洋々たれ

 踏みしめた砂利の、スニーカー越しのしっかりとした感触が心地よい。
 テレビで見るような都心部の河川は、両岸がコンクリートで固められて、風情もなにもあったものではない。以前世話になっていた家々も、比較的開発の進んだ地区が多かったので、こんなにも自然が豊かに残る場所は、此処が始めてだった。
 だからだろうか、出会う人々も、妖怪ですら、大らかで、どこか懐かしい純朴さに満ち溢れている。
 藤原夫妻に出会えてよかったと、こんな些細なところから心底思えてくるから不思議だ。夏目は日の光を全身に浴びながら、滔々と流れる水の行方を追い、河川敷をのんびりとしたペースで進んだ。
 傍らには、いつものように猫の姿を借りた獣の妖怪である斑が、着かず離れずの距離を保って存在していた。一応名目上は用心棒であるけれど、最近はすっかり飼い猫姿が板についてしまい、塔子の用意する食事をぺろりと平らげて、体重は増加傾向にあった。
 少しは痩せて貰わないと、抱えるのも一苦労だ。その重さと意外な柔らかい肌触りが、多軌は気に入っているようではあるのだが。
 背中や肩、あまつさえ頭にまで登られる、表向き飼い主である夏目にとっては、彼の体重は命に関わる問題である。眠っている間に布団にもぐりこまれて、腹の上にどん、と居座られた夜などは、漬物石に踏まれている夢を見て魘されて目が醒めたくらいだ。
 白色が基本で、頭から背にかけて朱と朽葉色の二色の筋が走っている。尻尾はテニスボールのように綺麗な丸型で、顔つきはどこまでもふてぶてしい。原型になっているのは、長らく封じられていた招き猫だ。
 斑は白が基調だが、黒が基調のほぼ同じ造詣をした招き猫もあった。当時は妖怪の封印具として、この形の招き猫が流行したのだろうか。
 流行の最先端にいる芸能人で、裏家業として祓い屋も営んでいる男性の顔が思い浮かんで、どうにもうん臭いと夏目は苦笑した。彼がいきなり思い出し笑いをしたものだから、並走していた斑はちょっと変な顔をして、短い首を傾げた。
「どうかしたか」
「ああ、いや」
 たいしたことではないのだと早口に弁解し、夏目は無意識だった自分を恥じて口元を手で覆い隠した。
 帽子でも被ってくれば良かったと、さりげなく話題を逸らして陽光を反射して輝く水面に目を向ける。
 連日の雨で、少しだけ水嵩が増している。流れもそこそこ速い。橋を渡らずとも対岸へ移れるようにと、点々と設けられていた飛び石も、今日ばかりは水中に没していた。
 今無理に渡ろうとすれば、足を滑らせて川にドボン、だ。夏目はまだ良いが、斑だと完全に頭まで水没してしまう。
 それも面白いかと一瞬考えて、下から睨まれているのに気付いて彼は肩を竦めた。なんでもない、ともう一度口にして、額に手をやり眩しいばかりの陽射しを遮る。
 六月が過ぎて、早いことに今年がもう半分終わってしまった。年始に立てた目標の、半分もまだ達成出来ていないというのに。
 時間ばかりがどんどん駆け抜けていって、自分という存在がそこに置き去りにされている感じだ。しかし改めて振り返ってみると、思っている以上に多くの事を経験し、乗り越えて来たのが分かる。
 この地に来てから、実に多くの出会いと別れを経験した。いつも背中を向ける側だったので、自分が誰かを見送る側に立つ日が来るなんて、思いもしなかった。
 昔は誰からも嫌われて、というよりは薄気味悪がられていたから、自分に会いたいという一心だけで小さな冒険を繰り広げ、訪ねて来てくれた子の存在も、胸に温かく、嬉しかった。
