昔、むかし戦争があった
たくさんの人の悲しみと、たくさんの人の憎しみと、たくさんの人の苦しみが生まれ
たくさんの歓びと、たくさんの希望と、たくさんの想いが平和を創り出した
しかしひとりきりの英雄にゆだねられた未来は、諸刃の剣でしかないことに
そのとき誰も、気付けなかった
「この場所は変わらないね……」
吹き付ける風に髪を揺らし、少年は久方ぶりの笑顔を作った。
広大な湖の南にある、湖に突き出すような崖の上に建てられた、古い城。すでに人が住まなくなって長い年月が経過しているのか、方々は荒れ放題で緑の草が膝丈よりも高く伸びている。城の外壁には蔦が被い茂り、野鳥の巣が見受けられる。壁は所々崩れ、雨風にさらされて無惨な様をさらしていた。
その古城の脇に、見事に咲き誇る花畑があった。
そこだけは人の手が加えられていた。さまざまな色の花が、所狭しと首を伸ばし、太陽の光を一身に集めている。温暖な気候も手伝い、また種を飛ばす風にも困ることが無く、花は毎年毎日、美しく咲き続けた。
湖の風、それも変わらないもののひとつだった。
人の心は移り気で、あれほどに望んでいたはずの平和も、すぐに物足りない物へと変えてしまう。くだらないもめ事は後を絶たず、やがて昔の事をあれこれ掘り返し、他人のあら探しに心を砕く者も出始めて……いったい、何のための戦いだったのか分からなくなり始めていた頃、終わらない争乱の矛先は、矛盾をはらんだ少年に向けられるようになった。
「どうして、かな……?」
ルルノイエで獣の紋章を封じた後、セレンはハイランドの皇王となった親友を、その手にかけた。
約束の地で、彼らは最後の悲しい戦いを終わらせた。ハイランドの皇王としての役目を全うしたジョウイは、セレンの手である場所に葬られた。セレンの義姉であり、ロックアックス城で彼をかばい命を落としたナナミもまた、ジョウイと同じ場所に先に葬られていた。
そして、デュナン湖を挟む広大な大地は統一され、ラストエデン国が成立した。セレンはその国のリーダーとして各地に残っていた紛争の火を消してまわり、二度と戦いが起こらないようにと尽力し続けた。
だがそれは、決して楽な道のりではなかったのだ。
かつてハイランドと呼ばれた大地では特にラストエデン国に統合されることを快く思わない者が多かった。いくら戦争に敗れ、皇王が倒され皇家の血筋が絶えたとしても。ハイランドの貴族として生きてきた彼らが、早々にその地位を棄てられるわけがない。会談の場に現れたセレンを待っていたものは、かつてと同じ様な待遇を求める貴族達の傲慢な態度だった。
「ふざけないで頂きたい。では貴公はハイランドに納税の義務がないとでも思っておいでか!?」
シュウが乱暴に机を叩き、怒り心頭と言った表情で怒鳴り声をあげた。
「そうは申しておらぬ。ただ、ハイランドは長年の戦争により、農地を耕す者が乏しく、荒れ地が増えるばかりだった。今は領民を餓えさせないようにする事がせいぜいで、とてもそちらが求めているほどの額を出すことが出来ない……そう申し上げているのです」
タヌキオヤジ、と表現するのにぴったりな貴族の代表者が、飄々とした語り口でシュウに言い返す。
「それは分かります。ですが旧同盟の地も似たような条件にあるのです。その各都市が苦しい財政状況の中でも納税の義務を怠らないでいるのです、ハイランドだけを特別扱いすることは出来ません!」
拳でテーブルを再び殴りつけ、シュウは老貴族を睨み付ける。が、彼よりも明らかに2倍以上生きている老貴族にはまるで通用しない。
こういう場合、怒った方が大体負けるのだ。いつもは冷静沈着の看板を背負っているシュウも、机上の勝負といえるものではいつもの強気が通用しない。単純な性格をしている事の多い軍人よりも、胸の内を決して悟らせないで言葉の駆け引きに執着する貴族達の方が万倍扱いにくい。
「しかしですなぁ。確かグリンヒル市は今年どころでなく、ここ数年分の税金を支払っていないと聞き及んでおりますぞ? わがハイランドをあれこれおっしゃられる前に、まずそちらを回収されてはどうですかな?」
「話を逸らさないで頂こう! 今はグリンヒル市のことを問題にしているのではありません」
シュウの握り拳に血管が浮かんで見えた。
そんな二人の発展のない不毛な口争いに、セレンはため息をこぼす。
まだラストエデン国は出来たばかりの国、いわば赤ん坊の状態。少しでも外的からの脅威を払い、守ってやらなければすぐに弱体化してしまう。ましてや内部からの造反など、あってはならない事だった。
南のトラン共和国とは、ラストエデン国成立と同時に向こうから友好条約を結ぶことを申し出てきた。勿論断る理由が無く、即刻条約は締結された。ティントの西、グラスランドとは正式な国交がまだないが、向こうは国内情勢に必死のようでラストエデン国にまで目を向けている余裕はなさそうだ。問題は北、ハルモニア神聖国だが、これも何もいってこない。ハイランドはハルモニアから分離した国だし、戦時中も友好の証のような形で軍が出されている。その国が言ってしまえば併合されるように滅んだというのに。
