生活の雑音は其処に人が居る限り消え失せることはない。
誰かの呼吸する音でさえ、雑音である。たとえ静かな場所を好み無音状態に身を置こうとしても、己が生きている限り雑音から離れることは出来ない。
薄く瞼を開き、人が行き交う空間に視線を巡らせてルックはひとつ息を吐いた。
それは溜息のようでそうでないような、酷く境界線が曖昧な吐息。
なにをしているのだろう、自分はここで。
時折考えてしまう自己の存在意義と理由。戦わなければならない相手と、戦う理由がある限り好みは存在し続ける理由はある。だが意味はない、戦いを終わらせたときに待つものが空虚な世界でしかないことを知っているから。
背中を向けていた約束の石版を振り返る。もうじき空欄が総て埋まろうとしている石版は、彼のこれまでの歩みと重なって時の証人となるだろう。
だが、こんなものに果たしてどれだけの意味があるのだろう。宿星が全員集まったところで、何かが変わるわけでもない。心強さは増すだろうが、結局戦争に置いてものを言うのは屈強な軍事力であって仲間同士の信頼感や共有感などといった生温いものは、弱さを招くだけでしかない、
それでも、彼はこの道を行くのだろう。目に見えるだけの強さだけを求めるのではなく、心の強さをも仲間に求めている。口で言うのは簡単だけれど、彼の選択は限りなく酷なものだ。
裏切りは許されない、彼のためにも己自身のためにも。
案外、内側から切り崩せばこの同盟軍は呆気なく崩壊しそうな気がする。外からの攻撃には強固でも、中は外見からは想像が付かないほどに生温い。
だから嫌いなんだ。
足音がする。石版を眺めながら刻まれている名前のひとつひとつを指でなぞっていたルックは、視界の端を通り過ぎ石版の裏側に回り込んだ人影に形の良い眉根を寄せた。
「……なに、やってるの」
爪の先が天間星の名前を軽く削る。人の力程度でその名前を削り取る事なんて不可能だけれど。
「しー!」
少年ひとり分の身体を簡単に隠してしまえる石版の裏側で、天魁星に名前を刻まれた少年が唇に人差し指を押し当てていた。黙れ、という合図らしい。
ルックは再びため息を零しいつもと同じように、石版に背を向けて立ち直した。
外から射し込む光は暖かく穏やかだ。今が戦争のど真ん中、両国の力関係が拮抗しいつ本格的な衝突が再発するか分からない状況であることを忘れてしまいそうになる。
この城の中だけは、外でどれだけ人と人が争い血を流し合う無益とも思えてしまう戦争を繰り返していても無関係な、別世界のような和やかさが漂っている。
生温い環境、だがこれがあるからこそ人はこの世界を守ろうとして戦えるし、戦いを終えて戻ってきたときに安堵感を覚えることが出来るのだろう。
戦争という非常事態だからこそ、その非日常的な空間に慣れてしまった心を癒せる場所が必要になってくる。麻痺した感覚を元に戻して、“いくさびと”が“ただびと”に戻るために。
「…………」
会話は起こらない。黙れ、と言われたルックはもちろん何も語りかけようとしないし、セレンの方もあまり大きな音や声を立てるわけにはいかない理由があった。
「……なにしてるって、聞かないんだ」
「さっき聞いた」
けれど、其処に人が居るのに黙りが続くのは楽しくない。小声で、姿勢は石版の裏側で膝を抱え座ったままセレンは呟いた。即座にルックの冷たいひとことが戻ってきて、あうっ、と小さく呻く。
「……で。なにしてるのさ」
同盟軍のリーダーでありこの城の主であり、今このデュナン湖を囲む一帯を平和に導くかそうでないかの瀬戸際を演出している張本人が、城の中でこそこそと隠れて。
「あのね……かくれんぼ」
「…………………………………………」
「……今、呆れたでしょ」
無音状態のルックを気配だけで読みとって、セレンはむぅっと唇を尖らせる。折り曲げた膝を更に抱き寄せ、背中を石版に押しつける。全体重を預けても、石版が揺らぐことはない。
「盟主としての威厳などあったものじゃないね」
相当呆れた声で、ややしてからルックが答えた。見えはしないが、もしかしたら肩を竦めている事くらいはやっているのかもしれない。
「こんな御子様に先導される同盟軍も先が知れている」
嫌味を歯に着せぬ言葉で飾り立てるルックに、セレンだって言わせたままではない。顔は変わらずむくれたままだが、ぼそぼそと反論を返す。膝の間に顔を埋め、かなり聞こえづらい声ではあったけれど。
「ボクだって、時々人間に戻りたい時があるよ」
「…………」
ルックは何も言わずに、背中で聞いている。
セレンの声は微かだが震えていた。誰にも明かすことの出来ない苦しい胸の内が伝わってくる。
同盟軍のリーダーになったのは彼の意志だが、そうならざるを得なかった事の方が大きい。望んで手に入れたわけではない力に見えない糸で操られ、気が付けば周りばかりが盛り上がり断ることなど出来るはずがなかった。
