掴みとらん

「貴志、良いか」
「はい」
 滋の問いかけに頷き、夏目は深く腰を沈めた。
 肩幅に足を広げて腹に力を入れ、両手を前に差し出す。こげ茶色の大きな箪笥を間に置き、向かい側には滋の姿があった。
 塔子は遠巻きに、部屋の入り口近くでふたりを見守っていた。落ち着かないのか、不安げな表情で頻りに胸元、口元を弄っている。
 夏目は、そんな彼女を安心させてやろうと表情を緩め、長い息を吐いて呼吸を整えた。滋の顔を窺い見て、互いに目で合図を送り、ほぼ同時に箪笥の底に手を添える。畳との隙間に指を入れるのは不可能なので、窪みを引っかかりにして、ふたりは頷くと同時に息を止めた。
「ふん、ぬぅ!」
 この世のものとは思えない声を絞り出し、腕の筋肉に血液を充満させて折り曲げた膝を伸ばす。時代を感じさせる飴色の箪笥はそう簡単に動かず、彼らは顔を真っ赤にしながら歯を食いしばった。
 耳から湯気を噴き、どうにか三センチばかり畳から引き剥がしたそれを、蟹歩きの要領で横に運ぶ。動かせた距離はせいぜい二十センチ程度だったが、充分だったらしい。息を呑んで見守っていた塔子は両手を叩き合わせ、目を輝かせた。
 長く上に物が置かれていた為、現れた畳の色は他と違っていた。濃い若草色を左手に見いだし、一瞬で汗だくになった夏目は手で顔を仰いだ。
 たったこれだけの労働に関わらず、息が切れた。日頃使わない筋肉が痛みを発し、肩が重い。
「あった、あったわ」
 夏目に負けず劣らず汗にまみれ、辛そうに息をしている滋を差し置き、前に出た塔子が細い隙間に腕を捻じ込ませた。猫ではないので全身入るのは不可能だが、懸命に伸ばして広がった隙間に落ちていたものを拾い上げる。
 それは封筒だった。
 役場に提出しなければならない、大事な書類が入っていると、先に聞いている。彼女はそんな大切なものを、うっかり壁と箪笥の間に落としてしまったのだ。
 掃除機で吸い出そうとしたがダメで、物差し等の細いものを差し込んでみたが、どうやっても取り出せなかったそうだ。
「良かったー。有難う滋さん、貴志君」
 手元に戻って来なければ、一大事だった。嬉しそうに礼を言う彼女の笑顔に、畳にしゃがみ込んでいた夏目も、疲れが一気に取れるようだった。
「ホッとするのはまだ早いぞ」
「え?」
「これを、戻さなきゃならないだろう」
「あ、そうか……」
 力の抜けた笑顔を返し、脱力していた夏目を叱って、滋が重い箪笥を叩いた。それは塔子が嫁入りの際に実家から持って来たものだそうで、造りがしっかりしている分、重量も相当だった。
 低い位置から仰ぎ見て、夏目はすっかり忘れていたと冷や汗を掻いた。最初から助力を期待していなかったが、手伝わされるのを嫌って塔子がすかさず遠くに逃げていく。
 素早い彼女に苦笑し、夏目は額に張り付いた前髪を掻き上げた。
「でも、こういう時に男の子がいてくれて良かったわ」
 部屋の入り口に舞い戻った塔子が、関取が向かい合うように腰を低く屈めたふたりを眺めて、そんな感想を漏らす。
 胸に大切な書類を抱き締め、優しい笑顔を浮かべた彼女に、夏目は即座に返事が出来なかった。
「貴志」
「は、はい」
 滋に集中するよう言われて、先ほどと同じ場所に手を掛ける。二度目は、最初の時ほど重く感じなかった。
 畳の色褪せた場所に合わせて元通りの位置に戻し、何事もなかったかのように鎮座するそれを眺め、夏目は疲れたと肩を回した。
 左右入れ替わりに動かし、骨を鳴らしてまた左から。繰り返していたのは無意識だったのだが、滋には奇異に映ったらしい。
「大丈夫か」
 心配そうに聞かれて我に返り、夏目は右肩に乗せていた左手を下ろした。
「滋さん?」
「いや、大事無いならいいんだ」
 何を指して問われているのか即座に理解出来ず、首を傾げた夏目をじっと見て、滋は笑った。
 杞憂だったと手を振り、首に残る汗を拭って塔子と一緒に部屋を出て行く。ひとり残された彼は、何か不味いことでもやっただろうかと俯き、意識せぬまま首の後ろを引っ掻いて、その痛みに顔を顰めた。
