馨しきは

 冬の、まだ肌寒い風が吹く日だった。
「……あれ」
 薄く、広く、空を覆う雲の隙間から覗く太陽は、夏の頃に比べると儚くさえ感じられる。白いマフラーを首に巻きつけ、白く煙る息を吐いた夏目は、右脇に挟んでいた鞄を下ろしながら視線を斜めに転じ、足を止めた。
 気のせいだろうか、微かに甘い匂いがしたのだ。
 けれど彼が立っているのは細く長い一本道で、左には水を抜いた田圃が、右には傾斜もなだらかな山の裾があるだけだ。
 間違っても甘味処などなく、菓子を焼く住居も見当たらない。人気は途絶えて久しく、この場に影を持つ生き物は夏目ただひとり。
「花?」
 変だな、と鼻の頭を爪で掻き、彼は首を傾げた。
 一瞬だけ鼻腔を擽ったのは人工的な匂いではなく、自然に咲く美しい花の匂いだと思われた。ただ今の季節は春と呼ぶにまだ早く、大量に降り積もった雪もまだ田圃の片隅に、少しだけだが残っている。
 どこかで嗅いだ覚えがあるのに、記憶は曖昧すぎて咄嗟に該当するものを導き出せない。喉の奥に魚の小骨が突き刺さって取れない感覚に近く、無意識に掻きむしったコートに皺が寄った。
「なんだろ」
 妙に気になって、夏目は大きく息を吐いて、改めて周囲を見回した。
 一面に広がる田圃は生気を失った薄い土色をしている。遠くの道をトラックが走り、自転車を追い抜いて行った。
 視界を遮る壁はなく、道路を一歩外れればむき出しの地面が夏目を待ち構える。ただそのどれもが、凍てつく冬を無難に過ごそうとしてか、生命活動を休止させてじっと息を潜め、春を待っている姿に見て取れた。
 花などどこにも咲いていない。咲いても、この寒さでは一晩としないうちに枯れてしまうのではなかろうか。
 三度息を吐き、その瞬間だけ濁る視界に顔を顰めて夏目は首を振った。試しに肩を引いて左腕を持ち上げ、コートの袖を鼻に近づけてみたが、なんの匂いもこびり付いていなかった。
 矢張り自分の思い過ごしのようだ。見切りをつけ、無理矢理己を納得させて、夏目は長らく止めていた足を前に繰り出すべく踵を持ち上げた。
「……ああ、もう」
 後ろ髪を引かれる思いとは、こういう事を指すのだ。まだ確かめていない場所があると頭の片隅で訴える声は五月蝿く、彼は苛立たしげに地団太を踏むと、誰に対してか「分かったよ」と告げ、足を下ろす先を変えた。
 踏みしめた枯れ草は、サクッと良い音がした。
 山の斜面を覆う土の感触はとても柔らかく、それ故にアスファルトを歩き慣れた足では不安を覚える。不用意に緩い部分を進まぬよう心がけ、夏目は鞄を持つ右手に力を込めた。
 手入れがされていないのか、葉が落ちた細い木は好き勝手な方向に枝を伸ばし、夏目の邪魔をした。彼は狭い隙間を屈んでどうにか潜り抜け、鋭い枝に奪われそうになるマフラーを気にしつつ、次第に暗くなる山を静かに登っていった。
 落葉樹と常緑樹とが混在し、視界はすこぶる悪い。鳥の囀りは四方八方から聞こえて来て、狸くらい顔を出しても驚かない世界が広がっていた。
 探せばもっと歩き易い道があっただろうに、遠回りするのも面倒だ。そもそも自分が何処を目指しているのかさえ、夏目はよく分かっていない。ただ心が惹かれる――目に見えぬ何かに導かれている、それだけだった。
 無視をすればいい、逐一構っていては身がもたない。そう忠言してくれる存在も近くにいるけれど、性分なのだから仕方が無い。むしろ長い間、誰とも関わりあいを深めることがなかった反動かもしれなかった。
 物心つく前に両親を失い、親戚中を転々としながら幼少期を過ごした。この、人が視ることの叶わないものを捉える目の所為で、行く先々で嘘つきだなんだと言われ続け、優しくしてくれた人も中にはいたけれど、実はその人ですら物の怪の類だった時は、泣くことしか出来なかった。
 あの頃の自分は幼すぎて、どうしてこんな惨めな思いをしなければならないのかと、もう居ない両親を怨みもした。
 少しずつ大きくなって、頭の中でこの世の不条理の数々が理解出来るようになって、ちょっとずつ、自分はずるくなった。人には極力この能力を教えず、視えても見えなかったフリで押し通す術を覚えた。そうやって、先ず自分自身を騙すことでどうにか日常を送っていた。
 考え方が変わったのは、藤原夫妻に引き取られて此処に来てからだ。
 真ん丸い胴体の、ふてぶてしい猫の姿を仮初とする妖怪に出会ってからだ。
 祖母の――自分のルーツを見つけたからだ。
 優しくありたいと思った。藤原夫妻の存在がとても温かいから、この喜びを少しでも大勢に分けてあげたいと思えるようになった。
「いてっ」
 短い間隔で息を吐き、首筋を刺した枝に悲鳴をあげる。終わりが見えない荒れ山に段々と腹が立ってきた頃、夏目の視界が急激に晴れた。
 緑がサッと左右に別れ、彼を光の中に押し出す。予想していなかった光景に驚き、夏目は声もなく呆然と目を見開いた。
 そこにあったのは、古いお堂だった。人が立ち寄らなくなってから長い年月が過ぎていると思われるボロボロに朽ちた社は、片方の戸が外れ、格子を覆っていた障子も全て破れてしまっていた。
 さほど大きくはない。路傍に祀られた地蔵と似たり寄ったりのサイズだ。
 露神の社を思い出すが、あちらよりも破損具合がずっと酷い。風が吹けばカタカタと残った戸が音を立て、物寂しさを強調していた。
「ここは……」
 近付こうとして、夏目は手前に張られたロープに気がついた。社と、その背後に聳える巨木とをぐるりと囲っている。地面に並んだ杭の傍には、危険、という警告と立ち入り禁止の文言が、ひとつの看板に同居していた。
 こちらは殆ど汚れておらず、最近設置されたものと推察出来た。
「なんだ?」
 相変わらず周辺の人の気配はなく、夏目は答を探して看板に近付いた。腰を曲げて顔を寄せ、下の方に小さく記されている連絡先を目で追う。番号は、県外のものだった。
 姿勢を戻して鞄を抱え直し、太い幹の古木を仰ぎ見る。黒ずんだ表面は、この木がどれだけの年月をこの地で過ごして来たかの証明だった。
 表面はごつごつしており、枝はどれも不可思議な形に歪んでいる。葉は一枚も残らず、この外見だけでは何の木なのか区別がつかない。
「桜? いや、けど」
 思いつきで呟いてみるが、しっくり来ない。眉間に浅く皺を寄せて考え込んだ夏目は、懸命に頭の中にある植物図鑑を捲っていったが、該当するものに行き当たる前に、裏表紙に到達してしまった。
 自然豊かなこの町に来てから、色々なものとめぐり合うようになったけれど、案外知識は増えていないのだと思い知らされて、少し切なくなった。
「……さっきの匂いは、お前か?」
 口元を覆っていた手を外し、ロープの外側から呼びかけてみる。もっとも相手は植物なので、言葉が返されるなど最初から期待していない。ただほんの少し、周辺の空気が温かく感じられるようになって、正解なのだろうと夏目は勝手に解釈した。
 優しい芳香だった。心が鎮まり、穏やかな気持ちになれる良い匂いだった。
「ありがとう」
 出来ればもう一度嗅いでみたいと思ったが、それは無理な注文であろう。ちくちくと痛みを発する頚部の傷を指で隠し、夏目ははにかんだ。
 背伸びをして枝に顔を寄せれば、枝の先に小さな蕾が見えた。まだ綻ぶまで時間がかかりそうで、満開には程遠いが、時期がくれば綺麗な花を咲かせてくれるに違いない。
 隠れた名所を見つけたと嬉しくなって、夏目は踵を下ろし古木に背を向けた。
 きっと壊れかけの社が危ないから、近付かないように警告札が出ているのだ。よくよく見れば、広場の東側に細い道があった。
 歩み寄れば、南画の斜面を抜けてきた彼の苦労を嘲笑うかのように、人ひとりが楽に通り抜けられる幅がしっかり確保されていた。昔から大勢の人が行き交ったのだろう、踏み固められた土は中央に向かってやや落ち窪んでいる。左右の樹木も、通行人に遠慮してか、頭上を覆う枝葉は殆どなかった。
 晴れた空が細長く続くのを見上げ、夏目は肩を竦めた。
「次来る時は、こっち通るか」
 ちくちくと痛む首を撫で、マフラーに血が付かないように少し緩める。
 まだ春本番には遠い風を頬に感じながら歩く彼の背中を、じぃっと見詰める黒い影がある事に、この時彼はまだ気付いていなかった。

「古いお社に、でっかい木?」
 そういえば、あの木は結局なんの木だったのだろう。
 夏目の些細な疑問に答えをくれたのは、西村だった。
 学校の昼休憩、コーヒー牛乳のパックに刺したストローを咥えていた彼は、夏目の言葉に幾許かの間を置き、それは、となだらかな丘陵を奥に据えた窓を指差した。
「あの辺の?」
「ああ、うん。そうだったと思う」
 ひとつの机を挟んで前後に座っていた夏目は、彼の指が指し示す方角を確かめようと椅子から腰を浮かせ、机に胸を押し付けた。低い姿勢から外を見て、昨日の記憶と照らし合わせながら頷く。即座に身を引くと、空いたスペースに西村の持っていた紙パックが下ろされた。
 中央を凹ませたそれの、飲み口に残る水滴を指で拭った彼は、椅子に行儀良く座り直した夏目を不思議そうな目で見た後、再び薄水色の空を仰いだ。
「知ってるのか」
 いやにもったいぶった態度を取る彼に痺れを切らし、我ながらせっかちだと思いつつ先を促す。西村はちらりと横目で夏目を見返し、小さな溜息を零した。
「梅だよ、赤い方の。でも多分、咲かないんじゃないかな」
「え、なんで」
 昨日見た時は、沢山の蕾がついていた。麗しく咲くのを今か、今かと待ち侘びて冬を越す樹木の健気さに感動さえ覚えていた夏目は、思いがけない言葉に目を丸くした。