 空っぽだった両手は、気がつかないうちに綺麗な宝物でいっぱいになっていた。そしてこれからもどんどん増えていくのだと分かるから、毎日が楽しくて仕方が無い。
 これも、藤原の夫婦に出会い、斑と知り合い、祖母の思い出を引き継ぐことで教わった感情だ。
「いい天気だ」
 梅雨明け宣言はまだ暫く先になろうが、雨の谷間、今日は朝からすこぶる天気が良かった。昨日一日中降り続いた雨で、空の汚れもさっぱりと洗い流されている。深呼吸すると、新鮮な空気が胸いっぱいに広がった。
「なにを呑気なことを。こっちは暑くてかなわん」
 両手を広げて、畳んだ夏目を恨めしげに見やり、斑は辟易した様子でなで肩を一段と落とした。
 猫の身体は小さく、足も短いので地面との距離が僅かしかない。夏場のアスファルトは直射日光を浴びて熱を帯びるので、それが嫌だと彼は言うのだ。
 確かに、一理ある。人間は靴を履くのである程度軽減できるものの、猫に靴、というのは聞いた事が無い。
 なんなら塔子に相談して作ってもらおうか、と話を向けると、そんな格好が悪いことできるか、と何故か怒られてしまった。
 しかしあちこち歩き回ってもらえないと、運動にならない。夏目は細かい粒となった砂利を靴底で潰し、対岸を行く散歩中の人に目を向けた。リードに繋がれた犬が一緒に、楽しそうに走っていた。
 あの犬はきっと、どれだけ暑かろうとも文句を言わないのだろう。それが少し羨ましいと、不平不満ばかりを並べ立てて、挙句腹を見せて仰向けになり、もう嫌だと喚き散らして駄々を捏ねる猫、もとい数百年を生きる妖怪を見詰め、夏目は溜息を零した。
 爪先で頭を小突き、川べりから水面に向かって巨大な肉饅頭を蹴り飛ばす。
「ぬおぉ!」
 完全に油断していた斑は、甲高い悲鳴をあげるとうつ伏せに姿勢を作り変え、肉球の間から爪を伸ばし、無秩序に生える緑の雑草を引き裂いて地面に付きたてた。
「ははは」
 ズズズ、と巨躯を滑らせて、後ちょっとのところで水中に没するところだった彼を見下ろし、夏目は肩を揺らした。
 運が悪ければ本当に川に落ちてしまいかねず、横暴な彼に斑はギラリと目つきを鋭くした。腹を抱えて笑っている夏目を睨みつけ、頭から煙を吐いてプンスカと非難の声を喚き散らした。
 あまりの怒りように、少し悪戯が過ぎたかと、夏目は頬を掻いた。五月蝿かったので、大人しくさせるつもりでやったのだが、逆効果にしかならなかった。
「悪かったって、先生。俺の水無月、分けてやるから」
 先日、塔子が買って来た冷たい和菓子が、まだ冷蔵庫に残っている。ういろうと小豆とを使った三角形をした、見た目にも涼しげな冷菓だ。
 それを思い出して口にして、一歩半近付く。瞬間、耳をピコンと立てた斑は、さっきまでの不機嫌さをどこかへ吹き飛ばし、あっという間に上機嫌になってしまった。
 実に扱い易いことこの上ない。
「また太るかな」
 和菓子ひとつだから大丈夫だと思いたい。どんなに暑さが増しても、食欲だけは旺盛な斑に引き攣り笑いを浮かべ、夏目は更に半歩、摺り足で川辺の斜面を下った。
 大体、招き猫の姿は依り代なのだから、それで太るなんて事、本来は有り得ない。容積が増えれば、依り代である招き猫はヒビが入るなり、破れるなりするのではなかろうか。
 だのに斑の腹はふくふくしていて、顔も身体も艶やかだ。
