柔らかい肌

 朝から妙に気怠いとは感じていた。
 ただそれも、外が雨で気温だって幾らか低めだから、そんな風に思うだけなのだろうと、ぼんやり考えていた。
 教室から見上げる空はいつだって青くて、澄み渡っていた。海だって空に負けないくらいに碧くて、太陽の光を受けてキラキラと、まるで宝石箱のように輝いていた。
 だけれどその日に限ってはそのどちらも拝めなくて、気持ちは沈んで憂鬱になる。窓硝子を打つ雨音が耳障りで、授業の内容も殆ど耳に入らなかった。
 だからといって、まさか倒れるとは思わなかった。
「なんだって……」
 気がつけば自分はベッドに寝かされていて、白い天井が視界一面を覆っていた。
 こんな場所に自ら足を踏み込んだ覚えもなければ、下着ひとつ身につけずに布団に潜り込んだ記憶さえ無い。何故、どうして、が頭の中を忙しく駆け回って、タクトは微かに痛む頭を抱え込んだ。
「うっ」
 どこかで見た覚えがある景色ではあった。広いベッド、大きな窓、装飾品の類も少ない簡素且つ清潔な空間は、この島を訪れて初めて目にした風景とほぼ同じだった。
 こめかみを襲う鈍痛に苦悶の表情を浮かべて、彼は起き上がろうという努力を早々に放棄した。ふかふかのシーツに深く身を沈め、窓の反対側に控える扉へと目を向ける。
 人の気配に、そっと息を吐く。
「スガタ?」
 この島に似たような建物がふたつあるのではない限り、此処はシンドウ家の屋敷だ。その無数に存在する部屋のひとつに、タクトはひとり、寝かされていた。
 呼びかける声はか細かったけれど、静かだった所為で思ったよりも響いた。反応は直ぐさま返って来て、ゆっくりとドアノブが右に回転した。
 キィィ、という音を残し、ドアが開かれる。現れたのは、案の定青い髪を持つ青年だった。
「起きたのか」
「悪い。……なんか、僕、迷惑」
「いいや。気にしなくていい」
 ベッドに身を委ねたまま視線だけを向けたタクトに、スガタは鷹揚に首を振った。覇気のない声からタクトの具合が未だ改善されていないと推測して、身を起こさないようにも言って、室内に足を向ける。
 廊下に感じた気配は一人分しか無かった。タイガーやジャガーは、どうやら席を外しているらしい。
 シンドウ家に仕えるふたりの女性を思い浮かべ、タクトはスガタの行方を追い掛けて首を巡らせた。
 彼は窓を覆っていたカーテンに手を伸ばし、サッ、と横に薙ぎ払った。途端に目映い光が彼らの視界を埋め尽くし、輪郭を白く濁らせた。
「うっ」
 外の明るさは感じていたが、ここまでとは思っていなかった。すっかり日が昇っている事実に驚き、タクトは咄嗟に閉じた瞼を薄く開いて、掌を額に翳した。
 指の隙間から漏れる朝日が、彼の瞳を柔らかく包み込む。
「僕、なんで」
「覚えていないのか」
「……部室、行って。そこから」
 昨日は「夜間飛行」の活動は無かった。スガタもワコもそれぞれ用事があって、タクトは放課後をひとりで過ごす必要に迫られた。
 外は雨。空は暗く、低い。
 寮に帰っても、特にする事は無い。真面目に机に向かって勉強に勤しむ気分でもなく、図書館で暇を潰せる程文学に傾倒しているわけでもない彼は、誰も来ないと知りながら、木造校舎の片隅に設けられた演劇部の部室を訪ねた。
 学校でも奥まった場所にある所為で、一般生徒はまず近付かない。雨が軒を打つ音は、教室で聞くよりもずっとはっきりとしていた。
 トン、トン、トントトン。あそこで聞いた雨のリズムは、目を閉じれば簡単に思い出せるのに、部室からシンドウ邸へどうやって移動したについては、タクトは全く覚えていなかった。