 明らかに落胆している彼に再度吐息を零し、西村はまだ中身が残っている紙パックの角を押して斜めに揺らした。
「てか、ここ何年かずっと咲いてないって話」
 お前はまだ越して来てそう経ってないから知らないんだろうけど。そう早口で告げた彼は倒れそうになったパックを横から攫い、コーヒー牛乳を一気に飲み干した。
 ズズズ、と大きな音を響かせ、立方体が説明に困る形状に成り代わる。そのまま親父臭く、プハーと息を吐くかと思いきやそうはならず、呆気にとられている夏目を置き去りに口元を拭った彼は、幼い頃に思いを馳せているのか、丸めた背中を椅子の背凭れに押し付けて顔を伏した。
 空元気を振り撒いた後の彼は静かで、続きを聞いて良いのかで迷ってしまう。夏目は視線を周囲に泳がせ、食べ終えて脇に寄せていた自分の弁当箱に手を伸ばした。
「あの梅の木さ、少し前まではスゲー綺麗に咲いてたんだ」
 不意に口を開いた西村の言葉に、夏目の手がピクリと震えて止まった。指先を宙に浮かせたまま首を回し、まだ俯いている彼を見る。
「けど、あの山を管理してたお爺さんが亡くなってから、急に咲かなくなったって聞いてる」
「え……」
「蕾まではつくんだけどさ、咲かないんだって。だから切るって話」
 鋏を入れる人がいなくなり、周囲一帯を含めて荒れ放題。そうなれば訪ねてくる人も日増しに減って、益々荒れ果てて、それが現状だった。
「切るって」
「なんでも、爺さんの息子が、土地を売り飛ばすだとかなんだとかで、邪魔なんだとさ」
 親から継いだ大事な土地なのに、手間隙がかかるからと放置しておいて、最終的には不要だから切り倒してしまうなどと、あまりにも身勝手すぎる。だから西村は怒って、落ち込んでいたのだろう。推測でしかないが、次に繋ぐ言葉に困り、夏目は右手を弁当箱に落として項垂れた。
 社が荒れ始めたのも、梅の花が咲かなくなった頃だという。
 危険と書かれた立て札と、周囲に張り巡らされたロープの意味がやっと分かった。あれは訪問者への親切心ではなく、二度と此処に近づくなと言う警句だったのだ。
「なんで、咲かなくなったんだろう」
「そりゃ、爺さんがいなくなったから、じゃね?」
 妖の類が見えるわけでもない西村が、自信なさげに言う。同意を求められても困るのだが、存在を信じていない彼でさえそう思うくらいに、梅の木と老人の結びつきは深かったようだ。
 夏目は彼の言うお爺さんを知らない。優雅に咲き誇る梅の木の姿も、想像がつかない。けれど西村には見えるのだろう、古木に寄り添う男性の姿が。
「俺も、咲いてるところ、見てみたかったな」
「だなー」
 切られてしまうのは哀しいが、あの土地となんの関係も無い夏目にはどうすることも出来ない。可哀想だが、見送ることしかしてやれない。
 あれだけの巨木だから、満開になればさぞや芳しい匂いが山を包んだことだろう。昨日一瞬だけ感じた匂いに思いを馳せ、夏目は椅子を引いて立ち上がった。
 同じタイミングでチャイムが鳴り、周囲がにわかにざわめく。空になった弁当箱を右手にぶら下げ、西村に手を振って自席へと戻った彼は、横に吊るした鞄に手を伸ばして中にしまい、次の授業の教科書を入れ替わりに抜き取った。
 前回終わったところを探して広げているうちに、本鈴が鳴って先生が入ってくる。慌てて意識を切り替えて授業に集中すべく、夏目は居住まいを正して筆箱に手を伸ばした。
「あ、っと」
 けれど焦っていたのか、指が取り出そうとしたシャープペンシルを弾いてしまう。床に転がり落ちたものを拾おうと、日直の「起立」の声を無視して屈んだ彼は、椅子の下に潜り込んだそれを抓もうとしてハッと息を呑んだ。
 ふんわりと香る梅の匂いが鼻腔を擽る。
「――っ」
 だが次の瞬間彼を見舞ったのは、身の毛もよだつ悪寒だった。
 爪の先が掠めたシャープペンシルを捨て置き、反射的に肘を寄せて己の身を抱き締める。首筋を撫でた何か目に見えないものに奥歯を鳴らして、彼はその場で尻餅をついた。
 背中が机にぶつかって大きく音が響き、着席しようとしていた周囲の生徒が一斉に夏目を見る。ひとり床に座り込んでいる彼を見下ろす視線は、どれもが怪訝な色に染まっていた。
「どうした、夏目」
「あ、いえ。すみません、なんでもありません」
 一瞬呆けた後、彼は教卓から声を掛けて来た教諭に慌てて謝った。飛んでいったシャープペンシルは隣席の男子が拾ってくれて、椅子を蹴った足を引っ込めて夏目は温い汗をこっそりと拭った。
 首の辺りがチリチリする。産毛が焼け焦げるような感覚に顔を顰め、椅子に座り直した後に触れてみれば、小さな瘡蓋が中指の腹に触れた。
 すっかり忘れていた、それは昨日の山登りで作った傷だ。
 再び、先ほどとは少し趣が違う寒気に襲われる。何も知らぬ教諭が読み上げる英文が響く教室の只中で、夏目は軽い眩暈を覚えて額に手を置いた。
 甘い香りの毒ガス、などという言葉が脳裏を過ぎり、病んでいるなと自嘲気味に笑みを浮かべるがその表情はどこかぎこちない。わざと咳をして気分を誤魔化し、湿った指先をズボンの押し付けた彼は、急速に脈が乱れていくのを自覚しながら冷たい机に頬を押し当てた。
 熱が合板に吸い込まれ、気持ちが良い。怠けているようにしか見えないポーズだと、周囲の目を気にしてやっと自然な笑顔を浮かべた彼は、何気なく外に向けた視界に飛び込んできた黒い靄に、またも目を剥いた。
 椅子から転がり落ちずに済んだのは、ひとえに机に寄りかかっていたお陰だ。但し震えた膝が机の脚を蹴り飛ばしてしまい、ガタガタと騒音を撒き散らした。
「夏目」
 透明な窓ガラスは陽射しを遮らず、教室を明るく照らしている。だのにその窓ひとつだけが、夏目の目にだけは、真っ黒く塗り潰されて見えた。
 ぎょろりと、爬虫類を思わせる目がひとつ、ぐるぐると中を動き回っている。それが不意に停止し、凍り付いている夏目をじぃっと見詰めたのが分かった。
 視線がぶつかって、圧倒される。ぶわっ、とガラスを通り越して手を伸ばす闇が迫り、夏目は咄嗟に逃げようとして身を仰け反らせた。
 椅子が五月蝿く音を立て、周りが一気に騒々しくなる。先生の呼ぶ声と、西村の声も聞こえたが、意味を解する前に夏目の意識はぷつりと途切れた。
 闇の手に首を掴まれる直前、楽しげに笑う誰かの背中が見えた気がした。

 保険医が下した貧血という病名には納得しかねたが、倒れた本当の原因を説明できるわけもなく、夏目は午後の授業時間を全てベッドの上で過ごした。
 まるで塔子があまり食べさせていないみたいな感じがして嫌だったが、受け入れるしかあるまい。
 保健室に運び込まれた当初、夏目は大量の汗をかいていたが、何度試しても体温計は平熱を指し示した。風邪の症状もなく、意識を取り戻して以降の彼は至って健康そのもの。ただ大事を取ってゆっくり休むように言われ、放課後を待って彼は教室に鞄を取りに戻った。
 西村は待っていてくれて、夏目が教室入り口に現れると大丈夫かと慌てた様子で駆け寄って来た。心配ないと告げてもなかなか信じてもらえず、一緒に教室に居た北本とふたりして質問攻めにされ、誤魔化すのがとても大変だった。
 こんな風に自分に、無邪気に構ってくれる同年代の友人というのはなかったから、ふたりの存在はとても温かく、夏目をくすぐったい気持ちにさせた。もう大丈夫だからと五度ばかり夏目が繰り返した後、急に態度を変えて「なーんだ」と面白くなさそうに言うところが、実に彼ららしい。
「俺も一緒に保健室でサボれば良かったなー」
 薄い鞄を頭の後ろで揺らし、西村が歩きながらそんな事を言う。
「後でノート、見せてくれよな」
「明日の昼飯、ヤキソバパン一個な」
「おいおい、俺は病人だぞ」
 夏目を真ん中に置いて、三人並びながら学校を出る。部活に所属していない生徒の大半は既に帰宅済みで、目の前のバス停は出た直後なのか蛻の殻だった。
 真冬の頃に比べれば、太陽の位置はまだ高い。斜めに伸びた影を踏んで歩きながら、他愛もない話題で腹を抱えては笑い合う。賑やかで、楽しくて、自分が他の人と少し違うことを忘れさせてくれる至福の時間だった。
「病人だったら、もうちょっと病人らしくしてろよな」
「こら、乗るな。潰れる」
 日頃から巨大な猫を肩に乗せているとはいえ、流石に高校生の男子を背負うのは辛い。多くの妖たちから揶揄されるように、脆弱な体躯しか持ち合わせていない夏目にとっては、尚更だ。
 西村に背中から圧し掛かられ、慌てて腕を振って逃げる。追いかけてくる彼を避けて道路を縦横無尽に走っているうちに息が切れて、最終的に追いつかれてぶつかられて、前のめりにつんのめった彼は危うく本当に転ぶところだった。
 片足立ちで何歩か進み、膝を曲げて路上で小さくなる。
「夏目!」
「大丈夫か」
 教室で倒れる瞬間を目撃していた西村が、若干青褪めた顔で駆け寄って来た。前に回り込み、下から覗き込んできた彼に苦笑して、夏目は肩で息を整えながら首を振った。
 体力の無い自分に肩を竦め、背筋を伸ばして長く息を吐く。噴き出た汗を拭って髪を掻き上げた彼に、横でホッとした様子だった北本が首を傾げた。
「夏目、お前のその首、どうかしたか?」
「え?」
「血が出てる」
 此処だ、と自分の首の右側を指差した北本に、夏目は怪訝にしながら肌を撫でた。確かにぬるりとした感触が直ぐ指先に広がって、腕を戻してみてみれば、彼の言葉通り指紋の隙間が赤く染まっていた。
