歸道山

 我が愛しき子供達よ
 願わくばその進み行く道の先が
 幸多く光り満ちあふれるものであらん事を

 光が、欠ける。
 赤い光が空を流星の如く流れ落ちていくのを見た。夜空にぽっかりと空いた穴のように照る月を見上げ、その片隅に消えていった星の欠片を見送った後、緩く首を振り彼は視線を眼前に戻した。
 とは言え、月明かりがあったところで夜の闇は深く険しい。何を思ってこんな状況の悪い寄りに、更に足許不如意に成りがちな砂の大地を行かねばならないのか自問して、彼はやがて愚問だったと吐息を零した。
 夜に道なき道を行くのは、昼間が酷暑であり炎天下の中で歩き回る事自体が命を縮めかねない、危険な行為だからだ。日を遮ってくれる木立や並木も持たない一面の荒涼とした大地の上で、太陽の熱に晒されながら歩くことは無謀に他ならない。
 かといって今のような夜、月だけが地上を照らす昼間とはまったく異なった、嫣然と微笑む美女の如き白い柔肌の大地は決して、見た目通りの優しさを出てくれはしない。油断させて置いて地獄へと引きずり落としてくれる蟻地獄さながらに、罠を潜めて待ちかまえているだけの砂の大地で、ひとりきり。
 こんな場所を行くのは愚かしい事だとは、重々承知している。数少ない砂漠の商人が往来するもの、大抵は日暮れ前の太陽が傾き出す頃合い、もしくは日の出前の空が白みだした時間帯だ。
 だけれど彼は、そんな僅かな時間でさえ避けて道とも言えない平坦であり、かつ急峻な足場の悪い地表を進んでいた。
 人と交われば、必ず巻き込んでしまう自覚があった。
 これまでも幾度か、似たような光景を旅したことがある。彼は見た目以上にあらゆる世界を見て回り、そして通り過ぎてきていた。道すがら出会った人は数知れず、だが覚えている限りでもその半数以上が、不幸な事故あるいは事件に巻き込まれ命を落としていた。
 ぎり、と奥歯を噛みしめる。薄く開いてしまった唇の隙間からは、夜の冷たい風に乗って舞い上がった粒の細かい塵が流れ込み、噛み合わせるたびにじゃりっとした嫌な触感が口腔内部に広がった。
 月は白く、仄暗く世界を見下ろしている。昼間の太陽のような力強さはなく、だけれど月だけが持ち得る艶やかさが光の中に滲み出ている。
 白光を頼りに、彼は鈍く重い足を前へ踏み出した。
 体重を乗せた足は爪先が砂に埋まり、二の足を出すときには運悪く足首の手前まで砂に沈んでしまっていた。彼は舌打ちし、背に負う荷物の底を片手で支えると力を込めて砂に奪われそうになっている足を引きずり出した。
 黄色い細かな砂が、靴とズボンの裾との隙間を隠すために強く何重にも巻かれた布の上からも入り込んでくるのが分かる。更に舌打ちを繰り返し、彼は体熱の籠められた息を吐きだした。
「っくしょ……」
 誰も見ていない、月だけが見下ろす世界でひとり悪態をつき、砂の上にじきに消えて無くなるだろう線を残して彼は砂の中から足を引き抜いた。だが運悪く、バランスを崩して前のめりに倒れ込んでしまう。
 着地の為に突き立てた手首も、防護のために嵌めているグローブの指が見えなくなるくらいまで砂の埋もれた。
 息を吐く、二度、三度。額から滲み出た汗が粒となって砂の中に落ち、一瞬で吸い込まれ跡形もなく消え去った。
 立ち上がろうにも、体力が足りない。
「……あ~あぁ」
 愚痴のようなため息を零し、彼は身体を反転させて腰を下にし、その場に座り込むことにした。丁度丘陵の片端に位置する場所で、砂の間から突き出た岩石が壁となっていた。昼間であれば道を休む人の格好の休憩場所となっている事だろう。ただ今は夜であり、横たわって浅い眠りを楽しむ人は見られない。
 はぁ、と吐き出した息は明らかに彼の疲れを顕していた。
 砂から引き抜いた手からグローブを外し、月明かりに晒された殊の外細い、けれど節くれ立って傷痕の目立つ指先で額に貼り付いた髪の毛をまず払う。それから口の中に溜まっていた砂を唾と一緒に吐きだし、口元も拭った。
 被りっぱなしだったフードを外し、日よけと砂よけとを兼ねている外套の首許を緩めると長く息を吐きだして熱を放出。夜の一気に気温が下がる時間帯とは言え、重い荷物を背負い露出部分を極力控えた砂漠越えの完全装備は、かなり辛い。
 荷物も僅かに露出している砂の合間に見えた岩場の上に下ろし、肩から力を抜く。今になって漸く自覚したが、この身体はかなり強行軍のこの旅で疲れを蓄積していたらしい。一気に全身から気力が失せ、立ち上がる事は当分出来そうになかった。
 星を見上げ、自分の現在地を大まかに把握しながら次進むべき方角を見出す。
