黄昏時は別名、逢魔が時とも言う。
いわば、魔に遭う時間帯。だけれどその頃はまだなにも知らなくて、夕暮れが夜闇に沈む一瞬を過ぎても、ふらふらと外を歩き回っていた。
帰りたくなくて、けれどあまり遅くなると五月蝿く言われるので、完全に日が沈みきってしまう前に帰らなければいけない。
連れだって公園から走り去る同年代の子供らを見送って、夏目は古ぼけたランドセルを手繰り寄せた。
青いペンキも剥げた古びたベンチが、最近の彼の指定席だった。半年前にこの町に引っ越してきて、最初こそ転校生が珍しいと話しかけてくる子も多かったけれど、三月もすれば半減して、今ではひとりも近付いてこない。
彼らは口を揃えてこう言う。夏目は嘘つきだ、と。
前の学校、前の家でも頻繁に投げつけられた台詞を、ここでも毎日のように聞かされた。その言葉にはもう慣れてしまって、今更気にも留めないけれど、突き刺さる奇異の視線だけはどうしても耐性がつかなかった。
怖い思いをしているのは自分の方なのに、震え怯える自分を大勢の人が怖がっている。誰も分かってくれない、助けてくれない。
「……ただいま、帰りました」
玄関の戸を恐々開けて、掠れる小声で告げる。奥からは誰も出てこない、戸が開けっ放しのリビングから聞こえる笑い声に掻き消されてしまって、届かないのだろう。
夏目はそちらにちらりと目を向け、汚れて真っ黒な靴を脱いだ。上がり框で一旦止まり、薄気味悪い体温が残る踵がすり減った靴を隅の方に、申し訳なさそうに揃えて置く。
「こーらー、五月蝿いわよ。静かにしなさい」
この家の子供達を叱り、この家の母親が喧しく声を荒立てる。貴方の声の方が余程大きいではないかとは、とても言えない。
二階へ続く階段を登ろうとしたところで、エプロンの女性が彼に気付いた。握っていたオタマを下ろし、わけも分からないものを見る目で夏目を睨んだ末、ぷいっと逸らす。
そのまま何も言わず、キッチンへ戻っていった母親の態度に、居間で騒いでいた、まだ小学校低学年と幼稚園の兄妹も、夏目の存在を廊下に見出した。
嫌な空気が漂う。さっきまであんなにも騒々しかったふたりは、一瞬で表情を替えた。特に兄の方は鬼のような形相で夏目を見下し、そこにあったテレビのリモコンを掴むと、利き腕を高く振り上げた。
「出てけよ!」
罵声が飛ぶ。
咄嗟に両手で頭を庇った夏目の左肘に固いリモコンが当たり、跳ね返って床に落ちた。二度弾んで滑り、廊下とリビングを隔てる溝の手前で止まる。衝撃で蓋が外れ、単三電池がふたつとも別の場所に向かって転がっていった。
物を当てられた夏目は痛みよりも、今自分の身に起こった事実そのものに驚き、唖然と目を見開いた。
咄嗟に声を上げる事も、逃げることも出来ない。リアクションに欠けた彼の姿は、リモコンを投げた側には余裕の態度に映ったのだろう。少年は悔しそうに地団太を踏み、空っぽの手を握って振り回した。
危うく叩かれるところだった妹が、避けた拍子に尻餅をついてそこにあったテーブルに倒れこむ。ガシャン、と天板に使われていたガラスが高い音を響かせ、そこに幼い女の子の泣き声が重なった。
「う、うわ。泣くなよ」
斜め後ろから突然始まった絶叫に、兄が慌てて振り向いた。懸命に泣き止ませようと色々策を講じるが、所詮は十歳にも満たない男の子のやることだ、あまり効果が無い。
そうしているうちに台所に居た母親も騒ぎを聞きつけて顔を出し、倒れているテーブルとその前に蹲る幼女、慌てふためく少年を順に見てサッと顔を青褪めさせた。
怒りなのか、悲しみなのか分からない表情を作り出し、これはどういう事かと大声を張り上げる。テーブルが割れていたらそれこそ大惨事で、最悪の状況を早口に捲くし立てた母親の剣幕に少年も次第に目に涙を溜めていった。
防波堤を決壊させて彼もついに、泣き出した。喚き散らし、自分が悪いのではないと主張を繰り返す。
彼が指差す先に居た夏目は、凄まじい速度で展開する状況についていけず、ぼうっとしていた。