 横から覗き込んだ西村が顔を顰め、嫌がって慌てて退いた。夏目自身も、痛みを殆ど感じなかったので今の今まで気づかずにいて、少なからず驚いた。
 瘡蓋が外れてしまったのか。昨日山の中で作った傷は、今また鈍い痛みを伴って彼を刺した。
「そういえば……」
 気を失った瞬間、窓から出て来た黒い手に此処を掴まれた。その時に剥げ落ちたと思えば、納得も行く。けれど、何故。
 生々しい感触が蘇って来て、夏目はしつこいくらいに自分の細い首を撫でた。握られた痣が残らなくて良かったと、心底自分を心配しているふたりを交互に見て思う。
「あれ、ここって」
 肌を擦りすぎて逆に痛みを覚え始めた頃、左手に広がる田圃から右に視線を転じた西村がひとつ高い声をあげた。
 瞬きをした夏目も直ぐに気付いたが、昼休みのやり取りを知らない北本は怪訝に首を傾げた。顔を見合わせるふたりを横から眺め、仲間外れにするなと、西村の足を蹴り飛ばす。
 直前で逃げた彼が、鞄を持つ手を入れ替えてなだらかな傾斜を指差した。それから夏目を振り返って、
「ここの、だよな」
「そう」
 主語を欠いた質問を投げかけた。
 首肯を返した夏目に、北本が益々頬を膨らませる。子供っぽく拗ねる彼を笑って、西村は山の奥を顎で示した。
「でっかい梅の木、あるだろ、ここ」
「ああ。昔登って怒られた」
 明るい調子で西村に、さほど間を置かず北本も思い出を懐かしんで頷いた。いったい彼らは、どんな幼少期を過ごしたのだろう。少し羨ましくなって、夏目は肩の力を抜いた。
 世話をしていた老人と、咲かなくなった花の関係も北本は知っていた。どうやらこの周辺では割と有名な話らしく、彼は世の中には不思議なことが多いと頻りに感心していた。
「そうだな」
「あれ? なんか、騒がしいな」
 見えなくとも不可思議な現象を認めようとする彼らに、嬉しげに夏目が頷こうとしたのを遮り、唐突に西村が背伸びをして言った。
 ふたりの声の大きさは全く違っており、北本の意識も自然とそちらに向いた。左手を額に添えて庇代わりにした彼の視線の先は、昨日夏目が下った山の道があった。
 トラックが二台停車し、作業着の男の人が何人か傍で話し込んでいた。
「まさか」
 梅の木を切るという話は、西村から聞いている。顔を見合わせた夏目は、首筋から背中にかかる一帯を撫でるザラっとした感触に背筋を凍らせた。
 まただ。五時間目に感じた嫌な気配が、この近くを漂っている。彼は咄嗟に両手で体を抱き締め、遠くに意識を向けているふたりから半歩下がった。
 ここで倒れるわけにはいかず、彼は奥歯を噛んでこみ上げる吐き気を堪えた。目の前が暗くなって、首の痛みが倍増する。北本に指摘されるまですっかり忘れていたのに、一度意識すると途端に存在を主張して、鬱陶しくてならなかった。
「行ってみよう」
 体調不良を覚える夏目に気付かず、西村に促されて北本も歩き出した。あまり距離を取ると変に思われてしまう、夏目もまた無理を押して身体を動かし、ぎこちなくではあったが坂道を緩やかに下っていった。
 近付くにつれて、様子が段々と分かってきた。
 何もなかった道の脇には、此処で工事をする旨を記載した看板が立てられていた。トラックの片方は空っぽで、もう片方には小型のショベルカーが積まれていた。道が細いので、大型の機材が入れないからだろう。
「マジでー?」
「もう切っちゃうのかよ」
 話には聞いていたが、それはもっと先の出来事だと無意識に思っていたらしい。声を揃えた二人の驚きようを後ろから見て、夏目は彼らの存在を気取って睨んできたヘルメットを被った男性に目を向けた。
 直前でふいっと顔を背けられたので視線は重ならないが、あまり良い感じはしなかった。
「お前ら、危ないから向こう行ってろ」
 別の男性がそう言って、犬猫を追い払うような仕草を作る。邪魔者扱いされた西村と北本は、口々に横暴だの、なんだのと罵詈雑言を並べ立てて早足に場を通り過ぎた。
 遅れて夏目も続き、途中で振り返る。
 梅の花の匂いはしない。道を離れるとあの寒気も薄くなり、やがて消えた。

 あの梅の木は、自分に何かを訴えていたのではないか。
 そう考えるのは、傲慢だろうか。
「ただいま」
 ふたりと別れ、世話になっている藤原夫妻の玄関を潜る。靴を脱いでいると奥から塔子が顔を出したので、夏目は鞄から空の弁当箱を取り出して彼女に差し出した。
「美味しかったです」
「そう、それは良かったわ」
 感謝の気持ちを込めて告げれば、彼女は柔和な表情を一層綻ばせて嬉しげに目尻を下げた。
 毎日欠かさず、こうやって弁当を持たせてくれるのはとても有り難かった。朝晩の食事の支度も、決して楽な仕事ではない。だのに彼女は文句ひとつ言わず、誰よりも早く起きて、誰よりも遅く寝床に入る。それを思うと、こうやって食べさせてもらう日々を送る自分は、なんと怠惰な身の上だろう。
「お夕飯、もうちょっと待ってね。あら、貴志君、どうしたの? ちょっと顔色が悪いわよ」
「え。そうですか?」
 軽く落ち込みそうになっていたところ、目敏い塔子に指摘されて夏目は内心ドキッとした。動揺を悟らせまいと逆に聞き返して誤魔化すが、表情はどうにも硬く、不自然なものになってしまった。
 そうなると益々塔子は怪しんで、目尻の皺を深めて夏目に詰め寄った。
「そうよ。どうかしたの、熱でもあるの?」
 彼女には、学校で倒れた旨は伝わっていなかったようだ。ホッとすると同時に、この窮状をどうしのぐべきかで迷い、夏目は視線を泳がせて脱ぎかけの靴を後ろへ放り出した。
 動くものに気を取られ、塔子の注意が一瞬横に逸れる。その隙に夏目は彼女の横に滑り込み、一気に駆け抜けて階段へ進路を取った。
 瞬きの末に振り返った塔子が怒鳴り声で夏目を呼んだが、心の中でひたすら謝って彼は足音響かせて二階へ急いだ。騒々しく障子戸を開け、六畳ばかりの和室へと逃げ込む。
 後ろ手戸を閉める頃には、塔子も諦めたのか声はもう聞こえなかった。脱力し、その場で崩れ落ちた彼は深く長い息を吐いて首を撫で、シコリになっている傷を指で小突いた。
「どうした。五月蠅いぞ」
 座敷の奥、窓の手前の日が当たる場所には座布団が敷かれ、その上で白い猫が丸くなっていた。
 部屋には夏目以外、人は居ない。だのにはっきりと聞こえた人の言葉に彼は返事をせず、左胸を撫でて身を起こした。蓋が空いたままの鞄を引きずり、膝で畳を擦る。
 箪笥の前で立ち上がってコート、制服を脱いで着替えを済ませれば、彼の足元には短い四肢を繰る猫が、妙に人の神経に障る顔をして尻尾を振っていた。
 丸い胴、丸い頭、丸い尻尾。標準的な猫に比べて明らかに太りすぎで、実際かなり重い。
「夏目」
「うん?」
「お前、まーた何か引っ掛けてきたな」
「え、嘘」
 短い前足を持ち上げ、夏目の脛を叩いた猫が口を開く。当たり前のように返事をした彼は、猫が喋ったことよりも、猫に言われた内容に驚いて身を仰け反らせた。
 両肩を引いて左右を見るが、特に変なものは付着していない。汚れているわけではないのに身体中を叩いて埃を巻き上げるが、当然そんなもので取り払えるわけがないのは、何より当人が一番分かっていた。
 夏目の目にも見えないのだから、気配が染み付いていただけだ。言われ、思い当たる節がありすぎて、彼は頷くとそのまま項垂れた。
「まったく、このうっかり者め」
「ニャンコ先生」
 妖の類には充分注意するよう言っているのに、この有様。情けない、腹立たしい、みっともない云々と、人を貶める台詞を次々に並べ立てる猫を呼び、夏目は自分の座布団を引き寄せてそこに座った。
 後ろ足だけで器用に立ち上がった猫が、くるん、とバレエのターンを決めて四足で着地する。
 当然ながら、この猫は本当の猫ではない。招き猫に封印されて年月が過ぎるうちに形が馴染んでしまっただけの、本性は荒々しくも神々しい、狼にも似た獣の妖怪だ。
 名を斑という。
 当人、ならぬ当妖怪は、自らを高貴な存在と謳っているけれど、今の図体を見ている限りではとてもそうは思えない。
 出来損ないの巨大饅頭と表現するのが適当で、夏目は座布団の上で居住まいを正し、今一度自分の腕から肩の一帯を眺めて埃を払い落とした。
「それで、今度はどこのどいつだ」
「いや、それが」
 自分でも良く解らないのだと告げれば、日向で丸くなった猫は心底呆れ果てた顔をして「このうつけ者」と夏目を罵った。
 そんな事を言われても、分からないのだから仕方が無いではないか。あの梅の香りと、学校の教室で首を絞めてきた黒い靄のようなものと、なにか関係があると考えるのはどうにも早計過ぎる気がしてならない。だが、倒れる直前に見えた光景と、嗅いだ匂いは、夏目の思考を一方的にひとつの結論へ導こうとしていた。
 情報が足りない。口元にやった手を下ろした彼の迷う姿に、斑は三角形の耳を立てて首を後ろへ回した。
 穏やかな日差しが差し込む窓を見上げ、微かに表情を険しくさせる。
「お前が言うとるのは、屍喰らいの梅のことか?」
「え?」
 唐突に物騒な単語が耳に飛び込んできて、夏目は膝に下ろしたばかりの右手を握った。自分の太股を叩き、身を乗り出して寝そべる斑ににじり寄る。
 西村も北本も、そんな話はしていなかった。ただ綺麗で、香り良く咲く梅の木だとしか。
「なんだよ、それ」
「知らんのか。ああ、じゃがあの木は、封じられたとも聞くな」
 右の耳をパタパタさせながら、斑は一旦呆れ気味にした顔を、真剣なものに作り変えた。口を窄めて瞳だけを下向け、古い記憶を掘り返そうとしているのが伝わってきた。
