ、ごめんなさい。そういえばまだ名前を言っていなかったわね」
 ふと、思い出したように唐突に彼女が言った。いたずらをする子供のように、大きな瞳が楽しそうに笑う。
「私はオデッサ、オデッサ・シルバーバーグ。解放軍のリーダーよ」
 通りを、家路に急ぐ人々の影が長く伸びていく。
 にこりとほほえんだ彼女の瞳の中に、俺は真昼の太陽を見た気がした。

 守ると誓い、その名をこの剣に刻んだ。共に戦えることは歓びだった。生まれ故郷に帰るのは彼女の夢を果たし、全てを終えたあとで、彼女と一緒に、と決めていた。
 死んだと聞かされたとき、信じなかった。いや、今でも信じられない。そのうちひょっこりと帰ってくるのではと、がらにもない夢を見たりすることもある。だっておれは、彼女の死に顔を見ていない。
 約束したんだ。必ず二人で幸せになるのだと。平和を、穏やかな日々を手に入れて、静かに二人で暮らそうと。その為に、俺はずっとずっと頑張ってきたのに。
 あのとき君を行かせるべきではなかったと、いったいどれだけ悔やんだことだろう。君から離れるべきではなかったと、どれほど苦しんだことだろう。君のいない世界なんてなんの価値もないと、君が最後に遺してくれたメッセ-ジにも気付けなくて、俺は一瞬でも君を裏切ってしまった。
 許せなかった。ラスティスも、ビクトールも、そしてなにより、俺自身を……。
「どうして死に急ぎたがる!」
 去りゆくテレーズの後ろ姿に、俺は彼女を見ていたのかもしれない。
 オデッサは自分の遺志をラスティスに託した。彼女は決して諦めてはいなかった。たとえ自身の死が隠されたとしても。誰も彼女の死を知らず、誰も悲しんでくれなかったとしても! 彼女は今とこれからを生きていく人々のために、出来ることを全てやってから、死んでいったのだ。
 だがテレーズは違う。彼女のそれは単なる逃げでしかない。周囲からの重圧と、現状の難しさと、自身の弱さという苦しみから逃れるためだけの死。そこからもたらされる思いは、絶望と悲嘆と、そしてあきらめという気持ちだけ。
「まだなんとかなるかもしれない。行こう、セレン」
 あどけなさの残る少年が、義姉の言葉に力強く頷いた。
「ああ。むざむざ死なせてたまるかよ」
 救えなかった命は、彼女の思い描いていた夢を現実にすることで、救うことが出来た。そしてテレーズは、まだ生きている。グリンヒル市民の希望であり、支えである彼女は、まだ死んではいないのだ。
「行くぞ」
 腰に差した愛剣を握りしめ、俺はニューリーフ学院へ戻る道を駆けだした。
 ──すまない、オデッサ。君に会いに行くのは、まだ当分先のことになりそうだ。
 でも、……君なら許してくれるよな?