懸かりしは

 綿菓子に似た雲がぷかぷかと空を泳ぎ、ゆっくりと流れていく。
「んー……」
 間もなく西の地平線に沈もうとする太陽を仰ぎ、夏目は大きく伸びをした。
 背筋を反らせば、背骨がボキリといい音を響かせた。肩を回せば矢張り小気味のいい音が体内に響き渡る。
「明日も晴れだな」
 澄み渡る青空も、太陽の傍から徐々に赤みを帯びて風合いを変えつつあった。薄く長く伸びる雲が鮮やかな朱色に染まるのに、そう時間はかかるまい。
 夕焼けの翌日は、晴れ。昔から言い伝えられて来た言葉は、親というものを知らぬに等しい夏目であっても、どこかで耳にして覚えていた。
 休日を前に、嬉しくなる。特に出かける予定は何も無いのだけれど、目覚めた瞬間に晴れているのと、雨が降っているのとでは、矢張りモチベーションとでも言おうか、一日を過ごす気力に大きな差が出て来る。
 雨だとやる気が一気に減退して、何事に対しても面倒臭さが先に立つ。逆に晴れていれば、気持ちも高揚して何かを成し遂げようという、そういう心構えが自然と湧き上がってくる――やることなど、これといってないのだけれど。
 舗装されていない砂利道をゆったりとしたペースで歩いていた夏目は、視線を空から前に戻して落ちていた拳大の石を避けた。飛び退いた方にいた斑が、ぼってりとした体躯を意外に俊敏に反応させ、慌てた様子で彼の足から逃げた。
「ああ、先生。ごめん」
 其処に居たのをすっかり忘れていたと、畦道を落ちそうになった白い背に朱と朽葉色の模様が走った猫に急ぎ詫びる。髭の代わりに緋色の紋が入った、元招き猫の置物は、短い右の前脚を跳ね上げて夏目の足を蹴り飛ばした。
「なにをするのか、貴様は」
 人の言葉を発し、細い目で彼をねめつける。もう少しで踏まれるところだったと、ぷんすかと怒り心頭の招き猫の中身は、数百年を生きる妖怪だ。
 名を斑という。
 祖母の血を色濃く継いだが為に、幼い頃より妖怪に苦しめられてきた夏目は、偶々通り掛かったこの近辺の森で、封印されていた斑を解き放った。その礼ではなかろうが、祖母レイコの遺した友人帳を取引材料として、現在斑は彼の用心棒を買って出ていた。
 本性は狐と狼を混ぜ合わせたような、白い毛並みの獣なのだが、人である夏目の傍に不自然なく居る為に、日頃は封印されていた招き猫を依り代として、その姿を借りていた。
 この格好であれば、妖力がない人の目にも斑の姿は映る。妖怪は、人とは異なるもの。夏目のようにこれを視る目を持たない人には声も聞こえないし、触れることも叶わない。
 強い力を持つ妖怪ならば、自在に姿を替えて人前に姿を現すのも可能だという。斑も一度、若い娘に化けて委員長を騙したことがあった。
 夏目が見ている景色と、他の人の景色は少し違う。以前はそれが嫌で、嫌で仕方が無かったけれど、祖母の逸話を知り、自分のルーツを知り、世話になっている藤原夫婦や気の置けない友人らとの関わりを経て、少しだけではあるが、この目も悪くないと思えるようになってきた。
「ごめんって。そんなに怒るなよ、先生」
「ふん。貴様のいう事など信用出来るか」
 わざとではないのだと弁解しても、斑は耳を貸そうとしない。ぷいっと丸い顔を背け、四本の足を交互に動かしてさっさと行ってしまった。
 長閑な田園風景は終わりを迎え、住宅地が目の前に広がっていた。道はアスファルトで固められて、先ほどのように地面に埋もれ、頭だけ出している石に吃驚することもない。
 それはそれで、面白みがない。靴底が受け止める感触の変化に吐息を零し、夏目は暮れ行く西の空を振り返った。
 長い影が斜めに伸びている。首を戻して色の濃い地面を追いかけて視線を流せば、電信柱のすぐ横に、先に行ったはずの斑がちょこん、と座っていた。