 彼は、夏目が不用意に結界を壊してしまうまでの何十年かを、現在の姿の元となった招き猫に封じられて過ごした。当然その間の出来事は彼の耳には届かないし、それ以前に彼が自在に大地を駆った時代を、夏目は知らない。
 互いが持つ情報に齟齬が生じるのも、仕方の無い事だった。
「封じられた、って」
「人の生き血を啜り、屍を食らうことで、鮮やかなほどに赤い花を咲かせておったのだが、太平の世に入って封じられたと言われておるな」
 その話は聞いた事がある。但し夏目が知っているのは、別の木だが。
「桜の下には死体がある」
「あれは梅だぞ」
「分かってるよ」
 例え話だと、茶々を入れた斑に言い返し、夏目はゆっくりと顎をなぞった。視線を伏し、正座を崩して楽な姿勢で座りなおす。緩く背中を丸め、外向きに倒した膝の上に左右の肘を立てた。
 結び合わせた両手の上に額を置き、己の影で目の前を暗くして静かに目を閉じれば、優しい闇が一面に広がった。
 山の所有者が亡くなり、手入れがされなくなると同時に咲かなくなってしまった梅の木。壊れた社、荒れ果てた道。邪魔だからと簡単に切ってしまおうとする新たな土地の権利者、運ばれた重機、それらを囲む禍々しい黒い気配。
 どうして綻ぶ前に、あの蕾は枯れてしまうのだろう。
「どうして、咲かなくなったんだろう」
 斑の言葉を信じるなら、屍喰らいの梅が封じられたのはずっと昔のことだ。けれど咲かなくなったのは、つい最近の――とも言えないが、少なくともこの十年の間の出来事。
 パズルのピースの、肝心の部分が欠けている。巧くかみ合わない歯車に苛立ち、彼は浅く唇に歯を立てた。
「寿命かもしれんがな」
 ぽつりと前から聞こえた声に、様々に巡らせていた思考をひとつに戻し、夏目は顔を上げた。それは考えてもみなかったと、真っ先に疑って然るべき可能性を忘れていた自分を恥じる。
「ああ、でも」
 ただ彼は、直ぐに丸くした目を細め、得意げな顔をした斑に首を振った。
 恐らくそれは違う。理由は、枝に無数に散りばめられた硬い蕾だ。
 寿命で枯れる直前だというのなら、蕾を紡ぐ力さえ残っていないと思う。自信なさげに己の考えを披露した彼に、斑は小さな手で座布団を捏ねて膨らみに鼻を押し付けた。
 結局のところ、此処であれやこれやと論議していても、何も分からないのだ。
「くそう、じれったい。見に行くぞ、夏目」
 ついに痺れを切らした斑が勢い良く飛びあがり、畳を叩いた。真ん丸い尻尾を振り、早々に出口を目指して歩き始めてしまう。
「今から?」
「当たり前だ」
 まだ日は地平線上に残っているとはいえ、鮮やかな朱色が雲を優しく染めあげる時間帯だ。太陽が沈みきってしまえば、暗くなるのは早い。塔子の様子からして、夕飯はいつもの時間に食卓に並ぶだろう。
 あの梅の木のある山へ往復していては、とてもではないが間に合わない。出来るものなら食事は藤原夫妻と一緒に、を心がけている夏目にとっては、一大事だ。けれど斑は、そんな彼の気持ちなど全く意に介さず、器用に前脚で障子をスライドさせた。
 このままでは彼ひとりででも行ってしまう。奥歯を噛み締め、数秒間迷った末に夏目は立ち上がった。
 箪笥を開けて、片付けたばかりのコートをハンガーから外して右手に持つ。廊下に出て階段を降りる最中に袖を通して玄関に向かえば、足音を聞きつけた塔子が台所から顔を覗かせた。手にはお玉を握り、白い割烹着の裾を揺らしている。
「貴志君?」
「すみません、ちょっと散歩に連れていってきます」
 さしもの斑も、玄関の戸を開けるのは難しい。夏目より一足先に玄関へ降りたはいいが、鍵が閉まっているので外に出るのが叶わず、普通の猫を真似てぎゃーぎゃーとガラスを爪で引っ掻いていた。
 その姿が効を奏したか、塔子は特に疑いも抱くことなく、早く帰って来るようにとだけ告げて夏目に遅い外出を許可した。
「夕飯までには戻るようにします」
「気をつけるのよ」
 走ればなんとかなるだろう。楽観的に物事を考えられるようになったのはつい最近のことで、心配そうにしている塔子に会釈した彼は急ぎ鍵を開け、斑のために道を開いてやった。
 太く丸い体躯に似合わず、俊敏な動きで外へ飛び出した猫は、夏目を置いてさっさと走って行ってしまう。彼も温かい食事を楽しみにしているのだと分かる姿に、つい笑みが零れた。
 戸を閉めて門を抜け、夕焼けに染まる空を左に見て道を走る。所々舗装されていない硬い大地には、思いがけない大きな石も転がっているのでそれなりに危ない。転んで膝小僧を擦り剥くなんて真似はしたくなくて、慎重に足元を窺っているうちに夏目は斑を見失ってしまった。
 どうせ目的地は同じなのだから構わないが、彼は自分の用心棒だというのを忘れていやしないだろうか。正体不明の黒い靄に、また襲われたらどうしてくれる。
 思い出して苦虫を噛み潰した顔をして、ふっと夏目は、背筋に走った寒気に鳥肌を立てた。
 生温い風が首を撫でる感触がした。
 走っている所為で生じる空気抵抗とは違う。心臓を鷲掴みにされたような痛みを胸に覚え、彼は咄嗟に左腕を振り上げた。
 腰を捻り、右足を軸にして身体を反転させる。肘が何かにぶつかる軽い抵抗を感じ取り、握った拳で思い切りその中心部と思しき場所を殴り飛ばした。
「うわあぁ!」
 同時に口から漏れた悲鳴は、情けないのひと言で片付けられてしまうほどみっともないものだったが、迫る脅威を前にしては誰だってそうなるだろう。むしろ瞬時に反撃に転じたところを褒めて欲しい。
 確かに手応えはあった。跳ね上がった心拍数に息苦しさを覚え、目の前が真っ暗なのは瞼を閉ざしているからだと二秒後に気付いて急いで目を開く。
「……う」
 見なければ良かったと後悔しても遅く、夏目は人通りのない道を塞ぐ形で立っている黒い靄を前にして、懸命に吐き気を堪えた。
 もっと早く気付いていたら違う対処も出来ただろうに、己の迂闊さを呪って彼はコートの袖を鼻に押し当てた。
 嫌な――泥が腐ったような臭いが周囲に立ちこめ、吸い込むと途端に頭がくらくらしてしまう。これ以上毒気に当てられるのは危険で、少しでも距離を取ろうと夏目は後退を試みた。
 しかし間合いを広げると、あちらもズズズ、と横に広がった裾なのか足なのか、兎も角黒い靄で地面を擦って迫って来た。それもちょっとずつではあるが、空間を狭めようとしている意思が感じられた。
 斑はどこまで行ってしまったのだろう、人が窮地に陥っているというのに。
「あの、役立たず」
 ついつい恨み節を口から零し、握ったままの拳に力を込める。今度は学校の時のような不意打ちは食らわないぞ、と警戒心を強めて自分を奮い立たせ、負けるものかと険を強めた目で靄を睨みつけた彼は、ふと。
 西日を浴びて伸びるにしては奇妙な形に曲がった影に気付き、息を止めて瞬きを連続させた。
「え?」
 ぞわぞわするものを背中に感じる。全身に行き渡る神経が一斉に金切り声を上げ、危険だと警鐘を鳴らした。
 だのに夏目は、動けなかった。
 むき出しの地面、冬でも懸命に葉を茂らせる雑草の隙間を縫い、靄の足元から伸びた影が彼の背後に回りこんでいた。
 そういえばコイツは、窓から腕らしきものを伸ばして来たのだった。ならば足、かどうかは解らないけれど、身体の各部位を伸ばすのなど造作も無いこと。どうして忘れていたのかと、何度も繰り返す失態に夏目は奥歯を噛み締めた。
 逃げようにも毒気にあてられた影響か、足が動かない。萎縮した心臓が悲鳴をあげ、見開いた瞳は夕焼けを跳ね返す禍々しい黒に埋め尽くされる。
 不味い。そう思うのに身体は凍り付いて、彼の意思を反映しようとしなかった。
「ウ――っ!」
 せめてもの抵抗と、両手を顔の前で交差させて衝撃を防ごうと試みる。無駄な足掻きと分かっていてもやらずにはおられず、身構えた夏目の鼻先に、不意に梅の、芳しい香りが漂った。
 ほんのりと甘く、心に残る匂いだ。
 ――なに……
 閉じかけていた瞼を寸前で押し留め、半分になった視界で彼は靄との間に割り込む白いものを見た。
「わっ!」
 瞬間、閃光が弾け、今度こそ目を閉ざして夏目は悲鳴をあげた。
 身を仰け反らせ、バランスが悪かった所為でそのまま尻餅をつく。本日二度目だと頭の片隅で考えながら数秒待ち、掌に触れた冷たい土の感触に自分がまだ生きているのだと実感した。
 息を吐き、呆然と前を見上げる。闇色の靄はもう見えない。代わりに空中でくるん、と回転した丸い物体が、見事四本の足で地面に着地を果たし、尻を向ける体勢から振り返った。
 おちょぼ口に三日月を横倒しにしたような顔で見詰められ、脱力感が増す。どっと汗が噴き出て、自分がいかに緊張していたかがよく分かった。
「先生……」
 助かった。心の底から安堵して名を呼べば、呼ばれた方は小生意気な表情をして夏目の膝を叩いた。
「この馬鹿者めが。なーんでもっと早く私を呼ばない」
「先生が、勝手に先に行ったんじゃないか」
 呼んだところで直ぐに来てくれるわけでもないくせに。だが、呼ばずとも駆けつけてくれたのは素直に有り難く、数分前に彼を役立たずだと罵ったのは心の中で謝って、夏目はふらつきながら立ち上がった。
 ズボンとコートの汚れを落とし、どこも異常がないかを確かめる。首がチリリと痛んで、手を当てると濡れていた。
「また、血が出てる」
 乾いていたはずの傷口から、じんわりと赤い液体が滲んでいた。
 これではいつまで経っても治らない。大人しく絆創膏を貼るべきか考えて、湿った指先を擦った彼は、家を出る前に斑から聞かされた話を思い出し、再び首に手を押し当てた。
