太陽が南から西へ傾ぎだしてはいるものの、遥か彼方の稜線に下辺が到達するにはまだ少し、猶予がある時間帯。
高らかと鳴り響くチャイムに背中を押され、夏目は慌しく帰り支度を整えて立ち上がった。
なにかと気忙しい高校生に、何代にも渡って使い回されてすっかり草臥れてしまっている椅子が、やはり年季が入って汚れがこびり付き、飴色になっている床を擦りつける。ガタガタと喧しい音が胸部にまで伝わって、机に寝かせていた鞄を起こした彼は、靴底で木目がはっきりと見える床板を叩いた。
「なつめー」
「うん?」
教室の出入り口から声がかかり、肩越しに振り返る。視界に入ったのは、同じく帰り支度を済ませた西村と北本だった。
にこやかな、人好きのする笑顔を浮かべているふたりに小首を傾げ、夏目は鞄を右肩に担ぎ上げた。椅子を机の下に押し込んで自席を離れ、各々の目的地へ急ぐ生徒らでごった返す後部扉を目指す。
セーラー服の女子が仲良く雑談している横をすり抜け、
「なに?」
十秒とせず辿り着いた戸口で、待ち構えたふたりに問いかけた。
「夏目、今日暇か? 新しいゲーム買ったんだけど」
「そうそう、話題の超大作って言われてるアレ」
早速早口に捲し立てた西村は、気が急くのかその場で駆け足をしていた。交互に足を踏み鳴らす彼の身体は上下にぴょこぴょこと揺れており、あわせて髪も、リズムを刻んで外向きに跳ね動いていた。
北本も興奮気味に頬を紅潮させており、鼻息は荒い。そんな彼らを交互に見て、夏目はずり落ちかけた鞄を握り締めた。
「ごめん。今日はちょっと」
「えー」
誘ってくれたのはありがたいのだが、先約がある。そう言葉少なに告げると、途端に西村から非難めいた声があがった。
両腕を真下に伸ばし、背筋を伸ばして夏目に突っかかってくる。断られるのを予想していなかった彼の反応に苦笑し、夏目は右頬を爪で引っ掻いた。
「いや、あの」
「最近、夏目、付き合い悪いぞ」
小学生のように駄々を捏ねる西村に困惑して、傍らの北本を窺い見る。彼は西村ほど露骨ではなかったが、確かにここ数日、学校が終わると真っ直ぐ家に帰る夏目に、多少の不満を抱いている様子が感じられた。
何かあるのか、と目で問われ、夏目は肩を竦めた。
「雛を……鳥、の。拾ってさ」
「鳥? ああ、例の卵の。孵ったんだ?」
「そう。それで、世話をちょっと」
以前に学校で、鳥の卵を孵すにはどうすれば良いのかと、クラスメイトに聞いて回った事があった。その時の事を、北本はまだ覚えていたらしい。夏目の小声の返事に納得した様子で頷き、それならば仕方が無い、と理解を示してくれた。
あれは本当に、些細な会話の一端でしかなかった。夏目も雑多な日々の出来事に明け暮れて、当時の記憶などとうに埋没して久しかったのに。
言われて思い出した、という風ではあったが、忘れずに心のどこかに留め置いていてくれたことが、少し嬉しかった。
「えー。けどさ、鳥の世話だったら別に、塔子さんに頼んでおけばいいじゃないか」
一方の西村は、まだ了解しかねると頬を膨らませてあれやこれや、文句を連ねている。
諦めの悪い彼に苦笑いを返し、夏目は鞄を肘と脇で挟んで身体を揺らした。
「塔子さんには内緒にしてるんだ」
「なんで?」
「う、いや……」
まさかただの鳥ではなく、妖怪の稚児を育てているとは、口が裂けてもいえない。タマを匿っているのは塔子にも内緒で、その事実を深く考えもせぬまま告げた夏目は、即座に切り返された西村の疑問に言葉を詰まらせた。
理由を聞かれても、説明出来ないから誤魔化そうとしていたのに。
墓穴を掘ってしまい、夏目は鞄を持つ手に力をこめた。
「おいおい、夏目が困ってるだろ」
助け舟を出したのは北本で、前に出掛る西村の肩を取り、教室を出ようとしていた生徒に道を譲るように促した。一緒に夏目も廊下に出て、西日が差し込む窓辺に寄った。
濃い影が三つ、年季の入った廊下で重なりあうようにして仲良く並んだ。
「う~」
仲裁が入っても、まだまだ承服しかねている西村が、恨みがましく夏目を睨んでいる。