 寒気を覚えて腕を布団の中に戻し、もぞもぞと身を捩って口元までを覆い隠した彼に目を細め、スガタはポケットから細長い何かを取り出した。
 一瞬、守り刀かと思ったが、違う。もっと細く、小さい。
「測って」
「僕、熱なんか」
「そうか?」
 差し出されたのは体温計だ。アイボリーのケースに収められているそれからスガタへと視線を移し替えて、タクトは目の前に迫った大きな手にビクリと首を竦めた。
 寝汗で張り付いていた前髪を払い除けたスガタの指は、接触に怯えるタクトを宥めるように緩やかに動き、額に押しつけられた。
「これじゃ、分からないな」
 嘯いたスガタの手を上目遣いに窺い、タクトは楽しげに笑っている友人に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ないよ、熱」
 体温計の受け取りを拒み、ぷいっ、と顔を背ける。途端にスガタは眉目を顰め、顎に手をやって少し考え込む素振りを見せた。
 黙りこんだ彼が放つ空気に不安を覚え、タクトはそろり、瞳だけを彼に向けた。
「それは大変だ」
「へ?」
 そうしたら至極真面目な顔をして、真剣な口ぶりで言われた。
 意味が分からなくてタクトは目を丸くして、ベッドに膝を乗り上げたスガタの影に顔を引き攣らせた。
「あのぅ。スガタ君?」
「熱が無いなんて有り得ない。もし本当にそうだとしたら、タクトはもう死んでしまったのか?」
 妙に演技めいた言い回しで呟いて、枕から頭を浮かせたタクトにずい、と迫る。逃げようとした彼の肩を掴んでシーツに縫い付けた手はごつごつして、そして熱かった。
「うっ」
 骨が軋むくらいの力を加えられて、痛い。顔を歪めたタクトに覆い被さり、スガタは浅い呼吸を繰り返して唇を舐めた。
 ぞっとするくらいに綺麗な彼の顔に息を呑み、タクトは束縛を振り解こうと身を捩った。
「タクト」
 抵抗は、無駄に終わった。
 もともと頭が痛く、身体も怠くて、本調子とは程遠い状態だった。何も着ていないので、下手に動けば全部丸見えになってしまうという点も、悪足掻きの勢いを弱める原因のひとつになっていた。
 真上から覗き込んでくるスガタの目が怖くて視線を逸らせば、残る手が頬に伸びて、無理矢理上を向かされてしまった。
「スガタ」
 これから彼が何をするのかについては、あまり考えたくなかった。
 本気を出せば、逃げ出せない事はない。けれど友人を一方的に殴ったり、蹴り飛ばしたりはしたくはないし、とあれこれ頭の中で忙しなく考えていたところで、乾いた指がスガタの唇に触れた。
「熱、確かめないとな」
 囁いた彼に、下唇を引っ張られた。口を開けるよう促されて、瞳を左右に泳がせたタクトは、最後に優しく微笑んでいる青年を見上げ、観念した様子で瞼を下ろした。
 少しだけ顎を突き出してやれば、スガタは益々嬉しそうに笑って、タクトを潰さない程度に身を屈めた。
「んっ」
 乾涸びてカサカサした唇に、暖かいものが触れる。一瞬で通り過ぎていった熱にも怯えて顔を強張らせた彼を撫で、スガタはぴくぴくしている瞼に小さく噴き出した。
 途端に下からムッとした気配が伝わって来て、彼は「ごめん」と謝り、子供をあやすように元気に爆発している赤い髪を掻き回してやった。
 そして首を前に倒し、小刻みに震えている唇を掬い取る。
「……ん、う」
 かぶりつくように塞がれて、息が出来なくなったタクトが首を振った。しかし逃がしてはやらず、スガタは細く開いていた隙間に舌を這わせると、乾燥した皮膚に自分の唾液を塗していった。
