英雄の墓標

 空はどこまでも青く、広く、穏やかだった。
 まるでこの戦乱狂気の時代を嘲笑うかのように、ひそやかにそして艶やかに、空はいつもそこにある。
 地上に生きる卑小な人間の愚かな騒乱になどまるで興味を示さないで、風を運び雨を降らせ、大地を見下ろしている。その傲慢限りない瞳を以ってして。
 汝の生きる道は何処か。
 路上に茣蓙を敷き道行く人からの僅かばかりの布施で日々をやり過ごす行者の問いかけに、ふと足を止めて振り返る。頭の先まですっぽりとかぶり表情の一切を他者の視界から除いていた青年は、怪訝な面持ちで行者を見やった。
 己の生き道に満足しているか?
 行者は今度こそ青年に向き直り問い掛けてくる。向かい合った両者の間には奇妙な、それでいて並々ならぬ緊張感を感じさせる空気が流れており、息苦しさを青年に与えた。不幸にも現在、彼らの側を通りすぐる人の影はない。
「それを決めるのは今ではない」
 一瞬悩んだものの青年は微かに自嘲気味の声でローブを外さぬまま行者に答えた。日に陰る表情は行者でさえ読み取る事はできず、微妙な声の変化によってしか彼の内情は窺い知れぬ。なかなかの存在であると内心舌を巻いた行者は、被っている笠を微妙にずらしで己の素顔を青年の前に晒してみた。
 ほんの刹那の時でしかなかったが、青年は確かに行者の面を見て息を呑んだ。そこに刻まれた深い傷痕は眉根から鼻孔近くまで一直線に斜めに走っていた。周囲には皮が引き攣り、直視するに耐えない顔とはまさにこの事か、と青年に思わしめる。
「後悔はせぬな?」
 一体何を、と問う前に行きずりの行者はにやり、と不遜に笑った。
「この傷は先の解放戦争の最中、今は英雄と語られる敵の御大将を討ち取らんとした際、側に控えておった敵将によって斬られた傷。今でも夜になれば、戦時に死した我が同胞が仇を取れと枕辺に立ち我に訴えかけてくる」
 そっと顔に手をやり、行者は重々しい雰囲気を纏ったまま青年に告げる。青年は男の言葉を聞き、わずかに片足を後方へ流して背に負った武器をいつでも取れるように、そうとはっきりと悟られぬように身構えた。
 しかし、行者は小さく首を振るだけにとどまる。
「我はすでに俗に在らぬ身。殺生は戒により禁じられ、もとより我もそのつもり。構えを解きなさるよう、我に敵対心はなし」
 淡々と告げる男に最初は警戒を持ったものの、青年は行者に全く殺意がないことを認めると肩から力を抜いた。その様を見て行者は満足そうにひとつ肯く。
 真昼の太陽は容赦なく地上の二人を照りつけるが、短い影を足元に落とす彼らは動こうとしない。
 行者は告げる。彼は帝国の兵であったが最後の戦いで重傷を負い、気がつけばすでに戦いは解放軍の勝利で終わった後で、多くの仲間が墓石の下で眠りについていたと。職を失い、この傷では新しく職を得る事も難しいと知り彼は、平和になっても些細な争いごとが無くならない俗世間に嫌気が差して、クロン寺で頭を剃り出家したのだと。
 彼の枕辺にかつての仲間たちが現れるようになったのはこの数日。そう、青年が行者の前を通りすぎる事を知らせるために、としか考えられない。
「いいのか」
 抑揚のない声で青年が問い掛ける。何を、と語って貰わねばならぬほど、この行者は愚かではない。短く問われた事に対して、小さく鼻を鳴らすと、やんわりと肩を竦めて笑った。
「構わぬ。すでに語った通り、我はすでに殺生を禁じた身。それに、民衆に英雄と称えられている存在を私怨のみで討ち滅ぼすのは、後の伝えで我が一方的な悪者として扱われよう。割に合わぬ」
 いくらかの自嘲を含んだ物言いに、やりきれないものを感じて青年は口を噤む。もしかしたら唇をかみ締めるなどの事をしていたかもしれないが、行者からはフードによって隠された彼の表情の全てを見出す事は出来なかった。
「恨み言を言われるのだろう」
「そうであろうな」