 熱を持った肌を押さえ、瞠目して唇を音もなく開閉させる。斑が光を放って黒い靄を追い払う直前、一瞬だけ感じた梅の匂い。
 ならば自分は、屍喰らいの梅との異名を持つあの木に、次の餌として選ばれたのか。
「そんな」
 何かの間違いであると思いたい。しかし疑念はどんどん膨らんで、彼は道の真っ只中に呆けて立ちつくした。
「ん? なんだこれは」
 その彼の足元にいた斑が、肉球も鮮やかな前脚を持ち上げて乾いた地面を叩いた。ハッと我に返り、靴で踏んでいたものを拾い上げる。しかし指で抓んだ瞬間、それは形を失って粉々に砕けてしまった。
 赤黒い粉が吹いた風に攫われていく。膝を折ったまま見送る夏目の背中に斑が圧し掛かり、重さに潰されそうになった彼は渋々その状態で身を起こした。
「なんだろう、今の」
「分からん」
 呟くが、答えは出ない。どこかで見た覚えがある気はするのに、該当するものは彼の頭から完全に抜け落ちてしまっていた。
 屍喰らいの梅の様子を見たいが、同時に怖くもある。どうするかで悩み、左肩にしがみついて寛いでいる斑の丸い頭を撫でた夏目は、疲れた様子で息を吐いた。
 塔子との約束の時間は迫っている。今から行って、戻ったら、完全にタイムオーバーだ。かといって、このまま放っておくことも出来ない。
 夏目を狙ったあの黒い靄が、他の誰かを襲う危険性だってあるのだ。想像して、寒気がした。
「待てよ」
 本当にあの靄の正体が、封じられた屍喰らいの梅だったとして。
 ならば今現在、最も危険なのは、誰か。学校からの帰り道に見たではないか。運ばれる重機と、夏目たちを追い払った作業着の男達を。
 思いめぐらせ、彼は広げた手で顔下半分を覆った。表情に焦りを滲ませ、喉をひゅぅ、と鳴らす。
「不味い」
「どうした、夏目」
「先生、あの木、もしかしたら」
 人間の身勝手で斬られるのを怒り、暴れているのだとしたら、あの場に居る作業員が危険だ。思い至ると同時に走り出した夏目の上で仰け反り、斑が甲高い声をあげた。
 夕食のことも忘れて全力で駆け、程なく田園風景を見下ろす山裾に到達する。息を切らして汗を拭った彼は、しがみつく力を失って地面に落ちた斑をそのままに、一台だけ残ったトラックに息を呑んだ。
 葉の落ちた木に囲まれた、奥へ続く道に人影は無い。看板は設置された場所にそのまま残されていて、夏目は迷うことなく細い通路へ足を向けた。
「……はっ、あ、……いた!」
 いかに傾斜が緩やかだろうと足場は悪く、尚かつ此処に来る間もずっと走り続けていた。そろそろ心臓が限界に到達しそうなところで、灰色の作業着を身に着けた男ふたりを視界に入れた夏目は、無事な彼らの姿にへなへなと崩れ落ちた。
 追いついた斑が、ぜぃはぁと息を乱している夏目を見て「情けない」と愚痴を零す。
「なんだ、お前」
「此処は立ち入り禁止だぞ」
「あ、はっ、あ、あの。その木!」
 広場の南側に小型のショベルカーが置かれている。運転席には誰も居らず、男達はどうやら、周辺を計測中だったらしい。まだ梅の木にも、壊れ掛けた社も、昨日夏目が見た時のままだった。
 息苦しさに喘ぎ、なかなか巧く喋れずにいる彼に、男達は互いに顔を見合わせて黒い影を背負う梅の古木を仰いだ。
「なんだ、お前も切るなっていうクチか」
 至極迷惑そうに首の向きを戻し、手前に居た男がうん臭そうに夏目に言った。その態度、口ぶりからして、不吉であるから手を出してはいけないと忠告した人間が、他にもいたようだ。
 知っているのなら、何故強行するのか。地面に腰を落としてしゃがみ込んだまま、背筋だけ伸ばした夏目の訴えに、男達は肩を竦めて呆れ顔を作った。
 迷信だと一蹴して、追い払う仕草を作る。学校からの帰り道と同じだ、彼らは聞く耳を持たない。話すだけ無駄だと思い知らされる。
 彼らはただ、雇われただけ。この土地の、この梅の木にどんな謂れがあろうと、一切関係ない。雇い主に切るよう命じられたから、代金分の仕事をする。それ以上でも、それ以下でもない。年寄りの戯言に逐一耳を傾けていては、彼らが明日の食い扶持に困ることになろう。
 世の中とは、そういうものだ。分かっている。だが、やりきれない。
 拳で硬い土を殴り、歯を食いしばる。本当に危険だと訴えても、彼らはその身に危害が及ばぬ限り信じないだろう。あまり強く主張すれば、かえって夏目が変な目で見られてしまう。
 問い詰められる前に撤退した方が良さそうで、彼は警戒心を滲ませる斑をそっと抱き寄せ、膝を立てて身を起こした。
 反感を抱かずにいられないものの、彼らだって生活が掛かっている。妖怪絡みで人間相手に騒動を起こすのは避けたくて、ひとまず今は安全そうだと判断し、夏目は踵を返した。
 夜闇が押し迫る空に急きたてられるように藤原の家に帰り、待っていてくれた塔子に礼を言ってひとつの食卓で共に食事を終わらせる。途中の雑談で、顔色の悪さをまた指摘されたが、ちょっと疲れているだけだとどうにか誤魔化した。
 風呂に入り、明日の授業の用意をして、布団を敷くが、ゆっくり眠れるわけもなく。
「明日、また行ってみよう」
「そうだな」
 今日の雰囲気から、いきなりチェーンソーで切り倒そう、などという荒っぽさは感じなかった。まだ猶予があると自分に言い聞かせ、月明かりが淡く照らす世界を瞼の外に追い出す。
 その夜見た夢では、満開に咲いた梅の木の下で、大勢がとても楽しげに宴会をしていた。
 梅は今よりも少し幹は細く、枝も真っ直ぐ綺麗に伸びていた。社はなくて、代わりに広場に一本だけ聳える木の周囲には笑顔があった。
 酒を酌み交わす人たちを見下ろす太い枝に、少女が腰掛けている。顔は見えないが淡い色の着物を着て、陽気に歌い、踊る人々をとても楽しそうに見詰めていた。
 遠巻きに眺めているだけでも、楽しい気分になれる光景だった。
 こんなにあの梅は人々から愛されていたのに、どうしてあの木は、屍喰らいなどと呼ばれるようになってしまったのか。あんなにも美しく咲いているのに、絶対に変だ。
 目が醒めて、人の腹の上で寝返りを打った斑を転がり落としても、気分は冴えない。夢に現れた酒盛りをしていた人々は、歴史の教科書で見るような格好をしていた。江戸時代よりもずっと前の、平安か、室町か、詳しく知らないけれど、兎も角その辺の時代で図説に出てくるような出で立ちだった。
「太平の世、か」
 説明が曖昧すぎて、参考にならない。記憶の引き出しから取り出した単語を呟き、夏目は寝癖のついた頭を掻き毟った。
 解らないことばかりで、ちっとも頭が働かない。目尻を擦って欠伸を噛み殺し、両腕を伸ばして背骨を鳴らした彼は、猫が丸まる布団から出てパジャマから制服に着替えた。
 あの木は、思っていた以上に年輪を重ねた貴重なものだ。切らずに、どこかに移せないものか。けれど弱っているのなら、下手に動かすと却って寿命を縮めてしまう。
「難しいな」
 嘯いて窓の外の景色を眺め、塔子の呼びかけに返事をして部屋を出る。
 今の自分には出来ることが少なすぎて、早く大人になりたいと、ほんの少しだけそう思った。

「はい、これね」
 昼食後の短い時間を利用して学校の図書室を訪れた夏目は、司書に頼んで見つけてもらった本を片手に、窓辺の空席に腰を落ち着けた。
 厚紙で作られたケースに納められたその本は、四隅が黄土色に変色しているところからも分かるように、かなり長い年月を図書館の薄暗い書庫で過ごしていた。中身はこの町の古い伝承を集めたもので、郷土史の類に入る。
 目次のページを指でなぞり、顔を近づけて少し黴臭い紙の匂いを吸い込む。梅、の一文字を探して視線を左右に流し、
「あった」
 恐らくこれだろう、と思しき項目を見つけ、急いで本を閉じて立てた。
 凡その目安をつけて、覚えた数字を頼りに開く。口の中で何度も同じページ番号を呟き、目的の項目を見つけて瞬きを二度繰り返した。
 興奮が鼻息となって現れ、夏目は旧仮名遣いの非常に読みにくい文面に目を走らせた。斑が居れば多少楽だったかもしれないと思いつつ、唇を舐めて懸命に文章を紐解いていく。
「本当に、屍人喰いって書いてある……」
 斑は屍喰らい、と言っていたが、此処に記されている呼称は少し違っていた。だがおぞましいものを想像させる単語には違いなく、胸がむかむかするのを堪えて夏目は続きを黙読した。
 伝承に曰く、その梅の下には無数の屍が屠られている。故に梅は、春の訪れと共に鮮やかな紅の花を咲かせるのだと。
 別に曰く、あの梅は弔いの墓標であると。
 また、こういう話もあると書かれていた。
 梅の花があまりにも美しく咲くので、これを独り占めしてしまおうとする輩が現れた。その狼藉者は、梅を鑑賞にやってくる人々を脅し、或いは殺してその屍を木の下に隠した。すると次の年に梅は一層綺麗に咲くものだから、男は喜んで益々屍を梅に与えるようになった。
 屍の血を吸って花を咲かせる己の身を嘆き哀しんだ梅は、旅の修験者に頼んで蕾が二度と開かぬよう呪をかけてもらった。
「あれ?」
 知っているものとは異なる内容に、夏目は頬杖を崩して首を傾げた。もう一度頭から読み返そうとページを戻すが、二行と行かぬうちに時間切れで昼休憩が終わってしまった。
 無情に鳴り響く予鈴を聞き、仕方なく椅子を引いて立ち上がる。これは貸し出し禁止の本なので、持って帰るわけにもいかない。放課後は斑と梅の様子を見に行く約束があるので、明日にまた閲覧させてもらうしかない。
