Dear

 秋の空は高くどこまでも澄んだ色が続いている。鳶が円を描いて舞っている下で吹き抜けていった風は思いの外冷たく、濃緑色のマントの下で彼はひとつ身震いをした。
 数年ぶりの故郷への帰還。それは本来の予定にはない行動だった。
 だけれどあの時、ここに戻ってくる以外に何の罪もない少年の命を救う手だてがなかったのだ。小さないが確かな命と、自分の行き場のない怒りとも悲しみともつかない感情を秤にかければ、どちらに傾くかは最初から明らかだろう。
 しかしやはり帰るべきではなかった。物言わぬ墓標の前で彼はその想いだけを噛みしめ立っている。
 理路整然と並べられた、ある意味美しく整えられた墓碑の群。グレックミンスターの外れに位置する広々とした墓地は、いつだったか最後に生母の墓参りに訪れたときよりも墓標の数が圧倒的に増えている。手向けられる花は今も絶えることがない。
 その事実が、かつてわずか3年前までこの町が戦乱の中心にあったことを思い出させてくれる。町の人々も努めて明るく振る舞っていたが、心の底で忘れたことはないだろう。
 戦いは長く辛いものでしかなかった。戦火の中心にいたのは紛れもない彼自身であり、その苦しみは痛いほどに感じている。
 戦いが始まるきっかけを生んだのは彼。戦争を終結させ今の体制を導いたのも、彼。
 自分がここにいたらいつかまた、新たな争いの火種を生み出してしまうから……だから、彼は自分から望んでこの町を離れた。二度と……戻ってこないつもりでいたのに。
 運命など信じない。しかし、これが運命の悪戯というのであればそれ以外に表現の方法が思いつかない。
「父様……」
 ふたつ綺麗に並んだ墓標の片方は、まだ新しい。そこに刻まれた名前は彼の愛して止まない、そして望まざる戦いの中で死んでいった彼の大切な父親。
 生前の彼がいかに人々に愛されていたのかが分かる、まだ瑞々しい色とりどりの花が手向けられた墓は、定期的に誰かが掃除をしてくれているのだろう。多少の風による傷はあったものの、建てられた当時の姿を保っている。もちろん、その横に並ぶ、彼の妻の墓も同様だった。
「母様と、会えたのかな?」
 物心つく頃にはもういなかった母を、自分は肖像画でしか知らない。とても美しい人だったと、いつだったか父は照れながら教えてくれた。
 美しく、気丈で気高い人だったと。
 父の背中はとても大きかった。いつか自分があの背中を追い越して行くのだと、漠然とした想いはあったけれどその日があんなにも早く訪れるだなんて、きっと誰も想像していなかったに違いない。
「こんな事を言ったら、怒られるかもしれないけれど……それでも、僕は戦いたくなかったんだ」
 父との、あの戦いで。自分が何を失ったのかがよく分かるから。先に進むためには避けて通れない、必要なことだったのかもしれないけれど、それでも、本当はずっと戦いたくなんてなかった。
 生きていくことはとても重い事なのだと、教えられた。
 たくさんの人を殺して、たくさんの人から恨みを買って、それでも立ち止まらずにすすまなければいけなかった。それが、戦争というものだから。
 いっそ狂ってしまえたらどんなに楽だっただろう。だけどそうさせてくれなかった。この世界が、星々が、未来が。
「ごめん、愚痴るつもりはなかったのにね」
 風が吹いて、彼のバンダナの結び目を揺らす。前髪が浮き上がり、それを追いかけるように上向けた視線の先で彼は思いがけない人物を見つけた。
 向こうも彼の存在が意外だったようで、両手いっぱいに抱えた花束を危うく風に飛ばしてしまうところだった。
「おや、これは珍しい」
 最後に会った時――3年前の解放戦争終結時よりも、いくらか身にまとう衣装には派手さを欠いてはいたが、それでも他の人よりは充分目立つ服装のミルイヒが、花束を抱えなおしてつぶやく。
「昨日城下の方がなにやら騒がしかったようでしたが、あれは貴方だったのですね」
「僕が騒いでいたんじゃないさ」
 彼が帰ってきたことを耳ざとく聞きつけたかつての仲間たちが集まってきただけだ。騒がれるのは本意ではなかった。それに。
「後ろめたいことでもあるのですか?浮かない顔をしている」
 こういうときのミルイヒは鋭い。伊達に帝国5将軍をやっていたわけではない。見た目はふざけているようにも映るが、剣の腕は他の列強と比べてもまったく不遜無いのだ。それどころか、戦い方にもどこか花がある。いや、妙な意味ではなく。
「察しがいいね、さすがに」
「テオとはつきあいが長かったですしね。貴方はテオとよく似ている。考え込むときの癖や、表情がね」
「そう、でしょうか?」