 風がそよぎ一瞬の涼を与えて過ぎ去って行く。揺れた濃緑色のローブの端が広がり、青年は押え込むために片腕を伸ばした。旅に疲れた表情を窺わせる傷だらけの指先が、日に焼けない白い肌に痛々しく映る。
「故に、彼らを供養する事が今我に与えられた唯一の務め」
 手にする錫杖の先端を一度強く地に叩き付け、行者は迷いのない瞳を青年に向けた。力強く、いっそ清々しいものを感じさせる眼に青年は複雑な表情を浮かべる。
 果たして自分は彼のような眼が出来るのだろうか、と。
 未だ迷いの縁から抜け出す事が出来ず、過去を振り切る事も出来ずにただ旅を流されるままに続けている。行くあてなど最初から無いに等しく、本当はあの場所に居たくなかっただけで。中間たちと居るのは楽しく心安らげるのは本当だが、その群れから離れて一人になるとどうしても後悔と失意が胸を覆い尽くしてしまうから。忘れたくないけれど忘れようとしてしまう自分が居て、失ったものを思い出すたびに辛くて悲しいから。そして、悲しんでいる自分を見て仲間たちがまた辛い思いをするのも嫌だったから。
 結局は逃げ出したに過ぎない。あのぬるま湯に浸かった場所に居ては、どうしても甘えてしまいその事を後悔するばかりだろうから。
 求められてもおそらく応じられない。彼らが望んでいる英雄の役目はもう終わった。自由にして欲しかった。英雄の次は大統領? 冗談は止めてくれ、とどれだけ叫びたかった事か。
 どこまで自分を束縛すれば気が済むのだろう、民衆というものは。下手をすれば暴虐な帝国そのものよりも始末が悪い。数が多い分、望みも多く大きい。
 英雄が、優秀な国の指導者になり得る確立は恐ろしく低い。彼らは戦う事しか知らず、戦時においては強大な力を発揮するが、ひとたび平和が訪れれば英雄は暴君に変貌する。当然だ。彼の役目は戦う事であって、間違っても民衆を指導することではない。訪れたばかりの平和を、英雄自身が黒く塗りつぶしてしまう。そして再び大地には戦乱が呼び起こされる。悪循環は収まる事を知らない。
 空は常に見下ろしている。愚かな人間の所業を。
「死ぬのが恐ろしいか?」
 一度切れた会話は新たな問いかけで蘇る。
「僕は死ぬ事を許されなくなった存在故に……」
 恐ろしさを感じる前に、生き続けなければならない事の方が恐怖であると小さく語れば、行者は口元を歪めて杓杖を持ち替えた。彼も、青年の右手に宿る紋章の意味を知っているのだろう。知るものは多くないにせよ、全く知られていないというわけでもないのだ。ましてや、帝国軍に所属していた将校ならば知っていても何ら不思議ではない。
「死にたいか?」
 青年の言葉の端に感じた思いを率直に、飾る事なく行者は口に出した。直後、青年の体が硬直するのが解った。
「…………」
 しかし行者は青年を馬鹿にする様子も、笑い飛ばす気配も見せずただ黙って彼を見つめている。深すぎる漆黒の瞳は呑み込まれそうで、真っ直ぐ見返す事が出来ずに青年は視線を泳がせた。
「だが生憎と、我は殺生を禁じた身。汝が願いは叶えるにあたわず」
「判っている」
 今更言われなくとも、と続けた青年の視線は今、空を舞っている。
 ため息が聞こえてふと目を前方に戻せば、行者が再度肩を竦めて今度は腕組みまでしていた。袈裟に錫杖、編み笠姿でそのポーズは一見奇怪に映るが、幸いにも道を行く人はなく見咎められる事もない。
「なにか」
 言われたような気がしたから青年は行者に視線を戻したのに、今度は行者の方が視線をさ迷わせて青年を見ようとしない。放っておけば口笛さえ吹き始めかねないそのやる気の無さに、青年は訳が分からず口をへの字に曲げた。
「いや……噂に聞いていたのと、実際に話してみるのとは恐ろしく印象が違うものだな」
 口調が違っている。どうやら偉ぶるのは止めたらしい。それとも疲れたのか、俗にあらずを貫く姿勢とやらが。
「もうひとつ。戦場でみたあの凛とした空気も感じられん。今の貴様を殺したところで、貴様がかの英雄だったと信じるものはいないだろうな。第一、俺も信じられん」
