空なりて

 天地が回っていると思った時には、もう手遅れだった。
「うわっ、夏目!」
「夏目? おい、大丈夫か」
 微妙に熱っぽいな、と朝から思ってはいたのだけれど、こんなことは今までも良くあったのであまり気にしなかった。大抵学校に行く等して動いているうちに、いつの間にか体調不良の事などすっかり忘れて、夕方にはケロリとしているパターンが多かったので、今回もその事例に当てはまると甘く見ていた面もある。
 だからまさか、教室でいきなり倒れるとは思ってもみなかった。
 目を覚ましたのは午後の授業が始まった直後で、保健室のベッドを二時間少々占領していた計算になる。渡された体温計を脇に挟み、数分待って表示された数値は三十八度と少し。熱の所為で頭がぼうっとして、朝にはなかった喉の痛みが典型的な風邪の症状をあらわしていた。
 そういえば昨夜は、ニャンコ先生にせがまれて風呂上りに髪の毛を濡らしたまま、夜の散歩に出かけた。その時に冷やしたのだろうと自己判断を下した夏目は、家へは連絡済だという保険医の言葉に天を仰ぎ、程無く迎えに来た塔子に引きずられる格好で学校を早退した。
「どうして朝のうちに言ってくれなかったの」
 こめかみに青筋を立て、怒り心頭の保護者に怒られて寝床に引き篭もる。帰って来た時には既に、起床時に自分で片付けた筈の布団が敷かれていて、部屋の片隅では潰れ饅頭のような妖怪猫が、相変わらず人を苛立たせる顔で笑っていた。
 自覚しないうちに汗を多量にかいていたらしい。寝間着に着替えるために脱いだ制服は、ぐっしょりとまではいかないまでも、しっとりと濡れて湿っていた。
「情け無いのぉ」
「うっさい」
 もう一度熱を計測して、学校で見た時よりも上昇した数値に眩暈がした。塔子も驚いた様子で、風邪薬はあっただろうかと慌しく廊下に出て階段を降りていった。
 彼女が去り、入れ替わりに近づいて来た斑の言葉に悪態をつき、左手で顔を覆った夏目は深々と息を吐いた。
 手首を掠めた呼気は自分でも吃驚するほど熱く、己の体調管理不行き届き具合に辟易させられる。これくらいなら大丈夫、と思って油断していたのが悪かった。髪くらい、きちんと乾かしてから外に出るべきだった。
 元凶の一因である元招き猫は、夏目のそんな後悔などまるで気取らず、昼も明るいうちから布団に横たわる彼が余程珍しいようで、落ち着きなく布団の周囲を歩き回っていた。
 畳がいくらか吸収してくれるとはいえ、足音は響く。神経に障る騒音に夏目は腕を下ろし、もぞもぞと動いて仰向けの身体を横向きに作り変えた。
 右肩が下になるようにして、首までしっかりと掛け布団を被る。伸びた後ろ髪が枕に散って、背を向けられた白饅頭は憤慨した様子で夏目の左肩に前脚を引っ掛けた。
「あらあら、駄目よ。貴志君は具合が悪いんだから」
 それを見咎めたのは、盆を片手に戻って来た塔子だ。
 横になっている夏目によじ登ろうとしていた斑を追い払い、枕元に膝をついて持ってきたものを置く。載せられていたのは四角い箱に入った風邪薬と、水が注がれた透明なグラスだった。
 夏目が上目遣いに見守る中、表面が凹んでいる箱を開けた彼女は中から小袋をひとつ取り出し、それをグラスの横に置いた。銀色のパッケージで、表面にはでかでかと製品名が記入されていた。
 テレビのコマーシャルでやっているのを見た事がある。ぼんやりする意識の片隅で考え、夏目は礼を言おうとして口を開き、吸い込んだ空気が喉を擦る痛みに喘いで枕に顔を伏した。
 身体を揺らして咳き込んでいると、布団の上から優しい手が下りてきた。
「……は」
「今夜はお粥ね」
 ぜいぜいと苦しげに息を吐き、抱きかかえた枕を胸の下に敷いて顔を上げる。背を撫でてくれた塔子の言葉に、面倒をかけてしまった申し訳なさを覚えて彼は俯いた。
 視線は絡まない。お互いに余所余所しい雰囲気を醸し出して、会話は変なところで完全に切れてしまった。
「すいませ、ん」
「飲めるようならお薬飲んで、おやすみなさい」
 何に対しての侘びか分からぬまま、掠れた声で謝罪する。塔子は無理をして喋らなくて良いと微笑み、上半身を起こそうとした夏目を留めて柔らかな色合いの髪を梳いた。
 掌から伝わる他者の熱が、夏目をホッとさせた。