 自分では分からないし、あまりそういうことを人に言われたことがない。どちらかといえば、亡くなった母に顔が似ている、と言われる事の方がずっと多かった。
「将軍、やめたんだって?」
 昨日の夜に聞いた、自分がグレックミンスターにいなかった間の出来事の数々。その中で特に驚かされたのが、ミルイヒが将軍をやめてしまったということだった。帝国5将軍のうち、生き残った他のメンバー3人は今でも将軍職にあり、各方面で以前と変わりない力を発揮しているのに。カイやカミューが将軍になっていることにも、驚かされたが。
「意外でしたか?」
 そう聞き返されて、彼は口をつぐむ。
 ミルイヒは5将軍の中でも、特別バルバロッサへの忠誠心が厚かった。それは、ミルイヒがバルバロッサの亡き妻に恋心を抱いていたからだ、というのがもっぱらの噂だが。それがあながち嘘ではないことを、彼は知っている。
「バルバロッサ皇帝が亡くなって……それで?」
 仕えるべきはバルバロッサのみ、だったのかもしれない。ミルイヒは帝国を裏切って解放軍に参加してくれたけれど、その本心は帝国をうち破ることではなくて乱心したバルバロッサを救いたかったから、だったはずだ。
「……ええ、それもあります。ですが、それだけではありません」
 花を抱き、ミルイヒはほほえんだ。そして彼を促し、バルバロッサの墓へと導いてくれた。
「………………」
 墓地の最奥、歴代の皇帝の墓が並ぶ一帯の中央に、バルバロッサの墓があった。しかし彼は知っている。その下には誰も眠ってなどいないことを。
 バルバロッサの遺骸は発見されなかった。グレックミンスター城の空中庭園からウェンディを道連れに身を投げたかの偉大な皇帝は、崩れた城の残骸に埋もれ、結局どちらの遺体も見つけだすことが出来なかったのだ。彼が持っていた筈の王者の紋章も、ウェンディの門の紋章の片割れも、見つけだすことが出来なかったという。
 バルバロッサは晩年こそ愚王だったかもしれない。しかし彼にはその分を引いても余りあるほどの偉大すぎる功績があった。今あるトラン共和国も、バルバロッサが築き上げた礎の上に立っていると言ってもいい。
「治める者が変わっただけ、と言われるのも無理無いことかもしれない」
 それだけ、バルバロッサの存在は大きかった。その証拠に、解放軍や圧制を受けていた民衆からしてみれば敵であったはずのバルバロッサの墓には、テオのそれ以上の花が手向けられている。未だにバルバロッサは民衆にとって忘れ難き人なのだろう。いい意味であれ、悪い意味であれ。
「日課になっていましてね。ここに来るのは」
 将軍職を退いたとはいえ、ミルイヒは多忙な毎日を送っている。貴族制が廃止され、一市民になったものの、彼に知恵を求めてくる人は多い。財産は没収されなかったので今のところ新しく職を求めなくても何とか生活していけるのだそうだ。
 トレードマークだったひげを剃り、こざっぱりした顔になったミルイヒは抱えていた花束を供えると、振り返って微笑んだ。どことなく寂しげな、憂いを含んだ笑顔だった。
「ミルイヒ……」
 名を呟き、彼はバルバロッサの墓の傍らに小さく建つ墓を見た。まだ新しいが、王族の墓と言うにはあまりにも質素すぎる、隠されるように建てられた墓はよほど注意していないと見逃してしまいそうだった。
「ああ、気づきましたか」
 体ごと向き直り、ミルイヒが彼の前に立ってそれからその小さな墓の前に跪く。伸びかけの雑草を手で払い、刻まれた名前を彼に示す。
「ウェンディ…………」
 思いがけない名前に、彼は一瞬息をのんだ。
「ここの下にも、やはり何も眠ってはいないのですが。なにもしないのは哀れでしょうし、何よりもバルバロッサ様が悲しまれるでしょうから」
 黄金皇帝は彼女を愛していた。たとえそれが、亡き妻の面影を追い求めた結果に生まれた感情だったとしても。
 自ら死を選んだ皇帝の、最後の言葉を思い出し彼は言葉をなくす。
「彼女も犠牲者だったのではないでしょうか。もちろん、彼女がしたことを正当化しようとは思いません。利用されていたとはいえ、私も自分がしてきたことを許されるとは考えていませんし。ですが、彼女があそこまで追いつめられる前に手をさしのべてやれなかったのか、と思ってしまうと…………」
 そこでミルイヒは言葉を切った。振り返って彼を見上げる。
「分かっている。だけど、憎んだところでなにも始まりやしないから……」
 だから憎むのはやめた。ひとつを憎んでしまったら、他のことまですべてを憎んで恨んで、そんな感情を抱いている自分さえ許せなくなってしまいそうだったから。
 木の葉散る木々を見上げ、彼は呟く。いつの間にかミルイヒは立ち上がっていた。