それほどラストエデン国が重要な国ではないと思っているのだろう、というのがシュウの判断だ。何もしなくてもその内無理が出て自滅する国だと思っているのだと、彼は語気を強めて言っていた。
だからこそ、彼はこんなにも必死になっている。ラストエデン国を滅ぼさないために。民衆の希望を潰してしまわないためにと。
しかし、現実は甘くない。いつだって人間のエゴが国を滅ぼしてきたのに、それに気付けないでいる愚か者が多すぎる。
これでは、何のためにセレンがジョウイと争い合い、この国を創ったのか、分からないではないか。ジョウイが求めていた世界が、簡単に音を立てて崩れていくのを認めたくない。墓標に誓った希望にあふれる未来を、実現できないままで終わらせるわけにはいかなかった。
だがこのままでは。
ハイランドの地は自然に離れていってしまいかねない。
「ハイランドは敗戦国ですぞ。国民は一様に傷ついている。傷心の身にむち打って働けと、どうして言えましょうや」
「ルカ・ブライトが同盟の地をどうしたか、お忘れか!? 罪もない命がいかに無碍に扱われたか、我々は忘れない。ルカ・ブライトの凶行を止めることが出来なかった貴公らにも、その責任の一環はあるのです。だが我々はあえてそれを問うことをしなかった。なぜだかお判りか!?」
机に爪を立て、シュウは老貴族にくってかかることを止めない。
「ハイランドが反旗を翻し、ラストエデン国から離脱することを避けるため……でしょう?」
ひくり、とシュウの眉がつり上がった。
老貴族の指摘は正しい。正しすぎて、しかも言葉を飾らず率直すぎたため、反論も出来なかった。認めることは出来ないし、かといって下手に否定してはまた突っ込まれる。
言葉に詰まったシュウを見て、貴族陣の表情に一様に勝利の笑顔が浮かんだ。ずっと黙っていた、セレンの横にいたクラウスが、苦々しげに唇を噛む。シュウが勝てないような相手だ。クラウスが何を言ったところで通じるわけがない。
軍を動かすようにはいかない。彼らは本来、平和な時代には不要の軍師だ。いきなり政治をやれ、と言われても出来ないことの方が多い。
──せめてジェスさんがいてくれたら……。
若いながらアナベルの片腕として働いていた彼が、すべての役職を断って一市民に戻ってしまったことが惜しまれる。フィッチャーを連れてきても良かったが、復旧の続くミューズ市を長くあけることは出来ないと言われてしまっていた。やはり無理にでも引っ張ってくるべきだったかと、後悔してももう遅い。
ふう、とセレンは小さく息を吐き出した。
「分かりました、良いでしょう」
もうこんな無駄な論議を続けることは苦痛だった。
「セレン殿!?」
シュウが驚いた声を上げ、座ったままのセレンを見下ろす。
「ほう?……どうやら、国主殿のほうが心が寛大でいらっしゃるようですな」
嫌味を口にする老貴族の口元に醜い笑みが浮かんでいる。勝ち誇った表情に、セレンはまたため息をついた。
「ですが、交換条件があります。もはやハイランドという国はこの地上には存在せず、あるのはラストエデン国のみ。そしてラストエデン国には貴族といった身分の格差が存在していません。お判りでしょうが、ラストエデン国に貴族は不要です」
一息で言ったセレンの台詞に、会議場にざわめきが起こる。
「お約束しましょう。この3年間、ハイランドからは納税の義務を外します。しかしその代わりとして、貴族諸侯の方々からは不要と思われる私財を提供していただきます。一家に必要な生活費を試算し、超過分を徴集します。生活費に含まれるのは、衣食住における最低限度の保障までにします」
「……それは、つまり……」
老貴族の声が初めて震えた。
「ええ。貴族制は廃止します。そのつもりで来たのですから」
生まれながらにして一生の生活を保障され、ぬるま湯に浸かる生き方に慣れてしまったからこそ、現実の危機感に乏しいのだと思う。自分が特別な存在であると思いこんでいるから、何をしても良いと信じ込んでいる。その考えを改めさせたかった。
「そのようなこと、認められるわけがなかろう!」
声を荒立て、老貴族が叫ぶ。彼の後ろに控え、横に座す貴族達からも、一斉にセレンを非難する言葉が立ち上がり始めた。
「セレン殿……」
クラウスが不安げにセレンを見る。しかし彼はキッと前だけを見つめ、揺るぎない意志を全身から発し続けていた。
「あなた方の了承を得るつもりはありません。それとも、規程通りに税を納められますか? あれほど民のためを思った言葉を申されていたのに、今更撤回されるような事はありませんよね? 民を守るのが貴族の役目なのでしょう。でしたら、最後の役目ぐらい盛大に果たしてみてはいかがですか!」