運命などない、だがこの道はあまりにも皮肉な出来事に満ちすぎていた。
敵である国の王は生涯を通して親友だと誓い合った友であり、いずれ近いうちに見を交える事になるのは確実だった。お互い譲れないもの、守りたいものを手にしてしまった以上、この戦いを回避することは不可能。
だからこそ辛い。
この戦いの意味を何度も何度も問い直し、別の道を模索しても答えはどこにも見当たらない。
彼はまだ、たった十六歳の少年なのに。
「まるで僕たちが、セスを人間じゃないものにしているみたいな言い種だね」
確かに、セレンは同盟軍のリーダーであっても実質的に軍の動きを掌握しているのは軍師のシュウであり、以下将軍や軍隊長たちの方で、別にリーダーがセレンである必要性はないのだ。
けれど、セレンが抜けた時同盟軍は支えとなる柱を失い内部から瓦解する。
カリスマ、という言葉で飾られた傀儡。
「ボクだって、遊びたい時がある」
顔を上げたらしく、くぐもりの抜けたセレンのひとことにルックは何を思ったのだろう。
「……ま、いいんじゃない?」
大して興味が無さそうな声で彼は短く言った。
え、とセレンは振り返る。だが大きな石版に視界を遮られ、彼の姿は視界に映らない。
「笑っていれば」
子供であるとか、大人であることを抜きにしても。
傀儡だとか、お飾りだとか見せかけだけとか紋章の力だからとか、そう言うことは別にして。
真の紋章の所有者だから同盟軍の皆が従ってくれている、という考え方は卑屈だ。もっと自信を持てばいい、これは自分の実力であり人間性を慕ってくれたからこそ出来た仲間だと。紋章の力は二の次に置いておけばいい、そんなものが無くても、人の心は人に惹きつけられる。
「君が笑っていれば、みんなはまだ大丈夫だと思える」
一番頂点に立つ人間が、四六時中悲愴な顔をしているとそれを見上げている人々はどう思うだろう。
「へらへらするな、って言われる事もあるけど」
「話しの腰を折るね、君も」
堂々としていろ、という意味だと言い直してルックは小さく咳払いをした。
かくれんぼは継続中。ルックは前を見据えたまま、セレンは石版の裏に隠れたままの会話で互いに相手の顔は見えない。
再び背中を石版に預けて膝を抱いたセレンはふと、上を見た。高い天井の光取り窓から差し込むのは柔らかい陽光だ。この光に照らされて、ホールはいつも明るい。
あんなところに窓があったのかと、初めて気付いてセレンは少し感心した。
「続きだけど」
ルックの声は密やかで、だのによく耳に通る。石版を挟み込んでの会話はそれなりに声を大きくしなければ聞き取り辛いはずなのに、とセレンは不思議に思ったが彼の声と一緒に少しだけ風が吹いている事に気付くと目を細めた。
音は空気の振動。空気を動かすものは風。風は、ルック。
「戦場でもそうでないときと変わらない態度で居るリーダーと、負けることを考えているような奴と、君はどっちが仲間を鼓舞できると思う?」
「そりゃ……」
遠回しだったルックの言いたいことをなんとなく理解できたような気がして、セレンは膝の上に顎を置き微笑んだ。
ルックなりに気を回してくれているのだと、分かりづらい表現方法に可笑しくなる。
「あのさ、ルック」
今のままで居て良いんだよ、そう言われて嬉しくなる。背中合わせではなくちゃんと顔を見て御礼を言いたくて、顔を石版の裏から覗かせようとしたセレンだったが。
「ったくー、どこに隠れたのー!?」
正面玄関の方から、ぶつぶつと大声で文句を言ってナナミが入ってきたのに気付いて慌てて首を引っ込めた。
様子に、ルックも彼がかくれんぼの最中で隠れ場所を探してここに来たことを思い出す。そしてどうもナナミが鬼役であることも悟った。
ナナミは壁に並ぶ空の酒樽や積まれた空箱、死角になっている場所を片っ端から覗き込みながらこちらに向かって進んでくる。通行人にセレンの居場所を聞く事は、ルールで予め禁止と決めているのだろうか、しない。
いつもと同じ態度の無愛想な表情でルックはそれを見守る。やがてホール内の適当な場所は総て探し終えて、ナナミは顔を上げて疲れたように首を振った。跳ね上がったサイトの髪が一緒になって揺れる。
ばちっ、と視線がぶつかったのをルックは感じた。
ナナミが近付いてくる。足音で分かる彼女の接近に、石版に身を擦り寄せて小さくなったセレンは身体を緊張させる。少しでも物音を立てたら気付かれると思って、息まで止めてしまっていた。
「…………?」
ナナミはルックの目の前で立ち止まると、腰に手を当てて首を捻る。上半身ごと身体を斜めに傾がせて、なにかを探っているのかまじまじとルックを観察して、視線の不躾さに彼は不機嫌さを募らせた。
「……なにか用?」
声もいつになく不機嫌。表情は変わらないけれど。
「ん~……気のせいかもしれないんだけど」
顎に手をやって、ナナミが呟く。自問するように。
