陽炎

 トゥーリバーからキバ将軍の軍を退けた後、彼らはかつてのノースウィンドゥ、今はレイクウィンドゥと名を変えた城に凱旋した。待ちかまえる仲間達からはよくやったという言葉が雨のように降り注がれ、苦しい戦いに勝利したことを誰もが心から喜び、無事に帰ってきた同胞を祝福した。
 そして、セレンという若い少年は名実共にラストエデン軍のリーダーとなった。
 兵達は疲れた体を休めるためにたっぷりと休養が与えられ、軍師達は今後の展開を予想して作戦会議に余念がない。しかしリーダーである少年の姿はそこにはなかった。
 セレンは確かにリーダーだ。だが今の彼には軍を有効利用できるだけの知識も、技量もない。彼は言われるがままに戦場に立ち馬を繰り、敵陣に切り込んでいっただけだったのだが、彼の姿を見て兵達は自らを鼓舞する事が出来た。彼はいなくてはならない存在になっていた。
 まだ兵力は弱く、基盤もいつ崩れるともしれないものだからこそ、兵達の心をひとつにするための存在が必要だった。それには昔、この都市同盟の地を救った英雄の孫であり、同じ「輝く盾の紋章」を右手に宿すセレンが最も良かった。勿論それだけがすべてではないが、この二つが彼になかったらセレンはラストエデン軍のリーダーには選ばれていなかっただろう。彼はリーダーだが、実際に軍を動かしているのは軍師のシュウであり、大人達だった。
 雨が降り始めていた。
「嫌な天気……」
 隣でナナミが呟く。どんよりとした鉛色の空から大粒の雨がこぼれ落ちてくる。直に本降りとなるだろう雨に、洗濯物を取り込もうと女性達が大急ぎで走り回っていた。
 太陽の見えない外は気温も一気に下がったようで、肌寒さを覚える。これから夏に向かおうとしているこの時期、雨は地に生える植物にとっては欠かせないものであるため、曇り空を睨むのは筋違いだとは思うのだが、やはり陰鬱な天気は気分が優れず、嫌になる。
「あれ……?」
 ふと、ナナミが遠くを見て首を傾げる。
「なにかな、あれ」
 酒場の軒下に立っていた彼らから、前方やや左。解放されたままの城の門の脇に何か大きなものが落ちている。黒い……丸い物体。
 嫌な予感がした。
 雨はいよいよ本降りで、地面が一気にぬかるみ石畳の上に水たまりが浮かんくる。ひさしを打つ雨音はやかましく、本当ならすぐに屋内に避難した方が無難だと判断していただろうセレンだったが、
「あっ!セス!?」
 ナナミが後ろから手を伸ばし、雨の中を走り出したセレンを止めようとした。しかし彼女の手は彼の肩には届かず空を切り、やり場のなくなった手を見つめた彼女はしばらく考え込んだあと、なるようになれ、と弟を追ってやはり土砂降りの雨の中を飛び出した。
「セス、どうし…………!」
 門の前、うずくまる彼に追いつき、ナナミはセレンの背中に問いかけようとした。しかしすぐ、どうして彼がこの雨の中をかまわずに走っていったのかその理由に気付き、声を失い立ちつくす。
「……ナナミ、すぐにホウアン先生を呼んできて!」
 落ちていると思っていた荷物は、黒くて丸い物体は……それは、まだかろうじて息のある、しかしぱっと見ただけでもとても危険な状態の、傷だらけの男性だった。
「う、うん!」
 怒気を含んだ弟の声に、はじかれたようにナナミは踵を返して城に戻っていった。泥が跳ね、来ている服や靴が汚れることすらいとわない。目の前にいる人を救うことが何よりも先決であり、セレンも彼女の背中をしばらく見送った後、倒れたままの男性の右腕を自分の肩に回して立ち上がった。
 セレンの身長では男性の体を全部持ち上げることはかなわず、男性の力の抜けた膝が曲がりつま先がぬかるみに二本の線を残していく。途中、ナナミに軽く話を聞いたらしいフリックが見かねて交代してくれたおかげで、男性は比較的早いうちに医務室へ運ぶことが出来た。あのままセレンだけで男性を運んでいたら、冷たい雨に体温を奪われて、それだけで男性の命を更に危うくしてしまっていただろう。
「お二人は先にお風呂で体を温めてきて下さい」
「でも……!」
「ここは私に任せて下さい。それに、これ以上病人を増やされると私の手が足りなくなります」