議場全体が震えるほどの、セレンの怒気が貴族達の口を黙らせる。あれほどに詭弁を得意げにふるっていた老貴族も、セレンの気迫に気圧されて言葉がない。
シュウが前髪を掻き上げ、どかっと席に腰を下ろした。
これで会談は終わりだった。勝敗は決し、しばらくの沈黙の後、貴族達はうなだれながら静かに議場を出ていった。最後にあの老貴族が席から立ち、そのままの状態でセレンを見つめ、
「これで終わったとは思われぬ事です。我々ハイランドの誇りは、何人であろうとも砕くことは出来ませぬ。それだけはお忘れにならないよう、心に留め下さい」
「分かっています」
感情のこもらない声でセレンは答え、老貴族に座ったまま、深々と頭を下げた。老貴族も同じように礼をし、去っていった。
あとはセレンと、シュウとクラウスだけになった。
「……心臓が止まるかと思いましたよ」
はああ、とため息をつき、クラウスが肩の力を抜いて呟いた。何もしていないくせに疲れたと、テーブルに突っ伏す。
「ですが、よくあそこであのような言葉を返されましたな。これで交渉を有利に運ぶことも出来るでしょう」
ハルモニアの影を気にして強気に出ることが難しかったハイランドとの交渉も、これで一気に進展するだろう。素直に喜ぶシュウに、しかしセレンの表情は冴えなかった。
「あれはボクが考えた事じゃない」
「セレン殿?」
二人を見ず、相変わらずもういない貴族達の席ばかりを見つめたままセレンは呟く。
「ハイランドの貴族制を廃止したかったのは、ボクでなくジョウイだ。ハイランドの政治形態に絶望していたのは、ジョウイだった」
すくっ、とセレンは立ち上がった。
「帰ろう」
短くそれだけを言い、彼は振り返って二人を待たず、歩き出す。
「あ、はい」
慌ててクラウスも立ち上がり追いかける。会談が終わったのだから、いつまでもここにいる必要はない。ルルノイエにいることもない。さっさとミューズに帰り、今回のことを報告してその後のことを話し合わなければいけないのだ。
外に出れば、壁に身を寄せ今後のことを相談しあっている貴族の姿が目に付いた。わざとらしく視線を送り、聞こえるように非難を口に出す。正直言って気持ちのいいものではないが、気にしていても仕方がないことでもあった。
「堂々と言いに来ればいいのですよ。あんな風にしていても、自分たちの意見が通ることなどありはしないのに」
不満げにクラウスが言うが、セレンは首を振って止めさせた。
「それが出来ないのが貴族という者なんでしょう」
その言葉からはあきらめしか感じられない。
いつの頃からか、セレンは笑わなくなった。いつも難しい顔をし、たまに違う表情を見せたと思っても、それは言い表しようのない哀しげな瞳だった。
「大丈夫だよ」
クラウスの心を感じ取ったか、セレンが彼を見ずにささやく。
「こんな事は痛くない。ボクは裏切るわけにはいかない、止まることは出来ない。ボクが求められている理由がそこにある限り……」
シュウは黙って聞いていた。クラウスはただ哀しいばかりで、悔しそうに唇を噛む。
──違うのです。違うんです、セレン殿……
だが言葉になって出てこなかった。
いつからかすれ違うようになっていた。目指すものは同じのはずなのに、彼らの心はかみ合わなくなっていた。
時間だけが過ぎ、人は過去を忘れていく。だが時を持たない少年はあまりにも過去に捕らわれすぎ、望まれる英雄像を振る舞おうとしすぎた。
止まったままの記憶はいつしか重荷になって行き、そして耐えきれず崩れていく…………
風が吹き、花びらが一斉に空に舞い上がる。手で顔を覆った少年は、しかしその手の向こうに懐かしい人々の姿を見つけ、目を見開いた。
おかっぱ頭の元気にあふれる少女が、手を振っている。
長い金髪の青年が少女の横で微笑んでいる。
クマのような顔の男の人、青いマントにバンダナの人。黒髪を後ろで束ねた長身の男性、眼鏡の似合う少女、たくさんの人達……。
笑顔で手を振り、早く来いと手招きをしている。花畑の中で、少年を待っている。
「ナナミ、ジョウイ!」
涙がこぼれた。一体どれだけの時を彼は独りで生きてきたのか。しかし決して忘れることの出来なかった仲間達が、もう良いからと、彼を呼ぶ。
「ビクトール、フリック、シュウ、アップル!」
二度とあえないと思っていた。自分にはその資格はないのだと、あきらめていた。けれど仲間達は、彼を許してくれる。両手を広げ、彼を待ってくれていた。
「みんな!」
セレンは駆けだした。友の亡骸の眠る花畑の中を、昔に還って──
「……よろしかったのですか?」
グレミオが傍らのラスティスに呟く。
「良いんだよ、これで」
湖の風を身に受けながら、彼は右手の紋章を見つめる。そしてそっと、ソウルイーターに口づけた。
「良い夢を、セレン……」
天高く花びらは舞い、風は空へと還っていった。