彼の気持ちも、全く分からないわけではない。タマの卵を保護して以降、門柱に記された不気味な文字という気がかりもあって、夏目は学校が終わると即座に藤原の家に帰る日々が続いていた。
あの数字は雛が孵るまでのカウントダウンであり、記したのはタマを――辰未を狙う妖怪だった。
偶然が重なり、雛を育てることになった夏目は、同時にあの子を狙う妖怪を敵に回す羽目に陥った。日中は斑が面倒を見てくれているが、サボり癖がある彼の事だ、気が抜けない。
出来るものなら、あの子を守ってやりたいと思う。見た目の愛らしさも無論あるが、懸命に夏目を慕ってくれているその姿に、親に捨てられた自分をどうしても重ねてしまうから。
幼い頃の自分は、理不尽な環境に甘んじるほか生きる術がなく、世話してくれる家の人に少しでも気に入られようと必死だった。それがいつからか諦めに変わり、全てにおいて疲れてしまった。
気持ちが変わったのは、藤原の家に引き取られてからのこと。だから人として、人らしい生活を送れるようになったのは、つい最近の事だ。
タマには、あんな思いをさせたくないし、して欲しくも無い。出来る限り一緒に過ごして、愛情を注いでやりたい。たとえ実の親に見放されようとも、必ず誰かが隣に寄り添ってくれるものなのだと、教えてやりたかった。
「悪い。ゲームは、また今度」
「だったら、さ。雛連れて来いよ。そんで」
諦めが悪すぎる。両手を上下に振って、尚も食い下がる西村には、夏目も北本も失笑を禁じえなかった。
最後は北本に頭をポカリと叩かれて、彼はやっと引き下がった。
「雛、可愛いか」
叩かれた箇所を撫でさすり、上唇を噛み締めている西村に代わり、北本が言葉を発した。夏目は頷き、目尻を下げて笑い返した。
「ああ。ちょっと悪戯が過ぎることもあるけど」
新聞やちり紙をバラバラに引き千切り、巣を作った時は本当に吃驚した。後片付けのことなど考えず、本能に従うままに作ったのだろう。あの独特な形状も、あるのかどうかは分からないが、辰未の遺伝子に刻み込まれたものだったに違いない。
教えずとも、子は育つ。ふとそんな言葉が浮かんで、夏目は複雑な気持ちになった。
「そっかー。俺は無理だな」
背筋を後ろに反らし、後頭部を壁に押し当てた北本が天井を仰ぎ見て呟く。隣の西村も頻りに頷いて、同意を示していた。
「なにが?」
「動物の世話。しかも雛だろー」
ひとり分かっていない夏目が首を捻る。左手を広げて胸元で振った北本に、嗚呼、と頷いて彼は肩を竦めた。
「そうたいして、手間は掛からないよ」
「そうかー?」
本物の鳥の雛だったなら、違ったかもしれないが。
辰未は自力で歩くし、人の言葉もある程度理解している様子だから、世話は楽だ。確かに部屋中を荒らし回ったりもするが、一度叱ると悪いことをしたのだと学んで、以後はしなくなる。サイズが小さいので、添い寝をしていると寝返りを打った時に潰してしまいそうになって不安なのが、目下最大の悩みだ。
「今度、見せてくれよな」
「覚えておく」
ふたりは、夏目が育てているのが鳥の雛だと疑わない。実際には見せてやれるような生き物ではないのだが、無碍に断れば怪しまれるので、無難な返事を選んで彼は頷いた。
会話が一端途切れる。余計な時間を食ってしまったと、夏目は西に傾く太陽に目を細めた。
「けど、夏目ん家、猫いるだろ。平気なのか?」
帰ろうと鞄を揺らしたそのタイミングで、不意に西村が言った。
聞いていた北本も、そういえば、と視線を泳がせて不審気味に夏目を見る。
猫は鳥を獲る。しかも夏目が飼っている(と世間一般には思われている)猫は、通常の猫よりも容積が三倍近くありそうな、規格外サイズの巨大さをしていた。
鳥の雛などひとくちで、ぺろりとやってしまえると、ふたりは揃って思ったらしい。その言葉、本人が聞けば憤慨して飛びかかってきそうだが、幸いにも聞き耳を立てる存在はなかった。
斑にそんなイメージがあったのかと苦笑して、夏目は顔の前で手を振った。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと言い聞かせてあるから」
