凛として

 青々とした田園が遠く山裾まで広がって、まるで緑の絨毯を敷き詰めたかのようだった。
 これが秋になり、実りの季節を迎えれば、一面は黄金色に染まるのだという。風に揺れる稲穂の海は、さぞかし綺麗だろう。
 そう呟くと、足元に蹲っていた巨大な饅頭がもぞりと頭を動かした。
 でっぷりとした腹に、同じく丸々とした頭。矢張り丸い尻尾がおまけのように尻の上にちょこんと乗り、さっきからそれだけがゆらゆらと左右に揺れていた。
 筆に墨で描いたような間抜け顔には、ふてぶてしいという表現が実に良く似合う。両サイドが垂れ気味の三白眼からは迫力をまるで感じないが、口調は常に上から目線なので、そのギャップがまた、時にとても腹が立つ。
「なんだよ」
 夏目の不満げな視線を受け、地面に殆ど腹這い状態だったその、出来損ないの猫の形をした存在は、ふふん、と鼻を鳴らした。
「どうせゆっくり眺める間もなく、刈り取られよるわ」
「それは、まあ……そうだろうけど」
 独白に対しての、それがこの妖怪の答えだ。味気なく、面白みに欠けるが、真理でもある。
 夏目は答をはぐらかすように視線を彼方へと投げ、空を仰いだ。
 白い綿雲が幾つも散らばり、太陽を気まぐれに隠す。上空には風があるようで、流れは速いが、地上にはその恩恵があまり与えられていない。ジッとしていると汗が滲み、シャツに染み込んで肌に張り付くのはあまり快いものではなかった。
 猫を散歩に連れ出す、というのは妙な話であるが、長年招き猫に封じられていた所為でその姿が馴染んでしまった妖怪は、現代風に言えばメタボリックシンドローム体型だ。そうでなくとも、家人から与えられるキャットフードより、高タンパク・高カロリーの刺身や肉が好物と来ている。しかも、人間が一番美味いとまで言って憚らない。
 斑という名があるこの輩は、依り代が陶器製の招き猫である以上、ダイエットなど当然望むべくもない。分かっているが、一応その辺の本物の猫と同じ扱いをしている居候先の手前、散歩と称してこうやって連れ立って外に出て、近所を歩き回るのが日課となっていた。
 今日もまた、その最中。学校から帰ってきて、夕食までの小一時間の暇潰し。逢魔が時などと揶揄されて、物の怪たちが活発に動き出す時間帯とも重なるが、今のところ友人帳を狙う不届き者の影もなく、のんびりとしたものだ。
「昔はもっと、山の手前にも林が広がって、緑が豊かだったんじゃがの」
「へえ、そうなのか」
 今でも充分、この近隣は緑が溢れているように見えるのだが。
 猫姿の斑が呟いた言葉に相槌を返し、夏目は田圃の中を走る畦道に一歩踏み出した。
 靴の裏に直接土の感触を感じる。凹凸は激しく、石があちこちに散らばっているが、頭だけがはみ出て胴体部分の多くは土の中だ。
 踏み固められ、両脇には野草なのか、地主が敢えて其処に植えているのか、背の低い緑の草が大地を覆っていた。
 家に帰る為の方角だけは覚えておいて、適当にぶらぶらと、何も考えずに突き進む。首筋を撫でる風は、夜に向かおうとする気配を潜ませて、時折とても冷たい。
「ん?」
 長閑なくらいに穏やかで、静かな、落ち着いた風景がどこまでも広がっている。西の空に大きく傾いた太陽は、鮮やかな朱色の範囲を徐々に広げ、気の早い一番星が東の空高い位置に微かではあるが、輝き始めていた。
 ズボンのポケットに両手をそれぞれ差し込み、最近テレビで良く耳にするメロディを鼻歌で奏でていた夏目は、何気なく見下ろした地面に生える緑に目を留め、前に出るはずだった左足を空中に浮かせたまま停止させた。
 彼の後ろをつかず離れず、一定の距離を保って進んでいた斑が、慌ててブレーキをかける。危うく夏目の踵に頭からぶつかっていくところで、寸前で回避した彼はぜいぜいと在りもしない心臓を撫でる仕草をして顔を拭き、ついでだと髭を舐めた。
「なにをしておるか、危ないではないか!」
 それからやっと、すっかり猫になりきっている自分にハッとして、甲高い声を掻き鳴らす。しかし夏目は聞いておらず、その場で両足を揃えると膝を折り、畦道の真ん中でしゃがみ込んだ。
 夏目の尻が近付き、踏み潰されると危惧した斑が急いで四足で逃げ、右に回りこむ。いったいどうしたのかと怪訝に周囲を見回すが、特別怪しい気配は感じられない。
「夏目?」
「なんだってこんな場所に」
 名を呼べば独白が聞こえ、斑は瞬きをしてから夏目が見詰める先に首を向けた。
 乾いた黄土色の地面に、這い蹲る格好で緑の草が伸びていた。
 茎は短く、葉は横に広い。誰かに踏まれた痕がくっきりと残っていて、見るからに痛々しい姿だった。
 自分も気付かずに踏んでしまうところだった。呟いた夏目が可哀想な雑草に手を伸ばし、哀れにも穴の開いた葉の表面を撫でた。
「なんだ、オオバコか」
「大箱?」
「なぬ? 貴様、知らんのか」
