クローバー

 多分、一生で一番、笑顔でいられた時間だから
 君を失いたくないと願った俺のわがままは
 こんな迷信でしかないただの草に叶えられるものではないと
 よく分かっているけれど
 クローバー、お願いだ
 この時間を俺から奪わないでくれ

 それはいきなりの計画だった。
 だけれどその家の人間はこれがいつもの事らしく、特に慌てふためく様子もなく「それじゃ、準備しましょう」というグレミオの言葉を号令に一斉に動き始めた。ただひとり、マクドール家に厄介になり始めたばかりの俺を除いて。
 戦火の中に一人放り出され、行く当てもなく彷徨っていた俺を見つけたこの家の主、テオ・マクドールは一言で言えばいい人だ。赤月帝国の5将軍の一人として、恥じることのない実績を上げているし、何よりも人望がある。家でも決してぐーたらな人間にはならずにてきぱきと仕事をこなしている。
 彼には住み込みの部下……というよりも、弟子か? という人が二人いた。一人が格闘家のパーンで、もうひとりが快活な性格をしている女性、クレオ。それからテオ様の一人息子であるラスティスの付き人をしながら、この家の家事一切を引き受けているグレミオ、という男性の計5人がマクドール家に住んでいる。
 だが俺は、一緒に住もうというラスの提案を拒否している。この身に宿る真の紋章を見られるわけにはいかないからだ。だから、無理を言ってこの家から少し行ったところにある家を借りて住めるように手配してもらった。もし俺一人でこの町で家を借りようとしても、きっと無理だったに違いない。いくら300年を生きてきたとはいっても、所詮見た目は13,4才の子供のままなのだから。
 だから、テオ様と知り合えたのはとても都合のいいことだった。しばらく安住の地を得ることが出来た。あとは、怪しまれないように数年後、出ていけばいいだけのこと。
 そういう風に、彼らをどこか冷めた目で見ていた俺を誤解した奴がいた。それが、ラスだった。
「テッド、僕のこと嫌い?」
 ある日突然、顔を合わせるなりそう言ったラスは、びっくりして返す言葉に詰まっている俺を見上げて何故か涙ぐんだ。
「やっぱり、そうなんだ」
 勝手に納得されて、俺はますます分からなくなる。
「ちょっと待て。なんでいきなり、そう来るんだ?」
 朝起きて、飯を食って、する事もないしマクドールのみんなに挨拶にでもいくか、と門を押し開けてドアをノックして。少し背伸びをしてドアを開けたラスが俺の顔を見るなり泣き顔になるのは一体どういうわけだ?
「おや、テッド君。来てたんですか?」
 奥から天の助け、とばかりにグレミオが似合いのエプロン姿で出てくる。いい匂いが台所から流れてきているから、きっと昼食の準備中だったのだろう。
「来てたの。な、こいつどうしたの?」
 ぐず、と鼻をすするラスを指さし、俺はグレミオに聞いた。するとグレミオは、手にしていたおたまを唇に押し当て、なにやら思い出したらしく笑いをかみ殺した。
「な、なんだよ!?」
 不安になるような笑い方をされて、俺は焦った。もしかして、俺が彼らの好意を利用していることがばれた? それとも、紋章のことがばれたのだろうか……と留めない疑念がわき起こってくるが、冷静に考えてみたらそう言う雰囲気ではないことぐらい、すぐに分かる。
「いえ、坊ちゃんはテッド君がなかなか笑ってくれないから、すねていたんですよ」
「はい?」
  ずいぶんと間抜けな声で俺はずり、と肩に羽織ったマントを落としてしまった。
「なんだよ、そんなこと?」
「そんな事じゃないよ!」