 ホウアンが濡れ鼠のセレンとナナミに言い、ナナミが心配だからと反論するがもっともなことを言い返されて唸る。
「俺もその方がいいと思うぜ。俺達がここにいても何もできないだろう」
 濡れたバンダナを外しながらフリックもホウアンの意見に賛成し、ナナミの肩を叩いた。
「うん……」
 うつむき加減にナナミは頷いた。セレンは始めからそのつもりでいたし、文句はない。
「大丈夫だよ、絶対」
「うん」
 彼女が何を気にしてこの場を立ち去るのを躊躇しているのか、セレンには分かっていた。以前……目の前でまだ息のある人を救えなかったことを思い出しているのだろう。あの時、セレンも一緒だったから。
「ええ、私も全力を尽くして当たらせて頂きます」
 柔らかな微笑みの奥にある瞳が強き光を放ち、医者としてのプライドに賭けても彼を救ってみせるとホウアンが頷く。
「行こうぜ」
 フリックに促され、二人は医務室を出て風呂屋に向かった。
 夜になり、男性の意識が戻ったという知らせを受けてセレンとナナミは再び医務室を訪れた。そこには先に、フリックとビクトール、そしてシュウが来て二人の到着を待っていた。
「まだ危険な状態にかわりはありません。くれぐれも無理をさせぬよう、お願いします」
 ホウアンが忠告して、男の横たわるベッドにセレンは向かった。すぐ後ろをナナミが歩き、肩越しに弱々しい息の男性をのぞき込む。
「あなたが……」
「セレンです」
 現れた少年の名を聞き、彼は深く安心したように息を吐き出す。
「私は……ラダトの先にある、小さな村で……家族と慎ましく生活、していました……」
 途切れ途切れの言葉。しかしゆっくりと確実に伝えることを優先した男性の話が進むにつれ、シュウの眉間にしわが走り、ナナミの唇は青ざめていく。ビクトールとフリックの表情にはあまり変化が見られなかったが、それでもいい感情は抱いていないようだった。
 彼の村はハイランド軍に襲われたのだ。
 しかし情報が早く伝わったのが幸いし、村人達はハイランド軍が攻め込んでくる前に村を逃げ出すことに成功したという。家族の誰ひとりとして欠けることなく、一時的にかくまってもらおうと彼らはラダトを目指した。その先はハイランドの軍も迂闊に手が出せないだろうと踏んでの行動だった。
 途中、同じように村を捨てて逃げ出してきた人々に会い、最終的にその数は200人近くに膨れ上がったという。そうなれば闇に隠れて移動することさえ難しくなる。だがラダトまであと一昼夜も行けばたどり着ける、という所まで来ていた安心感に油断が生じた。
 ハイランド軍は彼らの行動を読み測り、ラダトの前で待ち伏せていたのだ。いや、それこそが作戦の真意であり、村を焼き討ちするという情報こそが偽りだったのだ。
 焼き討ちを恐れて村人は先手を打ったつもりで村を捨てて逃げ出す。しかし実際に焼き討ちを行うことはなく、逃げていく村人を巧みに誘導し、一箇所にまとめさせた。
 リューベやトトの村ならいざ知らず、山間にあったり小規模な村をいちいち兵を差し向けて焼き払うのは余りにも非効率的だと言う観点から導き出された作戦だった。こちらから出向かずとも、向こうから出ていきたい状況を作りだしてやればいい。そうすれば一度で片が付けられる。
「家族は……逃げまどう村人を、奴らは……」
 自分だけがかろうじて生き残り、助けを求めてハイランドに弓ひくラストエデン軍を頼りにやってきたという。
「もしかしたら、まだ生きている人がいるかもしれない。お願いです、どうか……どうかハイランドの奴らから、皆を……」
 男の頬に涙が伝い、彼は静かに目を閉じた。セレンの肩を掴むナナミの手がこわばったが、息が止まってしまったわけではない。話疲れ、眠ってしまっただけのようだ。
「助けなきゃ」
「ナナミ……」
「助けなきゃ。だって、この人は命を懸けて知らせてくれたんだよ。助けに行かなくてどうするのよ!」
「静かに!」
 叫ぶナナミに、後ろからホウアンの鋭い声が飛んできた。肩をすくめた彼女だったが、セレンを睨み付けるのは変わらず、困って彼はベットを挟んで目の前に立つシュウを見た。
