空の青

 カツン、と歩く度に硬質の音が石造りの廊下に反響して消えていく。
 薄暗い廊下を数分歩き続けると、唐突に規則正しく組まれた石壁が途絶えて眩しい太陽光が彼を出迎えてくれた。
 片手をのろのろと持ち上げ、額に翳すことで直射日光をかわした彼はしばらくその場で佇んでいたが、ふと何かを視界の端に見つけたのか軽く眉を寄せて中庭へ降りる数段しかない石段を下り始めた。
 彼が動くたびに青い衣がリズミカルに揺れる。腰帯に挿した剣が金属音を変調で奏で、不協和音を足音が消えた土の空間に響かせた。
 こぢんまりした中庭の片隅で彼が拾い上げたもの、それは折れ曲がって風雨に晒され続けた結果、全体を赤く錆びさせたひと振りの剣だった。ただし、それは実戦用ではない。兵士の訓練用に刃先を潰されたものだ。
 数ヶ月前までは、この中庭でも兵士が日々の鍛錬として剣を振るい、汗を流す姿が当たり前のようにあちこちで見かけられた。かけ声が喧しいくらいにそこかしこで響き渡り、城内が沈黙するのは夜間くらいだと言われていたのだが、今は昼も早い時間だというのに周辺は静まりかえっている。
 たった数ヶ月……否、数日でこうも変わってしまうものなのかと心内で呟いて彼は立ち上がった。手には、さび付いた剣を握ったままで。
 戦争が終わって、まださほど日は経っていない。彼がこの城を自身の意志で出た日からは数ヶ月。城の……この地域一帯の支配者であったゴルドーが死んだのは終戦日の一月前ほどになるはずだ。
 計算をちゃんとしたわけではない。時間はあっという間に過ぎていって、実を言うと城を出て自分で決めた道を歩きだしたのは昨日のことのような感じさえするのだ。
 そして裏を返せば、実感がわかない。ゴルドーが死んだこと、戦争が終わったこと、ハイランドが滅んでデュナン湖周辺が統一されたことも。その一員の中に自分の名前があることまでもが、夢のようで幻の中にいるような感覚だった。
 だが一番信じがたい事実と言えば、あの幼さの残る少年が戦争という汚れた世界で先頭に立ち、皆を導き通したと言うことだろう。
 初めは、こんな少年で大丈夫なのかと思った。だが彼と共に戦う中でその不安は杞憂であると実感し、彼でなくては軍を導けないとさえ思うようになった。
 静かな城は、近いうちにまた以前の賑わいを取り戻すだろう。確かにこの城は戦場となり多くの兵士が戦い死んでいった。だがそれ以前に長い時間を掛けて築き上げてきた重みも城には残されている。だから簡単にうち捨てることは出来ない、死んでいった兵士の命が刻み込まれた城は、これまで以上の発展を見せてくれることだろう。
 そうでないと、困るのだ。
 石段を登り廊下に戻った彼は、手にしたままの訓練用の剣を見下ろし、そして視線を高い空に投げやった。
 言葉はない。何も語ることなど……語れることなど残っていない。ただ終わったのだという感情だけが、複雑な形を描いて渦巻いている。
「マイクロトフ」
 呼び声に視線を引き戻して振り返る。自然と握りしめた拳は何を意味しているのだろう。
「こんな場所に居たのか」
 彼が身につけている衣とは対照的な赤をモチーフにした服装の、穏やかな笑顔を絶やさない青年がゆっくりと歩み寄ってくる。淡い色合いの髪が光に透けて輝いていた。
「カミュー」
「なんだ?」
「用件は」
 先に俺を呼んだのはお前だっただろう、とつい今し方自分を呼んだ事を彼に思い出させ、マイクロトフは足の向きを変えてカミューに向き直った。それを受け、彼もまたマイクロトフから数歩分の位置で足を止める。
「哀愁に浸っている所を邪魔して怒っているのか?」
「何故……」
 そう思う、と続け掛けた声を内側に消し、マイクロトフは視線をカミューから外した。どうしても目は手の中にある、錆びて折れた剣の向く。剣先を失って持ち主にも見捨てられた物言わぬ剣が酷く重い。
「それは?」
 何も言わないマイクロトフに怪訝な表情を浮かべ、その手にある剣に気付いたカミューが首を傾げる。それから陽光差す中庭を見て、なんとなく事情を察したのだろう。小さく頷く。
「武器を棄てるとは、騎士として恥ずべき行為だな」
 腰に手を当ててやれやれと肩を竦めたカミューに、だがマイクロトフは首を振る。
