粉雪

 その日は真夜中から冷え込んでいた。
 湖に面し、常に北側から風が吹き続けるレイクウィンドゥ城は、温暖な気候のサウスウィンドゥ市にある。だから朝、普段よりもずっと冷たい空気に震えて目覚めた城の勇士達は窓の外の光景を見てさらに震え上がったことだろう。
 雪が、舞っていたのだ。
 はらはらと、切ない感じを身に纏いながら、小さな雪の結晶は空から地上へと舞い降りている。
「雪だー、雪だぞー!」
 コボルトのゲンゲンとガボチャが、鼻をひくひくさせて城の庭を走り回っている。その中にキニスンの愛犬シロも混じっている辺りが何ともほほえましいが、寒さになれていない南方の出身者達は、彼らのはしゃぐ様を見る余裕さえなかった。
「セス! 雪、雪が降ってる!」
 だが、中には雪降る寒さに慣れている者もいる。
「知ってるよ、ナナミ。おはよう」
 ねぼすけで有名なラストエデン軍のリーダーである義弟を起こしに、大声で叫びながら走り込んできたナナミだったが、すでにベット脇に立ち、着替えも完了していたセレンの姿を見てがっくりと肩を落とす。
「なーんだ。つまんないの。折角びっくりさせてやろうって思ってたのに」
「ごめん」
 レイクウィンドゥ城の最上階に位置するこの部屋からも、雪降る空の光景はよく見える。あまりの冷え込みにいつもより早く目が覚めたセレンは、しかしナナミと同じように、この冬の空を懐かしく思った。
 彼らの育ったキャロの町は、山に囲まれた高地にある。夏でも涼しいためハイランドの貴族達の避暑地として有名で、それが町の重要な収入源でもあるわけだが、冬になると一転して厳しい寒さと降り積もる雪で、観光どころか旅の行商人さえ近づきたがらない町に変わってしまう。昼間でもどんよりとした雲が上空を覆い、絶え間なく雪が降り続ける。そんな町で彼らは育ったのだ。
「ねえねえ、積もるかな」
「うーん、どうかなぁ」
 湖の湖畔に降る雪は、地面に触れるとその瞬間にひやり、と地面の熱で溶けてしまう。かなり前から降っているような感じだが、いまだ積もる気配は見られない。
 いつもよりも少し厚手の服装で部屋を出て、エレベーターで二階へ下りる。朝食を取ろうとレストランへ向かうが、その間にすれ違う人は皆、寒そうに身を縮こまらせていた。
「いらっしゃいませー!」
 いつもの明るい声も、どこか寒そうだ。
 レストランは相変わらず混んでいたが、幸いにも壁際のテーブルがあいていた。ぐるりとレストラン全体を見回すと、やはりみんな寒いからか、温かいシチューを注文している人が多い。湯気がレストランの天井まで漂い、熱気で他の部屋よりもいくらか気温が上がっている感じがする。
「何にする?」
「やっぱりシチューかなあ。グレミオさんのシチューに決まりだよ、すっごくおいしいもん」
 最初のオープンしたての頃よりもかなり増えたメニューを眺めながら、ナナミが思い出しながら言う。
 今はグレックミンスターにいる、トラン共和国建国の英雄の付き人ののグレミオがくれた、特製シチューのレシピは、特にこんな寒い日には役に立つ。ただ、セレンにしてみれば、いくら寒いからと言って朝から胃に重いシチューはどうか、と思うのだが。あえてそれは言わないでおいた。
「じゃあ、ナナミは特製シチューでいいね。ボクは、そうだなあ……」
 注文をそれぞれに決め、テーブルに料理が来るまでしばらく待つ。今日は誰もテラスで食べようという者はいないようで、窓も閉め切られている。まだ雪は降り続いているが、目覚めた頃より少しだけ、勢いがなくなってきている気がした。
「うー、寒い寒い」
 震えた声がして振り返ると、そこには南方出身の代表格とも言える、アマダが立っていた。
「寒そうだね、アマダさん」
「ええ? そりゃあ、そうさ。雪が降るなんて、聞いてないって」
「もしかして、雪を見るの、初めて?」
 ナナミの問いかけに、アマダはぶんぶんと大きく首を縦に振った。
「俺っちの生まれた村じゃ、雪でも降って見ろ。村中総出で大騒ぎになっちまう」