「俺じゃない、あいつが!」
「え?」
勝手に転び、勝手に泣き出したふたりに惚けていた彼は、いきなり槍玉にあげられてきょとんとした。反応は鈍く、何故自分が咎められなければならないのかと首を傾げる。
だが、果たして母親は、実の息子と、血の繋がりなどあって無いに等しい他所の誰かが産んだ子供と、どちらの言う事を信じるだろう。
「なに……?」
立ち上った不穏な空気に圧倒され、夏目は上擦った声をあげた。リビングを向いたまま後退し、転がっていた乾電池を踏んで肝を冷やす。同時にひんやりとしたものが首筋を這って、ぬるりとした感触に背筋を粟立てた。
「ひっ」
「どうして貴方は、いつも、いつも。問題ばかり起こすの!」
後ろに気を取られている間に、この家の女主人が彼に迫った。右手を高く掲げ、風を唸らせて振り下ろす。
ぱしん、と一発だけ響いた高い音の直後、夏目は廊下に倒れこんだ。
頬を打たれたのだと気付くのに三秒かかり、先ほど自分の首を舐めた不気味なものが天井から逆さまにぶら下がっているのを見て、悲鳴をあげるまで五秒かかった。
彼女は長く黒い舌を伸ばす奇妙なものにまるで気付かず、その前を素通りして蹲った夏目の前に憤怒の形相で仁王立ちした。
「だから嫌だったのよ、引き取るなんて」
この場に居ない夫に向かうべき罵詈雑言を吐き捨て、赤い頬を手で隠している夏目を睨みつける。忌々しいと舌打ちする彼女の視線は、どんな鬼神よりもはるかに禍々しく、恐ろしかった。
泣き止んだ少年が、ドアの影から様子を窺っているのが見える。女の子はまだ泣いていたが、声は最初に比べれば小さくなっていた。
少年は嗤っていた。夏目が叱られるのを小気味良いと思っているのが、まだ年端も行かぬ彼にもはっきりと分かるくらいに。
「う……」
「いい迷惑だわ。どこかに行ってしまいなさいよ!」
どうして施設に遣らないのかと、自分の身を置く環境を選べない夏目を詰り、彼女は手を振り回した。
また叩かれると恐怖した夏目は、流すことの出来ない涙を目尻いっぱいに溜め、鼻を鳴らした。啜りあげ、蹲ったまま両手両脚を使って後ろへと逃げる。
天井にいた何かがズズズ、と這って彼に迫っていた。真っ黒い口の中に、真っ赤な目が爛々と輝き、夏目を見ていた。
「――うわぁぁ!」
「ひぃぃ!」
ばしん。
額の真ん中を叩かれる衝撃に悲鳴をあげ、夏目は身を仰け反らせた。
自分が発した声になにより驚き、激しい動悸に見舞われて息が苦しい。生温い汗が全身から滲み出て、着ているシャツが吸い込んで肌に張り付いているのが、気持ち悪くてならなかった。
ぜいぜいと体全部を使って息をして、胸元を押さえ込んでぎゅっと握り締める。うたた寝から目覚めた彼は、部屋の片隅で仰向けに転がっている巨大な猫に目を向けて、ようやく此処が何処なのかを思い出した。
世話になっている藤原夫妻の家の、二階。貸し与えられた六畳程の、広くもなく、狭くも無い部屋だ。
そのほぼ中央、円形の蛍光灯の真下に彼は居た。先ほどまで頭があった位置には、半分に折り畳んだ座布団が肩身狭そうに鎮座している。考えるまでもなく、彼はそれを枕代わりして午睡を楽しんでいたのだった。
夢見は最悪だったが。
「ゆめ……そうだ。そうか、夢、か」
彼は心にふっと湧いた単語を口の中で繰り返し呟き、まだ震えの止まらない手を握り締めた。膝に置き、深呼吸を連続させる。それでもまだ心臓は落ち着かない。眩暈にも似たものを覚え、夏目は片手で頭を抱えた。
奥歯を噛み締め、脳裏にこびり付いた嫌な感覚を追い払う。実際に触れ、触れられたわけではないのに、身の毛もよだつほどの凄まじい悪寒が彼を包み込み、吐き気さえ呼び込んでいた。
「夢。夢だよ」
だから忘れるのだと自己暗示をかけて、カタカタと歯を鳴らす。畳の上に立てた膝に顔を寄せ、卵のように小さくなる彼を遠巻きにして、白地に朱と朽葉色の二色を頭から背に走らせた丸々とした猫が、苦心の末にうつ伏せに姿勢を変えた。