 反射的にまた謝りかけて、クスクスと忍び笑いを零している塔子に若干気まずい気持ちになる。からかわれているわけではないのだが、どうにもこういう状況に慣れていない所為で、落ち着かなかった。
 敷布団に身を横たえると、すぐさま塔子がずり落ちていた布団を被せてくれた。最後に肩の周囲をトントン、と叩いて、彼女は盆をその場に残して立ち上がる。
「お夕飯の買い物に出かけてくるけど、誰か訪ねて来ても無理に応対に出なくて大丈夫だから」
「……はい」
「ニャンキチちゃん、夏目君の事宜しくね」
 水を湛えたグラスが汗を掻いている。塔子に頼まれて斑は間抜け顔で猫なで声を放ち、聞いていた夏目が何故か恥ずかしくなって、鼻筋が隠れるまで布団を被り直した。
 塔子が階段を下りる音がして、やがて聞こえなくなった。行って来ます、の声が数分後に響き、夏目は返事が出来ぬまま玄関の開閉音を耳で拾った。
 後には沈黙が残される。そっと布団を下ろして視野を広げると、目の前にはちょこんと鎮座する招き猫、もとい斑の姿が。
「……なに」
「見張っておくよう頼まれたからな」
「あ、そう」
 円らな目でじっと見詰められるのは、妙な感じだった。理由を問えばそんな返答が成されて、塔子の言葉を忠実に実行する彼に夏目は心底呆れた。
 即座に寝返りを打ち、斑に再度背中を向けて顔を布団で隠す。後ろで騒ぐ声が聞こえたが気にも留めず、夏目は瞼を閉じると闇に包まれた世界の中心で二度、深呼吸を繰り返した。
 落ちていく。沈んでいく。溶けていく。
 意識が集束し、拡散する。浮かんでは潜り、漂い、揺れて、少しずつ力が抜けていく。
 程無くして穏やかな寝息を立て始めた夏目に、斑は布団の隅に鎮座したまま髭を舐めた。

 一時間ほど眠っていたらしい。うつらうつらする意識が徐々に水平線から顔を出し、重い瞼を苦心の末に持ち上げた時、夏目は今自分が居る場所が何処だか分からなかった。
 記憶に混乱が生じ、学校に居たはずなのにと真っ先に考えてから、ゆっくりとけだるい身体を起こす。
 被っていた布団は肩から腰にずり落ちて、支えるのに使った腕の先では丸々とした猫が気持ち良さそうに眠っていた。
 これはなんだろうかと、あまりにも猫としては不細工な寝顔に見入り、首を振る。
「あ……え、と」
 窓は閉まっていたがカーテンは片側に偏り、赤く染まる西日を斜めに受け止めていた。眩しさに目を細め、腕で視界の半分を遮ってから後ろを向く。枕元に置かれたコップが光を反射して、こげ茶色のお盆にプリズムを刻んでいた。
 喉の痛みが蘇り、声に出すのを諦めて夏目は額に手をやった。手付かずの薬と、閉めた覚えの無い部屋の襖。少し前まで誰かが居たような気配に、夏目は恐怖ではなく安堵を覚えた。
 ああ、そうだ。ここは今までのような、熱を出した自分を厄介者として扱う人たちの家ではない。家族というものを知らない自分が、ようやく手に入れた安住の場所。
「……」
 そこまで思考が巡って、夏目は息を止めた。緩く首を振り、視線を落としてその先にある風邪薬と水を見詰める。
 安住の地だなんて思ってしまって良いものかどうか、いまだに結論が出ない。
 此処の人たちは皆優しい、大好きだ。けれど自分には伝えていない大きな秘密があり、知られればきっと自分を怖がるようになる。今まで通りに、またひとりぼっちになってしまう。
 握り締めた拳は布団の上で細かく震え、噛み締めた唇は痛い。熱を出して気弱になっているのか、普段考えないことまで色々と思いは巡り、自分を遠巻きにして冷たい目を向けてくる塔子の姿を想像して、悲鳴を上げそうになった。
 胸の前で腕を交差させ、両肩を抱く。脂汗が滲み出て、吐き気に襲われて夏目は身を丸めた。
 呼吸が自然と荒くなり、肺が圧迫される。喉がひゅうひゅうと音を立て、素通りする空気の生温さに悪寒が走った。
 妖の巨大な舌に舐められた時のような気分の悪さだ。けれど不用意に大きな声を出せば、階下に居る塔子にも聞こえてしまう。ただでさえ今日は色々と迷惑を掛けているのに、これ以上余計な心配を掛けさせるわけにいかなくて、夏目はぐっと腹に力を込め、己を押し殺した。
 広げた膝の間に額を擦りつけ、ぎりぎりと締め付けられる心臓の痛みに声もなく耐えて涙を堪えた彼は、
「ぎゅえ」
 突如背中を見舞った一撃に、呆気ないくらい簡単に撃沈した。
