鬼哭

 大地は血に濡れてどこまでも赤く。
 空は嘆きに埋もれどこまでも暗い。
 失われたる平穏と、奪われたる楽園は今、果たして何処にか在らん。
 捜し求めることはもはや無意味なのか。失われたものを取り戻すことは叶わないのか。
 救い主を求める無数の手を逃れて荒野を駆け巡り、無情なる天に向けて咆哮に似た叫び声をあげたところで、いったい誰の耳にその声は届くのだろう。
 忘れがたき願いと、忘れたくない想いが胸のうちにある間は平気だと信じてきた過去が愚かに思えてならない。一体どこで間違えたのか、それすらも分からないまま夜は耽けていく。
 救いたかったものは何。
 守りたかったものは何。
 確かにあの闘いの中で自分達は掛け替えのない何かを手に入れただろう。しかし、同時に失うものも多すぎたから。悔やまずにいられない。もっと力が有ったのなら、と。
 そう、自分達には力があった。使うことを許された、天に与えられた無比の力が有ったはずだ。なのに今、この手の中に有るのは虚無に似た寒さを訴えてくる心だけで、それすらも指の間からさらさらと、砂が零れ落ちるように流れ出て消えてしまう。
 何も残りはしないのだと気づいたときには、もう手後れだった。取り戻そうと足掻いた報いだけはきっちりと罰として与えられて。
 なにも残りはしなかった。
 虚無だけが心を流れて行く。
 静かに、しんしんと。
 雪が降るように心は白に包まれて。
 もうなにも見えない――

 古い伝承。
 ただの噂、けれど長く伝えられた物語。
 大きな谷。年中霧に包まれた山奥深く。風が吹き付けて不気味な音が響くその谷は、遠い時代から人々の口でこう語られてきた。
 あの音は風の音などではない。そうであろう、あれほどに腹の奥に響く薄気味悪い声が風であるはずがない。
 しからばあの音は何か。
 合いの手を返す口がこう告げる。あれは鬼の声だと。
 死して死にきれなかった生者が現世に未練を持って嘆いている声なのだと。
 人の命は魂魄。魂は死して後天に帰るが、魄は肉体に残るという。魄が陰の気の地に埋められると鬼になる。鬼は死者、あの声は鬼の声。
 鬼が哭く声。
 故にか、いつ頃からかこの谷は死者の世界と繋がっていると言われるようになった。嘆きの死者に逢える谷だと、人は口々に噂した。
 どうしても別れがたい人と死に別れた人は、再び相手と見えようと願って谷を目指した。
 そして誰一人として谷を行った人は帰ってこなかった。
 だからこの谷には二つの名前がある。
 霧深い鬼の哭く死者の還る谷。そして、生者を食らう凍りの谷。
 その谷を目指し、今日もまた人影が静かに歩んでいた。
 まだ年若く、華奢な体躯の少年である。とても死んだ人間に縛られている風には見えない年格好だ。
 荷物は何一つ持っていない。否、おそらく山に入った頃にはまだ食料も水も十分なだけ持っていたに違いない。しかし現在の彼には、それらのものが失われている。
 よろよろと頼りのない足取りは如実に疲れを物語っている。しかし少年は虚ろな瞳ながら足を止めようとはせず、もはや義務と化した歩みを繰り返している。
 一歩一歩、前へ、前へ。
 汗は涼しい風が浚っていく。薄汚れた衣服は所々摺り切れており、汗が結晶化した塩がこびりついていた。
「はぁっ、はぁっ」
 喉が渇く。最後の食料を口にしてから、はたしてどれほど時間が経過したのであろう。太陽の光も届かない霧がかった谷の奥底を目指した時から、二度と国には戻らないことは覚悟してきたけれど。
 目的の場所に辿り着けないまま自分が死んでいくのだけは避けたかった。
 だから、もはや棒となり、痛覚も何もかもが失われて久しい足にむち打ってこうして歩き続けている。
 口内に堪った唾を飲み下し、少年は激しく咳をしてその場にしゃがみ込んだ。血が、押さえた手のひらに滲んで、惨めな自分を見せつけている。
 あれから、あの日からどれだけ年月が経過したのか。無理と苦痛に耐えてきたこの肉体は、自然の法則を歪めて保たれた若さにも限界を受け止めようとしていた。
 それは報いだと少年は感じた。
 ただ一人だけ生き残った罪、償いきれなかった大きすぎた罪への、償い。
 だからこれは仕方のないことなのだ。罪は甘んじて受けよう、どれほどの痛みとなろうとも。
 けれど、ひとつだけ。悔いが残るとしたら君のこと。
 もう一度、一瞬だけでいい、君に会えるのなら。
 民間のたわいもない伝承でしかないとしても、それに縋るのは自分の弱さだと認める。けれど、どうしても、君に会いたい。
