澄みわたる

 日曜日の昼下がり、どうやって夕方まで時間を潰そうか考えていた夏目の耳に、塔子の呼び声が響いた。
「はーい」
 机に向かって座っていた彼は即座に姿勢を崩し、左手をつっかえ棒にして腰を捻った。
 座布団に寝転がり、日向ぼっこに興じていた巨大な猫もピクリと伏せていた耳を立てた。右目だけを開き、低い位置から身を起こした夏目の観察を開始する。
 立ち上がった青年はそんな事も露知らず、潰れ饅頭にも等しい体型の猫の脇を大股で通り過ぎた。畳の黒い縁を跨ぎ、戸を左に滑らせて上半身だけを廊下に乗り出した。
「なんですか、塔子さん」
 右に首を傾けて問えば、割烹着姿の女性が十数段ある階段を登って二階にやってきた。
 夏目が身を引き、彼女に進路を譲る。塔子は朗らかな笑みを浮かべ、邪魔をしてしまったかと最初に詫びた。
「いえ、特に何かやっていたわけではないので」
 夏目の部屋にテレビはない。然るに、ゲーム機も。
 雑誌や、漫画本の類も少ない。彼に与えられた部屋にあるものといえば、必要最低限の衣服、教科書やノートなどの文房具に、祖母レイコの少ない遺品くらいだ。
 以前世話になっていた家から持って来たものは、殆ど無い。そもそも遠い縁者であるという理由だけで、殆ど他人に等しい人の家に厄介になっていたのだから、あれが欲しい、これが欲しいと我が儘を言える立場ではなかった。
 袖を通す衣服といえば、誰かのお下がり。中学校も、入学式の時点から、着古されてテカテカに光るような制服で過ごした。
 ここに引き取られて、真新しい匂いのする学生服を与えられた時は、嬉しさよりも驚きと申し訳なさが先に立った。中学から着用していた分は既にサイズが合わなくなっており、ありがたかったのだけれど、素直に感謝の言葉も言えなくて戸惑ったのを覚えている。
 誰かのお古でよかったのに。辛うじて言えたのは、そんな可愛くない台詞だった。
 塔子の機嫌を損ねることになると分かっていながら、当時はまだ人にも、妖怪に対しても卑屈に構えていた所為で、つい口にしてしまった。ところが彼女はちょっと驚いた顔をした後に、屈託なく笑って夏目の無礼を許してくれた。
『滋さんのお古なんて、もう虫食いだらけで着れた物じゃないわよ』
 確かに塔子の夫であり、この家の主である滋は、学生時代を終えて相当経っている。しかしなにも彼でなくとも、近所の誰かから譲り受ければ済む話ではないか。
 反論しようとしたが出来なかったのは、微笑む塔子に若干の苛立ちと、それを上回る感謝を抱いたからに他ならない。
「良かった。時間あるかしら?」
 脳裏に蘇った記憶よりも少しだけ年齢を重ねた塔子が、両手を叩き合わせた。その音で我に返り、夏目はホッとした様子の彼女に曖昧に笑い返した。
「はい。なにか、手伝う事でも?」
 退屈していたので、丁度良い。自分に出来ることならなんだってする気構えで頷けば、彼女は少々悪戯っぽい少女の笑みを浮かべた。
 座布団から降りた斑が、夏目の足元にとことこと歩いてきた。毎日食事を用意してくれる彼女の前では、猫を被るというその言葉通りに愛らしい動物を模すそれは、実は数百年という時を生きる白い巨大な妖怪だ。
 わけあって妖怪に狙われる立場になった夏目と約束を取り交わし、用心棒として傍に居てくれている。不細工な猫の姿は、長く彼が封印されていた招き猫をそのまま依り代としているためだ。
「ニャンキチちゃんも、行く?」
 にゃおん、と、彼の正体を知る夏目が聞いた瞬間鳥肌を立てるような声で鳴き、塔子の注意を引いた斑は、楽しげに膝を折った彼女に頭を撫でられて気持ち良さそうに喉を鳴らした。
 基本、夏目が学校に行っている間は、斑は塔子とふたりきりだ。なるほど、こういう風に彼女に甘えているのかと知り、目の前で展開されている光景に薄ら寒いものを感じて、彼は両手で身体を抱き閉めた。