 司書に本を返却し、教室へ戻る。頭の中に巡るのは、新たに得た梅にまつわる物語だ。
 弔いの墓標、花を愛し過ぎた男。呪をかけられた梅、しかし西村たちの話では数年前まで咲いていたという。
 何が本当で、何が虚構なのか。
「駄目だ、さっぱり分からん」
 色素の薄い髪を掻き、階段の中ほどで立ち止まった彼は小さく舌打ちした。
 梅が咲かなくなったと時期を同じくして、ひとりの老人が亡くなった。その人も、梅の木を大切にしていたという。
「……いや、流石にそれはない」
 昔話に出てくる狼藉者と重ねてしまい、慌てて首を振って否定をした彼は、本鈴まで残り少ないのを思い出して歩みを再開させた。ざわめく廊下を物憂げな顔をして進み、教室に戻って自分に宛がわれた席に着く。
 ぼんやり見た窓には、昨日のような黒い靄は張り付いていなかった。
 思わず安堵の息を漏らし、教科書を広げてペンを握る。だが集中できず、真っ白だったノートには今まで分かった内容の箇条書きが連ねられた。
 咲かない梅、だのに枝にびっしり並んだ蕾。
 亡くなった老人、梅を愛でてその想いが行き過ぎて殺人にまで至った男。
 屍喰らい、或いは屍人食いの名。修験者が施した呪い、咲かなくなったはずなのに咲いていた花。
 ぐるぐると廻り、巡り、袋小路に迷い込んで夏目は唸った。
 どこかで何かが間違っていて、伝承は所詮伝説の域を出ないと割り切るべきか。そもそも屍を食って花の色が鮮やかになるなど、現実にはありえない。
「弔いの、墓標……」
「授業中に創作活動か。俺の授業はそんなに退屈か?」
「はい?」
 ぼそぼそと小声で呟いていた夏目の頭上から、不意に不機嫌な男の声が降って来た。予想していなかったことに驚き、間抜けに目を見開いて変な声を出してしまう。
 周囲からは女子の、クスクスと笑う声が聞こえ、今自分が居る場所が何処で、何故其処に居るかを思い出した彼は、頬杖付いた手に握っていたシャープペンシルを落とし、ぎこちない動きで首を回した。
 にっこりと、ある意味毒々しい笑顔を浮かべる教諭が、夏目の席の真横に立ち、丸めた教科書で肩を叩いていた。
「え、あ、あ、はい。ああ、いえっ」
 焦りすぎて呂律が回らない。しかも返事を言い間違ってしまい、夏目は余計に慌てた。
 今度こそ爆笑の渦が教室内に沸き起こり、居た堪れなくなって顔を赤くして椅子の上で小さくなる。そんな彼の軽く頭を教科書で叩き、教諭はそれで許してくれたが、恥かしいことこの上なくて、夏目は今すぐ此処から消えてしまいたくなった。

 何故梅の花が咲かなくなったのか、理由は分からない。
 けれど、過去にも同じように、咲かなくなった時期があったのは、間違いないと思う。
「ふむ」
 昼休みに仕込んだ情報を元に想像を働かせ、導き出したひとつの仮定を早口に告げた夏目に、相変わらずの招き猫姿をした斑は小さく相槌を打った。
「私も、少し調べてみたんだが、どうやらその数年前に死んだという年寄りは、梅の木を封じた修験者の末裔だったらしい」
「そうなのか」
 新たな事実に驚き、夏目は無意識に腕に力を込めた。彼に抱き上げられていた斑は腹を締め付けられ、ぐえ、という声と共にじたばたと四肢を暴れさせた。
 顎を殴られそうになり、慌てて両手を広げて彼を解放する。地面に猫らしく綺麗に着地した彼は、憤慨した様子で頭から湯気を立て、乱暴に扱うなと声高に訴えた。
 多少のことでは傷つかないくせに、偉そうに命令してくる。怒りっぽい彼に辟易して顔を逸らし、夏目はまだ足りないパズルのピースを求めてトラックが停車する山の頂上付近へ視線を転じた。
 灰色の植物に囲まれて、景色は霞んで殆ど見えない。機材が動く重い音もしなかった。
 学校の所為で昼間は身動きが取れない夏目の代わりに、何かあった時の為に日中はずっと斑が見張っていてくれた。今日も測量だけだったようで、近付けば車に乗り込もうとする人の姿が見えた。
 運転席に座った男と目が合って、会釈をするとまた嫌な顔をされてしまった。思わずムッと表情を険しくしてしまい、大人気ない反応しか出来ない自分が嫌になる。
「あれ」
 ふいっと目を逸らした先の助手席は、空だ。昨日はもうひとり居たのに、奇異なものを感じて目を瞬かせる。下を見ると、斑は首を振った。
「あの」
「なんだ」
「今日は、おひとりなんですね」
 煙草をふかしながらエンジンをかける男に近付き、高い位置の窓を叩いて呼びかける。肩から上だけを外に出した作業着の男に向かい、迷惑ついでだと夏目は問いかけた。
 背伸びをやめた彼を下に見て、一瞬だけ男は返事を渋った。眉間の皺を深くして、面倒臭そうに煙草を口から外して灰皿に押し込む。
「お前には関係のないことだ」
 ぶっきらぼうに返されて、口が堅い男に夏目は肩を落とした。確かにその通りで、二の句が継げない。
 彼とは昨日初めて会ったばかりで、会話らしい会話もこれが初めてだ。自己紹介さえしていない。そんな浅い関係で、簡単に教えてもらえる方が可笑しい。
 ただ彼の落胆ぶりに思うところがあったのか、男は新しい煙草を指に躍らせながら、遠くを見据えた。
「喜べ。当分工事は中止だ」
「え?」
「御祓いするんだとよ」
 夏目が返答に迷っている間に、男は煙草を咥えると窓を閉めた。エンジンをかけ、まだ彼が其処に居るに関わらず、強引にトラックを発車させる。
 慌てて退き、吐き出された排気ガスに咳き込んで背中を丸める。濁った視界で遠ざかるトラックを見送り、落としかけた鞄を両手に持って彼は呆然と立ちつくした。
「御祓い?」
 それはつまり、何か悪い事が起きたということか。
 反射的に斑を見るが、彼も非常に不本意そうな顔をして足許の砂を蹴っていた。
 自分たちが出来るのは、自分たちが見える範囲、手の届く圏内で起こる、自分たちに関わる事象だけだ。この町を遠く離れ、全く関係のない人々の身の安全まで保証してやれない――たとえそれが、妖に起因する出来事だとしても。
 ただ見える、触れられるというだけでは、何も出来ないのに等しい。広げた右手を見詰め、夏目は臍を噛んだ。
 己自身への苛立ちを隠すかのように、荒々しい足取りで舗装されていない細い道に入る。斑は無言で後ろに続いた。
 訪れた広場は相変わらず静かで、置き去りにされた重機が隅の方で寂しげに佇んでいた。
 梅の木、及び社を囲むロープもそのままだ。近付かないよう告げる看板も残されている。しかし夏目は構う事無くロープを潜り、問題とされている木に近付いた。
 手を伸ばして幹に触れると、ごつごつした感触が指先を伝う。息を整えて目を閉じれば、厚い皮に包まれた内側で水が巡る音が聞こえてくるようだった。
 心地よく、安心出来る。こんなにも澄んだ気配を漂わせる木が、屍を食らっていたなんてとても思えない。
「なにかの間違いだと思うんだけどな」
 そっと吐息と共に思いを告げ、罅割れた表皮をなぞる。自然に出来たと思しき縦の割れ目を辿ろうとした時、指の腹になにかが触れた。
 隙間に押し込められているものがある。白い、薄い紙のようなもの。
「ん? ――うわ!」
「夏目!」
 どことなく覚えのある形状に冷たい汗を流し、夏目は慌ててその場から退こうとした。が、一歩遅い。
 彼が肘を引くより早く、木の洞から飛び出した白い人型の連なりが重力を無視して宙に舞った。紙で出来ているといっても、術が仕込まれている影響で相応の強度を持つ。逃げようと足掻いたが間に合わず、それはぐるぐると夏目の体に巻きついて彼を束縛した。
 両腕、両足共に広げるのが叶わない状況に追いやられ、立っているのもままならない。振り解こうとしたが巧くいかず、逆にバランスを崩して彼は前のめりに倒れ込んだ。固い地面に散る小石が弾みで跳ね、額を撃った。
「いった……」
「夏目、大丈夫か」
 斑が駆け寄ってくるが、猫の四つ足では引き千切るのも難しい。苦痛に喘いで表情を険しくした夏目は、爪立てて人型の紙を引っ掻いている斑の向こうに伸びる二本の足を見て、矢張り、と唇を噛んだ。
 白い木綿の帽子を被り、僅かに色の入った眼鏡をかけた男が、飄々とした態度で歩み寄ってくる。恐らくは、放置されている小型ショベルカーの影に隠れていたのだろう。
「どうして君は、こう何度も同じ術に引っかかるのかな」
 呆れ声で呟き、男は帽子を外した。
 抑え込まれていた柔らかな髪が空気を含み、ゆらゆらと毛先を揺らす。穏やかな笑顔には癖が無くて、その分どこか嘘くさい。
 夏目は彼を知っている。過去何度か、妖関係で彼の仕事を手伝ったり、或いは邪魔をしたり、兎も角色々あった。
 御祓いという言葉を聞いて真っ先に浮かんだ顔でもある。どうしてだか、彼は妙に夏目が住むこの町と縁が深い。
「名取さん」
「暴れると、余計絡むよ。ちょっと待って」
 険しい声で怒鳴っても、彼は態度を変えない。斑の真横に腰を落とし、右手を伸ばして夏目を縛る紙の端を抓んだ。
 それを合図に、術が解かれる。猫に掻き毟られても傷ひとつ付かなかったものが、いともあっさりと外れてしまった。
「けほっ、う……」
 やっと解放されて、夏目は噎せて呻いた。気分の悪さは絶頂を迎えようとしており、胃の奥がむかむかした。
 心配げな斑の視線に小さく頷き、立ち上がって帽子を被り直した名取を見やる。彼はチャコールのハイネックセーターに、淡いベージュのジャケット姿だった。スラックスはジャケットとセットで、靴は綺麗に磨かれた艶のある黒。目立つアクセサリーの類は無く、至ってシンプルな出で立ちだった。
「やれやれ。君とはどうして」