 髪を掻き上げ、俺は呆れたように言ったが、直後に真下から怒鳴り声がしてまた驚かされる。
「別に……俺が笑わなくてもお前、困らないだろ」
 そういえば、いつの頃からだろう。笑わなくなったのは。
 思い出せなくて、俺は一瞬そこにいるラスやグレミオのことを忘れた。頭を押さえながら、うつむき加減の視線は俺の足下ではなくもっと別の、時間を通り越した果てしない過去へと向かっていた。
 ──じいちゃん……。
 少なくとも、祖父が生きていた頃はまだ、自分はどこの誰よりも子供らしい子供だった。閉鎖された空間に生まれ育ったために、外の世界に過大な興味を持っていて、外から来た人を遠巻きに眺めていたこともあった。そう、あの頃はまだ、俺は笑っていられたはずだ。
「テッド?」
 すぐ近くで呼ばれて、俺ははっと我に返る。
「大丈夫? どこか具合が悪いの?」
 心配そうに俺の顔をのぞき込むラスに、俺は今が今であることを思い出す。
「平気。なんでもないから」
 そう言ってまとわりつくラスをどかそうとするが、彼はなかなか離れてくれない。俺のシャツの裾を握って、じっと俺を見つめてくる。その視線が探られているような感覚で、俺は顔を背けた。
「テッド、僕のこと嫌いならそう言ってよ」
「だーかーらー。どうしてそういう解釈するかな、お前は」
「だって、さっきからテッド、全然僕の方を見ないじゃないか」
「そ……そう?」
 幼いと思って甘く見ていたら痛い目を見る、とラスを評価していたのは誰だっけ。えっと、ラスの棒術の師匠で、カイ……だったけ?
「坊ちゃん、テッド君が困ってますよ」
「だって、グレミオ! テッド、僕はテッドのこと好きだよ。だからさ、……そうだ! ねえ、テッド。今日って暇?」
「はい?」
 まったく話の脈絡が見えない台詞に、俺はまたしても間抜けな声を出す。しかしラスは聞いちゃあいなくて、後ろのグレミオを振り返り、玄関前の騒ぎを傍観に回っていたパーンやクレオにも向かって、
「ピクニックに行こう!!」
 お天気もいいし、あったかいし、家の中で腐っているのはもったいないし。でも、だからって何故ピクニック!? しかも今から!?
「おっ、いいですね」
「今の季節だと、西側の丘なんて、どうでしょう」
「そうですね。それじゃあ、お弁当の用意をしましょう。クレオさん、手伝って貰えますか?」
「分かった、ちょっと待ってくれ」
「はい。坊っちゃん、お弁当に何か注文はありますか?」
「卵焼き、入れて。あとソーセージ、タコのやつ」
「承知しました。パーンさん、荷物を作って貰えますか?」
「シートだろ? どこにしまったけなぁ……」
 皆それぞれにいきなりの提案をなんの疑問もなく受け入れて、その準備に向かっていく。俺一人を置き去りにして。
「なんだ、お前達。玄関になんかで立ち止まって」
 そこへ、どこかに出かけていたらしいテオが戻ってきて玄関のドアの前を占拠していた俺とラスを不思議そうに見下ろす。
「父様! ピクニック、一緒に行こう!」
「そうか、楽しそうだな。テッド君も来るのか」
「うん! 今グレミオがお弁当作ってるよ」
「…………」
 駄目だ、この人も。やっぱりマクドール家の主なだけあって、そこに住む個性的な面々と比べてもまったく違和感がないくらいにとけ込んでいる。少しは疑問に思えよ、なんでいきなりピクニック? って。
 だが俺はその疑問を口にすることなく、準備を整えた彼らに半ば引きずられるようにしてグレックミンスターの西にある小高い丘の頂きに連れていかれたのだった。

