花影の露

 思いはいつもひとつだった
 願いはいつもひとつだった
 多くを求めたつもりはない
 多くを望んだつもりはない
 それなのに
 どうしていつも
 失うばかりなのだろう……

 ナナミが死んだ。
 ロックアックスは見逃しておけない重要な拠点だった。そこがいつまでもハイランドの手中にあるようなら、ラストエデン軍はいつまでもミューズ市を取り戻すことがかなわず、戦乱はいたずらに長期化して行くばかりだっただろう。だから、多少の無理・犠牲が出たとしても、立ち止まることは許されない。それはよく分かっていたはずなのに。
 こうなるかも知れないことは、予想がついていたのに。
 どうして、守れなかったのだろう。
 すぐそこにいたのに。手の届く場所にいたのに。
『泣いちゃ駄目』
 目尻に浮かぶ涙を指先で拭いながら、ナナミは弱々しく微笑んだ。
『約束したでしょ、泣かないって』
『ナナミ……』
 じゃあ、ずっと一緒にいるという約束は? 
 一緒に頑張ろうっていう約束は? 
 側にいてくれるって言ったのに! 
 ナナミが言ったのに!!
「ずるいよ……」
 約束を破るのはいつもナナミの方だった。今も、こんな風にひどい裏切りをしてくれた。それなのにまだ自分は約束を守ろうとしている。ナナミとの約束を守ろうとしている。
 仲間達は何も言わなかった。ただ静かに見つめている。セレンが平気かどうか、これからも戦えるのかどうか。
 何も言わない。それを優しさだと思っている。傷ついているからそっとして置いてあげようと、それが最良の心配りだと思っている。……馬鹿馬鹿しい。
 そんなものが欲しかったんじゃない。そんな事をして欲しかったんじゃない。
「ボクは大丈夫なのに」
 みんながそう思っていない。泣かないように、泣いてしまわないように気を使っているつもりかもしれないが、それは全部無駄なことなのだと知らない。知ろうともしない。何も言わないから、何も言ってこないから。
「ボクは泣かないのに……」
 彼女の遺骸はレイクウィンドゥ城の墓地に丁寧に埋葬された。本当はキャロの町にあるゲンカクの墓の隣に並べて眠らせてあげたかったが、戦時中でありあの町は今もハイランドの領地であるためにその儚い願いは叶わなかった。
 セレンは今、城の4階、ナナミが使っていた部屋にいた。
 使用者の性格を如実に物語る、片付けをしたという気配が微塵も感じられない部屋。床には着替えや体力作りのために使用する道具、本や紙、ペンが散乱していた。思い出してみればキャロで道場に暮らしていた頃も、食事の用意と部屋の掃除はいつもセレンがやっていた。ナナミがやるときれいな部屋が逆に汚くなってしまう。それはそれでひとつの才能だな、とゲンカクが下手に誉める(?)ものだから、調子に乗ったナナミが道場を廃墟のようにしてしまった事もあった。
 でもそれも、昔のこと。
 もうナナミがこの部屋に帰ってくることはない。寝場所がなくなったと叫んで5階のセレンの部屋に押し掛け、ベットから彼を蹴落とすこともない。ラストエデン軍のリーダーのセレンが、自分の部屋でありながら床で寝なくてはいけない日ももうやってこない。
「なんか、へんなの」
 まるでそこにナナミがいるような感じがするのに。今にも扉を蹴り飛ばして行儀悪く部屋に入ってきて、中で待っていたセレンを見つけると、「レディの部屋に無断で入ってくるなんて許すまじ!」と叫びさがらセレンを追い回してきそうなのに。
 帰ってこない。ナナミはもう、帰ってきてくれない。
 抱きしめてくれない。
 慰めてくれない。
 自分のかわりに泣いてもくれない。
 じゃあ、ボクが泣きたくなったとき誰がかわりに泣いてくれるの?
「ずるい。ナナミ、やっぱりナナミはずるいよ……」
 たくさんのものを望んでいなかったのに、本当に守りたかったものがこの手から滑り落ちていってしまった。戦う理由が消えてしまった。もうセレンが戦う理由なんてどこにもない。守りたかったものを守れないで、どうして見たこともない人のために戦えるというのだろう。
「どうして、先に逝ってしまったの……」
 苦しい。
 助けて。
 誰か、誰でもいい。この苦しさを悲しさを取り除いて。
 このままじゃ全部駄目になる。戦えなくなる、何もかもがどうでもいい。この世界が砕けても、ナナミのいない世界なんて欲しくない。
「うっ…………」
 こみ上げる涙、必死で押し戻そうとする心。
 約束なのに、絶対に破っちゃいけないと、ずっと心に刻みつけてきたのに。
 壁際のサイドテ-ブルの引き出しを引きあけたとき、セレンの涙は頬を伝い、床ではじけた。