 スカートの裾を揃えて立ち上がった塔子は、中断してしまった話を再開させるべく口を開き、小首を傾げた。
「ええと、ちょっとお買い物に付き合って欲しいんだけど」
 胸元で両手を重ねた彼女の頼みに、いったいどんな依頼がされるのかと内心どきどきしていた夏目は苦笑した。それくらいならお安い御用だと頷き、上着を取ってくると言って室内に踵を返した。
 塔子も準備があるのだろう、夏目の返事に目を細めて階段を降りていった。
 足音を背中で聞きながら、箪笥の扉を開ける。南向きの窓から差し込む日差しは温かいが、外気温は屋内に比べるとまだまだ低めだ。
 手持ちの服はそう多くなく、選ぶのにも苦労しない。夏目は真っ先に目に留まった淡いベージュのジャケットをハンガーから外すと、左袖に腕を通して肩を撫でた。
 日向に残っていた座布団を引っ張って壁際に寄せ、近づいて来た斑を手で追い払う。ついてこないで良いとの意思表示だが、伝わらなかった。
「何処へ行くんだろうな」
「ダメだぞ、先生」
「なにを言う。私も誘われたではないか」
 食料品を買いに行くのであれば、外見は猫の斑を連れて行くわけにいかない。やれ饅頭、羊羹を買えと五月蝿いし、店先に並べて売られている食べ物を、代金も払わずにつまみ食いする悪癖があるからだ。
 その度に、一応飼い主である夏目は謝罪を求められ、弁償させられる羽目に陥る。毎月滋が渡してくれる小遣いのうち、半分くらいはこうやって羽根が生えて飛んでいった。
 それが、財布番の塔子と一緒だとどうなるか。調子に乗ってあれもこれもと注文をつけるに違いない、しかも夏目を使って。
 ただの猫が、人の言葉を話すわけがない。だから斑は、塔子の前では通訳として夏目を間に挟む必要があった。
 非常に手前で、面倒だ。しかも傍から見れば、夏目は、斑をダシにして食べ物をせがむただの食いしん坊だった。
 だから出来るだけ、同伴して欲しくない。とはいえ斑が主張するように、塔子は彼も一緒に行くかと誘った。彼女が発言を撤回しない限り、まず間違いなくついてくるだろう。
 いったい何を考えているのか、塔子は。
 右袖に腕を通し、襟を整えて夏目は溜息をついた。
 中身の薄い財布をズボンのポケットに押し込み、箪笥の戸を閉めて準備は完了。障子戸は開けっ放しだったので、斑は労せずして廊下に出て、早く来いと夏目を呼んだ。
 仕方なく彼を追い、階段を降りる。玄関に出たところで奥から割烹着を脱いだ塔子が出てきて、もう少し待ってくれるように頼まれた。
「じゃあ、外にいるんで」
 上着と鞄を取ってくると言った彼女にそう返し、夏目は上がり框を降りて靴に爪先を押し込んだ。
 先に下りていた斑が、早く開けろと玄関の戸を引っ掻く。ガリガリとガラスが擦れる音が嫌で、夏目は肩を落として溜息をつくと、鍵を外して右に滑らせた。
 そう抵抗もなく道は開かれ、斑がぴょん、と外に飛び出した。動きはまるで蛙で、そんなところから三篠を思い出し、夏目は眩い日差しに包まれた空を仰いだ。
 風が心地いい。これなら上着なしでも平気だったかもしれないと、ジャケットの裾を抓んで彼は難しい顔をした。
「お待たせ」
 しかし脱ぎに戻ろうとしたら後ろから声がして、完全にタイミングを逸してしまった。柔らかな藤色のスプリングコートを纏った塔子が、開けたままだった戸を閉めて鞄から鍵を取り出していた。
 滋は出かけている、仕事が忙しいらしい。だから自分が呼ばれたのだと予想して、夏目は先に立って歩き出した彼女に続いた。
「塔子さん、何処に行くんですか?」
「ふふ。内緒」
 行き先を教えてもらえないのは、不安だ。斑の企み顔も気になって問うた彼だが、振り向いた彼女は笑うばかりで、真面目に相手をしてくれなかった。
 ニヤニヤしている斑を蹴り飛ばす仕草をして肩を落とし、周囲に目を走らせる。見慣れた景色であるが、塔子と一緒だからか、少し感じが違うように思えた。