「ありがとう、ラスティス」
 さっきの微笑みよりも少しだけ嬉しそうな笑顔を見せ、ミルイヒは頭を下げてきた。
「違うさ」
 首を振り、彼は否定する。自分は人に感謝されるようなことはなにひとつしてはいないと。
「僕は僕の答えを探して戦った。誰かのためとか、平和のためとか、そんなものを掲げて戦っていたんじゃない。僕は、自分自身のためだけに戦っていた。だから、僕は礼を言われるような立派な人間じゃない」
 俯いて答えた彼を、ミルイヒはふと寂しげに見る。
「ひとりで罪を背負っているわけではないのですよ」
 唐突にミルイヒは言った。
「この世の中には、正しい事なんて本当はどこにもないのかもしれません。人として生きて、生き抜くこと、己の正義を全うすることだけが正しいことなのかもしれません。他人から与えられた未来を生きるのではなく、自分で選び取った道を歩んでいく。そうすることが、己の正しさを証明できる唯一の方法」
「ミルイヒ?」
「うわべだけの世界を見て行くよりは、貴方の選んだ道はずっと正しかったのだと私は思います。平和だとか世の中の人のためだとか言っている、偽善ぶった押しつけがましい正義よりはずっと、貴方の生き方に共感がもてます」
 迷うことがあっても、立ち止まることがあっても、自分さえ疑わなければまっすぐに進んでいける。
「そうだろうか……?」
 独白した彼をミルイヒは暖かい瞳で見つめた。それから、何かを思いだしたらしく口元をほころばせる。
「?」
 不思議そうな顔をして見つめかえしてくる彼に気づき、ミルイヒはなんでもない、と手を振った。
「いえ、ね。貴方に言うことではないのでしょうが……私はね、ラスティス。本当はあの時、すべてが終わったら死ぬつもりでいたのですよ」
 バルバロッサが死に、200年以上続いた赤月帝国の歴史が終わりを告げたとき、ミルイヒは自分に課せられていた役目も終わったのだと思ったという。将軍をやめたのもその考えがあってのことだった。
「でも、言われてしまいました。死ぬことで罪を償うという考え方は、逃避でしかないと。本当に罪を認め、償うつもりでいるのならば生きて、天より与えられた己の生涯を全うして死ね、と」
 誰に、と問いかけてラスティスはやめた。想像がつく。ミルイヒにそういうことを言える人間は少ないから。
「いいね、そういう考え方……」
 マントを羽織り直し、ラスティスはそれだけを言葉にした。微笑みを浮かべると、ミルイヒも表情を和らげた。
 迷った。生き続けることに。でも生きることでしか生きる意味を見つけることが出来ないと悟ったとき、迷いながらも生きることを選んだ。その選択が正しかったかどうかはまだ分からないけれど、それでもあの時死んでしまわなくて良かったと、すくなくとも今はそう思える。
 悲しんでも、死んでしまった人は戻ってこない。涙を枯れるまで流したとしても、死者が甦るはずがない。
「悔やむことがあっても、僕は進むしかない。だけど、それでも……」
 この命があり続ける限り、ソウルイーターは彼の愛するものを奪い続けるだろう。一度は逃げ出したグレックミンスターに再び足を踏み入れることも、心のどこかで拒否したい感情が残っていた。この町には思い出が多すぎるから。
「ならば、ソウルイーターが新たな犠牲を求めたとき私の所にいらっしゃい」
 テオとも話しておきたかったことが沢山あったから、とミルイヒはウィンクして言った。
「冗談、過ぎるよ」
「でもね、ラスティス。これだけは忘れないで下さい。誰も喜んで犠牲になったわけではないのです。皆、愛するものや大切な人を守るために駆け抜けていっただけなのです」
 誰かのためではない、すべて自分自身のために。
「ね?」
 だから大丈夫ですよ、とミルイヒはラスティスの手をそっと握りしめた。その温かさに心を救われた気分になり、ラスティスはただ頭を垂れて彼に感謝の言葉を繰り返し続けた。

 記憶の中にあるものよりもいくらか色がはげ落ちて、くたびれた印象を与える、でも懐かしい門を押し開けてラスティスは重厚な造りの玄関を見上げた。
 何も変わってはいない。ただ少しだけ、年月が過ぎただけだ。
 ドアノブに手を伸ばし、彼は深呼吸する。自分の家のはずなのに、扉を開けることだけでもこんなに緊張するなんて、信じられなかった。
 それは自分が長い間この家に帰ることがなくて、そして二度と帰ってくるとは思っていなかったからだと、ラスティスは自覚する。昨日はグレミオが門を押し開け、扉を開いて中に導いてくれたから気付かなかったけれど。
 何もかもが遠くに行ってしまった気がして、ラスティスはドアノブを握ったままため息をつく。視線はずっと手元を見下ろしたままで、まるで凍りついてしまったみたいに動かない指に力を込めた。