「僕を、常に戦い求める鬼人のように言わないでくれ」
 戦場に立つ時の自分は、確かに普段の自分とは別人である事を彼は否定しない。認めている。それこそ心を殺して鬼にでもなるつもりでいなければ、生き残る事など不可能だっただろう。戦場での優しさは自身の死に直結しかねない最も愚かな行為なのだから。
 だが、だからこそ戦い止んで見上げた空の青さが目に痛かった。
 人であることを捨ててまで戦うことにどれだけに意味を見出すことが出来ようか。辛く苦しい思いをして、それなのに失うものの方が遙かに大きかったその意味は。何のために戦ったのか、守るためではなかったのか、失わないための戦いだったはずなのに振り返ってみれば残ったのは血塗りの大地だけ。本当に欲しかったものは残らなかった。
「ここでのたれ死んだところで、誰もお前を英雄だとは思わない。哀れに思う旅人が手を合わせるだけの無縁仏として道端の草に埋もれるのがオチであろうな」
 錫杖を地に打ち付けて男が小さく肩を震わせて笑う。しかし青年は否定せずに静かに微笑んだのだ。
「それも、悪くない」
 そう呟きながら。
 一瞬呆気に取られた行者は目を見張り、聞き間違いかとまじまじと青年を見つめたが、彼は間違いないと小さく首を振ることで認め、息を吐いた。全てを諦めてしまったような印象を与える動きに、男は顔を顰める。これではまるで、本当に……。
「別人のようだと?」
 男の心を先読みした青年の自嘲めいた一言に眉を寄せ、顔の傷に更に深い皺を刻んだ男が溜息をこぼす。自覚があるのだとしたら、これはわざとやっていることなのだろうか。いや、しかしそのような作り物の感情とは明らかに色の異なる空気が青年の周りに漂っている。だから尚更に男は迷う。
 今青年を討ち取ることは恐らく容易であろう。彼は抵抗すまい、自ら望んで死を受け入れよう。しかしそんな生きる死者を倒したとて、どうして誇れるだろう、どうして喜べるだろう。たとえ憎き相手であっても、己の全てをぶつけ合って倒してこそ、その戦いに意味が生じるのだ。
「覇気を感じない。何がそこまで、貴様を堕落せしめた……?」
「堕落とは酷い言い回しだね。だが、否定しない。今の僕は昔のように何か大きな目標を掲げているわけではないから。それに……今更だよ」
 今更、そう。今更なのだ。
 失ったものの大きさに気付き、喪失感に苛まれた青年は己の無力、無知を嘆き希望を見失った。明日を生きる光さえ見えない深淵の中でぽつりと彷徨っている青年はまるで、手を引く母とはぐれた幼子のようでもある。
「あの頃の僕には目標があった。戦う意味があった。しかし苦難の末に手にした平和な日常の中に、最も求めていた平穏を見出せなかった時、どうすればいい?」
 本当に彼は僅か数名の笑顔のために戦っていたのだから、その数名の大半が彼を中心として勃発した戦いの中で失われて、守れなかったと自責の念に苛まれてもある意味仕方のないことだと、あるものは納得もしよう。だが、この行者はその大多数を占めるであろう青年の味方とはなり得なかった。
 彼もまた、あの戦いで多くのものを失ったひとりだったから。
 そして、戦争終結後に訪れるあの言いようのない虚脱感を味わった存在でもある。
 悩み、苦しみ、自責の念に駆られ、何度も死のうと手首にナイフの刃を押しつけたりもした。しかしその度に、死んだはずの仲間達の顔が浮かんできて彼はついぞ己を鮮血で染めることが出来なかった。
 彼らは何も語ろうとしない。ただ死に急ぐ彼を寂しそうに見つめているだけだ。この数日のように枕辺で、過去の英雄への恨み言を囁くような事はなかった。
「トランは確かに平和になったやもしれぬ。だが現在この大陸で、どれだけの戦禍が今も人々の頭上に振り翳されているか貴公は知っておるのか?」
「何が言いたい」
 英雄として戦った青年にこれ以上何を求めるのか。暗に示された苦痛にしかなり得ない男の勝手すぎる願いに、青年はあからさまに表情を歪めた。