 許されるなら、もう一度だけ君に。
「ジョウイ……」
 唇を濡らす血を拭い、少年は立ち上がった。荒い息を吐き、震える膝を叱咤して前をまっすぐに見据える。この霧の向こうに、目指す場所があると信じて。
 ゆっくりと歩き出す。
 背後を風が吹き抜けた。静かだが、重い風だった。
 そしてやがて、少年は目の前に開けた河原のような場所に出会う。
「ここは…………」
 呆然として、少年は足を止め呟いた。
 河原、という表現は正しくあって間違っている。そこは今まで彼が歩んできた道と同じく、大小の石が転がる荒れ地だった。しかし異なるのは、その場所が道の幅を五倍した広さを持っていることと、奥行きも先を見ることが出来ないほどにある、ということ、だ。
 霧がまだ周囲を包んでいる。視界は至極悪い。しかしその白くぼやけた世界の中に、幾重にも積み重ねられた石の塔が見えた。
 賽の河原を思い起こさせるその塔は、よく見ればひとつきりではない。ふたつ、みっつ、……数え切れない程の石積みの小さな塔が、まるで墓石のように並んでいる。
「ここが、…………鬼哭の谷…………?」
 自失呆然のまま声に出して呟いた少年は、はたして右手前方の霧の中に己のものではない人影を見た。
 白く濁った世界。夢と現実が入り乱れる、虚ろな空間。だからこそ、人はこの地を現世と死者の国とが交じる場所だと感じたのかもしれない。
「ジョウイ……」
 遠き時代に己の手で命を奪ったはずの親友の名を、彼は無意識のうちに口に出していた。
 そんなはずがないと、心のどこか冷静な部分が警鐘を鳴らす。しかし理性で制しきれない感情が、渦を巻いて少年の心を支配した。
「ジョウイ!」
 すべては、彼に会うために。
 それだけのための旅だったのだから。
 嘘であっても良い、彼に会って、もう一度だけ、君と…………
 視界が歪む。霧が少年を包み込む。何もかもがこの中に消えてしまう、そんな感覚が大地を支配している。
 なのに。
「ジョウ…………っ!!」
 あとほんの数センチ、という距離で少年は突然、背後から自分のものではない力によって後方に思い切り引き戻された。
 風が吹き、不気味な音が周囲を響きわたる。
 霧が、流れた。
 ジョウイのものに見えた影も、同時に掻き消える。
 なるほど、確かに鬼が泣くような音だったと、ぽとん、と落ちた涙が笑った。
「ジョウイ、待ってジョウイ!」
 もう見えない人影に向かって必死になって手を伸ばし掴もうとするけれど、どこにもいない相手を求める事の空虚さはこの数百年間で痛いくらいに感じてきたはずだ。幻を見ることだって、今まで何度だってあったのに。
 今は、あれが幻などではないと信じている。
「ジョウイ!!」
 人影の見えた場所に再度走りだそうとした少年を、また後ろから伸ばされた力が拘束する。今度は腕を引くだけでなく、二本の腕でがっちりと身を捕まれた。
「放して、放せ! ジョウイが、ジョウイがいたんだ!!」
 疲れ切っていたはずの肉体のどこにこれだけの力が残っていたのかと呆れるほどに、少年は見知らぬ力の拘束の中で必死に抵抗した。けれどやはり、限界は近かった。程なくして空腹と疲れと眠気に同時に襲われた少年はぐったりとし、膝を崩して倒れ込んでしまった。
 叫び疲れたのだろう、もう声も出ない。
「………………」
 指先さえ動かすこともできなくなった少年を確認して、それまで彼を縛り付けていた力は消え失せた。ずるずると崩れていく少年の肉体にそっと手を伸ばして支えてやりながら、ふたつの黒い瞳は悲しげに揺らめく。
 視線を足下に移せば、少年が暴れたときに崩れたらしい石の塔の残骸が山になっていた。
「君には、ここに来て欲しくなかったんだけれどね…………」
 少年を抱き上げた力の主の声が、霧の中に消えて行った。
 その口調のどこかに、聞き覚えのあるものを感じ取り少年は慌てて顔を上げ、振り返る。しかし既に立ちこめていた霧によって視界は閉ざされ、声の主の気配すらつかみ取ることが出来なかった。
「今のは……」
 涸れた喉は声を発することもままにならない状態だった、かろうじて音となった空気は呆然と立ちつくす少年の耳に外側から刻み込まれた。
 遠い記憶、かつて少年は何度もあの声を聞いたはずだった。