 これで本来の姿に戻った時は、意外にスリムな顔つきをしているのだから、世の中よく分からない。
 緋色の紋を額に浮かべ、自在に空を駆る妖の姿と、目の前でフーフー言っている巨大な猫とを見比べる。誰が見ても同一人物、ならぬ同一妖怪には思えない。
 以前、朱峰が猫の姿の斑を見て嘆いていたのも思い出して、夏目は斑の腹が作った太い溝に爪先を置いた。
 川の水が押しては引いて、左から右に流れて行く。水深の浅い場所にも草が生え、溺れそうになりながら首を伸ばしているところから、雨が降る前はそこまで水が来ていなかったのだと想像できた。
 日頃は川底に沈んでいるものも、押し流されて此処まで運ばれて来たらしい。藻が張り付いた空き缶や、誰かが落としたと思しきスニーカーの片方までもが、水辺にぷかぷか浮いては、何かの拍子に下流目指して旅立っていった。
「ん?」
 その中に、他のゴミとは少々趣の異なるものが紛れていた。
 身を起こした斑が、酷い目に遭ったと嘆いて顔を舐める。傍らの夏目がなにを注視しているのかに遅れて気付き、四本足でスクッと立ち上がった。
「どうした」
「いや、なんだろう、これ」
 一メートル弱の距離をトトト、と詰めて、膝に両手を置いて腰を屈める夏目の横につく。生い茂る雑草に引っかかって水面にたゆたうのは、人の形を模して切り抜かれた紙だった。
 名取が使っていたものに、良く似ている。術で無理矢理夏目を捕らえ、運んだ時に彼が用いたのものなどは、これが一枚ではなく複数、まるで手を繋いでいるかのように並んでいた。
 見た目からして呪術的な臭いを感じさせて、不用意に触れるのを躊躇させる。しかし好奇心に負けて、彼はそろり、手を伸ばした。
「イテッ」
 それを横から、斑が爪の出ている手で叩き落した。
 甲を引っかかれ、白い筋が三本皮膚に走った。血は出ないが、いきなりだったので吃驚してしまい、つい声が大きくなった。
 熱を持った傷口が、ヒリヒリと小さく痛む。顔を顰めて足元を見下ろした夏目は、ジャンプ一番、綺麗な着地を披露した斑に足まで踏まれ、大股に一歩後退した。
 水際で人の形をした紙が揺れている。ゆらり、ゆらりと当て所なく、どこか心細げに。
「なにするのさ、先生」
「迂闊に触れるな」
 利き手を左手で庇い、肩を引いて咄嗟に構えた夏目の不用意さを糾弾し、鋭い声を発して彼は夏目とヒトガタの間に割り込んだ。
 狭いスペースに大きい身体を捻じ込まれて、仕方なく彼はもう一歩分後退し、膝を折った。
 川辺にしゃがみ込み、釈然としない顔で眉間に皺寄せている斑を見詰める。そんな彼の警戒心のなさを一頻り叱り飛ばして、人間ならば老齢の域をとっくに通り過ぎている妖怪は、ぜいはぁ、と息を吐いた。
 総合すると、結論はひとつ。
 夏目は甘い、それだけだった。
「……で、結局なんなんだよ、これ」
 紙切れ一枚拾おうとしただけで、ここまで言われるのは納得がいかない。確かに名取が使っていた式神は、色々と便利である反面、扱い方ひとつでは危険な代物に成り果てるけれど、見たところこれは、彼が使っていたものとは異なっている。
 悪意めいたものも感じない。無害だと、夏目の本能が告げていた。
 それなのに斑は、キッと眦を強めて彼を威嚇すると、数秒の間を置いて深々と溜息を吐いた。
「六月の晦日が終わってからどれくらい経つ」
「晦日って、年末の?」
「ちっがーう!」
 斑の問いかけに、即座に師走のカレンダーが思い浮かんだ。それだとほぼ半年、と言いそうになって、横からキーンと来る大声で怒鳴られて、夏目は顔を顰めた。