「これ以上僕に何を望む。民衆が勝手に造り出した英雄像を、貴方も僕に押しつけたいのか」
「そうではない。だがそうやも知れぬ。我らは未だに、強き者に縋らずには生きられぬ弱者故に」
「欺瞞だ」
 顔を背け青年が吐き捨てるように言った。
 支配されることに慣れすぎた人間が、今日からは自分の好きなように生きなさいと言われても混乱するだけだ。何処までが自由であり、何処までが身勝手な我が侭なのかを知らない人間が多いから、世情は落ち着くことがない。所詮平和など見せかけだけの張りぼてでしかないのだと嗤えば、行者は顔をしかめて一言、青年を叱責した。
 曰く。
「死者を冒涜することは許さぬ」
 それはあの戦いで命を落とした全ての人々に対する愚弄である。戦士も、そうでなかった者も、兎に角全ての死者を侮辱する言葉であるから。
「撤回されよ」
 変わらぬ強い語調で行者は青年を睨み付け、動かない。
 多くの者が死んだ。罪無き存在もその中には無数含まれている。幼い命を無情に散らしたものが一体どれだけの数に上るのか、調査結果は出たら出たでレパントを苦悩させることだろう。
「爾の命がいかにして保たれてきたか……爾の命のためにどれほどの命が散り急いだか、よもや知らぬとは言うまいな」
「知っているさ……」
 力無く青年が応える。視線は変わらず、男から外されたままだ。
「知っている。知っているからこそ重荷にしか感じない。これ以上僕に何を求めるというんだ。僕は課せられた役目を果たしただろう? もう、英雄などと言う幻影で僕を縛らないでくれ……」
 悲痛な叫びは風に運ばれて遠くの空へと流され消えて行く。
 誰が信じられるだろう。目の前に立つ、背負った数多の重荷に押しつぶされようとするのを必死に耐えているこの青年が、あのトランの英雄だと。
「英雄はその命を朽ち果てさせぬ限り、英雄として残り続ける。生ける英雄ほど、貴公の言うとおり、世情に都合のいい存在はないのかもしれぬな」
 天高い空は何処までも澄んでいる。燕が羽を広げて南へと下り、少しだけ傾いた太陽は路上に落ちる影を長く伸ばす。ふたりの間にある時間だけが、時を止めて流れようとしない。
「現に今も、北の大地で新たな英雄が造り出されている。知っておろう? デュナン湖の古城に居を設け、ハイランドに抵抗し続けているラストエデン軍の事は」
 問われて青年は小さくだが頷いた。噂程度にしか耳に入ってきてはいないが、確かに現在、トランの北に位置するデュナン湖を囲む一体で都市同盟とハイランドが戦争を始めた、という事ならば。
「近い時期に都市同盟はトランに同盟を申し込みに来るだろう。そしてレパントはその申し出を受け入れるはずだ。両国は長年啀み合ってきたが、既に時は争いごとを好む時期ではなくなっている。トランは未だ政権が安定期に達していないことから、これ以上の無意味な争い事で国内が荒れることは避けたいだろうし、都市同盟も南からの脅威が減れば国境の警備に人員を割かずに済む」
 出家者のくせに妙に血生臭い話題に及んだ事に青年は苦笑する。
「それも、枕辺に立つ魂が教えてくれた事かい?」
「まさか。戦略的見解を述べたまでだ、知識さえあれば誰だって思いつくし、想像もつく」
「けれど赤月帝国と都市同盟は長年領土を奪い合って来た仲だ。カレッカの事もある。そう素直に受け入れられない国民感情というものを配慮に入れなければならないのでは?」
 思ったことを正直に告げれば、男は乗ってきたなとばかりににやりと笑う。
「矢張りまだ、想いは死んでいなかったな」
 興味がないと言っておきながら、話題を提供すればしっかりと応えて意見する。それこそ、彼が未だ僅かばかりでも戦いに未練というものが残っている確かな証拠である。
「本当は行きたいのではないのか? 北に」
 そしてこの道は北へ延びる街道にもうじき交わる。更に進めば、その先はデュナン地方――戦火激しい大地が待っているはずだ。
「僕に何が出来る……抜け殻の英雄など、見ても楽しくないだろうに」