 しかし、もしそれが彼の記憶する中にある人物のものだとしたら、通常あり得ない現実となる。何故なら、少年が知る記憶の中の声の主と出会ったのは今から果てしなく遠い昔の事。そう、幾重にも重ねられた歴史が示す、過去の遺物として語られることも少なくなった、古すぎる時の出来事だったから。
 片手の指の本数に、百を足してもなお足りないかもしれない程の、昔。最近では思い出すことも殆ど無くなった懐かしく、暖かかった時代の記憶だ。
 忘れていた現実がよみがえってくる。郷愁が胸をよぎり、何とも表現し難い感情が交錯する。けれど涙は流れなかった。すでに枯れ尽くしている涙腺は干涸らび、赤い血だけに満たされている。
 痛みさえ、今は遠い。
「……待って!!」
 叫びは天を裂く。
 勢いに余り足に引っかけた石が転がって、その上に枯れ草のように細い少年の肉体が崩れ落ちた。膝を折って身を翻し頭を庇いながら地に伏せる――そんな動作を心に描いたとて、油の切れたブリキのおもちゃにも劣る痩せ衰えた躯体となった今の少年では、実際にそれを実行することは甚だ難しい。
 石の角に打ち付けた皮膚が裂け、うっすらと紅色の血が滲み出る。
 悔しさが何より先に出た。なぜ、と。
 与えられた時間は無限のはずだった。本来、このような事態が訪れるはずはなかった。それなのに、この有様は。
 誰かが囁いていた。それは爾が滅びを望みしが為――――
 終わりを求めているというのか。始まりを告げる紋章をこの身に宿しておきながら、滅びというなの終焉を欲しているというのか。
 愚かな。
 言葉を一蹴してその場から足早に立ち去りはしたものの、では何故心が痛むのか。その身が震えるのか。涙が止まらないのか。
「待って、…………ラスティスさん!!」
 己と同じ、魂を束縛する呪いを受けた青年の名前を呼ぶ。それは確信めいた傲慢な思いこみだったのかも知れない。だが、少年は確かに知っていた。今彼を夢の谷間から現実に引き戻した人物が、遠い昔に別れたきり行方も知れぬ存在であったかつての英雄であることを。
「ラスティスさん!」
 もう一度、立ちこめる霧の世界に向かって。
 大地に膝をつき両腕も岩だらけの地表に置き去りにして、それでも尚、彼は虚空に向けて悲鳴にも似た叫びを続ける。
 助けて、とも言えない。ただ姿を見せて欲しかった。安心したかったのかもしれない、今の彼が自分と同じような惨めな姿をさらしていればいいと。この苦しみを味わってきた同胞として、迎え入れてくれることを夢見て。
 そして、惨めなのが自分だけではなかったことを知り、自分と彼を比較して、彼を嘲笑い己の慰めとするために。
 そんなことのために、彼は一度は心通わせて肩を並べ戦った相手を、求めた。
 落ち窪んだ瞳が映し出す世界はとても狭く、暗い。
「いずれ、こんな時が来るだろう事は予想していたけれど……いざ現実のものとなると、哀しいものだね」
 寂しげな声がこだまする。顔を上げた先には、いくつもの石の塔。濃い霧に映し出される影は徐々に大きくなり、やがて白い背景を割って青年が姿を見せた。
 記憶の中の人物と何一つ変わっていない、青年がそこにいた。
「久しぶりだね、セレン」
 数百年ぶりの再会は、静かに果たされた。

 鬼が哭く
 死者の声が響き渡る
 恨めしい、憎らしいと
 今を生きる者たちを呪っている
 だから彼はそこにいる
 ただ静かに
 死者を宥め、生者を生かすために

「ここの霧は、ほら、太陽の光を背に受けた本人の影を映し出すんだ」
 ラスティスは告げる。
 この谷に死者が還るのは迷信だと。
 霧に映った影と、谷間を抜ける風の音に驚いた旅人が作り出した、ただのおとぎ話でしかないのだと。
 だが迷信と知っていても、時として人はそれにすがろうとする。今まで、多くの生ける人がこの谷を訪れ、己の影を死者と思い違いし、追いかけ、そのまま谷底に落ちて命を落としていた。
 谷を目指した人間が何故揃って戻ってこなかったのか。多くはこの霧に道を失い、そして霧の影に惑わされてそうと知らず、死の道を走り抜けていったのだ。
 ラスティスはそんな光景をずっと見ていた。そして可能な限り、影に死者を追い求める人々を止めに走っていた。
 それでも止められなかった人のために。道に迷わぬように彼は石を積み上げて塔を作る。小さな塔に、小さな願いを一つだけ。せめてあの人が来世で幸福な日々を送ることが出来ますように。
 慰めにもならない自己満足でしかないだろうけれど、何も出来ない自分の不甲斐なさを思い知りながら、彼は今日も塔を作る。
「命は、棄てるためにあるのではない」