「…………ここにいたね」
 まるで過ぎ去る風が残していったささやきに似た響きに、しかしセレンは顔を上げることは出来なかった。
 そこに誰が立っているのか、みなくても分かる。一緒にロックアックスで戦い、いつもなら用事が済めばその足でグレックミンスターに帰ってしまっていた人。セレンのあこがれの存在であり、目標でもあった人。
「どうして」
「…………」
「どうしてここにいるんですか」
ここは彼の戦うべき場所ではない。しかしセレンは彼といることで安らぎを手に入れていた。自分と似た境遇にあることや、本来望んでいなかった戦いに身を投じなくてはならなかった、そして多くを失っても決して諦めなかった強さを持っているから。自分にはないたくさんのものを持っているから、側にいればいつか自分もああなれるのではと思った。だから巻き込んで、一緒に戦ってもらっていた。甘えていると自分でも分かっていたが、彼は何も言わなかったし。
 でも、ここにいるなんて思っていなかった。こんな所をみられるとは思っていなくて、セレンの声は自然と荒々しくなっていた。
「あなたも他の人と同じ、ボクを憐れみに来たんですか!」
 責めるような言葉に、言ってしまってからセレンははっとなった。
 震える手で引き出しを支え、ひどくゆっくりと顔を上向かせる。
 すぐ近くに、整ったラスティスの顔。だがそこに宿る双眸の彩は、哀れみでもなくましてや同情なんてものではなく。ただ言い表しようのないひどく悲しげで切ない、セレンの今の瞳と同じ影を抱いていた。
「……どうして……」
 そんな目で見ないで。惨めにさせないで、思い出させないで。
 まるで鏡がそこにあるみたいだ。
「同じだったから」
 君と、と呟きラスティスはセレンが持つ引き出しに目を向けた。
 その中に入っているのは、小さい子が使うおもちゃだったり、使い道のないがらくただったり、本当にどうでもいいくだらないものばかりだった。それらが所狭しとぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
 たくさんのがらくた。そしてその数だけの、たくさんの想い出。
「ナナミがこっそり持ってきてたんです。危ないって……言っておいたのに……」
 自分に黙ってひとりでキャロに帰っていたのだろう。そして少しずつ、思い出の品をレイクウィンドゥに持ち帰っていた。もしかしたら彼女は気付いていたのかも知れない。セレンが、ナナミと一緒にキャロに帰ることが出来ないことを。
「なんで、教えてくれなかったんだろう……ずるいよ、ナナミばっかり」
 ぎゅっと胸元を握りしめ、その下にあるものを手の中で感じながらセレンは俯いた。また涙がこぼれそうになる。でも、駄目だ。絶対に人前じゃ泣かない。
「僕もね……大切な人がいなくなってしまったんだ」
 すぐ、壁ひとつへ立てた先にいたのに。遺される方の気持ちも考えず、守るためだけに自分を簡単に投げ出してくれた。何も残らなかった、見届けてもやれなかった。そう呟くラスティスを、セレンは見上げた。
「君と同じだったよ、みんな……僕以上に沈痛な顔をして廊下に並んでるんだ」
 でもラスティスは誰とも言葉を交わさなかった。そんなことをして自分をいじめるような真似だけはしたくなかった。
「悲しく……なかったんですか……」
「悲しかったよ、ものすごく」
 でも、とラスティスは小さく微笑んだ。
「みんなが悲しんだのは、グレミオを失った僕だった。僕は僕を悲しんだりしない。でも、僕はグレミオを失ったわけじゃないって気付いた」
 よく分からない、とセレンは瞼を閉じて唇を噛んだ。その姿にかつての自分自身を重ねたのか、ラスティスが苦笑する。
「いつか君にも分かるときが来る。答えは君が見つけるんだ。こればかりは僕でも教えて上げられないから」
 心の問題はその人でしか解決できない。ヒントや助言は与えられるかもしれないが、答えそのものを伝えることは難しく、心を共有させる出もしなければ不可能だろう。
『セスをひとりぼっちになんてしないから。何があってもお姉ちゃんだけはセスの味方だから』
 裏切らないで、置いていかないで。
「ナナミ……」
 花に刻んだ約束。忘れないために、セレンはよくあの場所に行った。時にひとりで、時にふたりで。あそこは本当に、ふたりきりの秘密の場所になっていた。誰も来ない、誰にも知られないセレンの心を揺るがないものにさせるために必要だった儀式の地。
『ねえ、セス…………』
 すぐ近くで声がした。
『私が死んじゃったら、そしてキャロに帰れなかったら……私をここに沈めて』
 風にさらわれていったナナミの言葉が、今ようやくセレンの元に返ってきた。
 誰よりも優しかったから、誰よりも強かったから。セレンはナナミが大好きだった。大事だった。ナナミはセレンの絶対だった。
「ラスさん。お願い、聞いて貰えませんか」
 だからナナミとの約束は何が何でも守りたい。けど、ナナミだって約束を破っているし、ひとつくらい破っても許してくれるかな? そのかわり、他の約束はちゃんと守るから。
「なにかな」
 皆寝静まった夜。よく見張りの目を盗んでこっそり城を抜け出したりもした。誰にも見付かったことがなかったし、見付かったとしても今夜なら誰も文句は言わないだろうし、咎めたりしないだろう。
「一緒に来てくれませんか」
 約束を守るために、破らないために。それを見届けてくれる人が今のセレンには必要だった。
「どこに?」
「ナナミとの約束を果たしに行くんです。でも、誰にも言わないって約束してくれますか?」
 何だかよく分からなかったが、ラスティスは頷いた。
「ありがとうございます」
 ぺこり、とセレンは頭を下げた。