「ああ……」
 カーキ色の袖なしパーカーの紐を引っ張り、彼は滋の言葉の意味を今頃になって理解して頷いた。部屋を出て障子戸を閉め、談笑している夫婦の邪魔をせぬように静かに階段を登る。
 自室として使わせてもらっている部屋の戸を滑らせ、彼は右肩を指先で揉み解した。
「ぬ、どうした。疲れた顔をしておるぞ」
「先生」
 すかさず中にいた巨大饅頭、もとい丸々とした猫に、人の言葉で指摘された。
 汗は引き、呼吸は落ち着いている。だが慣れないことをしたので、疲れているのは確かだ。
 階下から誰も来ないのを確かめ、夏目は敷居を跨いで後ろ手に戸を閉めた。ぴしゃり、と鋭い音に背筋を伸ばし、大股に進んで部屋の中央に陣取る愛嬌たっぷりの妖怪の前で膝を折る。
 座布団を引き寄せて尻の下に敷くと、すかさず胡坐を組んだ膝にまん丸い猫がよじ登った。
「こら」
「いいではないか、けちけちするな」
 減るものでなし、と言って、招き猫を依り代とする、元は狼にも似た巨大な妖は、猫さながらに身を丸め、綿毛のような尻尾を揺らした。
 短い足を折り畳んで腹の下に入れ、夏目の足を寝床に定める。本性である白い毛並みの姿から比べればまだマシだが、乗られると当然ながら相応に重い。しかも彼は、通常の猫よりも数倍大きかった。
 太りすぎだと思うのだが、ダイエットに勤しむ気配は今のところみられない。夏目は膝を揺らし、真ん丸い身体を何度も押したが、自重を利用した彼はびくともせず、頑なに場所移動を拒んだ。
「ったく」
 酒を飲み、脂っこいものを好む食生活では、太るのも当然だ。どこの中年サラリーマンなのかと、年がら年中汗だくのハゲ親父を想像し、気持ちが悪くなって夏目は額に手を置いた。
 間違って、獣姿の彼の顔に、メタボリックな男性の胴体を組み合わせてしまった。お陰で非常に珍妙な、地球外生命体が脳内に完成したわけで、自己嫌悪に陥りつつ、夏目は左右同時に肩を回した。
 関節が擦れ合う音が、身体の中で響いている。震動を感じて、膝の斑が右目を開けた。
 三日月を横倒しにしたようなふてぶてしい目が、いやに肩を気にしている夏目を射抜く。視線を感じて下向いた彼は、猫にしては広い彼の額を思い切り指で弾いた。
「ぬお」
「誰の所為だと思ってんだ」
「なにをするか、貴様!」
 話が噛み合っていない。斑は叩かれて赤くなった場所を夏目に突きつけ、謝罪を要求する。夏目はそんな彼を前に涼しい顔をして、痛みの消えない肩に舌打ちした。
 滋に言われるまで気にもしなかったが、実を言えば肩が凝っていた。
 九十度に曲げた肘を背中より後ろにやり、首を引っ込める。下から押し上げるように動かすと、斑にまで聞こえる音量で骨が鳴った。
「ああ、もう」
 最初に彼に指摘された、疲れた顔というのは的を射ている。一度気になり始めると止まらず、夏目は頭上高く腕を掲げ、背を反らしてそのまま畳に寝転がった。
 仰向けの視界で揺れる照明は、外が明るいのもあって、今は沈黙していた。
 斑が自主的に膝から降りてくれたので、夏目はこれ幸いと両脚を伸ばした。大の字に横たわり、薄暗い天井の木目を数えて、下で蠢くものに視線を投げる。
 顔の真横に移動した斑がにゅっと後ろ足で立ち、真剣なのか不真面目なのか分かりづらい間抜け顔で彼を覗き込んだ。
「……なに」
「いや、べつに」
「そっ」
 なら、良いや。
 若干投げやりにも聞こえる相槌を返し、夏目は腰の下にあった座布団も引き抜いて、遠くへ投げた。
 藺草の匂いが鼻をくすぐる。時々窓が揺れるので、外では風があるのだろう。鳥の囀りは遠く、耳を澄ませば塔子と滋の会話が聞こえてくるようだった。
 目を閉じた夏目をじぃっと見詰め、さっきからどうも態度が妙な彼に斑は首を傾げた。しかし挙動不審なのはいつものことなので、どうせたいした事ではないだろうと判断し、彼は前脚を前に突き出した。
「ぐおっ」
 それでドスっ、と夏目の脇腹を突き刺す。本人に攻撃の意思はなかったのだが、油断していた夏目には充分過ぎる凶器だった。