 ぽつりと呟いた彼の瞳に、力無く蹲り己を見上げている小さな少年が映る。いや、年齢的にはとうの昔に少年という時代は過ぎ去っていただろう。しかしだとしても、目の前にいるこの人物を、少年以外の呼び方で表現する手段を、ラスティスは持ち得ていなかった。
「判っています」
 声は涙に濡れる。
 既に枯れ果てたはずの水が彼の頬を濡らしている。
「判ってます。けど……それでも! 貴方にならボクの気持ちが分かるはずですっ!」
 同じ生き方をしてきたはずだ。年をとることのない肉体と、反対に朽ちていく精神を抱えて、ただひとりきり。この大地で生きてきた。
「ラスティスさん!」
 この人であれば理解してもらえると思っていた。それなのに彼は、セレンに死ぬことを許してくれない。
 唇を噛みしめ、声を殺して泣く少年を見下ろしてラスティスは寂しげな表情を作り出す。
 どう言えばいいのか、何を告げても彼には救いにはならないのだろうけれど。
「そうだね……」
 結局選ばれた言葉はそんな曖昧な同調で。
「けれど僕は、もう目の前で誰にも死んで欲しくない」
 続けられたことばは、セレンを突き放すものにしかなれない。
 セレンは大地の石を握りしめた。天を睨み、ラスティスを見据える瞳は怒りにも似た感情が宿っている。それは行き場を失った悲しみの欠片。
「親友だったんです!」
 血を吐くような想いで、言葉を紡ぐ。
「大切だったんです。失いたくなんか、なかった……なのにボクは、彼を…………ジョウイを、この手で!」
 握りしめられた拳を広げれば、そこには大勢の人の血で染まった鮮やかな、朱。
 罪の色。
「この手で、ボクはジョウイを……」
 それは本当に必要なことだったのか?
 あれから幾度と泣く繰り返された自問には答えなど無くて、ただ空しさだけが心の中を埋め尽くしていった。
 彼はもう居ないのだと、なにかが耳元で呟いている。彼を殺した罪を糾弾する。
 オマエガシネバヨカッタノダ、と。
 建国の英雄などと呼ばれるたびに、あの戦争で死んでいった幾多の人々の顔が視界を埋め尽くした。彼らはこちらをじっと見つめたまま何も語ろうとはしない。暗い双眸を闇に残して、無言のまま彼の罪を責め続けている。
 悪夢は、消えることがない。
「ジョウイが冷たくなっていくことを、ボクは止めることが出来なかった。ボクにはその力があったのに、彼を助けようとしなかった。ボクは、こんな気持ちになるために戦っていたわけじゃないのに!」
 誰だって幸せな未来を夢見て今を生きている。それが裏切られたとき、果たして人は素直にそれまでの自分を許すことが出来るのだろうか?
 全ての罪、数多の命を受け入れるほどに、彼は強くなかった。彼は幼すぎた。純粋すぎた。英雄と呼ぶにはあまりにも、弱すぎた。
「僕にも親友が居た」
 ふいに風が起こる。霧が広がる。視界の全てを包み込み、白に染め上げようとして。
「彼は三百年という時をたった一人で彷徨っていた。僕は彼が大好きで、大切だった」
 けれど今なら思う。彼は本当に、ラスティスが彼のことを思うのと同じくらい、ラスティスのことが好きだったのだろうか、と。
「何も知らなかった僕は、ただ無邪気で、彼の前で平然と彼には失われて久しい家族と共に過ごしていた。僕は……知らなかったとはいえ、彼にとても酷いことをしていた」
 右手に宿る紋章、ソウルイーター。そして始まりの紋章。
「だから僕は、彼が遺していったこの生命が今では、彼に対しての僕なりの罪滅ぼしなのだと気づいている」
 託された想いを実現し、果たして、残されたものはそれくらいしか思いつかなかった。
「だから僕はここにいる」
 鬼――死者の哭く谷。
「ここに死者はいない。けれど切に求めてきた人には、己の影を求める死者の姿と錯覚する。哭いている者が居るのだとしたら……それはこの地で死んだ多くの哀しい人々の魂だろう」
 だからこそ、もう誰にも死んで欲しくないと言う我が儘が彼をこの谷に足止めしている。
「だけど、ボクは……」
 嗚咽を漏らし、セレンが泣く。
 風が吹く。霧が散る。
 死者の哭く声がする。生ける者を憎み、恨む声がする。
 その全てを幻と片付けるにはあまりにもリアルすぎて、跪く少年は唇を噛んだ。血が一滴、大地に染みこみ融けていく。
「ボクはただ、ジョウイにもう一度会いたかった……っ!」
 会えたとして、話すことなどあるのか。許しを請うこと以外にどんな声が出ようか。
 少年の咽び泣く声が谷を響き渡る。返すものは、なにもない――――