 買い物と言っていたので、駅の方に行くと予想する。けれど思いもよらず、途中で彼女は道を曲がった。
「え」
「こっちよー」
 何も考えていなかったので行き過ぎてしまい、視界から塔子が消えたのに驚いていたら斜め後方から呼ばれた。手まで振られて恥かしく、夏目は顔を赤くして急ぎ足で来た道を戻った。
 近道だという細い裏路地を通り抜け、白い花が咲き乱れる木の下を行く。何処に向かっているのかさっぱり見当がつかず、きょろきょろしているうちに大きな通りに遭遇した。
 信号が青になるのを待ってゼブラを渡り、更に進む。遠くに川が流れるのが見えて背伸びをした夏目は、左手に見え始めた人ごみに不審げな顔をした。
 沢山の車が塊を成している。以前にも来た事があると記憶を掘り返し、夏目は見えた案内板の文字に嗚呼、と頷いた。
 そこはいつぞやに、並木の絵を引き取った場所だ。売れ残りだからと押し付けられて、部屋に飾っていたら大変なことになった、あの。
「フリーマーケット」
「前に貴志君が言ってたでしょう?」
 合点がいったと彼は頷き、振り向いた塔子の言葉に苦笑した。
 広々としたグラウンドは、野球やサッカーといったスポーツを楽しむために作られたものだ。しかし月に一度くらいの頻度で、こうやって各地から人が集まり、思い思いの品物を並べてフリーマーケットも開催されている。
 行儀良く並ぶ車のナンバーには、県外からのものもちらほら混じっていた。
 地面に直接、或いはシートを広げ、不用になったものから手作りのものまで、多種多様に並べて売られている。服飾品、雑貨、日用品に果ては家具まで。以前同様、そこそこの賑わいが見られて、夏目は顔を綻ばせた。
「元気にしてるかな」
 偶然から出会った旅の妖怪を思い出し、感慨深く呟く。一方足元の斑は、食べ物が見込めないと知ると途端に機嫌を損ね、面白くなさそうに足元の土を蹴り飛ばした。
 一部が靴にかかり、夏目は舌打ちした。
「こら」
「貴志君」
 斑の勝手すぎる行動を咎めていたら、後ろから声が掛かった。
 塔子と一緒だというのを一瞬忘れていた夏目は、握り拳を振り上げた状態で硬直し、慌ててそれを背中に隠した。
「は、はい」
「これ、少ないけど、お小遣い。気に入ったものがあったら、買っていらっしゃいな」
 ドギマギしながら振り返り、ぎこちない笑みで返す。すると彼女は穏やかに微笑み、夏目に何かを握らせた。
 温かな手が離れていく。かさついた紙の感触が掌に残されて、広げてみればそれは紙幣だった。それも、日頃使い慣れた夏目漱石ではない。
 思いも寄らぬことに驚き、夏目は慌てた。
「塔子さん、俺、そんなつもりで」
「いいのよ。荷物係のお駄賃だと思って。ね?」
 金銭が欲しくてついてきたのではない。彼は声を荒げたが、塔子は返そうと突き出された夏目の腕をやんわりと拒んだ。
 逆に押し返されて、夏目は黙り込んだ。反論しようにも、心のどこかで彼女の気遣いに感謝し、予定外の収入を喜んでいる自分が居る。頭の中で「貰っておけ」という声がして、彼は臍を噛んだ。
「けど……」
「お洋服、必要でしょう? 自分の為に使いなさいな」
「う」
 季節は程無くして夏を迎える。去年着ていたもののうち何着かは、布が弱って破れてしまい、廃棄処分を余儀なくされた。
 ただでさえ暑いこの国だ、着替えは沢山あった方がいい。しかし新品を大量に購入するには、夏目の手持ち資金だけでは到底賄えそうになかった。滋や塔子に頼むのも、気が引ける。
 言い出せずにいたのを、しっかり見抜かれていた。
 無論フリーマーケットなので、不要品を売る人にとっては季節感などお構いなしだ。暖かな陽射しの下で、真冬向けのコートさえ当たり前のように陳列されていた。
 ただ、これだけの広さだ。探せば夏目のお眼鏡に適うものも見付かるだろう。
 昔から人のお下がりばかり着ていたので、古着に抵抗は無い。もし良い物がなければ、臨時収入は残しておいて、別の機会に店での購入資金に宛てればいい。