 上から押し潰されて、布団に滑り込む。真っ直ぐ伸ばした両腕は頭の上を泳いで空を掴み、ヒクヒクと痙攣した。
 圧し掛かってきたものがなんであるかは、想像に難くない。今も夏目の背中で悠々自適に鼻歌なぞ歌っている存在は、さっきまで彼の正面で鼻ちょうちんを作っていた達磨猫に他ならない。いったいいつの間に起きたのか、それとも最初から狸寝入りだったのか。
 この際どちらでもいい、一秒でも早く退いてくれるのならば。
「にゃ……こ、せっ」
 恨めしげに名前を呼ぶが、声が喉に引っかかって発音もままならない。彼が苦しくて喘いで居る間も、招き猫を依り代とする妖怪はつんとすまし顔で、愛嬌があるのだか無いのだか解らない顔をし人の背中に居座り続けた。
 最終的に、痺れを切らした夏目が渾身の力を振り絞って振り落としたのだが、同時に彼は残っていた体力をすべて使い切り、力尽きて布団にうつ伏せに倒れこんだ。
 火照った肌に、乾いたシーツが心地よい。
 大の字に寝転がったまま夏目は目を閉じた。部屋の端まで飛んでいった斑が、短い四本の足を器用に操って懲りもせずまた近付いてくる。
 反撃されるかと警戒したが、斑は特に何をするでもなく、夏目が手放した枕に登り、そこに座した。
「人間とは不便よの」
 朗々とした声が響き、夏目は額を敷布団に預けたまま肩を揺らした。
 返事をするのも億劫であり、出来るならこのまま放っておいて欲しい。先ほど動いた所為でまた熱があがったようで、胸の辺りに付きまとう不快感は依然消えないままだ。
 しかし斑は人の気持ちなどお構いなしで、相槌もなにもないのに一方的に喋り続けた。
「寿命は短い、ちょっと突いただけでも直ぐに大怪我をしおる。挙句に熱など出しおって。今ここで、友人帳を奪いに来る輩が居たらどうするつもりだ」
「……せん、せが……追いは、っ、て」
 息継ぎが苦しくて、ちょっと喋るだけでも噎せてしまう。首を振って左頬を下にした夏目は、右を向いて下半分しか見えない斑の姿を探した。目を細め、西日を受けている間抜けな顔に緊張を解く。
 用心棒なのだから、それくらいはしてもらいたい。いや、既に彼は夏目を見張ることで、弱っている彼に近付こうとする不埒な輩を威圧しているのかもしれなかった。
 大きく息を吐き、残る力を使って身体を返す。仰向けになって両腕を横に投げ出した夏目は、天井に浮かぶ木目を数えながら浅く胸を上下させた。
 空耳かもしれない。けれど塔子が、いつにも増して丁寧な手つきで包丁を握り、まな板の上で食材を刻む音が聞こえた気がした。
 手鍋がコンロに置かれ、中では粥がコトコトと煮立っている。何か具があった方がいいだろうかと、あれこれ思い悩む彼女の姿を瞼の裏で思い描き、照れ臭さに夏目は頬を緩めた。
 自分には勿体無い。だけれど、出来るものなら手放したくない。
 此処は、とても温かい。
 汗が冷えて、熱が奪われる。夏目はぼやける視界で瞬きを繰り返し、左手を丸めてそこにいる斑を呼んだ。
「なんだ」
「さむい」
 どさくさに紛れて布団も一緒に跳ね飛ばしてしまったので、夏目の身体を覆うものは薄手のパジャマ以外なにもない。塔子に見付かったら、風邪を悪化させたいのかと怒られそうだ。
 殆ど音にならなかった夏目の言葉に、斑が怪訝にしながら顔を寄せて来る。前脚が耳朶を覆う髪に触れて、肘を曲げた彼は丸々と太ったその身体を下から掬い上げた。
 ひょいっと持ち上げて、反対側へ運ぶ。
「ふぬ? ぬお、なにをするか夏目!」
「にゃんこせんせ、あったかい……」
 ずっと西日を浴びていたからか、それとも妖怪にも体温があるのか。サイズ的にも、形的にも、抱き枕にするには最適で、夏目は左腕を上にして斑を抱え込み、膝を丸めて彼の逃げ場を奪い取った。
 最初こそじたばたと暴れて見苦しく抵抗した猫狸だけれど、程無く落ちてきた夏目の寝息に脱力し、腕の隙間から落ち着いている顔を覗き込む。すぅすぅと子供の顔をして眠る夏目からは、もう孤独に怯えて震える気配は感じられなかった。
「ま、出血大サービスじゃ」
 嘯き、斑は伸ばした身体を丸めた。狭い空間で快適に過ごせるように位置を調整し、夏目の腕を枕に瞼を閉ざす。
 寄りかかられる心地よさに、夢の中で夏目は笑った。

2008/10/29 脱稿