ふぅ、と出もしない汗を拭う仕草をして息を吐き、淡い橙色をした西日が差し込む中で影を帯びている青年を見やる。目に見えないものに怯え、怖がっている様は、実年齢よりも遥かに幼かった。
「夏目」
呼びかけても直ぐに返事は成されず、彼は小刻みに身を震わせ続けた。自分の世界に埋没している姿に無い肩を竦め、斑は短い四肢を交互に動かし、畳の上を滑るように進んだ。
前脚を伸ばし、無防備に投げ出されている夏目の軽く脛を叩く。たったそれだけでも触れられた当人は大袈裟なくらいにビクリと肩を強張らせ、顔の筋肉を引き攣らせた。
「なーつめ」
繰り返し名前を呼んで、混乱の縁にある彼の意識を呼び戻す。最初は虚ろだった青鈍色の瞳も、次第に生気を取り戻して輝きを強め、其処に在る奇怪な生き物を認識して瞬きを連続させた。
はっと短く息を吐き、視線を巡らせて、緩んでいた拳を握り直す。祈るように額に押し当てると、そこを叩かれた記憶も一緒になって戻って来た。
「先生」
「蚊が停まっておったんでな」
他よりも少し赤くなった肌をさすり、足元で丸くなっている規格外サイズの猫を見下ろす。相変わらずふてぶてしい顔をした斑は、見ているだけで段々ムカつきを覚える目を意地悪く歪め、さらりと事も無げに言った。
ではその不届きな蚊は、見事成敗出来たのだろうか。触っているうちにヒリヒリしてきた額から手を外し、夏目は疑り深い目を彼に投げたが、問いに対する返答はなかった。
代わりに、
「随分と楽しそうな夢を見ていたようだな。邪魔して悪かった」
本気で思っているとは言い難い台詞を吐かれて、夏目は一瞬目を見開いた。
即座に表情を戻し、こちらに尻を向けている斑を見据える。彼は小ぶりな尻尾を左右に揺らしながら、大きな身体で半分に畳まれていた座布団を突き飛ばしていた。
畳に広がったそれに我が物顔で座り、幸せそうに目を細める様だけ見ていれば、招き猫そのものだ。
伝承によれば、鷹狩りの帰りの武士が猫に招かれて古寺に入ったところ、突如として周囲は雷雨に襲われたのだそうだ。そこから災いを避け、福をもたらすものとして、片手を挙げた猫の置物が飾られるようになったのだとか。
斑を見ていると全く有り難味を感じないが、今回ばかりは彼に救われたと思うべきだろうか。本物の猫のように手を舐め、顔を洗っている彼に目を眇め、夏目は握りすぎて固くなっていた手を解いた。
「そうだな、結構面白かった。巨大化した先生が、街を破壊して回る夢だったのに」
「にゃんと! それは実に楽しそうな夢だ」
怪獣映画を思い起こし、破壊の限りを尽す凶悪な妖怪――依り代の猫の姿ではあるが――を頭に思い浮かべ、夏目はなんとはなしに言った。途端に耳をピンと立てた斑が身を乗り出し、続きを聞きたそうにわくわくしているのが伝わってきた。
起こさなければ良かったと、真に受けた彼に苦笑して、夏目はやっと震えが治まった手を後ろに伸ばした。背を反らし、大の字になって再び畳に寝転がる。
潰されそうになった斑がひょい、と避けたので、彼の頭は無事座布団に着地を果たした。
「でも先生は、最後は釘バッドを持ったレイコさんにボッコボコにされるんだ」
「それは……なんとつまらない夢だ」
深く吸った息を吐き、忍び笑いを零した夏目の想像上の夢の続きに、斑は途端掌を返し、不貞腐れた声を出した。
切り替えが早すぎる彼に肩を揺らし、夏目は暗くなった室内の天井をじっと見詰めた。
出て行けと言われたあの日、自分の居場所は此処では無いと悟り、幼い彼は本当に玄関を飛び出した。靴も履かずに夜も更けた街を彷徨い、通報を受けた警察に保護された。夏目は名前や住所を一切言わなかったが、ランドセルを背負ったままとあって、中の荷物から学校名が判明し、そこから芋づる式に身元は明かされた。
殴られた頬はまだ赤く、連絡を受けて渋々交番まで迎えに来た仮宿の主は虐待を疑われて逆上した。