 確かに斑は六月の、と付けはしたが、それだけでは何のことだかさっぱり分からない。
 苦虫を噛み潰したような顔をした彼の無学ぶりを憐れみ、斑は見ていて腹が立つ顔で目を細めた。
「晦日とは、その月の最終日のことだ。十二月は一年の最終だから、大がつく」
「ああ、なるほど」
 そういう説明ならば、理解出来る。思わずぽん、と手を打って頷いた彼に盛大な溜息を吐いて、斑は彼の膝を叩いた。先ほどの質問に戻り、今日が七月に入ってから何日目かを求める。
 指折り数え、まだ一週間過ぎていないと教えてやれば、ひとり思考を巡らせて納得顔で彼は頷いた。
「先生?」
「ならば、間違いあるまい。触れるなよ、穢れが移る」
「ケガレ?」
「お前は本当に何にも知らんな」
 六月の晦日といえば、一年を通してなかなかに重要な日だ。折に触れて妖怪と関わりあいを持つ夏目にとっても、無論。
 抽象的過ぎる表現に首を傾げ、夏目は何かあっただろうかと視線を浮かせた。
 青空に白い雲が泳ぎ、鳥が複数羽、群れを成して南へと翔けていく。河川敷を上がったところにある道路を、車が一台通り過ぎていく。次の橋まではまだ遠く、砂利道には彼ら以外人の姿はなかった。
 どこかでラッパの音がする。練習中だろう、時々音程が狂っていた。
「夏越の大祓のヒトガタだ」
 また耳慣れない単語が飛び出して、夏目は口を窄めた。
 腰を下ろし、楽な姿勢を探して座り込む。三角に立てた膝に肘を置けば、肩幅に開いた足の間からにゅっ、と斑が顔を出した。
「なんだよ、それ」
 確かに夏目は、色々と無知だ。妖怪に関しても、斑たちと知り合うまで殆どなんの策も講じてこず、危うくなれば殴って逃げるくらいしかしてこなかった。追い払う術、近寄られなくする術があると知ったのも、此処最近の事。
 もっと早くにそういう知識に親しめていたなら、幼少期の苦労も半減していたかもしれない。だが、もしもの話をするのは、総じて無意味だ。
「六月と十二月の晦日に、半年分の厄を祓う儀じゃ」
 何故人間よりも、祓われる側の妖怪である斑が詳しいのか。本来は逆ではないかとプンプンしながら、斑が言った。それでピンと来るものがあって、夏目は彼の頭を撫で、既に薄れ始めている引っ掻き傷に相好を崩した。
「茅の輪くぐりの?」
「なんだ、知っておるではないか」
 自信ないままに呟けば、斑は若干声を高くして耳を折った。ゴロゴロと喉を鳴らし、自分からも夏目の手に顔を寄せて、もっと構えと態度でねだって来る。こういうところは本物の猫みたいで、喉を擽ってやれば、こそばゆかったらしい、彼はその場でひっくり返った。
 夏目も天を仰ぎ、燦々と照る太陽の光を全身に浴びた。
「この前、テレビでやってた」
 夕食の前に見たニュースで、京都かどこかの神社の光景が映し出されていた。その際に流れたアナウンサーの説明も、そういえば確かに「夏越の祓」と言っていた気がする。
 しかしそれと、このヒトガタとでは随分な落差がありすぎて、二つの事柄は未だ夏目の中で結び合わなかった。
 それを、想像力が足りないと言いきり、斑は丸い尻尾を彼に向けた。
「先生」
「夏越の祓は穢れを祓う。それは分かるな」
「ああ」
 テレビでも、簡単にではあったが、そういう説明がされていた。半年分の凶事を、この輪を潜ることで祓い清めるのだという。ただ中を通り抜けるだけで厄が落ちるなんて、なんてお手軽なのだろうかと、見ながら思ったのさえ思い出された。