 押し切られる形で夏目は頷き、ポケットから抜き取った財布に紙幣を大事にしまいこんだ。下の方では斑が、憎らしい笑みを浮かべて人を見上げていた。
 特に何も言わないが、小馬鹿にされた気分で腹が立つ。夏目は感謝の気持ちを込めて深々と塔子に頭を下げると同時に、ひょっとして彼女は、本当は此処に何の用もなかったのではないかという疑問を抱いた。
「塔子さんは、何を探したいんですか?」
「ええ? そうね、これくらいのお皿が欲しいんだけど」
 荷物運びを頼まれたのだから、目的があると思いたい。僅かばかり語気を強めた彼の問いに、塔子は握っていたバッグを肘に引っ掛け、両手で輪を作った。
 直径二十センチほどの大きさで、深さはある程度欲しいと言う。出来るなら涼しげな柄で、陶器よりもガラスが良いとの話だ。
「なら、それも一緒に探してみます」
 身振りを交えての説明を終えた彼女に微笑みかけ、夏目は賑わう人ごみに目を向けた。
 早くしないと、良い物から売り切れてしまう。少しだけ興奮気味な彼に目尻を下げ、塔子はその背中をぽん、と押した。
「じゃあ、私はこっちから一周してくるわね」
「はい」
 前によろけた夏目をコロコロと笑い、左を指差して彼女は歩き出した。広大なグラウンドの入り口に惚けて立ち尽くし、斑に蹴られて彼はハッとして、自分も買い物を済ませようと慌てて反対方向に足を向けた。
 とはいえ、いきなり言われても直ぐに実行に移れない。
 確かに古着を扱っているスペースは、沢山あった。しかしその多くが女性向けで、男性向けのものはあまり無い。あってもスーツといったものが多く、普段着に出来るものは存外に少なかった。
 自分で自分のものを選ぶ、というのに慣れていない所為もある。いつだっておこぼれに預かるばかりで、自分から何かを欲しいと強く思った経験は、実際のところそう多くなかった。
 折角の塔子の計らいなのに、彼女の期待に添えそうに無い。決断力の弱さを実感し、優柔不断な自分に嫌悪して、夏目は居心地の悪さに身を捩った。
 斑は何も言わず、後ろを着かず離れずの距離でついて回っていた。人目があるから、喋るのは控えめで遠慮さえ感じられる。それが余計に夏目の調子を狂わせて、苛立たせていた。
 飴色の、時代を感じさせる家具が売られている。骨董品の類に入る茶器がその前に。
 買う気は無いが興味引かれて、彼はふらふらとそちらに近づき、膝を折った。
 店番の男性は、最初から夏目が買うとは思っていないようだった。ちらりと人の顔を盗み見てから、触るなと先に牽制して、そっぽを向いてしまう。
 接客業に向いているとは思えない応対に肩を竦め、彼は百年以上前のものと思われる和箪笥に見入った。
「あまり古いものは、良くないぞ」
「先生」
「何がくっついているか分からんからな」
 屈んだ夏目にぴたりと寄り添い、朱と朽葉色の紋様を刻んだ丸い猫がおもむろに言った。声を潜めた彼の剣呑な目つきに夏目は息を呑み、改めて深い色合いの家具に見入った。
 綺麗なのだが、それが却って怖い。背筋を薄ら寒いものが通り過ぎて行き、ブルッと震えて彼は急ぎ立ち上がった。
「てか、古いものがダメだったら、此処で買うもの全部ダメじゃないか」
「まだ真新しいものもあろう。よっぽど元の持ち主の執念がこびり付いておらん限りは、大丈夫だ」
 吐き捨てるように言った夏目を追いかけ、斑が少し大きめに声を出した。周囲に人影は疎らで、彼らの会話に耳を傾けてその異質さに気付く人はなかった。
 若い男性が暇そうにしている前を行き過ぎ、思うところがあって数歩戻る。青いビニールシートに並べられていたのは、雑に畳まれたシャツ数点だった。
「二回くらいしか着てないから、まだ綺麗だよ」
 腰を曲げて覗き込んだ夏目に声が掛かり、顔を上げると目が合った。大学生だろうか、細身で、体型だけならふたりはどこか似通っていた。