 引き出しを元に戻し、床に転がるものを蹴ってしまわないように細心の注意を払ってセレンとラスティスはナナミの部屋を出た。この部屋は以後使われることはない。掃除されることはあるだろうが、片付けられることもない。今のまま、変わらないまま残されるのだ。
 それがこの城に暮らす者達の心配りだった。今までと同じように、いなくなった人を忘れないように。いつ帰ってきても大丈夫なように昔のまま変わらないように残しておく。居るときと変わらない形で。
 セレンはラスティスを連れ、階段を登り自分の部屋へと向かった。まさかここに来て寝るつもり……? と一瞬勘ぐってしまったラスティスだったが、すぐに違うことに気付いた。このまま素直に下の階に向かえば、すぐに見張りに発見されてしまう。そうならないためにはまず、見張りが絶対にいない場所を行くことだ。そしてセレンの部屋の窓を開けると、すぐそこは屋根。
「…………」
 ちょっぴり絶句のラスティスをよそに、セレンは慣れた手つきで窓をくぐるとジャンプして屋根に飛び乗る。早く来いと手招きされて、生まれてこの方そんな行儀の悪いことをしたことがなかったラスティスは頭を掻いた。この姿、グレミオがみたら気絶するかも……と。
 だが一緒に行くと言ってしまった手前、引っ込みが付かないのも事実で仕方がなくラスティスはセレンに倣って窓枠に足をかけ、屋根に飛び降りた。だが。
「わっ!」
 思っていたよりも窓から屋根までの高さがある。しかも滑ってしまい、危うく落ちるところをセレンに腕を掴まれて支えられた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
 何事もなく簡単そうにセレンがやってのけるから、自分も出来ると思ったのがまずかったらしい。今のをグレミオがみたら卒倒していたかも。
「こっちです、早く行きましょう」
 城の東側、闇濃き林を指さしたセレンにそこまでの経路をざっと説明され、ラスティスは頭がくらくらしてきた。目的地に着くまでに五体満足でいられるだろうか……と本気で心配してしまう。たとえソウルイーターの継承者であっても、こういう事態には対応してくれないのだから。
 さらにこの暗闇。足下さえおぼつかない中をセレンに助けられながら部屋を抜け出したラスティスは、幸いなことに大した怪我もなくまた誰にも発見されることなくレイクウィンドゥ城を出ることに成功した。だが息は切れ、普段使わない神経をすり減らしてかなり疲れていた。
「……大丈夫ですか?」
 これで何度目か分からない同じ事を聞かれ、ラスティスはかろうじて頷くだけの返事をした。
 しかし城を抜けてしまえば、ラスティスが不慣れな忍者のような動きも必要なくなり、足下にさえ気を付けていれば問題ない林の中。セレンの背中を見失わないように走っていれば、やがて前触れもなく樹木の道が途切れ視界が広がった。
 月に照らし出され、大地に根を張り懸命に葉を広げる花々の影が足下を覆い尽くしている。風が吹く度にいっぱいに膨らんだつぼみが揺れ、夜に咲く花は見事に闇の中で花弁を広げ月の下その姿をさらしている。