「俺には貴様の方が、遙かに自身の英雄という姿に縛られようとしている風に映るが?」
 いや、むしろ英雄を捨てた自分というものが考えられなくて英雄であり続けることに心のどこかで執着し、反面他人に求められる事へ強い嫌悪感を抱いている。どっちつかずの中途半端で曖昧な立ち位置。
 だから男は青年に迫る。ここで、決めてしまえと。
 英雄であることに拘り、囚われてきた青年は一度その束縛から解放されたとき、あまりに自由な風の強さに困惑し、疲弊し、絶望した。見上げた空の広さと、大地の無辺に己の卑小さを知り、大きすぎた戦乱の代価を背負いきれずに道を迷う。本来なら彼に無償の愛を捧げるはずの存在はすでになく、ひとりきり遺された彼の心情を正しく理解できる者ももういない。
 今を保つのも、過去に逃げるのも、明日に走るのも。決めるのは彼で実行するのも彼だ。そしていい加減、青年は歩き出さなくてはならない。
 時は流れた。今求められている英雄はソウルイーターではなく始まりの紋章を持つ少年であり、その少年はきっと、かつての青年が体感したと同じ苦悩を抱えているはずだ。
「抜け殻だと思うのなら、今この場に捨てて行け。供養ぐらいはしてやらんでもないぞ?」
「じゃあ、そうしてもらおうかな」
 くすくすと、初めて声を立てて青年は笑った。フードが揺れて、風に煽られたそれがゆっくりと後方へ流れていく。大地の色に似た髪が日の光の下に晒され、きらきらと輝いた。
「せいぜい大々的に宣伝してくれるかな。英雄は、今この場で死んだ、と」
 抜け殻を破り捨て、本来の自分へ還る。いや違う。英雄でないただの人に戻るのだ。そして、彼はこれから人として戦って行くのだろう。英雄という作り物ではない、血肉の通う人間として、生きて行けばいい。その方がはるかに言葉にも、行動にも重みが加わるだろうから。
「俺にとっては重荷だな。布施の代価は高くつくが?」
「なら……僕はこの世界の恒久なる平和を、支払おう」
 戦場があるのならば、無償でその地に駆けつけ手を貸そう。苦しんでいる人々がいるならば彼らを助けるためにこの血を流そう。そうやって守れるものがある限り、生き続けてみる。英雄としてではなく、ただのお人好しの人間として。
「それはまた……高い代金だ。手を抜くことも出来そうにない」
「英雄は数多く存在している。僕は、あの戦いで死んでいった全ての人達こそが真に英雄よ呼ばれるに相応しい存在だと、思っている」
 歴史に名を刻むことなく散っていった多くの魂を、どうか慰め導いてやってくれ。
 そう告げると、青年は再びフードを目深く被った。日は傾き、道端の木立の長い影が彼らの頭上に降り注いでいる。次の宿場町まで、まだ少し距離が残っているから、今のうちに出発しておかないと町に着く頃には完全に日も暮れて暗闇が支配する時間になってしまうだろう。
「貴方はどうする」
 一緒に行くか、と言外に問うてみたが行者もまた笠を被り直して首を横に振った。曰く、この近くにある農家に一宿の居を借りているとの事。
「行くのか」
「ええ、もう僕は……僕としてやってみたいことをやりに行くだけです」
 ふたりの道は恐らくもはや重なり合うこともないだろう。互いに名乗り合うこともなく、かつては敵同士だったという過去だけを暴いて。それ以上の内情にはどちらも踏み込むような真似をせず。
 ただ静かに。
「俺は……我はこの先、数多の地に名のない墓標を刻んで行こう。英雄という名に踊らされた哀れな魂をこれ以上造り出さない為の警告として」
「僕はこれから、英雄などいなくとも平和は導けるのだと証明してみせる。犠牲者は少ない方が良い、英雄の墓標なんていうものも、出来るのならば無くしてみせる」
 矛盾しながらも重なり合う目標をふたり、確かめあって。
 去りゆく影は二度と交わることはない。

 そして英雄という名だけを刻んだ墓標は行者の足跡に沿って遺され。

 英雄の殻を脱ぎ捨てた青年はいくつもの戦場に己の名を刻んだ。