 人好きのする笑みを浮かべ、サイズを教えてもらう。福袋に入っていたのだと、青年は屈託なく言った。
「へえ」
 趣味に合うものではなかったから、こうやって売りに出しているそうだ。納得だと頷き、夏目は遠慮なく一着に手を伸ばし、試しに身体に合わせてみた。
 悪くない、と思う。斑が言うような執着めいたものも感じなくて、ホッとしてしまった。
「幾らですか」
「そうだねえ」
 値札は無い。尋ねると男性は少し考え込む仕草をして、夏目が思っていたよりもずっと安い金額を提示した。驚いていると笑われてしまい、彼は照れ臭そうにしながら財布を広げた。
 五千円札を出すのは躊躇して、入っていた別の紙幣を渡す。釣りを受け取るまでのやり取りは、店舗に出向いて購入する味気なさとは違い、妙な清々しさと満足感があった。
「ありがとう」
「こちらこそ」
 互いに礼を言い合って、別れる。
「なんか、楽しくなって来た」
「ふん、調子に乗りおって」
「先生にも何か買ってやろうか」
「いらんわ。此処には食い物がなにもないからな」
 まだ行き先が商店街でなかったのを拗ねているらしい。太々しく言い捨てた彼に呆れ、肩を竦めた夏目は目に付いた露店で足を止め、膝を折った。
 こちらは先ほどとは違い、手作りの品を並べて売っていた。全体的に女性向けだが、華美さが無かったのと、他にも何人か客が居たお陰で、夏目でも近付き易かった。
 遅れてついて来た斑を見て、女性客が途端に歓声を上げた。多軌にも通じる黄色い声に、彼はビクリと震えて竦みあがった。
「きゃー、猫!」
「かーわいー!」
 どうやら世の若い女性の感性は、夏目の想像出来ない場所にあるらしい。ちやほや持て囃されるのは嬉しいが、決して慣れてはいない斑を少々気の毒に思いつつ、ざまあみろと鼻で笑って、彼はワンポイントで花の刺繍が入った帽子を手に取った。
 淡い色合いで丸みを帯び、鍔は小さい。芯は入っていないようで軟らかく、手触りも滑らかだ。
 こういう帽子を好んで被っている少女がいたな、とぼんやり想像しながら角度を変えてしげしげと眺める。果たしてあの髪色に、この帽子は似合うだろうか。
「なんだ、タキにくれてやるのか」
「うわっ」
 いきなり足元から声がして、夏目は吃驚仰天して悲鳴を上げた。
 見れば斑が、どうにかこうにか買い物客の手から逃れて夏目の足元に避難していた。大きな身体を小さく丸め、他の人が手を出せないように身を屈めている。あまりにも不気味な姿に血の気が引いて、夏目は後ろでぶうぶう文句を垂れている女性らに苦笑混じりの会釈を返した。
 彼が飼い主と見るや、声は小さくなった。名残惜しげに「猫ちゃん、またね」と呼びかけて手を振り、去っていく。
 すっかり静かになり、ホッとしながら夏目は手の中のものを見下ろした。そしてにやにやと、いやらしい顔をしている斑に気付き、急いで白い帽子を元あった場所に戻した。
「なんだ、買わないのか」
「いいだろ、別に」
 慌しく立ち上がった彼を追いかけ、斑がしつこく問いかける。ぶっきらぼうに言い返した夏目だが、内心の焦りは拭いきれなかった。
 何故分かったのだろうと、横目で足元を行く四本足の獣を窺えば、
「お前の考えることなぞ、全部お見通しだ」
 偉そうに断言されてしまった。
 危うく信じてしまいそうになって、夏目は赤い顔を隠した。
 落ち着きなく歩き回り、右に左に忙しく動くが、視線は漂うばかりで、商品をじっくり吟味するなどどだい無理な話だ。彼が此処へ何をしに来たのかを思い出したのは、がらくたが詰め込まれた箱の横に並ぶガラス細工が目に留まってからだった。
 斑に茶化されてから十分近く経過している。首筋に汗が浮かび、暑さに参って上着を脱いだ彼は、金銭的な価値があるかどうかも分からないものの隣に膝をつき、目を凝らした。
「買っていくかい?」
「え、あ、いえ」