実の子と区別され、冷遇される事は前々からあったが、思い返せばあの家が一番酷かった。薄気味悪い髪と舌の長い異形のものは、夏目が引き取られる前からあの家に棲み付いていたらしい。事あるごとに夏目の前に現れて悪戯をし、それに怯えた彼が物音を立てるたびに、女主人は狂ったかのように彼を折檻した。
多分、亭主の帰りがいつも遅く、ひとり家事に育児、病気がちな義母の面倒まで一切任せられたために、ストレスがたまっていたのだろう。
成長し、人生経験をある程度重ねた今ならそう思えるが、当時は何故自分が叩かれなければならないのかが分からなかった。他にいく当てもなく、必死に我慢して、見かねた学校の先生から児童相談所に相談が行き、違う家に移ることになって、以来あの家とはそれっきりだ。
良い思い出はなにひとつ、残っていない。今の今まで、思い出しもしなかった。
いや、以前は割りと頻繁に思い出していたように思う。夢の中で。そのうちに想像がエスカレートして、あの女性が包丁を持って追いかけてくる悪夢さえ見た記憶までも、鍵の壊れた引き出しから飛び出して来た。
ただそれも、かなり昔の話。
「一年前って、昔って言っていいのかな」
「うん?」
「なんでもない」
額に残っていた汗を拭い、夏目がひとりごちる。聞こえた斑がなにかあるかと顔を向けたが、彼は緩く首を振って独り言だと言い訳した。
いつから悪夢を見なくなったのかと考えてみたら、藤原夫妻に引き取られてからだ。ただ此処に来た当初はまだ、夜中に魘されて目を覚ますこともあった。夢さえ見ない深い眠りを楽しめるようになったのは、もう少し後のこと。
夏目は身を起こし、座布団を引いて尻に敷いた。足首を掴んで膝は左右に開き、暮れ行く赤焼けの空を眺める。もそもそと下の方でまん丸い山が動いて、何かと思えば斑だった。
断りなく人の足に乗り、本物の猫を真似てゴロゴロと喉を鳴らす。甘えているようにも見える姿に、夏目は肩を竦めた。
「重いぞ、先生」
口で文句は言いながらも、退かそうとはしない。逆に逃げられないよう両手で左右から囲い込み、楽な姿勢を探して右足を前に伸ばした。
丸みを帯びた背に触れると、微かに温かい。
「にゃん」
撫でられたのが気持ちよかったのか、斑はうっとりとした顔で目を閉じた。短い足を折り畳んで胴の下に引っ込め、上機嫌に尻尾を躍らせている。時折耳がひょこひょこ動くのが、面白い。
西日は眩いのに、真夏の昼間のような刺さりそうな痛さは感じない。これから空は夜闇に包まれ、目に映るものの輪郭は次第にあやふやになっていく。
幼い頃は、黄昏が嫌いだった。誰も待っていてはくれない家に帰るのが、苦痛で仕方がなかった。
学校からの家路を急ぐようになったのは、いつからだろう。「ただいま」と大きな声でいえるようになって、まだ日は浅い。「お帰りなさい」と言われる照れ臭さは、今になっても消えてくれない。
幸せとは、こういう些細な物事の積み重ねの上にあるのだと、最近気付いた。
背筋を伸ばし、目を閉じる。心を静めて鼻から一杯に息を吸い込めば、魚の焼ける香ばしい匂いを感じた。
今夜のメニューはなんだろうか。満腹になるまで食べられることも、ひとつの幸せだ。
「先生、有難うな」
「んにゃ?」
「起こしてくれて。もうじき夕飯だ」
呼ばれてから目を覚ましていたら、慌てていた。短い獣の右前足を抓んで弄りながら言った夏目に、斑は自慢げに鼻を鳴らし、ふふん、と胸を張った。
もっと敬えと言い放った彼に苦笑し、夏目は赤みを増した西の地平線に目を細めた。明日はどんな一日になるか楽しみだ、そう思えるようになったのも、ごくごく最近の事。
この頃は時間が過ぎるのが早い。今日が終わってしまうのが勿体無いとさえ思う。
「ありがとう」
「なんだ、二度も。気持ちの悪い」
ぎゅっと抱き締めると、斑は嫌がって抵抗した。短い足を振り回した彼を胸に閉じ込め、夏目が恭しく礼を述べるも突っぱねる。
逃げたがる彼を押さえ込み、囲いを狭くして夏目はふっと、笑った。
自分に向けて。
「ありがとう」
そして、自分を愛してくれている全ての存在に向けて。
心より、感謝を。
2009/04/12 脱稿