願いの唄

 他に何もない草原で寝転がった上を、透明な風が走り抜けていく。表面を撫でられた青草がお辞儀をするように頭を下げ、遠くどこかから運ばれてきたらしい水の匂いが鼻腔をくすぐった。
 青っぽい匂いに混じる水の香りが、ここが城のあるデュナン湖からそう遠くない場所である事を思い出させる。その通り、身を起こせば今すぐにでも、目の前遙かに小さく聳える城が見えるはずだ。
 小一時間も駈ければ到着できる、開墾されていない草原。白や赤の小さな花々が咲き乱れる緑一面の平原に寝転がって、ただなにもするわけでもなく空ばかりを見上げてどれくらい時間が過ぎただろう。
 太陽を遮る雲の量が多いので、空はさほど眩しくない。時折雲間から覗く光のヴェールは美しく、身を起こしさえすればデュナン湖に零れ落ちた光が反射して輝く様が見えるだろう。小さく浮かぶ船、城からは立ち上る煙は食堂で働くハイ・ヨーがもたらすものだろう。
 そして城内の会議場では、今まさに作戦会議が開かれているはずだ。
 但し、本来その会議で中心になる席に座すべき存在は今、ここに居るのだけれど。
「なぁ」
 頭上から投げかけられた声に視線だけを上向かせたセレンに、落ちた影の主が腰に手を当てて顔を顰める。
「良いのか?」
 短く刈り揃えられた黒髪、一般人とは少々異なる服装で身を固めたいかにもやんちゃ盛りといった風貌の少年が、軽く唇を尖らせて彼を覗き込んでいた。その口調は心配しているようで、ゆっくりと上半身を起こしたセレンは頭についた青草を払いつつ、座り直した。
 そしてひとこと、良いんだよと返す。
 自分が機嫌を損ねていることを、今更思い出した。
「でも、本当に良いんですか? 今日の会議は、確かトゥーリバーの特使が参加していると聞きましたが」
「良いの」
 どうせ僕が居たところで、発言権は無いんだし?
 頬を膨らませて不機嫌を隠さないセレンはそう言って、サスケの向こう側で座っているフッチからそっぽを向いた。フッチの膝の上に居るブライトが、事態を理解せぬままにきゅぃ、と小さく鳴く。
 なんでもないよ、とブライトの頭を撫でたフッチは、まるで話を聞く様子のないセレンを暫く見つめた後、傍らで立つサスケに目配せをして肩を竦めた。
 セレンは昨夜、軍の方向を巡って軍師であるシュウと大喧嘩をしでかした。その声は城中に響くくらいで、あっという間に彼らの仲違いは城内を駆けめぐり、色々な憶測を呼び起こして場は騒然となった。その時はかろうじて、シュウがなんとか収集させたけれど、セレンの不機嫌は朝になっても直ってくれなかった。
 大事な会議もすっぽかして、彼は朝からずっとこの場所で陣を構えている。巻き込まれた格好のサスケとフッチは、昼食も取り損ねて既に疲れ顔になっていた。
 セレンとシュウの意見が対立することは、なにもこれに始まった事ではない。何事にも冷静に、ある時は冷徹だと思わせる判断を下すシュウと、情に甘えて情に走りがちなセレンの判断は、嫌でも度々衝突する。
 その度にシュウはあれこれと考えを巡らせ、なるべくセレンの意志を汲み入れながら最悪の事態だけは回避させるように心がけていたようだけれど。
 今回は、タイミングが悪かった。
 グリンヒルが、来るべき決戦に備えて警備の増援を求めてきた時期に重なるようにしおて、ラダト近郊の村で統制を失った白狼軍の一団が暴れ回っているとの報告が入ったのだ。
シュウが最優先させたのは、グリンヒルとの協定だった。ハイランド軍は依然ミューズ市を占領しており、領土を接するグリンヒルに再び攻め込まれては同盟軍の情勢が悪化する可能性があった。
だからまずは、自陣を守り抜き、ラダトでの事はラダトに駐留させている軍を差し向ける、という事で話は決着するはずだった。
 けれど、セレンはそれが納得できなかった。
 確かにグリンヒル市を堅守することは、この先の展開を決める大事なカードになるだろう。しかしだからといって、今目の前で惨劇が繰り広げられている場面を見過ごしても良いものだろうか。
 ラダトに駐留させている軍は六百弱。うち半数をラダト警備に残しても、白狼軍の残党を追撃できるのはたった数中隊だ。残党軍はひとつとは限らず、各地に出没しているからその一々に対処していたらどうしても人出は足りない。
 だからセレンは、強固なまでにラダトへも増援を送るべきだと主張した。けれどシュウは、受け入れなかった。
 そして大喧嘩となり、
「シュウの分からず屋!」
 という名句を残してセレンは彼の前から立ち去ったのである。