 長らくお客が来ていないのだろう、手持ち無沙汰にしていた男性がひょっこり顔を出して夏目に問いかける。上向いた彼は曖昧な返事で答えを濁し、物陰に隠れるようにして置かれていたものに触れようとして、躊躇した。
 窺う目線を投げれば、気付いた男性は頷いてくれた。手に取る許可を得てホッとして、夏目は遠慮なくその青色の皿を持ち上げた。
 同じ柄のものが二枚、重ねられている。上にあった分を手に取り、涼しげな色合いに彼はうっとりと見入った。
「これ、いいな」
 塔子が言っていたイメージにぴったりだ。大きさも、深さも、色合いや材質も、なにもかも合致している。
 落とさないよう大事に持ち、角度を変えて上や下からも眺めて夏目は呟いた。
 早く塔子に知らせてやらないと、きっと気に入ってくれるに違いない。気もそぞろに皿を戻し、立ち上がろうと膝に手を置く。しかし彼が身を起こすより前に、
「貴志君、こんなところにいた」
 真後ろから声がかかって、危うく転びそうになった。
 バランスをぎりぎりのところで保った彼を、斑が笑う。舌打ちして思い切り潰れ饅頭の頭を殴り、急いで表情を整えて振り返った。
「塔子さん」
「探しちゃったわ。あら?」
 夏目とは違い、彼女は存分にフリーマーケットの買い物を楽しんでいたようだ。柳のような細腕には持参の袋も含め、大量の荷物がぶら下がっていた。
 袋ひとつを片手に、中途半端に腰を浮かせた状態だった夏目は、立ち上がるかしゃがみ直すかで一瞬迷い、横から覗き込んできた彼女の為に場所を譲った。
 低い位置にある夏目の肩に右手を添え、塔子が目を輝かせる。
 紙袋の角で腰を叩かれ、彼は左膝を地面に置いた。踏まれそうになった斑がそそくさと逃げて、反対側に回り込む。
「まあ、いいわね。これ」
「でしょう?」
 見つけたのを褒められた気がして、夏目は少し得意になって言葉を返した。
 やりとりを聞き、眺めていた斑が面白く無さそうに顔を背ける。その向こう側では店番の男が、買い手がつきそうだと揉み手でふたりを見守っていた。
 表、裏、と順に眺めて塔子が両手にそれを抱き抱える。考えていた通りの品物が見付かったのが、余程嬉しいのだろう。満面の笑みを浮かべる彼女に、夏目も顔を綻ばせた。
 しかし。
「……でも、二枚しかないのね」
 不意に彼女は声のトーンを沈め、言った。
「え?」
「三枚じゃないと、ダメね」
 先程までの朗らかな気配は薄れ、しょんぼりと落ち込んだ声が夏目の耳を打った。
 顔を上げて妙齢の女性を見詰め、自分の膝元に視線を落とす。茣蓙に並んだ青色の硝子の皿は、あと一枚しか残されていなかった。
「ごめんなさい。これって、あと一枚同じもの、ないかしら」
「いや、そこにあるの限りなんですよ」
「そうなの」
 夏目が目を泳がせる間に、塔子は背筋を伸ばして奥にいた男性に問いかけた。問答は一瞬で終わり、彼女は残念そうに手にした皿を、もう一枚に重ねた。
 涼しげな硝子が、彼女の影を浴びて色を濃くした。寂しげな表情をしている両者を見やり、夏目は無意識に塔子のコートを引っ張った。
「別に、二枚でも」
 なにをそんなに拘るところがあるのだろう、折角思い描いていたものが見付かったというのに。
 フリーマーケットで次も同じ物に出会えるかどうかなんて、分からない。他の誰かに買われてしまっては、そこで縁は切れてしまう。
 滅多にないチャンスをみすみす手放そうとしている彼女の真意が読めず、夏目は戸惑いの表情を浮かべた。
 その向こう側で、斑が退屈そうに欠伸をした。
「折角、良いものが見付かったのに」
「でも、三枚揃ってじゃないと」
 縋る夏目の手を解き、塔子は突っ慳貪に言い放った。ぷいっと子供みたいに拗ねてそっぽを向いて、沢山の荷物を両手に抱えて歩き出してしまう。
 滅多にない彼女の態度に混乱し、夏目は急ぎ立ち上がった。苦笑している店番の男性に会釈だけして、斑を置き去りに追いかける。