 頭の中に直接濡れた音が響いて、湧き起こった恥ずかしさを堪えきれず、タクトは発作的に口を閉じようとした。
「っつ」
 噛まれたスガタが慌てて身を引いて、そうさせた張本人であるタクトの方が吃驚してハッと目を見開いた。
「わ、悪い」
 反射的に謝罪を口にして、言ってからそれも妙な話だと気付いて口元を手で覆い隠す。朝っぱらから盛って襲ってきた男に一寸した反撃を企てただけなのに、何を詫びる事があるのだろうか、と。
 気まずげに目を逸らしたタクトの赤い顔に肩を竦め、スガタは甘い感触を残す舌で上唇を舐めた。
 軽く挟まれただけだったので、さほど痛くない。咬み千切られるのは勘弁だけれど、と嘯いて、彼はもう一度あの甘美な感触を味わおうと、ベッドを軋ませた。
「あの、ちょっと待った」
「体温計が嫌なら、直接測るしかないだろう?」
 身を寄せてくる彼の肩を押し返し、タクトが早口に捲し立てる。スガタはすかさずその手を奪い取ってベッドに縫い付け、額に額を擦りつけた。
 彼の呼気が鼻に掛かり、王のサイバディを継承する男の強い眼差しに、タクトは狼狽えた。
「だからって何もこんっ………ぁ」
「ン」
 視線が宙を彷徨う。もう何処にも逃げられないのを思い知らされて絶望した瞬間、スガタの唇が降ってきた。
 同時にシーツからはみ出た白い肩をなぞられ、鎖骨を外側に向かって辿られた。必死に止めさせようと手をじたばたさせるけれど、本格的にベッドに乗り上げたスガタはこれらの抵抗を簡単に封じ込めてしまった。
 見たくなくて目を閉じても、咥内に潜り込んだ舌の動きは触覚が追い掛けている。奥に避難させた舌も呆気なく発見されて、捕縛されて、引きずり出された。
「っあふ、……や、って……ン」
 絡めとられ、先端を小突かれ、表面をくにゅくにゅと擽られる。息が苦しくなって仰け反ったスガタの両手を拘束して、スガタは薄目を開けて自分の下で藻掻いている青年に目を眇めた。
 触れては離れ、離れてはまた触れるキスを繰り返す。その度にちゅ、ちゅ、と可愛らしい音がふたりの間に生まれて、朝日に溶けて消えていった。
 合間にスガタの、荒い呼吸が紛れ込む。次第に熱を帯び、激しさを増していくくちづけに目眩がして、熱を測るどころか上がったのではなかろうかと、タクトはぼうっとする頭の片隅で思った。
 飲み込めなかった唾液を口角から滴らせ、足りない酸素を欲して胸を上下させる。
 その引き締まった胸郭をシーツの上から撫で、スガタは楽しげに微笑んだ。
「ちょっ、タンマ!」
 軽く揉むように指を動かされて、ぎょっとしたタクトは本格的に暴れて彼の腕を引っ掻いた。膝を曲げ、のし掛かるスガタの腰を横から蹴り飛ばす。
 だが彼は微動だにせず、逆に胸に添えた手の動きを大胆なものに切り替えた。
 鷲掴みにされて、タクトの全身に鳥肌が走った。
「ヤ――」
「ゴホンっ」
 顔を引き攣らせ、頬をヒクつかせた彼の悲鳴に被さるようにして、不意に誰かの咳払いが響いた。
 非常にわざとらしい、そして大きな声に、流石のスガタもハッとして手を止めた。瞳を飾っていた野獣めいた彩も瞬く間に消え失せて、普段通りの彼の表情が戻ってくる。
「た、たすかっ……」
「タクト様のお洋服が乾きましたので、お届けに参りました」
 圧迫感が消え失せて、呼吸が楽になったタクトがぜいはぁ、と息を吐いて呟く。その向こう側では、メイド服に身を包んだタイガーが、己の手元ばかりを見ながら恭しく頭を下げていた。
 いったいいつから、彼女はそこに居たのだろう。
 助かりはしたものの、新たなピンチの到来に、タクトは大急ぎでシーツを掻き集め、頭まで被って自分を隠した。