 クローバー、クローバー
 お願いだ、俺から彼を奪わないで
 この時間を壊さないで

 緑の草の上のパーンが倉庫から引っぱり出してきたシートを広げ、その上にグレミオお手製のお弁当が並べられる。人数分よりも量が多いような気がしたが、人並み以上に食べる奴が一人いたことを思い出し、俺は納得する。
「いっただっきま~~っす!!」
 両手を合わせて、まず大合唱。それからめいめい、好きなものへと箸をのばしていく。
 お日様は気持ちがいいくらいにぽかぽかと地上を照らしている。時折吹く風は心地よく、見た目も味も申し分ない料理に舌鼓を打ち、俺はしばしの幸福を満喫していた。
 こうやって、誰かと一緒に野外で食事をするのもずいぶんと久しぶりな気がする。……いや、初めてかもしれない。
 俺はこれまで意図的に人との繋がりを絶ってきた。そうしなければ、俺の左手に宿るソウルイーターが、俺と親しくなった者の命を奪おうとするだろうから。それを見るのが苦痛だったから。
 ──だから、か?
 それがラスに伝わってしまったのだろうか。俺が必要以上にラスに近付こうとしないことが、あいつにはばれていたのだろうか。だから、嫌われていると思った?
「テッド君、箸が止まっているよ?」
 クレオが優しげな微笑みを浮かべて俺を見る。
「早く食べないと、パーンに全部食べられてしまうよ」
 一向に箸を止める気配のないパーンを指さし、彼女は俺の手の中にある小皿にソーセージを載せた。
「タコさん……」
 ラスが向こうで恨めしげな顔で俺を睨んできた。ひょっとして、狙ってたとか?
 こくん、と無言で頷くラスに、俺は心の中で嘆息した。これは俺が取ったのではなく、クレオが選んで勝手に皿に載せただけなのに……どうして俺が恨まれなくちゃいけないんだ?
「やるよ」
 ほれ、と皿ごとソーセージを渡してやると、ラスの顔がぱっと華やぐ。でも、こいつ確か、今年で13じゃなかったか?
 グレミオがクスクスと笑っている。でも、悪い気はしなかった。
 昼食が終わり、続いて各自が好き勝手出来る時間がやってくる。パーンは食後の運動でその辺を走り回り、クレオは食器の片付け。グレミオとテオはどこから出したのか、碁盤を挟んで碁をうちはじめた。なにもここでやらなくったって……と、俺は思う。
「テッド、こっちこっち」
 かくいう俺は、ラスに引っ張られて草原を走った。
 緑の匂い、風のささやき、大地のぬくもり、空の声。全てが懐かしく、温かい。
 ──こんなんだったっけ……
 草原を誰かに追い立てられることもなく走るのは、こんなに気持ちがいいものだったか? 周りばかりを気にして、警戒を解くことなく太陽の下で思い切り駆け回ったのはいつ以来のことだっただろう。
 ずっと、忘れていた。
 気付かなかった、こんなにもすぐ近くにあった『当たり前』がこんなにも遠くになってしまっていたことに。
「ちょ、ちょっと待った……ラス、俺もう駄目……」
「えーー!? もうばてちゃったの? テッド、体力なさすぎだよ」
 それは違う、お前の方が馬鹿みたいにスタミナがあるんだ、と言いたかったが呼吸するのも苦しくて声が出なかった。大きく肩を上下し、吸って吐いて、俺はその場に倒れ込んだ。
「テッドぉー」
 不満そうなラスが戻ってきて、俺を真上から睨み付ける。ちょうどそのラスの頭が俺にとっては太陽の光を遮る庇のようになっていて、まぶしさから解放された俺は数度瞬きを繰り返してラスを見た。
「怒るなよ」
 ふてくされた顔のラスに笑いかけ、俺は何気なしに手を伸ばした先にあった草を引きちぎった。
 シロツメ草が一面に生えた草原で俺とラスが笑っている。こんな風に、誰かと笑いあうことも久しぶりすぎて、溜まらなく嬉しくて、哀しかった。
「これ、やるから」
 今摘み取った草を、腕をのばしてラスに差し出す。
「こんなので誤魔化されないよー……あれ?」
 ふん、とそっぽを向きかけたラスが一瞬で顔を戻す。そして俺の手を──いや、俺の手に握られている草をまじまじと眺め始めた。
「な、なに?」
 そんなに変だったか? と焦る俺にラスは顔を輝かせ、
「テッド、凄い!」
 と言った。
「へ?」
「だって、これ四つ葉のクローバーだよ」
 何が凄いのか分からなくて、身を起こした俺にラスが速攻でまくし立てる。
「四つ葉?」
 だけど俺は知らなかった。ラスがなにをそんなに興奮しているのかが。
「そんなに珍しいものなのか?」
「テッド、知らないの?」
「なにを」
 手にしていた草を見つめ、俺は首を傾げる。その姿にラスは俺が四つ葉のクローバーの伝説を知らないことを察したようだった。
「四つ葉のクローバーはね、願い事を叶えてくれるんだよ」
 滅多に見付かるものではない。普通、クローバーは三つ葉だのだそうだ。たしかに、よく見ると俺の手の中にあるクローバーは四つ葉だった。綺麗に葉の形も揃っている。
「ふーん」
 大して興味なさげな俺に、ラスは「あれ?」という顔をする。
「嬉しくないの?」
「なにが?」
「四つ葉のクローバー」
 それ、とクローバーを指さしてラスは俺の顔を真っ正面から見つめてくる。また、俺はいたたまれない気分にさせられて視線を逸らした。
「だって、迷信だろ?」
「でも、本当かもしれないじゃないか」
 滅多に見付からない四つ葉のクローバー。そんなものに願いを託せる小さな人間達。
 ──本当になんかなりっこない。
 俺は知っている。俺の願いは、絶対に叶えられることのない願いだっていうことを。だから願うのはやめたんだ。悲しみたくないから、何かに縋って生きていくことは出来ないのだと、俺は知ってしまったから。
「テッド……」
 哀しげなラスの声に俺は顔を上げる。気がつけば、ラスはクローバーを握る俺の手を両手で包み込み、祈るように俯いていた。
「ラス?」
 俺の手に額を押し当てて、ラスは囁く。
「絶対、絶対叶うから。テッドの願いはきっと叶うから。だから、だからテッド……」
 泣いているのか、と思った。
「そんな顔で泣かないで」
 違う。泣いていたのは俺。未来に絶望するしかない俺の心が、声を殺して泣いていたんだ。

 日が陰る。夕暮れが近付き、俺達を呼ぶパーンやクレオの声が響き渡る。
「戻ろう」
「うん」
 願いは叶うだろうか。いや、きっとそれは永遠にあり得ないこと。
 でも俺はそのことを告げることはないし、ラスも気付いていたとしても絶対に口に出すことはしないだろう。
 俺の手の中には今も四つ葉のクローバーがある。こんなちっぽけな草に俺の願いが叶えられるだけの力はない。けれど、一瞬でもいい。俺が今の時間の中で、彼らと共に生きられるのであれば。
 それはきっと、クローバーの見せた奇跡。

 クローバー
 四つ葉のクローバー
 どうか奇跡を示して
 俺の未来に光を見せて