「…………」
 だが腕を組み考え事をしている素振りの彼はすぐに気付かず、やがて頭を上げて、
「先に場所を移しましょう」
 とだけ言い、さっさと医務室を出ていってしまった。
「来いよ」
 ビクトールが呆気にとられているナナミと、どうしようか判断に苦慮しているセレンを手招きで呼んだ。
「あ……うん」
 ホウアンに頭を下げ、このあとも男性の事を頼むとセレンはまだ納得がいかないと頬を膨らませているナナミの手を引いてシュウやビクトール達のあとを追った。廊下を通り抜け、階段で2階へ上がる。向かうのはどうやら議場のようだった。
「シュウさん!」
 だがそこへつくより早く、もう我慢がならないとナナミが先走り、先頭を行くシュウの前に回り込んだ。驚いたシュウが出した足を引っ込め彼女を見下ろす。
「あの人の言うこと、聞いてたの? 勿論助けに行くよね、行くよね!」
 拳を握って胸の前にもち、ぴょんぴょんその場で飛び跳ねるナナミの言葉に、しかし彼は余りよい顔をしなかった。
「軍は、出せない」
「どうして!」
 ナナミの怒鳴るような問いかけには答えず、シュウは彼女をどかすとひとりさっさと議場に入っていってしまう。ビクトールとフリックも、今は軍を動かせるのはシュウだけだとよく分かっているから何も言わず、議場のドアを押した。セレンだけがやはりまだ困った顔でナナミの前に立ち止まる。
「行こう……」
「セスはなんにも思わないの? おかしいよ、セス。こんなの……冷たいよ」
「ナナミ……」
 もちろんセレンだってナナミと同じ気分だった。しかし自分の立場が好きなようにものを言っていい状態ではないことを、彼は教えられたばかりだった。リーダーとして求められるままに振る舞う、その意味を彼はまだ掴みきれていなかった。
「理由を教えてもらおう。多分それを言うために、シュウはここに来たんだと思う」
「そうかもしれないけど……」
 医務室で、男性の前で言えなかったことだ。良い内容だとは考えられず、それがますますナナミの癇に障るのだ。さらに、煮え切らない義弟の態度も、彼女は気に入らなかったのも確かだろう。
「なんで軍を出せないんだ?」
 とにかくナナミを落ち着かせ、議場に入った彼らの耳に、先に聞きたいことを尋ねていたビクトールの声が入ってきて思わず足が止まってしまった。気付いたフリックに手招きされて議場の中に進むと、アップルの姿も見えた。
「簡単に言うなら、余裕がない」
「それに……ラダトの先は今や完全にハイランドの占領下にあります。言い換えれば、あの地はもうハイランドの領地なんです」
 前に立つシュウの言葉を引き継ぐ形で、アップルが苦しげに言った。
「つまり……なにか。ラダトから向こうに行くって事は、国境を侵す事になる、ってことか?」
「そういうことだな」
 ビクトールの言葉を満足そうに聞き、シュウはひとつ頷いた。
「気に入らないな。もともと断りなく国境に侵入してきたのはハイランドだろう」
 フリックが不満を顕わにするが、だからといってこちらも同じ事をしてもかまわないと言う理由にはならないとも知っており、それ以上は口にしなかった。問題なのはナナミだった。
「なんで、どうして!? 一所懸命助けてもらおうと思って来た人をどうしてみんな助けて上げようとしないの!?悪いのはハイランドじゃない、私たちは良いことをしようとしてるんだよ。なのになんでそれがいけないことになっちゃうの」
「ナナミちゃん……」
 アップルが何かを言いかけたがすぐにやめ、顔を背けた。
「良いと思えることすべてが正しいとは限らない」
「シュウ」
 表情を変えることなく言うシュウを、咎めるような声でビクトールは名を呼んだ。
「言わなければ分からんようだから、教えてやるしかないだろう。よろしいか、セレン殿も。これは戦争なのです。戦争とは互いの主張が相容れないとき、力ずくで受け入れさせようとして起こるものです。相手側がいかに不条理な事をそらんじて来たとして、当然こちらは受け入れ難く思うこと多数でしょう。しかし、それが通用しないのが戦争というものです。不条理であろうとなかろうと、押し通した方が正しくなるのです」