 朝食後、不機嫌なセレンに拉致されてここにやって来たサスケとフッチが大人しく彼と一緒に居るのは、まさか彼独りでラダトへ駆け出してしまわないかと心配したからでもある。食堂でほぼ同じタイミングで食事を終えてしまったのが、彼らの運の尽きでもあった。
「大体、シュウは頭が固すぎるんだよ。辛い思いをしている人たちを助ける為に兵を回して、なにがいけないっていうんだ」
 親指の爪を噛みながら、セレンが悔しそうに愚痴をこぼす。既に本日五度目の同じ台詞に、顔を見合わせて苦笑を零したサスケとフットが曖昧なままに相槌を返した。
 両腕を頭上に伸ばし、セレンはまたそのまま背中を草の海に埋めた。風が通りすぎる、湖からなだらかな坂を上って来た風は僅かな湿り気を伝え、するりと彼を撫でて去っていった。
 昼食の時間は過ぎた、腹の虫もしつこいくらいに鳴いている。風が城の立ち上る煙に混じっているはずの、食堂から溢れ出る美味しそうな匂いを伝えてこない事が、かろうじて救いだった。
「腹減ったな~」
 育ち盛りのサスケが、空腹を覚える腹を押さえて呟く。よろりと足を動かして尻餅を付く格好で草の上に座り、どすんと落ちてきた彼の身体に驚いたブライドがびくりとフッチの膝で震えた。
 悪いな、と怯えた様子を見せるブライトに横から伸ばした手で触れて、サスケは小さく微笑み両足を前に伸ばした。顎を突き出せば視線は自然と空を仰ぐ、白色の度合いが強い今日の空は、カンカン照りの日を思えばまだ過ごしやすい。こんな穏やかな天気でなかったなら、もうとっくに帰ろうと言いだしているに違いない。それはフッチも同じようで、うつらうつらと眠たそうにしているブライトを抱き直し、彼も同じように空を仰ぎ見る。
 戦いの日々で荒んでしまいそうになる心を潤そうとしているかのような、白と青のコントラスト。雲間を割って地上に降り注ぐ太陽の光は、静かで綺麗。
 こんな風に空だけを見上げていたら、今が戦時中だという事実を忘れてしまいそうになる。いや、忘れたくなる。
 あの国の人々は、こんな風に空を見上げる事をしないのだろうか。どこまでも澄み渡る美しい空を見つめていたら、自分たちのちっぽけさや戦うことの無意味さを考えてしまうのに。
「どうするんですか?」
 このままここで時間を潰していても、結果的になにも変わらない。時間は過ぎて、会議は終わりセレンの意見は無視されたまま、いずれは戦いが再開される。そうなったとき、リーダーと軍師が仲違いを続けていたら、勝てる戦にも勝てなくなるだろう。
 セレンの言い分はフッチたちにだって分かる、助けにいきたいと思う気持ちに嘘はない。しかし勝手な事をして軍を危機にさらすことは出来ないし、シュウだって黙って蛮行を見逃すとは思えない。
 今のセレンは熱くなりすぎて周りが見えなくなっている、そんな印象がある。決戦が近く、また、親友だった相手とも決別を選択せねばならなかったことがストレスになっているのかもしれない。
 ジョウイと戦う事を決めても、彼にはまだ迷いが残っているようだったから。
 その迷いを脱しきれない間は、彼に何を言っても無駄かもしれない。ナナミの言葉でさえろくに聞こうとしないのだから、今の彼は。
 フッチの問いかけにセレンからの返事はなく、変わらない調子で吹き抜ける風だけが音を零していく。まるで泣いているように聞こえもする風の声に、フッチは寝転がっているセレンの方を窺って嘆息する。
 思い過ごしだと思うのだが、この音色はセレンの想いをそのまま表現しているようで、聞いていて心が苦しい。
「セレンさん……」
 眠ってしまったブライトの背を撫で、フッチが小さな声で彼を呼ぶ。
 その時、だった。
「うわっ!」
 突然予告もなく吹き荒れた突風に髪を攫われ、目を開けていられなくなったサスケが両手を顔の前で交差させて足を踏ん張らせた。フッチもブライトを抱きしめ、身を低くし風に飛ばされぬよう足許の草を強く握った。
 寝転がっていたセレンだけが、半回転して俯せになりそのまま両手両足を強く突っ張らせて耐えたのだけれど。
 ぱしゃん、と。
 おおよそ水辺とは程遠いこの場所では、あり得そうにない事象を体感することになって、顔半分を草の中に沈めたまま目を見開き、唖然となって沈黙した。
 ぽたりと前髪を滴った水が落下する。雨が降ったわけでもないのに、全身に大量の水を引っ被ったセレンは驚きを隠せぬまま、暫くそのポーズで硬直する。
 風が止んだ。残されたのは、不格好に風を耐えたフッチとサスケ、曇り空の下で濡れ鼠になっているセレン、それから。