 この辺にはそういう風習はないのかと塔子に聞けば、あったかもしれないけれど、今はどこもやっていないのではないかと、そう言われた。夏目が世話になっていた遠戚の家々の周囲でも、なかったように思う。
 自分には縁遠い話だと、漠然と考えていた。よもやこんなところで、それに関わる事物に遭遇しようとは、夢にも思うまい。
「つまりこれは、依り代だ」
 ぼうっとしていたら、斑が急にそう言った。
 その「つまり」は何処に掛かるのか、直ぐに理解出来ない。目を丸くして頬杖を崩した夏目の、吃驚している顔を鼻で笑い、斑は長く伸びた草の根元を掴み、その先端で水面に漂うヒトガタを小突いた。
 直接触れるのは駄目でも、これは良いらしい。
 興味が沸いて腰を浮かせ、摺り足で近付く。斑に覆い被さる形で覗き込むと、真上に来られるのを嫌がった彼に顎を頭突きされた。
「いって」
「軽々しく後ろに立つな」
「最近我が儘だぞ、先生」
「ふーんだ」
 グキッと首の骨が鳴って、脳天まで響いた衝撃に呻いて尻餅をつく。握り拳を振り回して非難轟々責め立てるが、斑は頬をぷっくり膨らませると拗ねた顔をしてそっぽを向いてしまった。
 そんな顔をしたいのはこちらだと、忌々しげにして夏目はジンジンする下顎を撫でた。
 紙人形、ヒトガタ、依り代。
 祓えの儀。
「……あ」
 痛みを堪えながら、斑から聞かされた説明をひと通り頭の中で繰り返し、くるくると回しているうちに、何かが閃いた。
 ぴこん、と音立てて赤いランプに光が灯る。再び腰を沈めて頬杖作っていた彼は、掌から若干赤い顎を浮かせて目を点にした。
 表情の変化をつぶさに見ていた斑が、やれやれと呆れ調子で首を振った。しかし今なら、彼がこんなにも人を馬鹿にするのも仕方が無いように思えてしまった。
 単純な構図だ。
「雛流しか」
 ぼそりと呟き、斑を見下ろす。彼は丸くなって寝そべっており、何の反応もしてくれなかった。しかし間違いっていれば直ぐに訂正が入るはずで、この解釈で正しいというのは楽に想像がついた。
 へえ、と感嘆の息を漏らして夏目は改まった気持ちでヒトガタに目を向けた。
 これは先月の末に、上流に住む誰かの厄を引き受けて、川に流されたのだ。
「でも、洗い流せてたら、別に触っても」
「だから御主は、馬鹿だと言うのだ」
 あんな風に警戒せずとも、一度は川へ放たれたもの、穢れは清められているに違いない。そう言えば、斑はもぞりと頭を擡げて不貞腐れた声を出した。
「どうやって祓われているかどうかを見分けるんだ」
「ああ。それも、そっか」
 確かに夏目は、類稀なる霊力を持ち合わせているけれど、呪術的な知識はあまり豊富ではない。誠実そうに見えて、実は悪意の塊のような妖怪に簡単に騙されてしまうような彼だから、野生の勘も頼りすぎるのは危険だ。
 大丈夫と思い込んで、手痛いしっぺ返しを喰らうのは避けたい。君子危うきに近寄らず、薮を棒で突いてわざわざ蛇を出す必要もない。
 これだけ言われてやっと、納得、と頷いた夏目に肩を落とし、斑はテニスボール大の尻尾を左右に揺らした。砂地に生える青臭い雑草に寝転がり、眠そうに欠伸を漏らす。
「先生、こんなところで寝たら、日焼けして黒ニャンコになるぞ」
「喧しいわ」
 依り代も日焼けをするのだろうか。いつぞやの黒バージョンを思い出して、夏目は左膝を伸ばして地面に足を投げ出した。