「分かんないよ、そんなの!」
 ナナミが叫び、シュウの言葉を遮る。
「戦争とか、そういうのが知りたいんじゃないの。どうして……目の前で助けを求めている人の手を取ろうとしないの。助けられる命を見捨てようとするの!」
 暖かい涙が頬を伝い、床に染み込んで行く。
 誰も彼女に答えられるものはいなかった。長く思い沈黙の間、彼女のすすり泣く声だけが議場を支配する。沈黙を最初に破ったのは、眉間にしわを寄せたまま気むずかしい顔をするシュウだった。
「……仕方がない。では、あの男が言っていた事が本当かどうかの確認に、スタリオンを行かせよう」
 ぴく、とセレンが反応した。彼の物言いは、まるであの人が嘘を言っていると疑ってかかっていると言っているようなものだったから。
「その可能性もある、と申しているだけです」
「でも疑うんだね」
「それが私の仕事ですので」
 すべての可能性を考え、否定しない。万が一が決して起こらないようにするのも、軍師であり、ラストエデン軍の実権を担う彼の役目だった。
「スタリオンね。奴なら足も速いし、敵に囲まれても逃げられるだろ」
 偵察にはもってこいの人材だと、ビクトールも頷く。
「軍を派遣するかは、彼が戻ってきたときの報告如何で考えましょう。それでよろしいですね」
「…………」
 尋ねられても、セレンは拒むことが出来ない。彼にはシュウがだす案以上のものを考え出す事なんて出来ないし、何がどこまで正しいのかも掴みきれない。ただ、スタリオンが戻ってからでは遅すぎやしないかと、それだけが気がかりだった。
 男がラダトを抜け、レイクウィンドゥまで来るのにかかった日数は相当なものだったはずだ。スタリオンがいくら俊速だとはいえ、往復するのにやはり時間はかかる。そこからまた話し合いを経て、もし軍を出せたとしても生き残っている人を助け出せる確率は、低い。
 それでもセレンは反論できなかった。ここで疲れている兵を動かし、下手にハイランドと戦闘になって死傷者を出しては今後の活動に支障が出ることも、分かっていたから。
「…………」
 答えは、出なかった。

 後日、帰ってきたスタリオンの報告の概要はこうだった。
 男の言うことに間違いはなく、ラダトから少し行った丘の上に焼けこげた死体が散乱する場所があった。その数は数えきれない程で、恐らく斬り殺されたあと火をかけられたのだろう、ということ。
 そしてもうひとつ。まだそこに、ハイランドの軍が駐留していた、というのだ。
「……やはりな」
 報告を聞き、シュウはため息をつきながら呟いた。
「やっぱり、……て?」
「あの男は、わざと見逃されたということだ」
 ナナミの震える声に対し、シュウの声は冷たく素っ気ない。
 医務室の男性は、ホウアンの治療もむなしくスタリオンが戻ってくる数時間前、静かに息を引き取った。結局意識を取り戻したのはあとにも先にもあの時だけで、名前すら分からない男性は、城の共同墓地に埋葬されることが決まっている。
「ハイランドは、男が我々に助けを求めに行くことも読んでいたのだろう。そして我々が軍を派遣すればその場で取り囲み、一網打尽にするつもりでいた。もちろん、そう上手くはいかなかったのだがな」
 しかし、ハイランド側の目的はあくまでもラダト以東の村々を空白にすることであり、ラストエデン軍はあくまでもおまけ、来れば叩くし来なければそれまで、という感覚でしかなかったはずだ。
「これでお判り頂けたでしょう。我々は予定通り、グリンヒルのテレーズを助け出し……セレン殿!?」
 しかし、セレンが議場に背を向けて断りもなく歩き出したことに、シュウは声を初めて荒立てた。
「何処ヘ行くつもりですか!」
「決まってるでしょ。シュウさんなんて大ッ嫌い!」
 問われたセレンではなく、嬉しそうに弟の背中を追いかけるナナミにあっかんべーと舌を出して宣告され、心底困った表情でシュウは頭をだいた。そしてすぐにぼけっとしているビクトールとシュウを叱りつけ、
「早く追いかけろ。まだハイランドの残党がいるかもしれん。あと何人か連れていってもかまわんから、何があってもセレン殿は守り抜け」