「先生、疲れたのか?」
 そんなわけはあるまいと思いつつ、声に出して聞いて彼は大股に距離を詰めた。しかし夏目が近付いてくるのを待たずに規格外サイズの猫は起き上がり、あっかんべーと舌を出して彼に尻尾を向けた。
 すたすたと歩き始める、その後姿に肩を竦め、夏目は苦笑して彼に続いた。
 長い影と短い影が並び、時に重なり、時にもっと大きな影に隠れては現れる。藤原の家まであとどれくらいだろうか。現在地を知ろうと夏目は左右に視線を走らせ、ちょっとコースから逸れているのに気付いて目を瞬かせた。
 斑の尻ばかり追いかけていたから、今の今まで分からなかった。これでは遠回りになってしまうと、ひんやりした汗を拭った彼は、好き勝手に進路を取る異形の猫に呼びかけようと口を開いた。
 声を発するべく吸い込んだ空気に、香ばしい芳香が混ざる。嗅覚を刺激する匂いに、彼は何を喋ろうとしていたのか一瞬で忘れ、首を右に向けた。
 小さな公園がある。その入り口に、一軒の屋台が出ていた。
「あれ」
 赤い屋根から庇が伸びて、左から右に一文字ずつ文字が刻まれている。同じ文言を記した縦長の幟も斜めに立てかけられていたが、今は風がない所為で棒に絡まって沈黙していた。
 思わず生唾を飲み、夏目は足を止めた。
 客は居ない。胸の辺りまである作業台の向こう側で、中年の男性がひとり退屈そうにしていた。
「たいやき」
 大きく描かれている文字を順に読んでいけば、その単語が完成する。声に出して呟き、夏目は無意識にズボンのポケットを叩いた。
 右に手応えが無いと知ると、直ぐに反対側を。ちゃりん、とはいわなかったが金属が擦れ合う感触が布越しに感じられて、彼は大急ぎでシャツの裾を捲くり、ポケットに指を押し込んだ。
 探り当てて取り出し、広げた右手に転がす。
「う」
 大金は期待していなかったが、よもや此処までとは思っておらず、彼は額面を計算した瞬間息を詰まらせた。
 あと二時間もすれば、塔子が作る美味しい夕食が食卓に並ぶ筈だ。おやつ時もとっくに過ぎ、中途半端な時間帯。今胃袋に食物を入れるのは、あまり良いことではなかった。
「参ったな」
 一昨日の買い物で受け取り、ポケットに突っ込んだままだった釣銭を握って、彼は困った顔をして頭を掻き毟った。
 十メートル離れた場所で、斑が立ち止まって彼を見ている。首から上だけを振り向かせている猫の視線を感じ取り、右手を下ろした夏目は口をへの字に曲げた。
 思い出したことがひとつあった。
「先生」
 背伸びをして爪先立ちになり、一歩前に出て夏目は彼を呼んだ。真ん丸い綿毛のような尻尾を揺らしていた斑は、ブロック塀が作り出す陰の下で三角の耳を反応させ、前に出るか後ろに引くかを躊躇したようだった。
 夏目が手招きをすれば、渋々という表現がぴったり来る動作で身体の向きを変え、広がっていた両者の距離をゆっくり詰める。夏目の足元まで来ると日の光が彼を照らし、背中の模様を淡く浮かび上がらせた。
「なんだ」
 近い場所に人はいない。だから遠慮なしに人語を紡いだ斑は、道端にしゃがみ込んだ夏目の膝を叩いて用件を急かした。
「あのさ、先生」
 しつこく叩いてくる斑の足を押し返し、夏目は声を潜めた。自転車の小学生が通り過ぎるのを待ち、ちらりとたい焼きの屋台に目をやる。斑も匂いを先に感じ取っており、夏目と同じ方向に首を回した。
「……お腹、空きませんか?」
 その魅惑的なカーブを描く後頭部を見詰め、いつになく丁寧な――裏があると直ぐに分かる口調で告げた彼に、斑は即座に全身の毛を逆立てて振り返った。気味が悪くて背筋がぞわぞわする、などと失礼な事を嘯いて夏目から四歩ばかり距離を取る。