 昼間、人が目印の乏しい砂地を行くのを避けたがる理由には、もうひとつ重要な事柄がある。それは、方角を見出しにくい事だ。
 太陽は確かに有益な道標となるだろう。しかし昼間よりも、夜暗がりに浮かび上がる星々の位置を計る方が、遙かに道標は多く確かなのだ。特にあの、動かざる北の星は。
 かつて未だ旅慣れしていなかった頃、たまたま自分を拾ってくれた馬車商人の老人が教えてくれた地図の読み方と、方角の確かめ方を頭の中で反芻し北の星を探し出す。十数秒とかからなかった作業に、重ねて地図を広げて今の季節を思い返し、現在位置を特定する。この季節、小麦の収穫が近付いている時期に夜明け前に浮かぶ星を探して現在時刻も想像し、吐息をひとつ。
「まだ半分も行ってねー」
 地図を頭上に掲げて月明かりに透かし、後ろの荷物に頭を預ける格好で倒れ込んで彼は呟いた。がりがりと指で頭を引っ掻くと、フードに紛れ込んでいた砂が爪の間に入り込んで少し痛んだ。
 風呂に入りたいと、直後素直な感想を思い浮かべて即座に否定する。こんな砂ばかりの場所のどこに、湯浴みをさせてくれる宿があるだろう。せいぜい水で湿らせたタオルを貸して、それで身体を拭えと、その程度が限界だ。
 それに加えて、こちらはこんな幼い子供の姿をしているのだから。
 もうどれくらい、世界を巡っただろう。訪れた国は両手では足りず、過ぎた町は数えあげるのも億劫なくらいだ。通常ならばもう、天寿を全うしてふたつ巡りしていてもおかしくない年月を、過ごしてきた。
 幾分固い荷物袋に頭を埋め込み、遮るもののない一面の星空を眺めながら吐息を零す。
 いつだったか、大昔に、溜息をつくとその分寿命が縮んでしまうぞ、という馬鹿げた伝承があることを知った。そんなわけがないだろう、と笑い飛ばすだけに終わった伝承だった。
 もし本当にそんなことが起きるのならば、もう幾万回と零してきた自分の溜息はどうなるのか。その数を費やしても未だ終わりの見えない命の灯火を揺らす事の出きる日は、いったいいつ訪れてくれるのだろう。
 こうやって人も命が惜しくて滅多に行わない砂漠越えの強行軍を実行してみたり、あるいはもっと険しい山道を敢えて選んでみたり、自分の身体を苛めているとしか思えない行動を繰り返したところで。
 この身が滅ぶことは、星が命を終える事よりも困難な事のように思われてならなかった。
 自分はどこへ行こうとしているのだろう、どこを目指せば良いのだろう。
 その答えさえ見出せぬまま、ただ今は南を目指して歩き続けている。その理由さえ、ただ今までいた場所で戦乱が勃発したからに他ならないのだが。
 あの戦乱が開始された原因は、領主同士の啀み合いと長らく続く不作による農民達の不満が鬱積、爆発した事が主なる要因だった。だけれど、それだけではない。
 彼は知っている、彼だけが知っている。
 無意識のうちに背筋に悪寒を覚え、彼は右手の甲を左手で押さえ込んだ。未だ焦げ茶色のグローブに覆われたままだったそれが、微かに震えているのが左手の上からでも目で見て分かるくらいだった。
 ガチガチと噛み合って音を立てる奥歯を必死に押し留め、左手ごとかれは右手を己の額に押し宛てた。
 甦る記憶の中に、ひとときではあったが快く宿を提供し、貧しいはずなのに食事を提供してくれた優しい人の顔がまざまざと浮かび上がって彼を責め立てる。
 記憶の中の彼らは微笑んでいた、なにも知らないまま軒下で雨宿りをしていた彼を招き入れてくれた時の、そのままの笑顔で。
 だからこそ、彼は辛い。いっそ強い調子で睨み付け、指を差してお前の所為で、と非難してくれた方がよっぽど楽になれただろう。だのに彼の事を誰も責め立てようとしない、いつだって優しい、そして少しだけ寂しそうな笑顔を向けてくるだけだ。言葉を投げかけようともしてくれない。
 言いたいことはあるだろうに、記憶の中の彼らはいつだって優しいままだ。
「……っ!」
 熱くなる目頭も一緒に押さえ、上げそうになった嗚咽を噛み殺して呑み込む。胸の中で積み上げられた黒いものが渦を巻き、彼を呑み込もうとしているのを懸命になって押し留めながら、彼は声も涙もなくその場で泣いた。
 何故、誰も。
 彼を、悪だと断罪してくれないのだろう。
 いっそ裁きの場へと引き出され、石を投げられ火を放たれてしまった方が、こんなにも苦しまずに逝けるのに。
 生きることが辛い、苦しい。
 哀しい。
「っ……」
 呑み込んだ唾にしょっぱさを感じながら、熱い息を何度も吐きだして手首を湿らせる。夜の月は明るく、下側を少し欠いたそれはやはり記憶の中にある女将の笑顔の如く柔らかくて優しいのだ。
「ソウルイーター……っ!」
 吐き捨てるように、己の右手甲に宿る災いの元凶を呼ぶ。