 爪先の更に向こう、依然緩やかに流れる川の縁で、それまで根性出して草にしがみついていたヒトガタが、不意に大きく波を打った。ぱしゃん、と水の跳ねる音がして、あっと思う間もなく水中に没してしまった。
 思わず身を乗り出して固唾を飲み、経過を見守るが浮いてこない。五秒待っても変わらず、十秒過ぎても同じだった。
 幻でも見たかのように、綺麗さっぱり、誰かの穢れを引き受けた依り代は消えてしまった。
「あーあ……」
 今の今まで目の前にあったものが忽然と消えてしまうのは、それが有益無益に関わらず、心情的に勿体無い、と感じてしまうのは否めない。無意識に声を出して伸ばした背筋を丸めた彼をちらりと見て、斑は大きく欠伸をし、眠そうに目尻を擦った。
 あの形代は、穢れを清める旅の途中だったのだ。疲れたので此処で小休止して、また川の流れに従って母なる海を目指して行った。そう思うことにして、夏目は夢見がちな自分に苦笑した。
 それにしても、である。
「形代か」
 ボソリと自分にだけ聞こえる音量で呟き、傍らで昼寝の体勢に入りつつある巨大な猫を見やる。
「寝るなよ、先生。置いてくぞ」
「五月蝿いわい」
 用心棒なのだからちゃんと働け、と頭を叩くが反応は鈍かった。
 夏目の食事をかっぱらったり、塔子に迷惑をかけたり、滋に悪戯を仕掛けたり。大酒飲みで、この前は酔っ払って転んで障子を破いた。泥に汚れたまま玄関から上がりこんで、廊下を泥まみれにした事もある。人の布団にもぐりこんでは、涎を垂らしてまるで人がオネショをしたような形に濡らしてくれて、あらぬ誤解を受けたことも。
 色々考えてみれば、夏目に降りかかる様々な厄介ごとのうち、八割方が斑絡みだ。
「……うん」
 今日もこのまま寝入られたら、口では置いて行くと言いつつも、見捨てて帰るわけにもいかない。そうなれば抱いていくしかなく、そもそもの目的である散歩――斑のダイエットは達成出来ないわけであり。
 諸悪の根源は、つまるところ。
「そうだな、祓うべきだ」
「ニャ?」
「先生、厄払いって日にちが過ぎてても有効かな」
「知らん。自分で確かめい」
 ぽん、と柏手を打った彼に、のろのろと斑は顔をあげた。よほど眠いようで、瞼を重そうにしている彼を横目で眺め、夏目は訊いた。投げやり気味な返答に苦笑して、そうか、と相槌を返す。
 彼は立ち上がった。ズボンの汚れを払い、背筋をぐっと反らして骨を鳴らす。
 そうしてやおら、丸まっていた斑を抱きかかえた。
「ぬおぉ、夏目。貴様、なにをする」
「そりゃ決まってるじゃないか」
 今自分で言ったくせに、もう忘れるとは痴呆の始まりだ。
 からからと楽しげに声立てて笑い、夏目は抱えた斑を頭上高くまで掲げ持った。
 危機を感じてじたばた暴れまわる彼を逃さず、腹に力を込めて両腕で思い切り振りかぶる。
「やめんかぁぁぁぁぁぁぁあ~~~~~~~れ~~~~~」
 川の真ん中でぼしゃん、と巨大な水柱が立ち上り、バシャバシャ言う音と共に絹を切り裂くような可憐な悲鳴が次第に遠くなっていく。
 これで自分の厄は清められたと、夏目はひと仕事終えた爽快感に浸って額の汗を拭った。
「さ、帰ろう」
「なつめー! いやー、たすけてーーー」
 必死に自分を呼ぶ声を無視し、爽やかな笑顔を浮かべて踵を返す。
 夕飯前、ずぶ濡れになってどうにか帰って来た斑は、たっぷり運動したからだろう。
 ほんの少しだけ、軽くなっていた。

2009/07/05 脱稿