「ああ、すまない。助かるよ」
「では、失礼します」
 ベッドから下りたスガタが、まるで何も無かったかのように涼しい顔をして、彼女の手から南十字学園の制服を受け取った。アイロンもきちんと掛けられており、シャツは糊が利いてぴしっとしている。
 一礼した彼女が開けたドアの向こう側で、ウサギの耳が震えているのが見えたが、スガタは敢えてなにも言わなかった。
「タクト」
「お前って奴は!」
「まだ熱は高いみたいだから、下がるまでゆっくりしていくと良い」
「人の話を聞いてくれ」
 頼むから、と呟いて、タクトは大きな枕を抱き締めて俯いた。
 その頭を、スガタがぽんぽん、と叩く。彼は笑って、タイガーが届けてくれた制服をタクトの枕元に置き、ベッドの端に腰を下ろした。
 警戒心を露わにしていたタクトは、彼が近付いて来ないと知ると顔を上げ、面白く無さそうに頬を膨らませた。
 朝日が眩しさを言い訳にして目を閉じて首を振り、窄めた口から一気に息を吐く。四肢の力を抜くと、身体を包む布団の心地よさが一層強く感じられた。
「僕を此処まで連れて来たのって、お前?」
「ああ」
 タイガーに恥ずかしいところを見られたのは忘れる事にして、囁くように問いかける。答えはすぐに返って来たが、スガタは振り返ってくれなかった。
「なんで気付いた?」
 タクトは放課後を部室で過ごす事を、誰にも言わなかった。ワコにも、勿論スガタにも。
 だのにスガタは、熱を出して意識朦朧とし、ぐったりしている彼を見つけて、自宅へと連れてきた。
 幾らか語気を強めたタクトにようやく視線を向けて、スガタは控えめな笑みを浮かべた。苦笑とも取れる表情をして、手を伸ばしてくる。
 指は額に触れて、遠くへ流れて行った。
「授業中もぼんやりしてるし、食欲も無いみたいだったからな。心配になって寮に電話をしたら、まだ帰ってきて無いって言われたから」
 保健室を頼らなかったのは、単純に閉まっていたからだ。所在の掴めないタクトを探してスガタが学校に戻った時、時計の針はもう午後七時を指し示していた。
「雨は」
「降っていたよ」
 彼を背負うと、傘はさせない。だからといって、タクトを置いてはいけない。
 スガタがどちらを優先させたかは、現状が物語っている。
 しれっと言ってのけた彼に絶句して、タクトは目を見開いた。そして直ぐに伏して、居心地悪そうにもぞもぞしながら布団に潜り込んだ。
「どうして寮に帰らなかったんだ?」
 己の体調ひとつ管理出来ないようでは、この先も続くだろう綺羅星十字団との戦いに不安が残る。咎める色合いを含んだスガタの問いかけに、彼は背を向ける事で答えた。
 寮は人が大勢いるから、場所を選べばとても賑やかだ。
 だけれどその中にいると、否応なしに自分という存在の孤独を痛感させられた。
 寮に友人がいないわけではない。会えば話もするし、食事の席を共にする仲間だってそれなりにいる。
 だけれど彼らは、タクトが銀河美少年であるのを知らない。胸にシルシを持ち、スタードライバーとして戦っている事を知らない。
 あそこには、タクトの事を本当に理解してくれている存在が、いない。
「タクト」
 出来るだけ優しくあろうと心がけたスガタが、布団に突っ伏しているタクトの肩を揺さぶる。彼はそれを嫌い、追い払って、そして手を伸ばした。
 枕に顔を埋めたまま、きょとんとしているスガタの袖を掴み、引っ張る。
「スガタの馬鹿たれ」
「酷い言い草だな」
 仮にも命の恩人に向かって、この態度。
 素直ではない彼に笑みを零し、スガタはまだ熱いタクトの手をぎゅっと握り締めた。

2010/11/27 脱稿