「ここは……」
 今まで見たことのない、あまりにも奇異で不思議な光景。天界の楽園の一部がそのまま地上に落ちてきたのかと思わせるほどの、あざやかで美しい花園。
「ここが、ボクとナナミの秘密の場所です」
 花畑のちょうど中央に立ち、セレンが月をバックに告げた。
「そして、ここにナナミが居るんです」
 彼女が望んだ、最期に眠る場所。
 しかしラスティスは首をひねりそうになった。確かナナミはすでにレイクウィンドゥ城に埋葬されてしまっている。ここがナナミの好きだった場所なら、魂がここに還ってくると思うのは自由だが……。
 そんな風に考えるラスティスの前で、セレンは自分の懐に手を入れた。取り出したのは、白い布に包まれた手のひらにすっぽり納まってしまうもの。中身は分からない。
「約束、果たすよ。ナナミ……」
 湖からは絶え間なく風がながれてくる。この風に乗り、様々な地方から花の種が飛んでくるのだろう。ならば、世界を旅した魂が還ってくるのも、この場所が相応しいのか。
 ゆっくりとした動きで、セレンは左手に載せた布を解いていく。そこにおさめられていたものは、黒い糸切れの束だった。
「それは……まさか」
 ラスティスは気付いた。セレンが寂しげに微笑み、彼を見返す。
 それは髪だった。
「これだけになっちゃったけど……ナナミ、今君の願い、叶えるから……」
 両手で布を頭上に掲げ、風が運ぶに任せセレンはナナミの髪を空に放った。
 花々が揺れる。新たな仲間を歓迎しているのか、花影は静かに彼女の髪を受け入れていった。
「セレン、君は……」
「泣きません、ボクは。ナナミが許してくれるまで、ボクはもう、泣かない……」
 でも、と彼は続けた。闇夜の中で、セレンの瞳だけが異質なもののようにきらめいている。
「もしボクが駄目になったら……本当にボクが駄目になってしまったら……ラスさん。その時は、お願いできますか…………」
 それがいつになるかは分からない。しかし、確実にセレンは狂っていく。ナナミを失ったことで、……いや、そのずっと前から、セレンの意識は現実に生きる者達とずれ始めていたのかもしれない。
「……分かった……」
 それはラスティスにとっても辛い決断だった。
「……ごめんなさい……」
 静かに頷いたラスティスにセレンはまた頭を下げる。
 彼を見つめながら、ラスティスはやはりここに来るべきではなかったのかも知れないと後悔していた。まるでもうひとりの自分を見ているような気分だった。もし……グレミオがよみがえっていなければ……こうなっていたのは自分の方だったかもしれないのだから。

 失うものなど何もなかった
 手に入れるものさえもなかった
 求めるものはすでになく
 二度とこの手に還ることはない
 切ない 哀しい 苦しい
 いくら探しても君はもういない

 花は今年も咲き乱れる
 君の大好きだった花が
 今年もまたきれいに咲きました
 でも見てくれる人はもういません
 喜んでくれる君がどこにもいない

 君はずるい
 いつもボクばかりが損をする
 ボクばかりが苦労する
 だから、そろそろ
 ボクは休んでいいのかな……?