「なにか、楽しいことでもあったの?」
唐突に、また突拍子もないことを聞かれてルックも一瞬面食らう。何処からそんな発想が飛んで出てきたのかと、不思議で仕方がない。
「どうしてそう思うわけ?」
ゆっくりと腕を持ち上げて胸の前で組む。問いには答えず、問いかけで返した彼にナナミはまた逆方向へ身体を傾がせた。
「なんとなく、そう思っただけ」
理由なんかないのよ、と笑いながら彼女は顔の前で手をひらひらと振った。そして気にしないで、と言い残し彼の前から離れる。
「それにしても、もー。セスってば、何処に隠れちゃったのよー」
完全にルックへの興味は失せたらしい。階段へ向かい手摺りに手を置きながら、彼女は文句を繰り返している。トントン、と一定のリズムで階段を登っていく音がそれに続いた。
「…………行った?」
石版の裏でじっとしていたセスが恐る恐る、尋ねる。まだ身体は動かせない、緊張しすぎた所為で筋肉が硬直してしまったようだった。
「そのようだけど」
ナナミの姿が見えなくなるのを、階段を仰ぎ見て確認したルックが変わらない小声で返す。そして上半身だけで振り返り、痺れてしまった片足に苦労して床の上に伏せているセレンを発見してまた唖然となった。
「なにやってるのさ」
「……痺れちゃった……」
身体の下敷きになっていた右足が軽い痙攣を覚えていた。立ち上がれなくて、バランスを崩した結果このざまらしい。今度こそ心底呆れたルックはやれやれ、と首を振り膝を折って彼の傍に跪く。
仕方がないな、という顔をしているルックはいつもと違っているところなどないように見えた。
ナナミが言い残していった言葉を思い出し、セレンは床の上に伸びたままルックを見上げる。見つめられる方もそれに気付いて怪訝な視線を返した。
「……なに」
「楽しいこと、あったの?」
とてもそうは見えない。どう考えても呆れている以外の表情が読めないルックに、セレンは隠しもせずストレートな言葉で問いかけた。
「…………」
沈黙。
ルックの心情としては、「この姉弟は揃いも揃って……」という感じ。言った方のセレンは、静まりかえってしまったルックを気まずそうに見上げて空笑い。
……気まずい、非常に。
どうしよう、このままでは両方とも動くに動けない。困ってしまったふたりの間へ、天の助けではないが本当に頭上から声が降ってきた。
「セス、みっけ~~~~!」
ホール中の空気を震撼させるけたたましい、甲高い叫び声にルックは思わず両手で耳を塞いだ。
キンキンする頭を上向かせると、中二階の手摺りに凭れ掛かり真下であるこの場所を覗き込んでいるナナミが居た。にこにこと嬉しそうに笑っている。
「あ……」
硬直が溶けた途端、別の硬直が待っていてセレンは咄嗟に反応できなかった。
「こんな事だと思ったのよねー」
乗り出していた身体を引っ込め、二段とばしで階段を下りながらナナミが言う。どういう意味だ、とルックが眉間に皺を寄せて彼女を見返すが、ナナミは気にした様子もなく彼らの前に戻ってきた。
「セス、みっけ」
捕まえた、と床の上にようやく座ることが出来たセレンの腕にタッチして彼女はカラカラと声を立てて笑う。気を取り直したルックが衣服の埃を払って立ち上がり、居場所を石版前に移動させた。続けて、座っていたセレンも立ち上がる。
「どうして分かったの」
一度は見逃したくせに。
不思議そうに尋ねたセレンに、ナナミはチッチッと舌を鳴らして人差し指を立てて左右に揺らす。
「甘いわね。このナナミ様が気付いてないと思った?」
最初から怪しいとは思ってたのよ、と言葉に含ませて彼女は胸を反り返した。そして徐に、我関せずを決め込んでいたルックを指さす。
「だって、ルックが笑ってるんだもん。絶対なにかあるに決まってるじゃない」
「え!?」
そうだったの? とセレンは目を丸くし、槍玉に挙げられたルックはぎょっとして身を引いた。
「待て。僕が何時笑って……」
「えー、だってさっき笑ってたじゃない」
控えめに言い返そうとしたルックだったが、倍以上大きな声を出すナナミの前では彼の皮肉も無力。何事か、と通り過ぎようとしていた人も振り返って彼らを興味深そうに見ていく。
「笑ってた……?」
ずっと石版の後ろにいたセレンはその瞬間を見ていない。会話をしていた時は全然気付かなかった、呆れられていただけだと思っていたのに。
セレンはルックを見た。視線がかち合って、先にルックの方がそっぽを向いた。
「本当に?」
「お姉ちゃんが嘘吐いてるって言うの?」
片手に握り拳を作りながら言われては、首を横に振るしか無くてセレンは苦笑いを浮かべた。
そしてもう一度ルックを見る。相変わらず向こうを見たまま。
「見たかったな」
ぽつり、呟く。聞こえたのか、ルックがゆっくりとセレンの方を振り返った。
少しだけ彼が微笑んでいるような気がして、少し照れくさそうにセレンも笑い返した。