 サウスウィンドゥ市でも、雪が降ること自体珍しい。湖を越えた先のミューズ市だとどうかは分からないが。それが群島諸国にでもなったら、雪どころか冬があるのかさえ、疑わしい。
「そうなんだ。じゃ、他にも雪は初めての人、いるかもね」
 運ばれてきたシチューを早速胃に収めながら、ナナミが嬉しそうに言った。
 雪はまだ、やみそうにない。
 朝食を終え、テーブルを次の人に明け渡したセレンとナナミは、一階に下りて酒場へと向かった。食堂に入りきらなかった人が、せめてもの暖を求めて朝っぱらから酒を仰いでいると聞いたからだ。
「あれ? セレンじゃないか。どうしたんだい?」
 倉庫の前を曲がり、城の中から酒場に入ったふたりを見つけて先に声をかけたのは、旅芸人一座の一員であるアイリだった。横にはリィナの姿も見える。
「ボルガンは?」
「あいつは、雪が珍しいからって外にいるよ。風邪を引くから止めておけって言ったんだけどね。聞かなくて」
 もうひとりの旅芸人の姿はなく、アイリの言うには、酒場の外でゲンゲン達と一緒にはしゃいでいるそうだ。念のためにコートを着せたらしいが、あまり効果はないかもしれないと、アイリはひたすらにぼやいている。
 酒場は暖炉に火が入って、暖かい。何も酒を飲んでいる人ばかりではなく、朝食代わりに軽いつまみを口に運んでいる人もいた。アイリもそのひとりだったが、リィナの前には酒の入ったグラスが置かれていた。
「暖まるにはこれが一番ですから」
 悪びれもせずに微笑む彼女に、アイリがため息をこぼす。
「ふたりも、やっぱり雪は珍しいの?」
 わくわくと言った雰囲気でナナミが椅子を引き寄せて腰掛け、ふたりに尋ねる。ちゃっかりアイリのつまみに手を出して。
「ああ、初めてじゃないけどね」
「そっか。いろんな所を回ってるもんね」
「でも、好きじゃないな」
 ボソッと言ったアイリに、ナナミが怪訝な顔をする。雪国とも言える町で育った彼女には、雪は確かに放って置いたら屋根を押しつぶす厄介者だが、遊ぶものの少ない冬場では、大事なおもちゃでもあった。だから雪が嫌い、と言う感覚が分からない。
「どうして?」
 なんだか怒りだしそうなナナミをなだめ、セレンが尋ね返す。
「え? そりゃ、雪が降ったら寒いだろ?」
「うん」
 何を当たり前なことを……と思いかけ、セレンははて、と首を傾げた。
「もしかして」
「そう。寒いとみんな家の中にこもっちまって、誰もあたしらの芸を見てくれないだろう」
「あ、なんだ」
 納得、とナナミがポンと手を叩いた。その光景をずっと黙って見ていたリィナが、グラスを片手にくすくす笑う。
「姉貴?」
「……いえ、なんでも。でもね、寒い地方は私は嫌いではないのよ」
 琥珀色の液体を口に流し込み、リィナがおかしそうに言った。
「だって、寒い場所の方がおいしいお酒が多いって言うでしょ?」
 もちろん暖かい地方にだって美味な酒はあるけれど、と言ってまた笑う。聞いていたセレンとナナミはポカン、と口を開けて絶句していた。ただひとり、慣れっこなのかアイリだけが困ったように頭を掻き、
「……姉貴…………」
 ため息をついていた。

 酒場のふたりに別れ、彼らは庭に出た。聞いた通り、ゲンゲンやボルガンが仲良く雪の下ではしゃぎ回っている。
「積もるのかなあ」
 起きてからだいぶ時間が経過しているが、積もる気配は一向に見られない。手のひらを前に差し出し降りゆく雪を受け止めるが、結晶は形を遺さず水に戻ってしまう。
「これは粉雪ですから、積もるには不向きでしょうね」
 たとえ積もったとしても、すぐに溶けて消えてしまう。そう言ったのはいつの間にか側に来ていた、カミューだった。マイクロトフもいる。
「そっか」
「もっと結晶が大きければ、積もっていたかもしれませんが。この地方で、粉雪が降ること自体、珍しいことなのですよ」
「サウスウィンドゥがこの様子では、ロックアックスは大変なことになっているかもしれんな」
 カミューの後を受け、マイクロトフが空を見上げながら呟いた。
「ロックアックスにも、雪が降るの?」
「ええ、山の中ですし」