 これはいったい、今までにどれだけの命を喰らってきたのだろう。その中にはあの、雨の日に出会った優しい夫婦の魂や、最初の旅に同行してくれた馬車商人の老人、そしてなによりも、自分の唯一の血縁者であった祖父も居るのだ。
 何故、どうして自分に優しくしてくれた人から先に命を奪おうとするのか。
 死んで当然のような悪漢は世の中に沢山居る。貧しい人を苦しめる重税を課す領主や、云われない罪を無実の人に着せて罰し、命を無碍に奪う奴らだって多い。どうせならそんな奴らの魂をかすめ取れば良いものを。
 ソウルイーターが選ぶのは、いつも必死に大地で命を繋ごうと汗水垂らして生きている、そんな人たちばかりだ。勿論大きな戦乱を引き起こせば、先にあげたような暴虐な人々の魂を奪うことだって有るだろう。
 だけれど、それだって戦争に巻き込まれ真っ先に死んでいくのは、いつだって世界を構成する人間達の末端にある貧しいけれども心優しい人々に他ならないではないか。
 この命ならくれてやる、だからもう目の前で優しい人を奪うことを止めてくれ。
 そう願ったことは、もう星の数ほどに達するだろう。だがその度にこの紋章は、彼を嘲笑うかのように目の前で、彼と接した人を無惨に切り裂いてしまうのだ。
 たとえ彼がそこに介入していなかったとしても。
 例えば、山賊に襲われた時――あの老人は彼の力を知らず、まだ幼い彼を守ろうとして身を張って庇った末に死んだ。
 例えば、その村が国境に近かった所為で夜の雨に紛れての秘密工作に利用され、明け方を待たずに油を巻かれて火を放たれ、逃げる間もなく村人全部が焼け死んだ時も――彼は、必死に抵抗したのに夫婦の蒲団に巻きくるめられ、家にあった水桶で全身を湿らされた挙げ句食料庫として利用されていた地下壕にひとり押し込められた時でさえも。
 たった一晩、あるいは数日世話になっただけなのに、彼と関わったという理由それだけで争い事に巻き込まれ、短い生を終える事になった。
 ならばもう、誰とも関わらずに居よう。誰ともすれ違わず、行き違わず、交わらず、語らず。さすがに町に出て必要物資を入手する事だけは回避できなくても、宿に泊まらなければいい。食堂で料理を平らげなければいい。水浴びは川や泉で出来る、食事だって火さえあればひとりでどうにだって出来る。
 大きな街道はなるべく避け、人の出歩く時間帯から行動時間をずらして進む。砂漠越えも、だから夜明け前と日暮れ前を外して夜の冷たい風が吹き荒ぶ中を選んだ。
 自分で選んで、決めた事だ。
 だというのに、時折無性に人の体温が恋しくなる。
「……くしょ」
 ぼすっ、と力無い拳で荷物袋を殴ってへこませる。目頭を押さえた左手はそのままにして、右手を浅い砂の中に埋め込んで表面からは感じられない、地の奧に蓄えられた熱を探した。
 こんな事をしても無意味だと知っているのに、誰かに抱きしめて欲しかった。
 ひとりぼっちの夜、特にこんな日は。
 月が明るい。見上げた先に広がる世界はどこまでも空虚であり、今が現実であるかどうかを見誤りそうな雰囲気を醸し出している。
 やはり昔に、場末の酒場で立ち聞きした話にこんなものがあった。
 人の命は炎に焼かれ(火葬の事だろう)、煙となって月へ昇る。そして月の涙で地上へ戻り(雨のことだろう)、大地に染みこんで新しい命の中に取り込まれて、再び世の中を巡りそしてまた、命潰えたときに煙となって空へ巡るのだ、と。
 少々違ったような気もするが、大まかにそんな話だった。
 人の命は、地上と月とを交互に巡っているのだという。では、ソウルイーターに食われた人々の命は月へ還る事が出来ないのだろうか。
 分からない、そもそもそんな話が本当なのかどうかさえ知る術がないというのに。
 砂の中から引き上げた右手をとり、胸の上に置いてみた。指先から、外套を越えて自分自身の体温を感じる、拍動を止めない心臓の息吹が伝わってくる。
 幾ばくか軽い息を吐きだした。
 ああ、けれど。
 もしその話が本当なのだとしたら、自分が死んだときに今まで世話になり、優しくしてくれた多くの人たちの命もまた、自分と一緒に月へ還るのだとしたら。
 その時にもう一度、会えるのだろうか。
 会えるのだとしたら、その時は。
 礼が、言いたかった。
 言い尽くせぬ感謝の気持ちを彼らに、伝えきれない想いを伝えたい。
 目頭が熱くなる、けれどそれは先までの熱とはまた趣の異なるものだと感じられた。間違いなく、それは哀しみや悔しさだけから来る涙ではなかった。
 素直に透明な露が砂にまみれた肌の上を伝って落ちる。
 言葉もなく、彼は泣いた。
 月だけが、いつまでも煌々と夜空に輝いていた。