 躊躇する。
 一瞬、この家はもうずっと昔から空き家になっていて、中は荒れ放題の廃墟で誰も住んでいないのでは、と錯覚してしまった。
 待っている人は誰もいない、誰も帰ることのない家。そこに自分たちが住んでいたことを誰も覚えていない、遠い世界の記憶を垣間見た気がして、ラスティスは空いていた片手で顔をおさえた。
 汗が噴き出す。冷たい汗だ。
「駄目だ……」
 開けられない。
 恐い。
 怖い。
 コワイ。
 逃げ出したかった。今すぐ、この家から離れたい、町を飛び出してまた知らない村に逃げ込みたい。
 そうだ、分かっていた。グレックミンスターを避けていたのは、認めるのが嫌だったからだって事を。
 過ぎ去って行くばかりの時間を否応がなく見つめなければいけないから。自分の知らない世界に行ってしまった故郷を見たくなかった。まるで、自分はそこの住人じゃない、旅の中で偶然立ち寄っただけの異邦人のような感覚にさせられるから。
「…………」
 変わってしまっているのが怖い。何も変わることのない自分を認めるのが怖い。自分の中にある止まった時間を見つめるのが怖い。
 逃げたい。
 自分のことを知る人のいない世界に逃げ出したい。それが自分の弱さだ。
「僕は、こんなにも弱い」
 今も誰かがこの扉を開けてくれるのを待っている。自分では開けられないこの扉──それはトラン共和国成立から過ぎ去った3年という時間そのもの。
 認めないわけにはいかない。だがその勇気が持てなかった。
「坊っちゃん……」
 すぐ後ろでグレミオの声がして、振り返った瞬間不意にラスティスの両目に涙が溢れた。
 買い物袋を置いたグレミオが、優しげな微笑みを浮かべてラスティスを抱きしめる。背中をさすってやりながら、
「大丈夫ですよ、坊っちゃん。少しずつでいいですから、焦らなくてもいいですから……」
 子守歌のように繰り返し彼は囁く。
 そして彼は屋敷の扉を開いてラスティスを中に誘う。
 昨日と何ら変わらない──3年前、最後に夜を過ごした日とほとんど変化していない家だ。ラスティスが生まれ育ち、父と親友の思い出がいっぱいに詰まった屋敷だ。
「クレオさんに感謝しなくてはいけませんね」
 テオが亡くなり、ラスティスとグレミオも去って、パーンまでもが修行の旅に出てしまったこの屋敷をただ一人守り続けてくれた女性。強く、優しいクレオ。彼女が守ってくれた家は、昔と同じ姿のままで在り続けていた。
「すぐに夕食の仕度をします。それまで、待っていて下さいね」
 玄関前にある2階への階段の前で、グレミオはラスティスから手を放した。
「……うん」
 やんちゃで、甘えん坊で、寂しがり屋で。ラスティスはそんな子供だった。それは今も変わらない。グレミオの前でだけ、ラスティスは今も幼子のままだ。
「今夜はシチューですよ」
 ラスティスの大好物で、グレミオの得意料理。体だけでなく心までも温かくしてくれる料理だ。
「ありがとう」
 彼の心遣いに感謝しながら、ラスティスは2階の、自分の部屋に向かった。
 鍵のかかっていないドアを一瞬の逡巡の後、押し開ける。開け放たれた窓から夕方の涼しい風が流れ込んでいて、前髪をすくい上げられたラスティスは眩しいものを見つめる目で室内を眺めた。
「僕の、部屋だ……」
 昨日はここで眠った。ピンと張られたシーツは真っ白で、太陽の匂いがした。ふかふかの布団があったかくて、よく眠れた。
 悪夢は見なかった、そういえば。
「僕の部屋だ」
 もう一度、呟き彼は室内に入った。
 3年間誰もいなかった部屋なのに、ずっと自分がここで生活していた感覚が残っている。
「ああ、僕の部屋だ……」
 間違いない、ここは自分の部屋だ。還ることの許された、自分だけの居場所だ。
 嬉しい。
 ベットに腰掛け、その感触を楽しむ。横になって、天井を見上げて。この白い空を見ながら、彼はテッドと沢山の話をした。お互いの将来のこと、赤月帝国のこと、これまでの生活、遊び、勉強、知らない町、知らない世界に心躍らせた。
「テッド、僕は君みたいに生きられるだろうか……?」
 300年という時を生きてきた彼の強さを、今更ながらに思う。
 寝返りを打ち、うつぶせになって顔を上げたラスティスは枕元にあるサイドテーブルを何気なく見た。
 革製の鍵付きの日記が置かれている。
「僕の、日記……」
 手を伸ばして表紙を撫でる。柔らかい感触が掌に伝わって、懐かしくなる。
「鍵、どこにやったけ……?」
 ずっとつけていなかった記憶しかない。確か、最後に書いたのは……いつだっただろう?
