緑の丘に夜明けを告げる鐘が鳴る

 自分に、世界を変える力があるだとか、平和な世の中を作っていけるだけの力量があるだとか、思ったことはない。むしろ私は小賢しいぐらいで、臆病者で、つくづく事なかれ主義を貫きたがる弱虫だ。
 しかし求められるのは決断力と判断力に富み、人々を導いていくリーダーシップを存分に発揮できる存在であり、特にこの非常事態ではその存在を要求する人々の思いは強く、今更退くわけにもいかない状況に追い込まれてしまった。せめてもう少し、時間がほしかった。そう愚痴をこぼすと、脇に控えていた寡黙な剣士はやや顔の造形をゆがめてこちらを見やった。
 なんでもないわ、と軽く手を振って彼の視線から逃げて、私は今日もまた月のない夜の空を見上げている。
 始まってしまった争いは、悔やんだところで収まりはしない。町の住人が求めた私の虚像を、これ以上演じ続けるのは事実上不可能だ。なぜなら、私はさっさと皆を見捨てて逃げ出したのだから。
 軍隊を持たない緑に包まれたこの町は、ハイランドから派遣されてきた軍人の支配下におかれている。だが、彼らは完全にこの町を掌握したわけではない。だって、町の施政権を所有している私がまだここでこうして生きていて、なおかつ権限を放棄していないのだから。
 だから、彼らは躍起になって私の行方を探している。見つかれば殺されることは目に見えて明らかだから、私はこうして森の中でひっそりと身を隠している。
 まるでおとぎ話に出てくる、城を追い出されてしまったかわいそうなお姫様のようだと自分を揶揄し、でもここには7色の帽子をかぶった小人はいない、と馬鹿らしくなってため息をつく。こんなメルヘンチックな状態ではないことを思い出して、もう一度だけ空を見上げると窓を閉じた。
 屋敷にいた頃のふかふかのベッドが恋しいわけではない。ただあの堅くて背中が痛くなる気組みの粗末なベットは好きになれない。
 しかし眠るためにはどうしてもこのベッドを使うしかなく、もともと猟師小屋として使われていた小屋にはベットも一つしかなくて、私のためにあえて小屋の中では眠らず、見張りもかねて外で毎日眠っている彼にも悪いから、そのことを口にしたことはないけれど。
 たぶん、態度でばれてしまっているはずだ。彼はそういうところには妙にさといから。
「肝心のことには気づいてくれないのにね」
 その辺のバランス具合も気に入っているのだけれど、とひとりごちて私は薄いケットをめくった。この季節、薄着はまだ寒い。
 窓を開けていたせいで流れ込んでいた冷気に身を震わせ、私はベッドに潜り込む。肩までケットをかけて全身をくるむようにすると、太陽の匂いがかすかに鼻孔をくすぐる。そういえば今日はする事がなかったから、大々的に洗濯をしたんだっけ。
 自分のしたことをすっかり忘れていて、おかしくなって私はベッドの上でくすくす笑った。
 明日はどうして過ごそうか。考えて、一気に憂鬱な気分になってしまう。する事は本当はたくさんある。だけれど、やらなければいけないことはどれも余り考えたくないことだった。
 町のこれから、自分の身の振り方、戦争の行方。ハイランドの横行を黙ってみていることは出来ないが、自分が出ていったところで状況が好転すると考えるのはあまりにも愚かしい。そこまで自分を過大評価することは出来ないし、何もできなかったときの民衆の落胆ぶりを考えると胸が詰まる。今でさえ、彼らを絶望の淵から救い出すことが出来ていないのに。
 判断を、何処で誤ったのだろうか。
 ミューズ市の軍隊がハイランドから解放されて、この町を目指してきたと知らされたとき。罠であることは疑う余地もなかった。しかし救助を求める彼らの切ない声を無視することは、グリンヒル市を代表する者として許し難い行為であり、彼らの救済を求める市民の声をないがしろにも出来なかった。
 それが罠だと分かっていながら、おめおめとハイランドの策略にはまってしまったのは、自分の甘さが原因なのだろうか。
 違う、と言いかけて私は言葉を飲み込む。それは言ってはならないことだ。
 確かにミューズ市軍を市内に招き入れ保護することを決断したのは、他でもない私だ。しかしそれをさせたのは、彼らを哀れむグリンヒルに住む市民たちだった。
 あの時、ミューズ市軍を追い返していたならば、こんな醜態をさらさず、惨めな想いをしなくても済んだのだろうか。考えて私は首を振る。そんな都合のいいように世の中は出来ていない。それはグリンヒル市の市政代行の肩書きを手に入れたときから、痛いほど実感してきたことではないか。
 逃げるわけにはいかないのだ。
 立ち向かわなくてはいけない。これが最後の仕事になろうとも。

 夜明けが来る。今日もまた変化のない退屈で憂鬱な時間が始まる。そう思っていた。
 けれど違った。思いもよらなかった訪問者が私の前に次々と現れる。
「貴方を救いに来たんです」
 そう言った、まだ幼さの残る少年と、青い衣をまとった青年。そしてハイランドの手の者達。
 救う? 一体誰を?