「御祓いって、聞きました」
 両手の指四本だけをスラックスのポケットに押し込んだ彼が、梅の古木を背景にして呟く。小石で作った傷を撫でた夏目は、皮膚が切れたのではない事に安堵し、無意識に首を庇って身を起こした。
 制服にコート姿の夏目を眺め、名取は屈託のない笑顔を浮かべて見せる。分かっているのならどうして聞くのかと、そう言いたげな視線だった。
「祓うよ、仕事だからね」
「けど、その梅の木は」
「屍人喰らいの梅だろう?」
 見てご覧、と既に情報を得ていた彼は、言葉を失った夏目の前で右腕を伸ばした。人差し指を残して他は畳み、樹下で今にも朽ち果てようとしている社を指し示す。
 瞳だけを動かし、夏目はコートに付着していた砂を払い落とした。
「そこに封じられていたものが、解放されてしまったんだ。被害は既に出ている」
 淡々と言葉を紡ぐ名取に、ぞっとする気配を背中に覚えて、夏目は両腕で己を抱き締めた。蘇る記憶は、二度自分を襲った黒い影、そしてトラックを運転していた男の言葉。
 詳細は分からないが、夏目でさえあれほどの恐怖を覚えたのだ。免疫のない人があの毒気に当てられたら、タダでは済まない。
 悪寒に襲われてガタガタと震えている彼を見つめ、名取は腕を戻した。
 その様子から、夏目が既にこの梅と、何らかの関わりと持ってしまっていると簡単に予測がついた。しかもどうやら、あまり良いとは言えない方向で。
「嬉しくないね」
 ぽつりと呟き、眼鏡のブリッジを押し上げる。一緒に視線も上向けて、枝振りも立派な古木を仰ぎ見た。
 四方八方に好き勝手伸びる枝には、後は咲くばかりの蕾が無数に並んでいる。微妙に量が少ない枝もあるが、全ての蕾が綻べば、さぞや良い匂いが周囲を包み込むだろう。
 だが、咲かないのだ、この梅は。
「名取さん」
「邪魔をしないでくれないか、夏目君」
 コートの上から身体を撫でさすり、摩擦熱を起こしながら夏目が必死な声で名取を呼んだ。けれど彼の訴えは一蹴され、とりつく島もない。
 それでも諦めきれず、尚も縋ろうとして、夏目は一歩半前に出た。
「あれ……」
 そしてふと、違和感を覚えて立ち尽くした。
「夏目?」
 彼の異変に気付いたのは斑だけで、名取への警戒を解かぬまま、茫然としている夏目の臑を軽く叩いた。
 だが彼は動かない。まだあれから三日と経っていないのに、この変化は可笑しいと、必死に記憶の引き出しを開けて、初めて此処を訪れた時の映像を目の前に展開させた。
「ちがう」
 全く同じ光景なのに、一致しない。
「蕾が」
「おい、夏目」
 名取が何かを始めようとしている。焦りを滲ませた斑が声を強め、夏目のスラックスの裾を抓んで引っ張った。
 それでも彼は、動こうとしなかった。視線を固定させ、己の思い過ごしではないと確信を強めていく。
 梅の花の蕾が、減っているのだ。
「そんなわけ」
「危ないから離れていなさい」
「! 待って、名取さん」
 前方から飛んだ低い声に我に返り、夏目は更に一歩踏み込んで叫んだ。握り拳を上下に振り、自分たちはなにか、とんでもない思い違いをしているのではないかと語気荒く訴えかける。
 けれど既に術の準備も整っていた名取には届かない。彼は怪訝な視線を夏目に返したがそれだけで、子供の戯言だと聞き入れてくれなかった。
 それでなくとも、夏目は過去に幾度も彼の仕事を邪魔している。妖怪を憎み、これを倒そうと――屠ろうとする彼と、守り慈しもうとする夏目とでは、そもそも考え方の根本が大きく乖離していた。
 これ以上仕事を遅らせるわけにはいかない。姿勢を戻し、術の仕上げに取り掛かろうと名取は夏目を無視し、胸の前で両手を組み合わせた。
「待ってください、名取さん。違う、その子はなにも悪くないんだ!」
「夏目?」
「え――?」
 深く息を吐いて吸い、集中を開始した名取の背中へ怒鳴りつける。一瞬後、傍で聞いていた斑の怪訝な声に夏目は言葉を失った。
 今自分は、なにを言った。
 なんと言った。
 その子とは、――誰?
「え……」
 息を呑む。
 首の傷が痛む。
 ざわりと、背筋が震えた。
「夏目君!」
 振り向いた名取の声が広場に轟く。自分自身が分からなくて呆気に取られていた夏目は、弾かれたように顔を上げた。
 茂みを掻き分け、何かが迫っているのが分かる。目を見張る。
 世界が黒い闇に飲み込まれる。
「くそっ、まずい」
 完全に梅の木に気を取られていた名取が、早口に使役する式神の名を紡いだ。間に合えと祈り、風を切る速さで駆けつける柊の気配を意識の片隅で追いかける。
 それよりも先に。
「おのれ!」
「待って、先生!」
 白い煙を巻き起こし、達磨猫の姿から瞬時に獣の、本来の白い獣姿へ変化した斑が、鋭い牙を覗かせて吼えた。
 咄嗟に夏目が止めるが、それで止まってやれる程彼はお人好しではない。大きく開いた口でかみ砕いてやろうと、夏目に襲いかかる黒い靄に飛びかかった。
 沸き起こった嵐に、夏目は両腕を掲げて頭を庇う。しゃがみ込んで身を小さくし、ふっと鼻先を掠めた甘い芳香に目を見開いた。
 確かに噛み千切った筈なのに手応えを得られず、斑が夏目を守る形で四肢を大地に突き立てる。何処へ消えたかと、一瞬にして霧散した靄を捜して視線を巡らせる中、到着した柊もまた主を庇い、名取の前に立った。
 地面に腰を落としたまま、夏目は白い毛で覆われた斑の足許に落ちているものにそっと手を伸ばした。
 さっきまでは無かった。そして今回も、触れる間際に粉々に砕け、消えてしまう。
「あ……」
 行く末を追って瞳を上向けた先で、ごめんなさいという、哀しげな声が聞こえた。
 人々が宴を楽しんだ梅の木。その花の美しさ、芳しさに心惹かれたのは、なにも人間だけではなかった。
 最初は楽しかった。ずっとひとりぼっちだったから、話し相手が出来たのが嬉しかった。
 ただ無邪気に過ごせた時間はそう長くなくて、都で起きた戦乱がいつしか地方にも飛び火し、此の地にも降りかかった。罪もない人々を巻き込み、戦火は容赦なく村を飲み込んだ。
 宴を催す人は居なくなり、残されたのは物言わぬ屍ばかり。その中には、樹下で酒盛りを楽しんだ人々も多く混じっていた。
 せめて死んだ後も毎年花見が出来るようにと、弔いの気持ちから屍を集めて貰った。自分は此処に根を下ろしている所為で動けないからと、代わりに黙々と働いてくれた。
 そんな最中の出来心、否――偶然だった。
「そう、か」
 夏目は呻くように呟いた。指先に微かに残った匂いの理由に、彼は拳を震わせた。
「夏目君」
「名取さん、御願いが」
 柊を伴って斑に歩み寄った彼に、夏目は起きあがりながら言った。迷いの抜けたまっすぐな瞳に、この短い時間で彼が何かを得たと知り、名取は僅かに唇を尖らせた。
 黒い靄の気配はまだ周辺に漂っている、自分たちを無事逃がすつもりはならしい。
 先程斑が噛み砕いた後の様子から分かる通り、実体をどうにかしなければ事は片づかない。ただ、肝心のその本体が何処にあるかが、彼らには分からなかった。
「なにかな」
「俺が、……頼みます」
 至極平静を装い、名取が続きを促す。けれど夏目は、途中まで言いかかったところで言葉を切った。代わりに深く頭を下げ、即座に姿勢を正した。
 虚を衝かれ、名取が変な顔をする。斑も同じだった。柊は、仮面の所為でよく分からない。
 夏目ひとりだけがはにかんだ笑みを浮かべ、斑の身体をそっと撫でた。
「頼みます」
「おい、夏目君」
「頼みます!」
 さっぱり意味が分からないと説明を求める名取を振り切り、夏目は駆け出した。途中、落ちていた拳大の石を拾い上げ、右手に握りしめる。
 梅の木は確かに、弔いの墓標だった。戦乱で喪われた数多の命を悼み、死後の世界でも安らげるようにとの思いが、人の目にはそう映ったのだろう。
 そして、梅の木の願いを叶えた優しき妖は。
「お前の欲しいものは、此処にあるぞ!」
 斑達が止める間もなく、夏目は梅の木の傍らで崩れ落ちそうになった社の前に立った。大声を張り上げ、周囲を見回し、石を握った利き腕を振り上げる。
 そうして彼は、渾身の力を込め――
「夏目!」
 皆が息を呑む前で、己の左手に石を叩き付けた。
「ぐあっ」
 衝撃が骨に直に響き、砕かれる痛みに彼は悲鳴をあげた。尖った先端が皮膚を突き破り、血管を切り裂く。赤い血が黒ずんだ肌に滲み、流れた。
 苦痛に顔を歪めつつ、痛みに耐え、もう一発、叩き込む。
「なにをしている、夏目。止めないか!」
 突然の行動に出た彼の真意が分からず、斑が狼狽えた声で叫んだ。名取もまた呆然として、そんな中で最初に異変を察知したのは柊だった。
 急ぎ主の袖を引き、注意を惹き付けて自身も構えを取る。太刀を水平に掲げ持ち、夏目の血の臭いを嗅ぎつけた黒い靄の結晶体に矛先を向けた。
 振り向いた名取もその禍々しい存在を知り、唇を噛み締めて胸元を探った。夏目が言わんとしていた事を漸く理解し、苛立たしげに被った帽子を投げ捨てる。
 斑は咄嗟に、夏目に向かって走った。
「こ……ンの!」
 夏目は。
 右肩を引いて振りかぶり、狙い定め、血糊がこびり付いた石を、おぞましい形を成そうとしている妖目掛け、投げ放った。
 くるくると回転しながら一直線に宙を切り裂き、それは見事、黒い中に現れた巨大な目玉に突き刺さった。
 瞬間、鼓膜を突き破らんばかりの咆哮が周囲にこだました。
「――ぅっ」
「夏目!」
 吹き荒れた暴風に弾き飛ばされそうになり、夏目は身を竦ませ首を窄めた。すかさず割り込んだ斑が、その巨大な体躯を使って彼を庇う。上から覆い被さる柔らかな毛の感触を感じ、彼は意識に流れ込む声に耳を傾けて目を閉じた。
