レイクホーン城が、まるで水を打ったかのように静まり返っている。
この城は少し前まで、化け物が棲みついた霧に閉ざされた廃墟だった。今は改修工事がなされ、人が住み集まる場所に変わっているが、この数日間だけは以前の廃墟に戻ったみたいに、ひどく静かだ。不気味なほどに。
人はいる。だが、誰も彼もはしゃいだり騒いだりする気分にはなれずにいる。
たったひとり、仲間が死んだだけなのに。
戦争になれば犠牲は付き物で、傷つき死んでいく人間が出るのは珍しくも何ともない。むしろいちいち悲しんでいてはきりがなく、また冷たいようだが、意味のないことなのに。
誰もが俯き、暗い表情をしている。
先日、解放軍リーダーの長年の付き人をやっていた男が死んだ。
死の理由は、主人であるラスティスを守るため。人喰い胞子の魔手から守るために、彼は己を犠牲にした。遺体はなく、彼が身につけていたマントと、誓いを刻んだ斧だけがその場に遺されていた。
一瞬、彼は無事に逃げ出していたのではないか、と錯覚するほどに。
けれど彼は戻らず、かすかな希望は絶望に変わった。
「…………」
皆、幼い頃からずっと一緒だった人を失ったばかりのリーダーに同情し、憐れみ、彼に言葉をかけることなく遠くから見守るだけに留まった。
こんなとき何を言ってやれる。安っぽい励ましの言葉など、かえって彼を傷つけるだけではないのか?
だから彼らは気付かない。そうやって遠慮してラスティスをひとりにすることの方が、いかに彼が孤独を感じなければいけなかったかを。
部屋にいても冷たい空気だけが彼を包み込むだけ。過剰なまでに心配して、寒くはないか、空腹ではないか、気分は悪くないかと様子を伺ってくる人がいないから、尚更彼はひとりぼっちの自分を見ていた。
膝を抱え、ベットの上に寝転がって天井を眺めて、遠くに来すぎてしまった自分を実感するだけ。
切ない想いが胸を押しつぶす。
だから彼は部屋から逃げ出した。自分によそよそしい態度しか取らなくなった仲間達から離れ、いついかなる時でも変わらないまま自分と接してくれる人の所へと。
ルックはその日も、約束の石版の前にいた。
今までは刻まれていた名前がひとつ消え、空白になっていることをもちろん彼は気付いていたが、だからなんだ、という感じでしかなかった。
他人の事なんてどうでもいい。自分のことでさえ、憂鬱に思うことがあるのに。いちいち人の分まで心配したり、気にかけたりするのは徒労だと、この年で彼は痛感していた。いや、ただ単にこれまで多くの人と接する機会がなく、閉鎖的な世界で育ったためでもあるのだが。
ひとりでいるのは好きだった。何の気苦労も必要ないし、他人に足を引っ張られて煩わしい思いをすることもない。寂しい、という感覚が彼には欠けていた。
だからこの日、いきなりやって来て何も言わずに石版のすぐ脇にうずくまった人に、ルックは思いっきり嫌な顔をした。
「……何の用?」
「べつに」
なにもないよ、とだけ答え、ラスティスは抱えた両足の間に顔を埋める。その右側にはルックの足がある。しかしラスティスは気にする様子がまるでなかった。
それからしばらくの間、二人の間には沈黙だけが流れていった。
ルックはラスティスがここで何をしているのか、聞くつもりはない。どのみち他人のこと、彼が気にかけたところで何かが劇的な変化を見せる訳でもない。ラスティスも、ルックがそういう不干渉な性格をしていることを知っているから、この場所に来たのだ。
星が選んだ仲間達。星に定められた運命。革命の時、変革の時代。
しかし実行するのは人だ。見えない、知りようのない大きな時代の流れによって自分の、そして仲間達の未来が勝手に決められてしまうのはあまりいい気分がしない。だってそれは、自分で考えて決めた道が、他人によってあらかじめ敷かれたレールの上を歩いているだけだった、という事。
未来なんて誰が決められる。グレミオがあそこで死ななければならなかったのも運命だったと言うのなら、彼が死なずに済む未来だってあっても良かったはずなのに。
俯いたまま、ひょっとして寝ているのでは? とさえ考えたくなるほどに静かなラスティスにちらりと目をやり、ルックは分からないようにため息をついた。
「……何をしているの」
リーダーは暇な職務ではない。こんな場所で無駄に時間を潰していたら、軍師のマッシュに怒られる。
しかしちゃんと起きていたらしいラスティスは微かに頭を上げて、
「何も」
とだけ答えると、やはりさっきと同じ体勢で静かになった。
もう一度嘆息し、ルックは視線を目の前に戻す。
何もない壁があるだけだが、だからといってルックがそこばかりを見ているとは限らない。時に風を通して遠い世界に意識を向けることだってある。
真なる風の紋章の力によって、ルックはこの先永遠の時間という牢獄を生きて行かねばならない。そこに悲しみの感情が介入すれば、生は地獄に変わる。だからルックはあらゆる人間らしい感情を封印した。この先に起こる歴史を、正しい目で見つめるためにも、それは必要なことだったから。
けれどラスティスは違う。彼はこれまで、ただの少年として生きてきた。人としての生を全うし、人の寿命で死んでいくはずだった。けれど今、彼の命は真の紋章であるソウルイーターに縛られている。彼は死ねない、あの紋章がその身に宿っている限りは。