 セレンに尋ねられ、赤騎士団長は楽しそうに言った。
「しかし洛帝山は活火山ですから、その一帯には雪は降りません。その代わり霧が凄いですよ」
 洛帝山の活動状況により、ロックアックスの降雪量は決まるといってもいい。今年はわりあい落ち着いているそうだから、雪は相当降るだろうとマイクロトフは言った。特に山岳地帯は、麓の村に降りることさえままならないほどだと。
「ふーん。キャロと似たようなものだね」
 ナナミが言い、彼女は北東の方角を見つめた。その方向に、自分たちの生まれ育った町があるのだ。
「雪、積もってたらどうしよう。今年は誰も雪下ろししてくれる人、いないんだよね。道場大丈夫かな」
 年季の入った道場は、下手をしたら雪の重みに耐えきれずぺしゃんこになってしなっているかもしれない。
「大丈夫だよ、きっと。町の人達を、信じてよう」
 親切にしてくれた町の人達を思いだし、セレンがそっと微笑む。老人と子供ふたりという頼りない力仕事を見るに見かねて、よく町の人達は手伝ってくれた。その親切さがまだ残っていることを、セレンは信じたかった。
「……そうだね。でも、残念だな」
「なにが?」
 気を取り直し、いつもの明るい口調に戻ったナナミに、セレンがまた首を傾げる。
「だって、積もったらみんなで雪合戦とか、出来ると思ってたもん。雪だるま作ったり、かまくら作ったり。楽しいと思ったんだけどなー」
 心底残念そうに言い、彼女はあきれ果てたセレンの前で恨めしそうに空を睨みあげた。

 ナナミと別れ、ひとり自室へ戻ろうとしたセレンは、しかしそのまま屋上への階段を上った。
 そこが、城の中で一番空に近い場所。視界を遮るものは何もなく、広がる湖の向こうには、遠くなだらかな山脈が見える。かつて旅芸人の仲間と、そしてジョウイと共に越えた、燕北の峠。その向こうにキャロの町があるはずだ。
「ムー」
 ぼんやりと北西ばかり見ていたら、足下から泣き声がして驚かされた。
「ムクムク……」
 近づくと逃げていくムササビが、寒さに震えて今はセレンの足下にいた。
「寒いの?」
 ひょい、と抱き上げるとふっくらとした毛皮が気持ちいい。でもムクムクはそれでも寒かったらしく、セレンの胸に抱き寄せられると、ほっとしたように身体の緊張を解いた。
 雪はもうじきやみそうな雲行きだが、気温の低さは相変わらずで、長く外にいたセレンも少しばかり身体が冷えていた。寒さになれているとはいえ、昨日まで暖かかったのが急に冷え込んだのだ。身体がついて行くはずがない。
 ふと視線を感じて横を向くと、まるで守り神のようにレイクウィンドゥ城の屋根にずっといるフェザーが、じっと彼を見ていた。そしてまるで手招きしているみたいに、右の羽根を広げたのだ。
「入れ、……って事?」
 ききみみの封印球を持たないセレンに、フェザーの言葉は分からないが、向こうはセレンの言うことが理解できているらしい。頷くように首を動かされ、セレンはムクムクを抱いたまま、おそるおそるフェザーの胸元に潜り込んだ。
「あったかいや……」
 セレンを包み込むようにフェザーは翼を畳む。ムクムクが苦しくないように、ちゃんとセレンの胸の辺りには空間が作られていて、セレンは嬉しくなった。
「ありがとう、フェザー」
 礼を頭上に向けて口にし、彼は前を見た。
 湖とは反対側の、なだらかな平原が続く世界。雪は静かに降り続くが、北の空は少しずつ明るさを取り戻していた。
「降れ……雪、もっと降ればいい……」
「ムー?」
 背をかがめ、小さくなったセレンの呟きに、ムクムクは不思議そうに顔を上げた。しかし、セレンは気付かない。
「降り続けて……地上の汚いもの、争いごとも何もかも、埋め尽くしてしまえばいい」
「ムムムー?」
 ぎゅっと、彼はムクムクを抱きしめた。顔を埋め、唇をかみしめる。
「……ボクの、ボクの心の……黒くて醜い部分も……ぜんぶ、雪の白さで消してしまって…………でないと、ボクは…………」
 北からの湖の風が吹き抜ける。
 空を舞う雪を消して、風は吹き続ける──それがさだめだと、呟きながら。