「どうした」
「いや……」
 マイクロトフの動きに眉を寄せ、視線を戻したカミューが続けざまに問う。しかし彼は自分でも言いたいこと、胸の中にある感情を言葉で表現できないのだろう、難しい顔をしたままマイクロトフはもう一度首を振った。
「俺は……正しかったのかと」
 あの時は自分に誇りを持ち、堂々と胸を張って城を出た。その事に悔いはない、今でも。
 だが久方ぶりに故郷に帰り、第二の家でもあった城の変わり様をこの目にしてしまっては、その自信も揺らぐ。
「何を言い出すのかと思えば」
 予想もしていなかった言葉にカミューは一瞬呆気にとられ、そして大げさに肩を竦めた。
「私たちが正しくなかったのだとしたら、何が正しかったと言うのだ? ゴルドーか? 狂皇ルカか?」
「そう言う意味で言ったんじゃない」
 頭を振ることを止めず、マイクロトフはカミューの言葉を否定する。訝しげな表情を隠せないカミューは更になにかを続けようとしたが、開きかけた口をやがて閉じ、言い表せないいらだちのようなものを押し殺すように髪を掻き乱した。
「解らないんだ、カミュー。他に方法は無かったのか?」
 ゴルドーは死んだ、この城の支配者は居なくなった。
 マチルダ領の行政は新しく成立したラストエデン国に委ねられる。いずれ中央から代理人が派遣されてくるだろう。正式なマチルダ騎士団の復興はそれ以後だ。
 だが、果たしてそれが上手くいくのだろうか。事情も、住民の心理や感情を知りもしない連中に、マチルダを任せてしまって本当に良いのだろうか。騎士団が騎士団としてあるべき姿を取り戻し、維持するにはやはり騎士が先頭に立つべきではないのか、と。
「お前は、では此処に残るのか」
「俺はもう、騎士団を辞めた人間だ」
 カミューの新たな問いかけに即答し、マイクロトフは中庭の隅に咲く小さな白い花を見つめる。踏み固められた土にも負けず、花は立派に咲き乱れている。
「マチルダが独立を保てない事が不満なのか」
「違う」
「セレン殿が私たちを置いて行ってしまったことが不満なのか」
「違う」
「騎士団への未練を断ち切れない自分が不満なだけだろう、お前は」
「…………」
 ぴしゃりと、頭に手をやって必死に考えているマイクロトフを糾弾しカミューは長い溜息をついた。言葉を返せないでいる青衣の彼に、困った奴だと呟いて右の後れ毛を指で遊ばせる。
「違うのか?」
「違わない」
 騎士に憧れ、騎士になるために城の門を叩いた。試験に合格して喜び、日々鍛錬に明け暮れて遅くまで汗を流し、理想の騎士像を多くの同胞と語り合った。実力がついていき、多くの人に認められるのが素直に嬉しかった。団長に推薦されたと知ったときは天にも昇る気持ちで、断る理由も無くその日のうちに承諾の返事をしていた。
 カミューは違ったのだろうか、ふとそんな事を感じてかれを盗み見る。視線に気付いたカミューは、その意味を即座に察知したのだろう、裏のありそうな微笑を湛える。
「言いたいことがあるのなら、言った方が良いぞ?」
「いや……」
 そういえばカミューは赤騎士団長に推薦されてもあまり喜ばず、最初は固辞していた事を思い出しマイクロトフは益々表情を曇らせる。
「マイクロトフ?」
「なんだ」
「私は、旅に出る」
「…………」
 言葉を濁すマイクロトフを呼び、意識を引き寄せたカミューは唐突にそんなことを宣告するものだから、言われた方は話の流れが全く読みとれず間の抜けた表情を作った。
「いきなりだな」
「そうでもないぞ」
 クスクスと喉の奥で笑いながらカミューは、実は戦争が終わる少し前から考えていたのだ、と続ける。初耳だったマイクロトフは目を丸くし、何か言おうと口をパクパクさせるが言葉にならず、まるで水から出された魚のようでいよいよカミューをわらわせた。
「何がおかしい!」
 ついに憤慨して怒鳴ったマイクロトフを宥め、浅い呼吸を繰り返して笑いを止めた彼は姿勢を正し、右手を曲げて左の肘を掴んだ。
「すまない、お前があまりにも想像通りの反応をしてくれたものだから」
 全く悪びれた様子も見せずにカミューは言ったが、その内容に不満らしいマイクロトフは腕を組むと失礼な、と足を踏みならした。
「だが、ずっと考えてきたことだ。私はもう、ミューズには戻らない」