そしてラスティスはルックのように、悲しみを捨てることが出来ていない。彼は心がまだ人間の頃のままだ。だから人が死ねば悲しみ、悔やみ悼む。仲間を大切に思うから、置いて行かれると知っていながら、心を開き受け入れてしまう。
これから、多くの同胞が先に死んで行く。それらを見送りながら彼はずっと、涙を流し続けるのだろうか。
「何も聞かないんだ」
不意にラスティスが言葉を紡ぐ。ルックは彼を見ない。
「聞いて欲しかったわけ?」
「そうでもないけど」
なにを言っているのか、ルックは聞かなくても分かったから、自分も言わなかった。
ひとりでここに来て、静かな空気を感じながら、ラスティスも色々と考えていたのだろう。
「なら、いいだろう?」
素っ気ない言葉しかルックからは返ってこない。そこがむしろラスティスには、余計な感情を込められずに済んで気分が良かった。
再度沈黙がやってくる。しかしお互いにとって、それは決して重苦しく息苦しいものではなかった。時間だけが刻々と流れ去り、城の外では太陽がいつもと変わらずに西の空に傾いて行く。
はたして、どれくらいの時間こうしていたのだろう。冷たい床に座り込み、ほとんど言葉を発することなく時間を無意味に過ごす事なんて初めてだったラスティスは、いい加減疲れてきた。だが立ちっぱなしのはずのルックはあくびのひとつもせず、ぴくりともしない。
「疲れない?」
「疲れてるよ」
だから聞いてみた。ルックって、ひょっとして疲れ知らず? なんて思ったから。でも、答えは意外だった。
「嘘」
「嘘をついて得な事なんてないよ」
相変わらず素っ気ない台詞が頭上から降ってきて、ラスティスは顔を上げてルックを見る。
「どの辺が?」
「君のいる辺りが」
普段からひとりでいることになれているから、自分の側で誰かがずっといる、この状況がルックにとっては疲れた。
意味を理解したラスティスは少し頬を膨らませ、不満を顔に出す。しかしすぐ、やや沈んだ表情になって、
「ねぇ……」
膝を抱き直し、踵で床を叩きながらラスティスが呟く。
「どんな意味があるのかな」
胸に顔を沈め、その為にくぐもりがちな声がルックの耳に届く。
ルックは今日何度目かしれないため息をついた。
「そんなの、僕に分かるわけがないだろ」
まだふたりは子供すぎた。いくら大人ぶって、大人の真似をしていようとも、彼らは所詮、十数年しかこの世に生きていない、若造だ。生きる意味も、戦う意味も、そんなものを考えたところで正しい答を知る術を持たない。
流されるままにここまで来てしまった。無論、自分で選んだ生き方だ。けれど子供である彼らに、選択権が多く用意されていた試しはない。
いつも、大人が提示するいくつかの道を、歩かされてきたに過ぎないから。
大切なものを失ってまで、得た未来は本当に目指した未来だったのか? 必要なのか?
「後悔?」
だからルックが問うと、
「ちょっとね」
ラスティスはそう答えるしかなかった。
少なくとも、彼が赤月帝国に敵対して、解放軍を指揮しなければグレミオは死なずに済んだのだから。
「やめる?」
でも、こう尋ねられても、
「無理だよ」
首を振ることしかできない。
「どうして」
「知ってるくせに」
「だったら?」
「意地悪」
「そうだよ?」
知らなかったの? と真顔で聞かれて、ラスティスは頭を掻いた。
「…………ちぇっ」
口でルックに勝てるとは思っていなかったが、簡単に負けてしまうのもしゃくに障る。
「まあ、そうだね」
ふっと、ルックの語調が変わる。柔らかい、今までにない感じで。
「僕が言えるのは『自分を信じろ』って事ぐらいだね」
自分で選び取った道を後悔しないで。
いつか、レックナートが言った言葉が蘇る。
「君の思いに従って集まってくる人が絶えない限り、君の選んだ道は正しい。少なくとも、君が諦めてやめてしまうまでは」
まっすぐに見つめてくるルックの眼差しは厳しく、そして強い。
ラスティスはゆっくりと立ち上がった。視線が並ぶ。
「せめてもの情けだよ」
ルックがため息の混じった声で呟き、ラスティスの右手を取った。それから自分の右手の甲とラスティスの手の甲を重ね合わせる。
ふたつの真の紋章が共鳴しあい、まるでひとつに還ろうとしているみたいに相手を求め合う。
「これに関してなら、僕でも少しは重みを無くしてやれる」
ソウルイーターが求めるのは、人の魂。そしてそれと同じくらいに強い力。無限の可能性。
真の紋章を持つものとして。ソウルイーターの暴走を止めることが出来ると、ルックは無言の中でラスティスに教えた。
共鳴が弱くなるとすぐ、ルックはラスティスの手を解放した。それからぷい、と顔を背ける。
きょとんとして、ラスティスはやがてはじかれたように笑い出した。
「ありがとう」
嬉しかった、心から。
「頼りにするよ」
だから、ラスティスは彼に握手を求めた。ルックも、最初は渋ったがややして右手を出す。
しっかりと互いの温かさを確かめ合い、ふたりは離れた。
ラスティスはマッシュの待つ軍議場へ、ルックはこれまで通り、約束の石版を見守る役目へ。
永遠の時間を持つ彼らの、一瞬の思いを胸に秘めて……。