 鍵を探してラスティスは立ち上がった。反対側に置かれた机の引き出しを順に見て、一番下の引き出しの裏側に小さなポケットがあったことを思い出す。手を伸ばして探れば、金属の感触があった。
 思った通り、金色の小さな鍵が出てきた。
 鍵を手に、ベットまで戻る。日記を持ち上げて鍵を鍵穴に差し込み、廻す。カチッ、という音を立てて日記は開かれた。
 数年前の稚拙な自分の書いた文字が並んでいる。内容は日常で起こった些細なことばかり。テッドと喧嘩をした、グレミオに怒られた、父様が久方ぶりに帰ってきた……数年前の記憶が生き生きと蘇り、ラスティスの表情は自然とほころんでいった。
 だが、ページをめくる手が突然止まった。
『テッドと僕だけで、サラディに行った。グレミオにも誰にも内緒で。二人だけの冒険だ。大変だったけど、楽しかった。でも、テッドは僕に何も話してくれない。聞いても、きっとテッドは嫌がるだろうし、かわされるだろうから聞かないけど……でも、本当は知りたい。テッドのことをもっと知りたい。いけないことなんだろうか?僕が知りたがっていることをテッドが知ったら、テッドは僕から離れてしまわないだろうか。そんなのは嫌だ!テッドと一緒にいられなくなるくらいなら、僕は何も知らなくていい。このままでいられるのなら、僕は何も知らないままでいい』
 思い出す、あの日の記憶。テッドは雪の中でこう言った。「いつかお前を殺してしまうかもしれない」と。
 冗談だと思った。だから彼はこう返した。「僕は生きる。だって、テッドが守ってくれるんだろう?」と。
 図らずも、その言葉は現実となった。そんなつもりはなかったのに、ラスティスの言葉は真実となって彼の前に現れた。
 シークの谷での、テッドの言葉。何も言えなかった、自分。
 そうだ、日記を書いたのはこの日が最後だった。それからラスティスは日記を開いていなかった。
 なのに気になって、彼は次のページをめくる。そこには何も記されていない真っ白のページがあるだけのはずだった。
 けれど。
 はらり、とページの間から何かが落ちる。ゆらゆらと揺れながらラスティスの足の上に落ちたそれは、短冊状の紙だった。
「これ……」
 拾い上げ、裏返してラスティスは目を見張り、そして俯いて日記を抱きしめる。
 白い紙に貼り付けられた、四つ葉のクローバー。幸運をもたらすお守り。ずいぶんと古いものらしく、ぱりぱりになって指で触れたら崩れてしまいそうになるクローバーに、ラスティスは覚えがあった。
 そしてなによりも、空白だったはずの日記に乱暴に書き殴られたラスティスのものではない文字。
 たった一言だけ、そこに。

Dear my best Friend

 涙がこみ上げる。けれどラスティスはそれを止めようとは思わなかった。
「テッド……」
 日記帳とクローバーを抱きしめ、ラスティスは床に跪いた。
 夕食の仕度が整ったと、彼を呼びに来たグレミオが扉の向こうで主人の泣き声を聞き、そっと立ち去る。帰り際に階段を上がってきたクレオとパーンに、騒がないように注意して、彼は台所に戻っていった。
「テッド、僕は強くなる。君と同じくらいに、強くなるから」
 涙が止まらない。
「今だけ、弱い僕を赦して……」
 夜はやってくる。そして朝が再び巡り来るだろう。二度と戻らない時だけを遺して。還ることのない記憶だけを遺して。