 下手に出るのがそんなに気色悪いのか。不満を露にした夏目が立ち上がり、依然客の来ない屋台を指差した。
「あれ。ちょっと、食べたいなって」
「ふむ。悪くないな」
 咳払いひとつして気を取り直し、普段の口調に戻した夏目が言う。再度赤い屋根のたい焼き屋に目を遣った斑は、ニヤリと口元を歪めて不敵に笑った。
「よし、夏目。買って来い」
 胃袋も通常サイズの倍はある斑が、偉そうに許可を下してビシッと屋台を指差した。
 夕飯のことは頭に無いらしい彼のひと言に、夏目は苦笑して首を振った。握り締めていた左手を解き、手持ちの金額を彼に教えてやる。
 そもそも、斑の散歩に出て来ただけであって、道中買い食いをする予定は一切なかった。だから財布は持って来ておらず、偶然ポケットに入っていた金額は、十円玉硬貨がたった四枚。
 遠目に見えるたい焼きの販売価格は、その三倍だ。
「なんだと貴様! 期待させおって」
 奢られる気満々でいた斑は、夏目の所持金がたい焼きひとつ分にも届かないと知るや否や怒り出し、こめかみに青筋を立てて後ろ足だけで立ち上がった。
 伸ばした前足で思い切り脛を殴られ、痛かった夏目が笑いながら後ろに飛び退いた。唐傘お化けのように一本足で跳ね、呵々と喉を鳴らして早とちりした斑を宥める。
 手に金属の臭いが移るのを嫌い、硬貨をポケットに戻した夏目が、
「だから」
 両手を叩き合わせて今一度、斑の視線に近付くべく膝を折った。
 墨で描いたような細い目をじっと見詰め、警戒心を滲ませている大きな猫の頭を撫でる。
「前に、先生にやったろ。小遣い」
「ぬなっ」
 それがあれば、丁度二百四十円。たい焼きふたつ――ひとり一尾ずつ買える計算だ。
 古い話を持ち出した彼に、斑が裏返った声を出した。ビクッ、とメタボリックな身体を震わせ、じりじりと後退していく。夏目の手の中は空っぽになって、指を折って握った彼は短かった影を長く伸ばした。
 カイの――寂しがりやの妖怪に、名札を届けるよう斑に依頼した時の報酬が、二百円。ちょっとした事から知り合いになって、正体を知らずに親しくなった。妖怪が視得る目の持ち主という共通点が、夏目の警戒心を薄めさせたのは否定できない。
 昔の自分を重ねた、守ってやりたかった。実際は、夏目の庇護など必要ないくらいに、彼は強かったのだけれど。
 元いた山に帰ったはずだ。そしてまたひとりぼっちを寂しがり、泣いているのだろうか。
 耳の奥にこびり付き、いつまでも消えない残響に無意識に奥歯を咬み、夏目は両の拳を固くした。ぐっと身に力を込める彼を見上げ、斑は何を思ったのだろう。ふいっと顔を他所へ向け、髭の無い頬を前脚で撫でた。
「私にたかろうとは、人間の分際で良い度胸をしておる」
「……その人間に餌を貰ってる先生は、どうなんだよ」
 今日はたまたま、手持ちがこれだけしかなかっただけだ。それに日頃から、夏目は何かと斑に食べ物を要求され、出来る限り応えている。たまには立場が逆であっても良い筈だ。
 僅かに上擦り、鼻声で言い返した夏目をちらりと見やり、斑は考え込む素振りで首を振った。
「残っておると思うのか」
 あれはかなり前の話だ。二百円という端額など、早々に使い切ってしまっているとは思わないのか。
 叱責する声に首を竦め、夏目は小さく舌を出した。
 その可能性は、無論頭にあった。しかし聞いてみなければ結果は分からない。残っていれば万々歳だし、そうでないのなら空きっ腹を我慢して、大人しく藤原の家に帰るまでだ。
 道理をつらつらと並べ立てた夏目に、斑はぐうの音も出ずただ彼を睨み返すに留めた。
 身を低くしていつでも獲物に飛びかかれるよう構えたまま、鼻息荒くして必死に考えている様子が窺えた。
「むぐぐぐぐ……」