「止めろ、とは言わないんだな」
 ビクトールがからかうように言ったが、シュウは小さく首を振っただけで、
「ずっと自分を押さえ込んできたんだろう。今は好きにさせておく。それに……荒治療かもしれんが、良い薬になるはずだ」
「逆効果になったらどうするんだ?」
「そこまで弱いような人間なら、この先もラストエデン軍のリーダーをまかせる事は不可能だ」
「相変わらず、手厳しいな」
 フリックが肩をすくめてこぼし、シュウに睨まれて「はいはい」と議場を出ていった。今から追いかければ城を出てすぐに追いつけるだろう。あとは誰を連れていくかだが……。
「セレン? ナナミと外に走っていったみたいだよ。途中でキニスンが捕まって、シロと一緒に引っ張られていったけど……何かあったのかい?」
 酒場でレオナに誰か手の空いているものを呼んでもらおうとしたら、そんな事を教えられてしまい、ビクトールとフリックは互いに顔を見合わせた。なぜ……キニスン。確かに彼はあの辺りに詳しいだろうが。
「まあ、いい。すまなかったな、レオナ。フリック、急ぐぞ」
 早口に酒場の女主人に礼を言い、ビクトールは大慌てで城を出た。途中すれ違った仲間からセレン達の行方を聞き出し、道を下る。だが若者達は足が速い。すぐに追いつけると思っていたが、追いついたのはその日のかなり遅くなった時間帯。セレン達が野営の準備に入って足を止めていたおかげだった。
「帰らないからね!」
「分かってる。シュウからも了解を得ている。俺らは子守だよ」
 くってかかるナナミの頭をぽん、と叩き、ビクトールはセレンを見た。たき火の準備に入っていたキニスンがほっとしたように見えたのは気のせいではないだろう。何がなんだか分からないまま巻き込まれてしまった彼らは不幸だった。
「事情は大体聞いています。僕も気になっていましたし……」
 食料は城から持ち出せなかったので、その辺に生えている木の実やキニスンが狩った獣をさばいたもの。どんなときでも、何があっても生きていける……そんな感じの夕食だった。

 そして数日後。ラダトを抜けた先のスタリオンの報告にあった丘は、すぐに見付かった。
「こいつはひでえや……」
 惨状を見慣れたビクトールですら顔を背けたくなる光景が広がっている。
 真っ黒に焼けた地表、それを覆い尽くす炭化した死骸。原型を留めず、雨風にかなりさらされてそのどれもが激しく痛んでいた。
 幼子を抱く母親だろうか、性別すらはっきりしない死骸の間に、他よりひとまわりもふたまわりも小さな死体が横たわっている。刀傷が見え、直接の死因が火事ではないことを彼らに教えてくれた。
「ひどい……」
 それしか言葉が思いつかなかった。
 こみ上げる吐き気をこらえながら、ナナミが声を殺し涙を流す。セレンもまた、やり場のない憤りを感じずに入られず、そして同時に、とても悲しくてくやしかった。
 また、丘の裾に広がる林の中では、フリックとキニスンがこの一帯にもうハイランド軍がいないかどうかを探っていた。
「……こいつは」
 フリックがたき火のあとを見つけ、その上に手をかざして温度を確かめる。まだ、ほんのわずかだが暖かさが残っている。それにたき火を囲むようにして残っている足跡は。
「!」
 殺気を感じ、彼は咄嗟に盾を振り返りざまに頭上にかざした。それは本能にも似た、反射的に取った行動だったのだが、鉄で出来た盾に衝撃が走り、自分が囲まれていることを今更ながら自覚した。
 しかし。
「フリックさん!」
 聞き覚えのない悲鳴が二人分、頭上からしたかと思うとすぐにキニスンの声が間近で聞こえて、フリックは盾を構えたまま声のした方向を見た。手に弓を構え、矢をつがえた状態のキニスンが木の陰に身を隠し立っている。
「気を付けて下さい、まだいます。シロ!」
 狼との混血だという純白の犬の名を呼び、彼は弦をいっぱいに引き絞って矢を放った。どうやら木の上から攻撃を仕掛けてきていたらしいハイランド兵は、キニスンの矢を受けて地上に落下、そこをシロの牙に襲われていた。