 どこかで聞いた覚えがあるものの、即座に正解が出てこない。夏目が鸚鵡返しに聞くが、彼の頓珍漢な思い違いに、呆れ口調の斑はなで肩を竦め、学がないな、と嗤った。
 馬鹿にされた夏目はムッとしたが、知らないものは知らないのだから、仕方が無いではないか。
 生意気な猫の額を思い切り指で小突き、少しだけ溜飲を下げて立ち上がる。地面に蹲って痛がる猫は放っておいて、これ以上痛い思いをしないですむように、と夏目はオオバコを跨いだ。
 瞬間、不意をついて斑が体を丸め、彼の背中に体当たりを仕向けた。
 グキッと嫌な音がして、体をくの字に曲げた夏目がもんどりうって地面に倒れこむ。
「いっ……なにするんだ、ニャンコ先生!」
「ばか者。何故踏んでやらん」
 完璧に油断していた、今のは相当痛かった。ジンジンする腰に手を当て、膝をついた状態で怒鳴り声を上げた夏目に、隙無く着地した斑はつーん、と顔を背け、短い前足でオオバコの茎を揺らした。
 その場で座り直した夏目が、変なものを見る目で彼を見返す。
「なんでって、踏んだら可哀想だろ」
 軽く握った拳で背骨を数回叩いた夏目の反論に、斑はこれ見よがしに溜息を零した。振り下ろされた拳骨は後ろへ飛んで逃げ、彼の代わりとばかりにオオバコの葉を真上から踏み潰す。
「あ、こら。人が折角」
「だから貴様は馬鹿だと言っておるんじゃ。オオバコは、踏まれてなんぼの草だぞ」
 手を伸ばし、斑を追い払おうとしたが牙を剥いて牽制される。同時に放たれた言葉に夏目はきょとんとし、意味が解らないと首を傾げた。
 彼が本気で知らないと悟り、斑は仕方が無いと頭を振って、あろう事かオオバコの上にどんと構えて座った。
 茎が曲がり、彼の足の下で苦しそうに身悶える。しかし斑が退いた途端、それはスッと背筋を伸ばして夏目の前でお辞儀をした。
 思わず自分も頭を下げそうになって、斑のいやらしい目に気付いてばつが悪そうに視線を逸らす。
「こいつはな、背が低い」
「見りゃ分かるよ」
「だから、道の真ん中に生えておる」
 肉球でちょんちょんとオオバコを弄り、斑は察しろと顔を上げた。
 胡坐を崩した姿勢を取った夏目も、同じくオオバコの穂がついた茎に指を伸ばし、試しに軽く押してみる。感触は、ひと言で言うなら、硬い。
「お」
 夏目の指に抵抗してみせる健気な雑草に、彼は物珍しげな声を出してもう一度、先ほどより強くオオバコの茎を押した。けれど、倒れない。何度やっても結果は同じだ。
「へえ……」
 面白いと無邪気な子供の顔をして、夏目はしつこいくらいにオオバコを揺らした。勢い余って斑の狭い額にも指を突きたて、欠伸をしていた彼をひっくり返してしまう。
 ぎゃあ、という悲鳴があがり、巨大な饅頭は畦を転がり落ちていった。
「大丈夫か、ニャンコ先生」
「おのれ夏目、なにをするか!」
「ごめんごめん、わざとじゃないんだ」
 ぬかるんだ田圃に落ちた斑が、全身を泥まみれにして頭を出した。飛び散った土を避け、そんな姿で抱きつかれてはたまらないと、夏目は謝りながらも一目散に彼から逃げた。
 息せき切らしてコンクリートで覆われた道に駆け込むが、最終的には追いつかれ、べったりと背中に、背後霊の如くこの面妖な生き物に張り付かれる。夏目は、首を絞められたのもあってケホッ、と咳込んだ。
「なあ、ニャンコ先生」
「なんだ、このウツケ」
「誰がだよ。……なんか、オオバコって人間に似てるよな」
「そうか?」
 酷い言われようだと笑い、夏目は藍に染まった東の山並みを見上げて呟いた。
 踏まれても、踏まれても、決して折れずに空を仰ぐ。それこそしつこいくらいに、呆れるほどに。
 ああ、だがならば妖怪も同じだ。人間に忘れられようと、名を奪われようと、懸命に足掻き、生きている。
 人間も妖怪も、植物だって。なにも違わない、変わらない。みっともないまでに地面にしがみつき、天を目指して、笑ってしまうほど健気に、純粋に、真っ直ぐに。
 そういうのは、多分。
 自分は、嫌いではない。
「さーて、帰るぞ夏目。今日の晩飯はエビフライだ」
「なんで知ってるんだよ。つか、そんなものばっかり食べてると太るぞ」
 いい加減降りろ、と上半身を左右に振って、背中にしがみついている存在を振り落とす。シャツに完成した巨大な魚拓ならぬ猫拓は、早めに洗わないと染みになって残ってしまいそうだ。
 ぼってりした腹を地面に擦りつけ、斑が愉快に声を立てて笑った。蹴るポーズを作ると慌てて逃げていく。
 そう、嫌いではない。騒がしいのも、鬱陶しいのも、風が冷たいのも。
 少なくとも今の自分は、不快ではない。
 夏目は顔を上げた。振り返り、地面と同化してもう見えないオオバコに笑いかける。
「何をしておる。急がんか」
「分かってるよ」
 先を行く斑に言われ、彼は歩き出した。ポケットに手を入れて、背中に泥の痕を残して。
 空では二番星が静かに瞬き始めていた。

2008/08/02 脱稿