むしろ現実は彼らの心配とは逆で、夏目が学校に行っている間、タマの世話は全て斑に一任している。まだあの子が卵だった頃から、日がな一日温め続けてくれていたのだから、どれだけ感謝しても足りないくらいだ。
今頃何をしているだろう。タマも成長して、部屋の中で遊ぶには少し手狭になってきているが、外を自由に歩き回らせるのは少し不安だ。
斑がついていれば大丈夫だと信じているものの、うっかりしているところもあるので、油断出来ない。急いで帰るに越した事は無いと、夏目は今度こそふたりに手を振り、廊下を歩き出した。
校舎を出るところまではどうせ道程も一緒なのだから、共に行けば良いのに、そこまで頭が回らない。足早に廊下を突き進んで階段を駆け下り、最後の三段は一気に飛び降りて、夏目は正面玄関を潜り抜けた。
燦々と照る太陽の輝きも、正午前後に感じた厳しさは薄れて、幾分柔らかい。
もうじきすれば、夕暮れがやってくる。そうなれば陽射しは益々穏やかになって、優しい夜闇が空を覆い尽すのだ。
暗い世界は、嫌いだった。それが怖くなくなったのは、いつからだったろう。夜眠る時に、孤独を感じずに済むようになってからだと思う。ひもじさと寒さに、足の先まで強張らせて震える必要がなくなってからだ。
今の自分には、寄り添い共に眠る存在がある。慈しみ育んで生きたいと心から願わずにいられない、小さな命が。
「けど、いつかは」
夏目は辰未の生態を多くは知らない。今はまだ小さいが、日々確実に、少しずつ大きくなっている。いずれ人とそう違わぬ大きさにもなろう。そうなれば寝床や衣服、食事の面倒が倍増する。塔子に黙っていられるのも、そう長くない。
人の子もいずれ親元を離れるように、タマもやがては夏目のもとを離れ、遠くへ飛んで行ってしまうのだろう。
巣立ちは喜ぶべきことだ。けれど同時に、切なく、寂しい。
自分は笑って見送ってやれるだろうか。向き合って送り出してやれるだろうか。まだ十五を少し過ぎたばかりの年月しか生きていないというのに、すっかり親の気分になっている自分に気付き、夏目は緩慢に笑った。
自分の影を追いかけて、緩やかな坂道を下っていく。左手に緑鮮やかな田園風景が広がり、吹く風に煽られて、細波のように揺れながら静かな音楽を奏でていた。
鞄を脇に抱え、罅割れたアスファルトの隙間から伸びる逞しい雑草を飛び越えて避ける。靴底から伝わってくる固い衝撃を膝で吸収させてやり過ごし、彼は汗が滲む額を撫でて詰襟のホックを外した。喉元から風を入れ、深呼吸を二度繰り返す。
早く帰ろうと思うのに、今のこの時間が愛おしくてならず、ゆっくり、ゆっくりと一歩を踏みしめて行きたいと願っている。
この一歩ずつが、他ならぬ夏目貴志という存在の記憶に繋がるのだ。
アスファルトから土が固められたわき道に逸れ、踝までを覆う雑草が生い茂る中を行く。ズボンの裾が汚れるとかいう考えは起こらない、いつもは通らない道を、今日は何故だか無性に歩きたくて仕方が無かった。
トンボが飛んでいる。虫を追いかけ、小学生らしい子供らが歓声をあげて駆け回るのが遠くに見えた。
長閑で、だからこそわけもなく泣きたくなる。
「急がないと」
口ではそういうのに、足は少しも焦りを生み出さない。西村たちとの会話をなんとなしに振り返りながら、いつか彼らにも、立派に成長したタマの姿を見せたいとさえ思っていた。
言える日が来るだろうか。自分の事を、彼らに。
タマに会わせろと言われた。ならばそれは、彼らがタマに会いたいと思っているということだ。ただの鳥の雛と信じているからこそ言えた言葉かもしれないが、タマの事を知らない彼らにも、あの子が少なからず想われている証拠にもなろう。
それが嬉しい。
無意識に笑みが零れる。自分で自分を気持ち悪いと思いながらも止められず、緩んだ口元を片手で隠し、夏目は長く伸びた地表の影に丸いものを見つけて後ろを振り返った。
「なつめー!」
「うわっ」
聞き慣れたしゃがれ声が響き、草葉の陰から現れた巨大な物体に、彼は大声を上げて仰け反った。