 夏目にたい焼き屋の存在を教えられたお陰で、空腹感が強まった。油断すれば高らかと腹の虫が泣き喚くだろう。夕飯までそう間が無いのも分かっている。
 しかしそれはまた、それ。今の彼の頭には、焼きたての生地に包まれた餡子を、はふはふ言いながら頬張りたい欲求に溢れていた。エビフライでも唐揚げでもなく、たい焼きが食べたくて仕方が無かった。
「おのれ、この策士め!」
「ははは。何のことだ?」
 巧い具合に誘導した夏目に悪態をつき、吐き捨てた斑を笑い飛ばして夏目は彼の一撃を避けた。ポケットの中で十円玉が踊っている。同じくらい、夏目の心も軽やかだった。
 どうするのかと目で問えば、斑は悔しげに口をへの字に曲げた。
「ちょっと、待っておれ」
「先生?」
「いいか、動くなよ!」
 結局折れてやることにして、斑はダンダンと硬いアスファルトを二度叩いた。夏目が変な顔をして、打たれた地面に目をやる。その間に丸い体躯の妖怪は踵を返し、走り出した。
 見た目の大きさからは考えられない俊敏さで、あっという間に夏目の視界から消えてなくなる。方角は、藤原の家から見て南西だ。部屋に取りに帰ったのとは違うらしい。
「ああ、そうか。先生って、裸だし」
 何処へ行ったのかと考えて、夏目はぽん、と柏手を打った。
 鞄や財布の類を持ち歩かず、身体ひとつで動き回っている彼からちゃりん、ちゃりん、と小銭がぶつかりあう音がしたら、それはそれで変だ。
 部屋に置いていたら夏目に見付かって、没収されるとでも思っているのだろう。秘密の隠し場所を余所に構えているのかと思案を巡らせ、彼は暮れなずむ空に目を向けた。
 さっきまではあまり感じなかった夕焼けの色が、少し濃くなっていた。太陽は低くなり、影は本人の倍近くまで伸びて、モヤシのようだった。
「意外と溜め込んでそうだなー」
 なにせ斑は、長い刻を生きている。夏目が想像出来ない時間を、面白おかしく――時に切なさを伴って。
 小判の一枚でも持っていないだろうか。からかうネタをひとつ手に入れたとほくそ笑み、夏目は斑の言いつけ通り道端で彼の帰還を大人しく待った。
 カラスが鳴いている。公園で遊んでいた子供達も、互いに手を取り合って家路に急ぐ姿が見受けられた。たい焼き屋は、相変わらず暇そうだ。しかし迎えに来た母親らしき女性が、何尾か購入していったので、冷めた固いものを渡されずには済みそうだ。
 次の客を待ちつつ、男性の手が慌しく動いている。
「待たせたな」
「先生」
 遠巻きに作業風景を眺めていれば、退屈しなかった。五分ばかり経った頃に斑が息せき切らせて戻って来て、手を出すように仕草で告げる。夏目が屈んで右手を伸ばすと、彼は口を開き、唾と一緒にペッと何かを吐き出した。
 温い液体を浴びせられ、反射的に夏目が手を引っ込める。何をするのかと怒鳴ろうとして、意識せぬまま握り締めた手の中に固いものを見出した彼は寸前で言葉を止めた。
 広げてみると、銀色の硬貨が夕日を反射して、いやにつやつやと輝いていた。
「うっわー……」
 四足の獣である斑は、四肢を使って移動する。何かを握ったままでは走れないことくらい、ちょっと考えれば分かったことだ。
 しかしまさか、こういう方法で運んでくるとは夢にも思わなかった。斑の唾液でべとべとの百円玉二枚を前に、夏目は遠い目をして肩を落とした。
「なんだその顔は。奢ってやるのだ、ありがたく思え」
 悲壮感を漂わせた彼に、斑は怒り心頭で何度も足元を叩いた。
 奢ると言われても、これは元々夏目の所持金だ。届け物の駄賃が、よもやこういう形で戻ってこようとは、世の中、何が起こるか分からない。