 滴り落ちた人の血を啜り、その甘美な味を覚えて忘れられなくなった妖怪は、大乱が終わりを迎えて太平の世になった後も、己の欲望を満たす為に人を殺めた。
 用済みとなった屍は梅の木の下へと集められ、妖を見るのが叶わぬ人々はそれを、梅の木の悪行と受け止めた。
 優しさから起こした行動が、思いも寄らぬ方向へと傾いていく。悪行を重ねる妖をどれだけ窘めようとも、耳を傾けては貰えない。
 だから彼女は、咲かなくなった。春を待つ蕾を血の味に変え、これを食する事で妖の心を満たす道を選んだ。
「修験者に封じられたのは、屍を集めていた妖怪の方だったんだな」
 目を開けば、そこに。
 夢の中で見たと同じ、紅色の髪をした着物姿の少女が居た。
 夏目の問いかけにコクンと頷き、申し訳なさそうに瞳を伏して頭を下げる。彼女の胸には小さな妖怪が抱かれていた。
 夏目が投げた石で視力を失ったか、ひとつしかない目玉は閉ざされていた。
 妖が封じられた事で、梅の木はまた咲くようになった。けれど数年前、修験者の末裔である老人の死により、再び蕾は開かなくなってしまった。
「血筋は、その人で終わりだったらしい。僕に依頼してきた息子さんは、養子だそうだよ」
「それって」
「恐らく、血筋が絶える事で封印が解けてしまったんだろう」
 眼鏡を外した名取の言葉に振り向いて、夏目は改めて着物の少女を見た。その通りだと言わんばかりにまた頷かれて、両者の間に沈黙が落ちた。
 解き放たれた妖が再び人に危害を加えるのを恐れ、梅の木は自分の蕾を捧げた。しかし夏目が、蕾が弾ける際に生じる芳香に気付いてしまい、足を向けた事で状況は一変した。
「そうか。あの時」
 彼は山の斜面を登る際、細い枝に首を刺した。瘡蓋になっている傷を撫で、夏目は若干気まずげに頭を掻いた。
 横目で見た斑が、嘆息の後に煙を吐いた。瞬時に猫の姿へ舞い戻り、落ち込んでいる夏目の頭の上に身を落とす。
「自業自得じゃ、この馬鹿者めが」
「うわっ、と。先生……」
 夏目が余計な事をしたばかりに、事態がややこしい方へ転がったのは間違いない。言われなくても本人が一番分かっており、現実を改めて突きつけられて彼は肩を落とした。
「まあまあ、彼は知らなかったんだから。反省しているようだし、許してあげなよ」
 仲裁を買って出た名取が丸い輪郭の斑を撫でてあやそうとするが、それが余計に斑の機嫌を悪くさせる。目尻をつり上げて短い前足を振り回して殴りかかろうとすれば、柊がサッと前に出ていつものように淡々と、毒のある台詞を吐き捨てた。
 騒々しい三人は放っておいて、夏目は愛しげにひとつ目の妖を撫でている少女に近付いた。
「ごめんな。痛かったかな」
 咄嗟の判断だったので、手加減が出来なかった。正直に夏目が詫びるが、両手にすっぽり包まれてしまうような大きさしかないその妖は、まるで無反応だった。
 まさか死なせてしまったか。一瞬不安になってビクリと魂を震わせる。すると彼の心が伝わったのか、少女の手の上でそれは弱々しくも首を振った。
「良かった」
 心底安堵の息を漏らし、夏目が呟く。彼の声を聞き、少女も微笑んだ。

   ありがとう

 声が直接、頭に響いた。
 居合わせた残る面々にも聞こえたらしい。喧々囂々の騒ぎは一瞬で静まりかえり、それぞれ不思議そうに顔を見合わせた後、夏目もろとも少女に視線を転じた。
 注目を浴びても、彼女は動じない。嬉しそうな笑みを浮かべ、小さな妖に頬を寄せた。
 これでもう、心配なかろう。梅の花は今年からまた咲くに違いない。
「あいった、た」
 安心すると同時に、左手の痛みを思い出して夏目は顔を顰めた。指が曲がるので骨に異常はなかろうが、こちらも手加減抜きの本気でやったので、かなり酷い事になっていた。
 指先までが赤く染まり、一部が袖に染みこんでいる。血は洗っても落ちにくいと言う、果たして塔子にどう言い訳するか。
「これ使って」
「すみません、名取さん」
 素早くポケットからハンカチを取り出し、止血に使えと広げた名取に頭を下げる。コートの袖を捲って左手を差し出せば、手慣れたもので、彼は直ぐに細くした布を傷口に巻き付けてくれた。
 痛みは引かないが、血を止めるのに少しは役立つだろう。感謝の言葉を並べて肘を抱けば、痛々しい顔をした少女と目があった。
「気にしなくて良い」
 自分が好きでやった事だ。
 怪我は確かに痛いけれど、いつか治る。傷も消える。だけれど命は失われてしまったら、二度と還ってこない。
「もっと早く、気付いてやれたらよかった」
 斑が知っていた知識も、図書館の本に残されていた記述も、西村達の記憶も、なにも間違っては居なかった。ただ少し、足りなかっただけ。
 難しいな、とはにかんで笑う夏目を大きな目で見つめ、少女は何か言いたげにした口を閉じた。
「けど、これでまた綺麗に咲けるな。みんなと一緒に花見も――」
「夏目、待て。様子がおかしい」
 右手を腰に当てて、一件落着だと胸を撫で下ろした夏目のズボンを引っ張り、招き猫姿の斑が声を荒げた。どうしたのかと視線を下方に向ければ、反対から伸びた名取の手が彼の肩を掴んだ。
 いきなり後ろへと引っ張られ、転びそうになった身体を柊が支えてくれる。礼を言おうとしたが相変わらずの能面に言葉を迷っていたところで、夏目もまた、周囲を取り巻く状況の異変に気が付いた。
 地面が、いや、空気が震えている。
「地震?」
「違う。これは……」
 左側にいた名取に問うが、彼の視線は前方に向いたまま動かない。跳び上がった斑を抱き抱え、夏目は不穏な気配に不安げな表情を浮かべた。
 あの少女は天に聳える樹下に立ち、嬉しそうで、それでいて少し哀しげな顔をしていた。
「まさか」
「まずい、崩れる!」
 ハッと息を吐き、前に足を踏み出した夏目が上を見た。
 黒い枝の隙間から覗く空は、高く、蒼く、澄み渡っていた。
 飛び出そうとした彼を名取が引き留めたが、逆らうので柊も手伝って夏目の身体を斑ごと抱え上げた。急ぎ足で梅と、その周囲から離れる。夏目の視界ではあの少女が深々と頭を下げ、崩れ落ちていく梅の枝に飲み込まれて霞の如く消えていった。
 言葉にならない声を張り上げ、夏目は懸命に手を伸ばした。飛び越えたロープの向こうへ、止まりかけていた血が溢れ出すのも厭わず、痛みを忘れ、彼は必死にそこにある命を掴み取ろうとした。
 だのに、届かない。
 世界が白に包まれる。獣の姿に戻った斑が壁となるようその身を撓らせた。
 轟音が轟く。砂埃が大量に舞い上がり、息が出来ない。咳き込み、苦痛に喘ぎ、夏目は涙で滲んだ世界で黒い山と化した梅に嗚咽を漏らした。
 左手で地面を殴ろうとして、名取に止められた。
「寿命……だったんだろうね」
 彼の言葉を背中で聞く。
 夏目は返事をしなかった。

 吐く息はいつの間にか白く濁らなくなり、早朝の水道の水も凍える冷たさではなくなった。
 日射しは柔らかく、温かく。灰色や茶色の味気ない色が埋め尽くしていた通学路も、いつしか若緑色に満ちあふれるようになった。
 春が近い。暦を見るだけでは分からない自然世界の移り変わりを間近に見て、夏目はコートが必要なくなった優しい日射しの中で空を見上げた。
 白い綿雲が西から東へ流れる様を見上げ、隙間を縫うように飛び交う鳥の影に目を細める。巣作りでもしているのだろうか、忙しなく動き回る小鳥の声は実に姦しい。
「もうじき、桜が咲くかな」
 学校の正門近くに植えられた木の蕾も、日増しに綻んで色を強めている。年度が替わる頃にはきっと満開に咲き乱れて、目に鮮やかな景色を展開してくれるだろう。
 ただ残念なことに、桜はあまり匂いがしない。いつかの日に鼻腔を擽った甘い香りは、この先永遠に嗅ぐのが叶わないのだと思うと、切なさが胸を締め付けた。
 内部の大半が空洞になって久しかった梅の木は、根元から数十センチのところまでを残して粉々に砕けてしまった。
 既に大部分の組織が炭化し、壊死してしまっていたらしい。むしろ今まで樹木の形を成していたのが不思議なくらいだというのが、専門家の弁だった。
 とっくに朽ち果てていて可笑しくなかったのに、それでも健気に蕾をつけて、形を保ち続けた。その意味を考えると、哀しくて仕方がない。
 何も知らぬ人々には奇異に映る事象も、夏目にはとっては百八十度違って見える。世の中にある全ての事象には意味があり、理由があり、個別の答えがある。ある側にとっては正しくても、別の観念から判断するに正しくないというのを、まざまざと思い知らされた。
 自分が起こした行動が正解だったのか、否かは、一ヶ月以上経た今でも分からない。
「あ……」
 物思いに耽る帰り道のただ中で、夏目は見覚えのある人の姿を見つけて足を止めた。トラックから降りた作業着の男の横顔を、つい目で追ってしまう。
 向こうは彼に気付かなかった。細い道を真っ直ぐ上って、じきに夏目の視界から消えた。
「そっか。良かった」
 元気になったのだと分かって、胸の奥につっかえていたものがひとつ、溶けて消えてなくなった。
 崩れてしまった梅の木は壊れた社と一緒に撤去され、名取の言葉を信じるなら、清められて一緒に燃やされたそうだ。今は分譲住宅を作るとかで、斜面を切り崩す作業が続いている。
 地鳴りを伴って道路を行くトラックを避け、夏目は目映い太陽を見上げた。
 微かに香る懐かしい匂いに思いを馳せ、彼は家路を急いだ。

2009/02/04 脱稿