通学鞄を落とし、胸元に飛び込んできたものを両手で受け止める。それでも衝撃は来て、立っていられなくなった彼は畦の上で派手に尻餅をついた。
「いってぇ……」
強かに打ちつけた臀部を庇い、目の前に散った星を払い除けて蹲る。屈みこんだ彼から滑り落ちた物体は、夏目の足の間に留まり、彼の根性の無さを嘆き哀しんだ。
これ見よがしに色々と悪口を並べ立てられ、温厚を気取る夏目も額に青筋を立てて頬を引き攣らせた。
「なんだと、このデブ猫!」
「にゃんだと! 私のこの華麗なボディラインを理解出来んとは!」
モヤシだのミミズだの、人間ですらない動植物に例えられたら、誰だって怒る。罵声をあげて拳を作った夏目に怒鳴り返し、額から背にかけて朱と朽ち葉色の二色の筋模様を走らせる、招き猫を依り代とする自称高貴な妖怪である斑は、短い四本の足を交互にばたつかせ、夏目に飛びかかろうとして額を押さえ込まれた。
それ以上前に行けず、ふがふが言いながらそれでも尚、暴れ続ける。流石に押し留め続けるのも疲れてきて、夏目は肘を外側に軽く折り曲げて彼の進路を誘導した。
力の向かう先を斜めにずらされ、夏目の掌から斑の頭がすっぽ抜けていく。勢い余って畦道を転がり落ち、草生い茂る休耕地に突進していった彼を笑い、夏目はズボンの汚れを払って立ち上がった。
落とした鞄を拾い上げ、草地に溝を作ってひっくり返っている斑を見下ろす。
「何やってんだよ、先生」
「喧しいわい!」
仰向けでじたばたしているのは、腹が丸すぎてうつ伏せに戻れないからだ。それでも何度となく体を左右に揺さぶっているうちに、バランスを取ってどうにか天地を正しく作りかえることが出来た。
無事に姿勢を戻せたことにホッとして額の汗を拭い、のたのたと愚鈍な足取りで、短いが急峻な坂を登ってくる。よいしょ、と年寄りくさい掛け声をひとつあげて夏目の足元まで戻った彼のふてぶてしい顔に、何故だか無性に腹が立って、夏目はその狭い額を指で弾き飛ばした。
「ぬおっ」
折角登ったばかりの坂をまた転げ落ち、再び腹を出してひっくり返った亀と化した彼を声立てて笑う。罵詈雑言を並べ立てられた恨みはまだ晴れていないのだぞ、と宣言した後、胸を反らせた夏目は、ふとある事を思い出して周囲を見回した。
涼やかに風が吹き、煽られたトンボが透明な羽を懸命に動かして空中で姿勢を保っていた。
「先生」
猫の姿を模した斑の俗称を呟き、夏目は背伸びをした。見える筈もない藤原の家を探し、此処との距離を素早く頭の中ではじき出す。
「タマは?」
辰未の雛にして、鼠の妖怪に狙われている稚児。まだ世の分別もつかず、愛らしい姿を振り撒いて庇護欲をそそらせることしか出来ない、弱い存在。
なにかに守られねば生きていけない、小さな命。
斑が傍についているから、夏目は安心して学校に通えるのだ。ところがその、肝心のタマの姿は無く、斑だけが此処に居る。
家に置いてきたのか。ひとりきりにしたのか。
それがいかに危険な行為か、分かっているはずなのに。
「先生!」
「喧しい。大声を出すな」
握り拳を胸に押し当て、夏目は血相を変えて叫んだ。足は今にも駆け出しそうで、流行る心を理性が必死に押し留めている。
斑は飄々とした態度を崩さず、焦り苛立つ夏目に落ち着けと告げた。そんな暇さえ惜しい彼が地団太を踏む様を眇めた目で見上げ、無い肩を落として溜息を零す。
「夏目」
四足で起き上がった獣は顎をしゃくり、見ろ、と彼からみて右手を示した。
背の高い草が密集する一帯で、なにかが動いている。姿は見えないがガサガサと葉が揺れており、それは右に左に泳ぎながらも着実に夏目の方へ近付いていた。
警戒心を抱き、夏目は僅かに腰を低くする。しかし斑が動かないので危険なものではないと思い直し、じっくり観察しようと前屈みになったところで。
「っ」
きゃっ、という可愛らしい声が彼の耳に届いた。
夏目からすれば小さく、その存在からすれば巨大な草を右に押し退け、タマが開けた視界に目を輝かせて立っていた。