 どうして急に、機嫌を損ねてしまったのだろう。
「塔子さん」
 訳が分からないまま彼女に続き、出口に向かって一直線に進む。その後ろを、距離を置いて斑が続いて、夏目はグラウンドを出たところで塔子が持つ荷物のひとつを捕まえた。
 人の好意をすげなくあしらわれたのには、微かな怒りさえ抱いた。普段は押し殺す感情も、勢いに乗っていた所為か、止められなかった。
「一枚くらい、違う絵柄が混じっててもいいじゃないですか」
「ダメよ。三枚、お揃いじゃなきゃ」
 声を荒げ、ほぼ怒鳴るように吐き捨てた彼に、負けじと塔子も珍しく睨みを利かせ、険しい表情で言い放った。
 ふたりから少し離れた場所で、斑が見つけた雀の子を追いかけてはしゃぎ回っている。先程の女性達が彼の姿を見つけ、黄色い声をあげた。
 夏目は聞こえた歓声に舌打ちし、一瞬の間を置いて下を向いた。自分の大人気ない態度を思い返して反省し、僅かに唇を尖らせて行き場のない苛立ちを噛み潰す。握りしめられた拳が震える様を見て、塔子は肩を竦め、頬の強張りを解いた。
 感情を制御しきれない、まだまだ幼さを残す青年に目尻を下げ、怒るのではなくその逆の表情を浮かべた。
「だって、ひとりだけ仲間はずれは嫌でしょう?」
 小さな子供に言い聞かせる口調で、囁く。
 温かな風に乗って流れてきたことばに、夏目は伏していた顔をあげた。
「え……」
「家族なんだから」
 三人で、ひとつの。
 何でもないことのように言い切った彼女に、夏目は驚き、目を見張った。興味がないようで聞き耳を立てていた斑が、着地に失敗して坂になっていた草場を転がっていった。
 みっともない悲鳴をあげた彼にビクッとして、惚けていた夏目は我に返った。助けを求める声に慌て、川の斜面を滑り落ちていくまん丸い猫の姿を捜して駆け出す。
「貴志君」
 その背中を呼び止め、塔子は優しい目を彼に向けた。
「覚えていたらでいいから、良いのを見つけたら教えてくれるかしら」
 前に出した右足をブレーキにした彼が振り返りきるより先に、塔子はそっと囁いた。控えめな頼み事に、彼は直ぐに返事が出来なかった。
 探るような目でじっと見詰め、同じく試すような顔をして夏目を見上げる彼女に唇を震わせる。何かを言いたくなったのに、胸を埋めた思いを伝える肝心の言葉が見付からない。
 人との関わりに慣れていない自分が、心底嫌になる。きっと両親に恵まれ、幸せな家庭を築いてきた人ならば簡単に言えるだろうことばが、喉につかえて出てこない。
 息苦しさに奥歯を噛んで彼は胸元を握り締めた。着古したシャツに沢山の皺を刻んで、真新しいシャツの入った袋を持つ拳を震わせる。
 痛々しい限りの彼の姿に、何を感じたのだろう。塔子は力の抜けた表情で一寸だけ首を右に傾がせ、目を細めた。
 重い荷物を右手一本の託し、自由になった左手を伸ばして彼の色素も薄い髪を梳く。肌に触れる他者の熱に最初は怯え、ビクリと肩を強張らせた夏目は、長い時間をかけて息を吐き、戸惑いに揺れる瞳に優しい女性の顔を見いだした。
 夏目は母を知らない。
 ただ、もし、今も生きて共に在れたなら。
 きっと、こんな風に。
 彼は目を閉じた。頭を撫でる手を意識だけで追いかけて、遠ざかるのに合わせて背筋を伸ばす。
「……四枚でも、いいですか」
「あら?」
「先生も混ぜてやらないと、拗ねるから」
 這々の体で土手を自力で登ってきたメタボ腹の猫を遠くに眺め、夏目は肩を竦めた。
 同じ物を見た塔子も目を丸くし、二秒後に浮かべた柔和な笑みを返事の代わりにした。
 今日貰った小遣いの残りは、財布を分けて大事に残しておこう。四枚組の硝子の食器を見つけた時に、手持ちが足りないなんて事がないように。
 渡された時、彼女は自分の為に使えと言った。
 だったら、家族の為に使うのだって、立派に自分への買い物ではないか――

2009/04/05 脱稿