 私だけが逃げ出して、それで市民は納得するの? 私に彼らを見捨てろと言うの? 彼らこそが第一に救われなければならない人達。私は最後であるべきなのに。
「出来ません」
 その言葉はひどく冷静に、私の口からこぼれ落ちていた。
「何故!?」
 声を荒立てる少年と、彼に付き添うおかっぱ頭の少女が目を丸くする。その向こうで静かに聞いていた青年は、何かを思い出したのか、唇を噛んでいた。
「理由は……」
「これは逃げじゃない」
 言いかけた私の言葉を遮り、青年が口を開く。まっすぐ、私を見つめて。
「あんたが逃げたくない気持ちは俺にも分かる。だがな、よく考えろ。あんたが身代わりで死んで、それで市民は喜ぶと思うか? 確かに今一時はそれでしのげるかもしれない。だがな、あんたがいなくなるってことは、グリンヒルの支えである柱が消えてしまうことに直結するんだ。平和になったとき、誰がグリンヒルを導くんだ!?」
 両手を広げ、青年が熱のこもった声で吐き出す。
「それでも私は、行かなくてはいけないのです。すべての責任は私にあるのですから……」
「違う!!」
 歩みだそうとした私の進路を身を以てふさぎ、青年が私を睨み付ける。少し遅れて、おかっぱ頭の少女も青年に倣い、両手を大きく広げて私の前に立ちふさがった。
「どいて下さい」
「出来ません」
 少女が首を振る。
「目の前にいる人が死のうとしているのを、止めない人間がどこにいるって言うのよ! そんなの駄目、絶対駄目!!」
 行かせない、と少女は叫ぶ。その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 私は息を呑む。どうして、こんな見ず知らずの人間のために泣けるのか、私には分からなかった。
「行っちゃ駄目、死んじゃ駄目なの! 頑張ろうよ、私たち、まだ生きてるんだよ。頑張れるんだよ?」
 少女の眼から涙がひと雫、線を描いてこぼれ落ちる。それを見て、黙ってみているだけだった赤い服の少年が前に歩み出る。
「テレーズさん……」
 おとなしめの、どちらかといえばとても同盟軍を率いているようには見えない子供が、戦争の最前線に立ち戦っている。その現実を見せつけられた気がして、私は我知らず唇をかみしめていた。
「行かせて下さい。あなた方が言いたいことも分かります。でも、私はこの町の市長代行です。この町にいる限り、たとえあなた方でも、私の下した決定を覆すことは出来ません」
「逃げるのか?」
 強引に彼らの間を抜けていこうとした私に、すれ違いざま、青年が厳しい声で訊いた。
「違います」
「どこが違う! やろうと思えば出来ることを何一つしようとせず、何もできないとやろうとしない自分を棚に上げて、ひとりさっさと死んでしまおうという、それのどこが逃げではないと言うんだ!」
 背を向けていて見えないはずの青年の表情が、俯いた私の瞼の奥にまで入り込んでくる。
「死ぬんなら、勝手に死ねばいい。だがな、これだけは言わせてもらう。お前は自分のしてきたことにちゃんと責任をとったと胸を張って言えるのか? 死ぬんだったら、自分で始めた祭の後片付けまでちゃんと自分でやって、ケリを付けてから誰も知らない場所でやってくれ。誰もあんたがいなくなったことにも気付かないような、誰も悲しまないような死に方を選べ」
「フリックさん!」
 それは言いすぎ、と止めようとした少女を、同盟軍リーダーの少年が手で制し、黙って首を横に振る。
 青年の言葉は、深々と私の胸に突き刺さり、棘を残す。しかもその傷は、かねてから私の中にあった決して人には見せてはならない忌むべき傷の真上を抉っていた。
 動けない。言葉を返すこともできない。凍りついた私に、更に青年がたたみかける。
「あんたの死に場所は、こんなちっぽけな世界なのか?」
 救わねばならない市民を置き去りに、ひとりだけさっさと、人々の干渉できない世界へ逃げ込もうとしている。確かに彼の言うとおりかもしれない。だけれど……。
 振り返らず、私は顔を上げて言葉を紡ぐ。
「ハイランド軍が私を捕らえたがっているのが何故か、あなた方には分かりますか?」
「え……?」
 唐突に話が入れ替わり、面食らった青年が言葉に詰まる。
「ハイランドはすでにグリンヒル市を制圧しています。その気になれば、いくらでも町を好きに出来るはずです。現に今、市長代行である私がいなくても市は平常通りに動いていますよね」