緋の襟に薄紅の衣、着物を模した裾も長く横に広がった衣服を身に纏い、鮮やかな金色の髪からは角が二本、左右に伸びている。途中で枝分かれしているそれは伝説に名高い龍の角にも似た形状をしているが、触れれば簡単に折れてしまいそうなほどに細く、見た目は非常に貧弱だった。
大粒の瞳に、愛らしい容姿。満面の笑みを浮かべて草むらから駆け出したその子の姿に、夏目は反射的に膝を折ってしゃがみ込んだ。
両手を広げて待ち構えれば、斑を真似てか全力で突進してきた。但しこちらは受け止めるのに苦労せず、尻餅をつくという醜態を晒すことも無かった。
夏目の手に包まれて、抱き上げられる。胸に寄せるとべったり張り付いて、頬擦りまでして甘えてきた。ゴロゴロと喉を鳴らして、まるで猫のようでもある。斑に似たのだろうか。
あまり変なところまで真似して覚えないで欲しいと願いつつ、自分からも土を払い落とした指で頭を撫でてやる。嬉しげに目を細めるタマの笑顔に、ささくれ立とうとしていた心は急速に和いで行った。
「迎えに来てくれたのか」
「散歩のついでだ」
鞄を抱え直し、右肩に乗せてやる。斑はタマを外に連れ出した事を悪びれもせずに言い、細長く伸びる自分の影を踏んで顔を家への道筋に向けた。
しかし、どうやって夏目の居場所を探し出したのだろう。現在地は登下校に使っている道からは若干逸れている。此処は通りからは少し低い位置に当たるので、上から見下ろせば姿が見えないことも無かろうが、斑の背は最初から低いのだ。
本性の白い毛をした姿に戻れば自由に空を駆るのも可能だが、であれば早々に夏目が彼を気取っているはずだ。
ならば偶然の賜物か。そんな出来すぎたこと、起こりえるとは思えないのだが。
「タマがこっちに行きたがったんでな」
小さな、小さな妖怪の目には、一反の休耕地であっても広大無辺の世界に映る。懸命に両腕を伸ばして天を仰ぎ、いつか遥か彼方の高みに届くと信じている草花も、この子にとっては初めて目にするものに他ならない。
「そっか」
偶然だとしても、必然だとしても、こうしてこんな場所でめぐり合えたのは何かの縁だ。数奇な運命の輪で、自分たちは繋がっている。そう思うことにして、夏目は表情を和らげた。
タマの髪を爪の先で梳いてやると、くすぐったいのかケラケラと声を立てて笑った。落ちそうになるのを手で覆って庇ってやり、歩き出そうとして前脚を繰った彼は、先を行く斑の背中に落ちる夕日に目を細めた。
「そういえば、北本たちが、タマに会わせろって」
「話したのか?」
「前に、卵を孵す方法を訊いて、それで覚えてたみたいだ」
「会わせるのか?」
唐突に話し出した夏目に相槌をうち、斑が質問を投げ返す。彼は四つ足の獣のペースにあわせながら、畦道を慎重に進んだ。
影が揺れる。西の稜線に隠れるように、朱色の雲が棚引いていた。
「いや。けど、いつかは」
立派に成長して、旅立っていったという話なら、してやれるだろう。そしてタマにも、教えてやりたい。
直接会ったことはなくとも、案じてくれる存在がある事を。たとえ交流を持たずとも、優しい人たちがどこかで必ず、その無事を祈って想ってくれていることを。
小さな、とても小さな命に、救われた魂があるという事を。
「タマ」
小声で名前を呼ぶ。自分のことだと認識している辰未の雛は、夏目の頬を撫でて小首を傾げた。
なんでもない、と首を振り、夏目は道を急いだ。思いがけず時間を食ってしまった、夕飯までに宿題は終わるだろうか。
朗らかな塔子の笑顔が瞼の裏に浮かんだ。寄り添う滋の姿が、顔も知らぬ父親の姿に重なって、消える。夏目は断りもなく浮かんだ涙を振り払い、斑を急かし、アスファルトに覆われた大地を蹴った。
いつか育んでくれた場所から巣立つときが来ても、共に過ごした記憶は消えない。
だからどうか、忘れないで欲しい。愛し、愛されていた時間の事を。自分が居ることで、誰かが幸せを感じて笑ってくれたという事を。
それさえ忘れなければ、たとえ進む道が別れることになろうとも。
きっと、寂しくはないのだ。
2009/05/11 脱稿