 フリックも愛剣オデッサを抜き放つが、地上の敵ならまだしも頭上の敵には歯が立たないのが実情で、現実はキニスンとシロのコンビネーションを眺めていただけに終わった。
「もういないな」
「ええ、残りは逃げたようです」
 倒れた兵士の鎧に刻まれた紋、それが間違いなくハイランドの紋章であることを確認すると、フリックは盛大にため息をついた。
「ここも安全じゃない。ビクトール達と合流して、逃げた奴らが応援を呼んで戻ってくる前に引き返そう」
「……そうですね」
 重い息を吐き出し、キニスンも同意する。口の周りを赤く汚したシロが草で血を拭うのを待ち、彼らは周囲に警戒したまま丘の上にいる仲間の元へ向かった。
 ──シュウの推測は正しかったってことか。
 外れていてくれた方がどんなに良かったことか。自分たちがいかに危険な状況にあるのか、を思い知らされた気がしてフリックはまだ自分がふがいない青二才のまま成長していないのでは、とさえ感じていた。
「ビクトール!」
 幸い、丘の上の3人は無事で、襲われた様子もなくほっとする。
「ここは危険だ。ハイランドの連中がまだ残っていた」
「やったのか?」
「何人か逃げられました。応援部隊が来られては太刀打ちできません。戻りましょう」
 この様子では生存者は絶望だろう。それらしい形跡も全く見つけることが出来なかった。冷たい言い方だが、ここにいても仕方がないのだ。
「…………」
 彼らから少し離れた場所で、セレンは彼らの会話を聞いていた。
 足下には真っ黒に炭化した、きっと人形だったであろう木の残骸。手にとって拾い上げようとすれば、それは彼の指の中でぼろぼろに崩れ、消えてなくなった。
 見殺しにしてしまったのだと、彼は思った。助けられたかもしれない命を、救えなかった。また、あの時と同じように!
 太陽がまぶしい。照りつける日の光は容赦なく地上を焼きつくし、彼の思考を停止させる。
 力があったはずなのに。大切な人を、たくさんの人を守れるだけの強さがあったはずなのに。助けを求めて命を賭してまでやってきた人の願いさえ聞き入れられず、救えるかもしれなかったたくさんの命が失われて行くのを指をくわえて見ていることしかできなかった。
「ボクの……ボクの所為?」
 かすれる声、うつろな瞳。そこに映る、陽炎のように揺れる景色。
 助けてと叫ぶ声がする。死にたくないと切望する痛みがある。生きたいという号泣が響く。何故助けてくれなかった彼を責め立てる。
「セレン!」
 彼を現実に引き戻したのは、誰よりも泣いていた、この惨劇に涙した彼の義姉。
「セレン、セス……セスの所為じゃないよ」
 優しく彼を抱きしめて、肩に顔を埋めた彼女がささやく。
「セスが悪いんじゃない。悪いのは、悪いことを悪いって思わない人達。セスはちゃんと分かってる。分かってるから、悔しいし、悲しいし、苦しいんだよ」
 誰よりもセレンの側にいて、セレンの事を知っているから、ナナミは泣けない義弟のかわりに涙を流す。
「セスは神様じゃないんだから、出来ないことだって、沢山あるの。セスは私の義弟で、ジョウイの友達で、ただの男の子なんだよ。セスは頑張ってるよ、すっごく頑張ってるから」
 そんなに自分をいじめないで。
「……うん……」
 ビクトールが遠くから、ラダトに戻るぞと大声で叫んでいる。その声に促され、ナナミはセレンから離れた。乱暴に涙を拭い、そして何を思ったかその場にしゃがみこんだ。
「ナナミ?」
 不思議そうに首を傾げるセレンの前で、ナナミは手を合わせ静かに目を閉じた。
「あなた達が次に生まれてくるとき、今よりも前よりもずっと平和な世界にしてみせるから」
 それは祈り、そして誓い。
「だから、見守っていて下さい」
 ナナミは優しい。誰よりも。いつだって、何があったって。彼女はその心から優しさを手放した事はない。
「……ナナミ、行こう」
 ビクトールが呼んでいるからじゃない。自分が選んだから、進んでいこうと決めたから。行くのだ。
「僕達は今出来ることをやらなくちゃいけない。もう二度と……彼らのような、僕達のような人を増やしてしまわないためにも……」
 しっかりと前を見据えて告げた彼の眼に、もう陽炎は映らなかった。