「ああ……」
 ニューリーフ学園は機能しているし、新しい学生も受け入れている。一見すると何も変わっていないような日常が繰り広げられているのだ。違うのは、あちこちにハイランド軍の兵士が立っていて、市民の感情がぴりぴりしていることぐらいだろう。
「問題は、そこにこそ存在しています。私がいる限り──いえ、私が市長代行職にある限り、現状が続くことになります。分かりますか? グリンヒル市の市政を最終的に動かしているのは私なのです。私の署名がなされない限り、どれほど会議を重ねて成立した議案も、施行されることはない」
 私が市長代行である限り、ハイランド側がニューリーフ学園を閉鎖することも、市民に課せられた納税率を引き上げることも、不可能。ハイランド軍が血眼になって私を捜しているのは、その為。私から決定権を取り上げたいのだ、正規の手続きを踏むような、面倒な事になったとしても。
「私が市長として持っている権利を放棄しないまま死ぬようなことになった場合は、市民の中から公平に選出された人間が引き継ぐことになります。でもそうなるためにはまず、グリンヒルで生まれ育った人間であることが前提にされています。だから……」
「あんたが死んでも、無駄骨にはならない、ハイランドの好きなようにはならない、とでも言いたいのか?」
「もちろん、そう上手くいくとは思っていません。彼らは軍事力を背景に、統治権の放棄を迫ってくるでしょうね。そうなればグリンヒルには勝ち目がない。最初からこの町にはほとんど軍隊はいませんでしたから」
 自然と笑みがこぼれてしまう。思い出したわけでもないのに、あの夜、ミューズの帰還兵が町へ押し掛けてきた時の様子が脳裏に蘇ってきた。
 選択権などなかった、初めから。
 だったら今出来る最善の策を選び取るだけだろう。
「どうしても行くのか?」
「時間は稼げるはずです。あなた方が、町を脱出する程度の時間なら」
 ゆっくりと振り返る。まっすぐに見つめ返した先にいる青年は、何かを言いかけて結局口をつぐんでしまった。
「後悔はしないのか?」
「しています。もっと私に力があったのなら、と。でも、そんなことをいくら口にしても、今は変わらないですから。だから私は、悔やまないようにしたい」
 迷わずに告げた私に、少年達は複雑な表情を作る。
 彼らに微笑みかけ、私は小屋を出た。青空が眩しい。
「いい天気……」
 太陽を見上げて呟き、私は歩き出す。何故だろう、恐くなかった。
 後から思い出して考えてみると、もしかしたら、私はどこかで期待していたのかもしれない。誰かが──皆が、私を助けに来てくれることを。私はまだ必要とされているのだと、誰かが教えてくれることを。私の替わりに、この町を救ってくれるのでは……と。
 でも違った。
 救うのでも、救われるのでもなかった。立ち上がらなければいけなかったのだ。
 何かに依存するのではなく、自分自身でちゃんと立っていられたら、そしてそんな人が寄り集まれば何が起こっても大丈夫なのだと。
 自分だけが辛いのではない。辛さを共有しあい、それを乗り越える強さを重ね合って生きて行けばいい。私は多くの人にそれを教えられた。 
 もうちょっと、素直になってみよう。卑屈になるのではなく、自分に誇りを持って、仲間を信じてみよう。
「諦めちゃ駄目、ね」
 緑濃い森の中に、私の大好きな町がある。
「グリンヒル……」
 風を受け、私はその名前を言葉に流す。
「……グリンヒル……」
 何度、戦争の最中で私はこの町の名前を口にしたことだろう。いつかこの町に帰ってくることを夢見て、諦めないで来られたのはきっとこの呪文のおかげだろう。
「私は帰ってきた」
 約束を果たし、私はこの町の門をくぐる。
 戦争が終わり、デュナン湖を囲む大地はひとつになった。すべてを見届けてから、私は町の人々との約束を叶えるために帰ってきた。
 そしてそれは同時に、私の願いでもあった。
「帰ってきたわ」
 沢山の犠牲があった。過ちも繰り返された。でも最後まで諦めない生き方を選び取って、私は今、ここに立っている。
「テレーズ様!」
「テレーズ様、お帰りなさい!!」
「お帰りなさいませ、テレーズ様!」
 鐘が鳴る。緑の丘に、静かに鎮魂と平和の願いを込めた鐘の音が鳴り響く。
 それはまるで、暗く長い夜の終わりを告げるような、静かで力強い祈りの声のように私の胸に染み込んでいった。