 涼しい顔で風の名残を見送った、ルック。
 となると、今の突風も当然だが風の申し子である彼の仕業という事になる。湖の上空で巻き上げた風であれば、水を運ぶ事も可能だろう。しかもセレンひとりを狙ったピンポイントで。
 のっそりと両腕を突っ張らせて身体を起こし、ゆっくり頭を振って額に貼り付いた前髪を振り払って、それから漸くルックを見上げたセレンがなにかを言おうと口を開こうとした矢先。
 先手を打つ格好で普段から不機嫌顔のルックが、片手を腰に据えたまま言った。
「頭、冷えた?」
 低い声で淡々と告げた彼は徐に指を鳴らす。すると何処からともなく現れた一陣の風が、セレンの頭にコップ一杯分程度の水を落として消えていった。一気に水気を拭くんで重くなった彼の髪がまた肌にべったりと貼り付く。顎を伝い落ちた水はそのまま着ている服の内側に潜り込み、体温に触れて蒸発していく。
 髪が落ちた分だけ暗くなった顔をしたセレンが、小刻みに肩を振るわせてルックを睨んだ。けれど自分を見下ろす冷たい視線に居竦まされ、開きかけた口を閉じながら俯いた。
 頭だけではない、身体までもが冷えていく感じがする。それは決して、上からぶつけられた水だけの所為ではないだろう。
 ルックの視線が痛い。顔を逸らしたまま小さくなるセレンに、ややしてから彼は呆れたように吐息を零して髪を掻き上げた。
 雲に隠されていた太陽が顔を覗かせる。彼らの居る草原にも光が立ちこめる。
「シュウからの伝言、片方は伝えたからね」
 頭を冷やせ、と。恐らくあの軍師はルックに言葉だけを伝えるように命じたのだろう、だからデュナン湖の水は彼からのおまけと嫌味だ。
「大丈夫か、セレン」
 やっと状況を理解したらしいサスケが姿勢を戻し、セレンの背中に問いかける。突風で眠っていたところを邪魔されたブライトがむずがるのを、必死で宥めていたフッチが突っ立っているルックを軽く睨んだ。
 これはやりすぎではないかという視線の訴えを、ルックは冷めた調子で受け流して再び俯いているセレンへ視線を戻した。濡れて大人しくなっている彼の髪を見下ろしてから、不意に膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。
 なるべくセレンの視線と高さを揃えながら、静かに言う。
「シュウから、もうひとつの伝言」
 ラダトへは、サウスウィンドゥ市に駐留させている軍の一部を差し向けた、と。報告は適時入っており、白狼軍の残党も最初の報告であったほど大人数ではないとの事。念のために国境警備の軍を増補強するものの、戦後の事も考えてなるべく、地元に根付いた警備軍だけで事態を収拾させたいとの事。
 同盟軍が勝利を収めたとしても、地方各地はやはり今まで通り、自分たちの身は自分たちで守るのが大前提になる。だから強いなにかに支えられ、庇護される環境に甘んじて慣れる事はさせられないとの、シュウの考えが訥々とルックの口から語られる。
 セレンはルックの言葉を黙って聞いていた。後方のフッチとサスケも同様に、口を閉ざし風が詠うように流れていくルックの声を聞いた。
 すべてを伝え終えたルックはひといきつき、それから濡れたセレンの髪に触れてその頭を一度だけ静かに撫でた。
「頭、冷めた?」
 手を離す瞬間呟いた彼の声に、セレンは静かに頷いた。
 今だけを見ているだけでは、ダメなのだ。もっと先まで見据えて、その場その場での解決策ばかりを追い掛けても、道はやがて塞がってしまう。広く、深く、時には厳しくしながらも長い目で見れば優しい手段で、最善の方法を考える。
 それが出来なくなっていたセレンを、シュウは遠回しに責めた。そして、立ち直るきっかけを与えてくれた。
 自分がまだまだ子供である事を思い知り、やるせなくなる。大人と呼べる存在には、自分はあまりにも遠く及ばない。
「誰も、君が悪いだとかバカだとかは言ったりしない。君の考えた事は、誰だって思うことだ。間違っていない、むしろ正しい事だろうね」
 ルックの声が風に融けていく。
「その気持ちを忘れない事だよ。あとは、これから君がどう動くか、だけど」
 どうする? とルックは真っ直ぐな瞳をセレンへと投げつけた。今度は逸らすことを許さない勢いを秘めている視線に、彼は顔を上げても迷いから抜けきれない様子で目線を泳がせた。
 彷徨わせた先に、サスケとフッチを見つける。彼らは笑って、そして力強くセレンに頷いて見せた。
「怒られる時は一緒に怒られてやっからよ」
「そうですよ、ひとりじゃないんですから」
 だから、戻ろう?