 だから、その前にマチルダの様子を見ておきたかったのだと今回の訪問の、本当の理由を今頃述べたカミューに、ただ誘われるがまま来ただけのマイクロトフは面食らい、自分の迂闊さを恥じて顔を手で覆う。
「シュウ殿には了解をいただいてある」
 かなり残念がられ、引き留められたけれどこちらが折れるつもりがないと理解していただいた、と事も無げに言い切り、その時のシュウの諦め顔が想像できてマイクロトフは親友を差し置いて可哀想な軍師への同情を禁じ得なかった。
「お前は、どうしたいんだ」
 戦争は終わった、戦う理由は失われた。
 これからは壊れてしまったものを修復し、発展させて行くことに総てが向けられていく時代だ。騎士は外敵から国を守るためにある、ハイランドの脅威は去ったが未だグラスランドや、北方のハルモニアは健在な事から、軍事力の復旧は急務とされていた。だから今は一刻も早く、マチルダを以前のような姿に戻さなければならない。
「俺は……」
 どうしたい、と問われ今更ながら、自分には未来の明確なビジョンが見えていなかったことに気付く。目の前の事に一点集中するのがお前の悪い癖だよ、と先代騎士団長達から散々言われ続けてきたに関わらず、その癖は今になっても全く薄れていないことを実感させられた。
「まぁ、シュウ殿にはしっかり念押しされてしまったがね。旅立つと言っても直ぐにはしないさ、先にマチルダの復興がある」
 頭を失った騎士団を取り仕切れるのはカミューやマイクロトフしかいない。だからシュウは、カミューの旅立ちは許したが条件を出すことも忘れなかった。つまり、マチルダ騎士団を完全に復旧させること。
 完全、なんていうのは一年や二年ではまず無理だ。シュウの言葉の裏に、そのまま旅立ちを諦めてくれることを期待している軍師の感情を読みとったカミューは、頷き条件を承諾しつつも、きっちり、“復興の目処が立つまで”と表現を改めることを忘れなかった。
「このまま此処に残るのも、お前の自由だ」
 マイクロトフのことだから、きっと強く頼まれたら受けてしまうだろう。しかしそれは本当の彼の意志ではない。だからカミューは彼に考える時間と、機会を与えたいと思った。
「人はお前を必要としている。必要としてくれる人たちのために尽くすのも騎士の勤めかもしれない。だがお前は言ったな、もう自分は騎士団の人間ではない、と」
 だから騎士団のために自分を殺してまで骨を埋めてやる義理はない。
 マイクロトフの手にある剣は、さながら置き去りにしてきた騎士団への彼の未練だろうか。
「私は胸を張ってラストエデン軍に参加した。そして今度も、胸を張ってこの国を出ていくつもりだ」
 揺らぐことのない信念は、より広く大きな世界を見てみたい素直な好奇心の現れでもある。今できることを今できるうちにやってみる、後悔しないように。生きているのは自分なのだから、自分に正直でありたいから。
「お前は、どうする?」
 先と同じ質問を繰り返し、カミューはマイクロトフを見つめる。
「俺は……」
 一方のマイクロトフは視線を落とし、握りしめたままの錆びた剣をただじっと見据えるばかりだ。
 煮え切らない彼の態度に、しかしカミューは辛抱強く待つ。これはまるであの時と逆だな、とカミューもまた騎士団長になったときの事を思い出して小さく笑った。
「時間はある。ゆっくり……考えればいい」
「そう……だな」
 それに先ずはこの静まりきって不気味は城を、前以上ににぎやかで人の往来が多い、立派な城に戻さなければいけないし。
 いつか、自分たちが憧れた騎士達が沢山いる城にしたい。それが出来るのも、矢張り今だけだ。
「行くぞ」
 とん、とマイクロトフの胸を軽く叩いてカミューは来た道が続く先へ歩き出す。
「あぁ」
 頷き返し、マイクロトフも踵を返す。
「ところで、それ、どうするんだ?」
 背中に迫り、やがて追いついた足音を聞きながらカミューはマイクロトフが持ったままの剣を指さして訊く。
「置いていかないさ、俺は。全部……持っていく」
「我が侭な奴」
「仕方がないだろう、それが俺なんだから」
 静まりかえった廊下をふたり分の足音が反響して消えていく。そして彼らは、胸を張って自分たちの道を歩き続ける。