 横っ腹に衝き立てた足を起点に、人によじ登ろうとしている猫モドキの首根っこを捕まえ、彼は牙を剥いた。
「なにしやがる!」
 思い切り振り回し、座布団よりももっと遠く、座卓のある壁目掛けて放り投げる。後ろ足を取られた斑は逃げることが出来ず、見事顔面から窓の真下に激突した。
 衝撃で真ん丸い身体が一瞬だけ薄っぺらくなる。壁に穴が空いたかと思える轟音を響かせた妖怪は、膝立ち状態で肩を上下させる夏目の前で、ずずず、とぶつかった時の状態のまま、床に沈んだ。
 最後は頭の重みに引っ張られ、白目を剥いて仰向けにコロン、と転がった。
「あー、ったく」
 油断も隙もあったものではない。
 ズキズキする腹を左手で抱え、右拳で宙を殴った夏目は、四肢を痙攣させ、意識を飛ばしている斑に肩を落とした。畳に直接座り、もう一度寝転がるところからやり直す。
 四度の瞬きの末に復活した斑は、磨った所為でひりひりする顔を真っ赤にして煙を吐き、文句のひとつでも言ってやらねば気がすまない、と仰向けの夏目の隣へと戻った。
 パーカーに熱を持った顔を押し当て、今度は慎重に前脚を伸ばして夏目に寄りかかる。邪魔は入らず、腹這いで低い丘に登った彼は、一定のリズムを刻む夏目の鼓動を数えながら彼の胸を軽く叩いた。
「重い、先生」
「ぬかせ」
 当然退けと言われるが、さっきの仕返しだと呵々と笑って、斑は彼の申し出を却下した。
 宙を泳いだ夏目の右手が、何かを探すように虚空を掻く。寛ぐ体勢に入っていた斑は、また追い払われるのかと警戒して耳を立てたが、夏目の掌は糸が切れたかのように急に落ち、白に朱と朽ち葉色の紋様が走る頭を撫でた。
 愛おしむように何度も、何度も。
「夏目?」
「先生は、重いな」
 撫でられるのはやぶさかではないが、どうも変な感じがする。感慨深げに呟いた彼に怪訝に目を向け、斑はフルフルと首を振った。
 掌を上にして、夏目は右手を畳に戻した。ぼんやり天井を見上げ、どうしてだかふっと笑い出す。
「頭でも打ったか」
「いや。……はは、そうだな」
 どっちなのか、その返事では分からない。無い首を捻った斑を、顎を引いて見詰め、彼は目を細めて音立てて浮かせた後頭部を落とした。
 昔は、肩凝りなどした事が無かった。重い荷物を抱えることなど、殆どなかったから。
 いつも身ひとつで、大切なものなどどこにもない。段ボール箱に詰め込んだ祖母の形見さえ、長く見ようともしなかった。
 ところが今は、色々なものが重い。望む、望まざるに関わらず、人の肩に容赦なく圧し掛かっている。
 ただ、たまに押し潰されそうにもなるけれど、中身が空っぽでふわふわしているよりは、地に足をつけて歩く原動力になるこの重さが、とても心地よかった。
「先生、また太ったろ」
「なにを言うか。貴様が細いだけだ」
 ぽっちゃりした体格を揶揄すれば、斑は憤慨して荒っぽく夏目の胸を叩いた。
 震動を受け止め、彼は声を立てて笑った。
「このモヤシめ、軟弱者め。貴様なぞこうしてくれる!」
「いて、痛いって、先生。こら、止めろ」
 益々怒り狂った斑が顔に登り、鼻と口を腹で塞ごうとした。窒息死させられてはたまらないと引き剥がそうとすれば、爪を立ててしがみつかれ、これまた痛い。
 乱暴に引っぺがすと顎に傷が出来た。走った熱に顔を顰めると、畳に着地した斑がしたり顔で鋭い爪を翳した。
 先端に残る自身の血にゾッとし、負けてなるものかという気迫がそれを上回る。
「この……ゆるさん!」
「それはこっちの台詞だ!」
 今日こそ勝手ばかりするその曲がった性格を矯正してやる。夏目が叫べば、捕まえようとした彼の手からするりと逃げて、斑は隙だらけの脛を後ろから蹴りつけた。
 もんどりうって夏目が倒れ、震動は階下にも伝わった。
「あらあら、どうしたのかしら」
 天井から降って来た埃に、塔子が驚いた顔で上を向く。滋も揺れる照明器具に目を細め、バサリ、と新聞を揺らした。
「男の子、だからな」
「まあまあ」
 あまり関心がない様子で呟いた夫に、塔子は楽しげに笑った。

2009/03/11 脱稿