 ふたりからルックへと、セレンは振り返る。立ち上がっていた彼が差し伸べた手を、彼は逡巡の後しっかりと握りしめた。
「ゴメン……」
「謝るべきは僕じゃないだろう」
「うん。でも、ゴメン」
 セレンの手を引っ張り上げて立たせたルックの、つっけんどんな口調に相変わらずだと笑って、彼はもう一度改めて謝罪と礼の言葉を告げた。手を離したルックが、急に背中を向けて帰るぞ、と言う。
 フッチがその様子を見てクスクスと笑った。
「ルック?」
「シュウが会議を中断させて待っているんだ、他の連中も一緒に。今すぐに戻らないとあとでどうなっても知らないからな!」
 唐突に声を荒立てて叫んだルックにきょとんとしたセレンも、会議に参加しているメンバーに誰が居たかを思い出して慌てた。席上にはビクトールやフリックも居る、特にビクトールはなにかをやらかすと思ったら本当にやりかねないから、困る。
「でも、その前にやっぱり飯だろ、昼飯」
 ぐぅと鳴る腹を押さえたサスケが後ろで叫んだ。言われて、セレンもフッチも自分たちが朝食以後一滴の水も飲まずに居たことを思い出した。そうなると、もう空腹が湧き起こってきて収まらない。
 ルックが苛々したように頭をかき、「飯」を連呼するサスケを振り返って怒鳴った。
「五月蠅い!」
 その手に宿された真なる風の紋章がにわかに輝きを帯び始め、サスケが自分を取り巻く風の異様な動きに気付いた時には、もう。
 彼の姿は忽然とその場から消え失せていた。恐らく今頃、城の厨房に突然降って沸いて現れたサスケに、ハイ・ヨーをはじめとした食堂の人々は騒然とし、サスケ自身も何が起こったのか分からなくて面食らっている事だろう。
 残されたフッチが、自分の肌に触れた風に苦笑った。
「ルック」
 ゼーゼーと肩で息をしているルックを見上げ、セレンが彼を呼んだ。何だ、と不機嫌極まった顔をして振り返ったルックに、しかしセレンは強者の心臓でさらりと、にこやかな笑顔を浮かべて言った。
「ぼくも、お腹空いたかな?」
 ぴしっ、と。
 ルックの背後でなにかが音を立ててひび割れるのを聞き、フッチは更に苦笑いを深めた。腕の中のブライトが、窮屈そうに首を振る。
「セレン?」
「お腹空いたな、ルック」
 ね? と小首を傾げてお強請りをする姿は、辛かった幼少時に人から同情を得るために彼が独自に培った能力だろう。天然だけに、尚更厄介だ。
「あぁぁ……」 
 長い溜息をついてフッチは額を抑えた。しかしちゃっかり、自分も運んで貰うためにセレンの側に寄る事は忘れない。彼もこの三年間、各地を放浪して色々なことを学び、処世術も手に入れた。
 利用できるものは、なにがなんでも使い倒せ。
 にこやかに微笑むセレンと、苦笑しつつもちゃっかりご相伴に預かろうとしているフッチ。ふたりを見つめ、ルックの背後にはなにやら不穏な空気が渦巻いている。いっそデュナン湖の真上に落としてやろうかと、危ない思考に至りかけた彼だったが、思い直してやれやれと肩を竦めた。
 勝手にしろ、と鼻を鳴らして指を弾く。
 風が起こり、ふたりを包んだ。
 笑ったままルックに手を振った彼らの姿が消え失せる。ひとり残されたルックはだるさを訴える腕をだらんとぶら下げ、ざまあみろとばかりに薄く笑みを作った。
 その頃、レイクウィンドゥ城では。
 食堂の厨房に出現したサスケに続き、沸かしたてで熱々の風呂場にフッチとブライトが出現し、ほぼ同時刻に静まりかえった会議場に置いては。
 忽然とセレンがシュウの真上に降ってきて、椅子ごと見事に潰れた彼の上でセレンは暫く目を回し、会議は続行不可能としてそのまま終幕したという。