 夏目は頬を引き攣らせて苦笑いし、偶然を装ってわざと百円玉硬貨を地面に落とした。拾おうとして背中を丸め、指が触れる直前に誤って蹴り飛ばす。無論、表面を覆うぬめりを取り除くための演技だ。
「こら、丁寧に扱え」
「分かってるって」
 今度は靴で踏み、ぐりぐりとアスファルトの砂埃に湿り気を押し付けて、彼はやっと薄汚れた硬貨を手に取った。表面の砂を払い除け、これで安心して持てると心の中で嘆息する。
 斑はまだ怒っていたが、夏目が動き出したのを見て途端に嬉しげにリズムを取った。
 並んで歩き、たい焼き屋へと近付く。甘い匂いが漂って、ひとりと一匹、揃って唾を飲んだ。
「すみません。えっと……ふたつください」
 焼きあがったものを並べていた男性に声をかけ、ポケットから出した十円玉も足して差し出す。二枚分、丁度だ。
「はいよ」
 男性は特に疑う様子もなく、頷いて種類を選ぶように言った。
 餡子と、カスタード。夏目は下を見て尻尾を振っている斑を窺い、
「両方、餡子で」
 涎を垂らしている彼の間抜け顔に笑った。
 熱々を受け取り、夏目は公園に入った。人気の乏しい公園のベンチに腰掛け、隣に斑がよじ登るのを待つ。ひとり先に齧り付けば、パリッとした食感の直ぐ後に咥内を焼く熱に襲われた。
「あふっ」
「さっさと寄越さんか」
 あまりの熱さに驚き、背中を丸めた夏目の腿を叩いて斑はもうひとつ入った袋を掻っ攫っていった。素早く周囲を窺い、大きな口を開けて頭から食べ始める。
 一応魚の形をしているから、これはこれで、ありなのだろうか。たい焼きを頬張る猫というのも妙なもので、横目で眺めつつ、夏目は尻尾をなくした鯛を顔の前で揺らした。
 もうひとくち噛み千切り、垂れ落ちた餡子の粒を抓んで口に入れる。
「ん、美味い」
 焼きたてだからだろうか、尚更美味しく感じる。唇を舐めて残り半分もぺろりと平らげた夏目は、ちびちびともったいぶりながら食べている斑を見下ろし、用無しになった包み紙を折り畳んだ。
 奪われてなるものか、と中年太りよろしく腹の出た猫が彼に背を向けた。
「むふふー、むふふー」
 楽しそうに鼻歌を歌って、小さな舌で餡子を味わっている。
「あ」
 ゴミを捨てに立ち上がった夏目は、高校生らしき女性がたい焼きを購入している姿を見て不意に声を上げた。聞こえた斑が目線だけを持ち上げるが、自分に用があるのではないと知ると直ぐに興味を失い、魚の形を模した甘味に集中した。
 パタパタ揺れる尻尾を改めて見詰め、夏目は手にした紙袋を握り締めた。乾いた音をひとつ立てて皺だらけになって潰れたそれを広げ直し、折り目のひとつをなぞって夏目はベンチに戻った。
「先生はさ」
「なんだ?」
「人に化けることも出来るんだよな」
「ああ。簡単だぞ」
 目尻を下げて丸くなっている妖怪が、話を振った夏目に深く考えぬまま頷いた。
 彼の答えた通り、斑は人に化けられる。人間の目に映るよう、姿を替えることも出来る。その気になれば、彼は夏目を捨て置き、自分の分だけたい焼きを買うことも可能だった。
 けれど、結果はどうだろう。
「……先生」
「んん?」
「ありがと。ご馳走様」
「そんな事を言っても、分けてやらんぞ」
 あとは尻尾だけとなったたい焼きを頬張りつつ、斑が急に畏まった夏目を警戒して彼を睨みつけた。夏目は相好を崩し、今度こそゴミを捨てるべくベンチを離れた。
 沢山のたい焼きを胸に抱え、先ほどの女子高生が嬉しそうに走り去っていく。きっと誰かと一緒に、幸せを噛み締めながら食べるのだろう。
「今度は、自分で焼いてみようかな」
 確か焼き器があったはずだ。次の休みにでも、塔子に教わりながら挑戦してみよう。
 ゴミ箱に紙くずを投げ入れ、夏目は天を仰いだ。鮮やかな緋の色が、西の空一面を優美に染め上げていた。

2009/04/26 脱稿