露のごとく

 残暑の陽射しが地表を焦がし、砂っぽい大地を照らしている。
 車一台がやっと通り抜けられるだけの幅しかない道に、陽光を避けるスペースは無い。時折畦道に植えられた緑の木々が作り出す日陰だけが、唯一涼を得る術だった。
「あっつ……」
 帽子を被ってくるべきだった。しかし後悔しても遅く、じりじりと地肌を焼く熱を受け止め、夏目は色素の薄い髪を梳いて額に浮いた汗を拭った。
 足元ではでっぷりとした体格の猫もどきが、短い脚を器用に動かして歩いている。アスファルトは熱を吸収する為、足の裏が火傷をするので歩きたくない、というのが彼の弁だ。お陰で凹凸も激しく、風が吹けば埃っぽくてならない道ばかりを選ばねばならなかった。
 道の両側には背の低い草が、地面に這い蹲るようにして葉を横に広げている。人に踏まれた形跡が生々しく残るも、健気に日光を集めるべく腕を伸ばして。
 トラックが通るのか、土の道の両側は浅く窪んでいた。轍はこうやって出来るのかと、なんともなしに考えていたら、本当に後ろからオート三輪が近付いてきて、夏目は慌てて右に退いて道を譲った。
 いかにも鈍重な体格をしている猫も、意外に俊敏な動きを見せて反対側の畦に飛び込んだ。生い茂る草をわしゃわしゃと掻き回し、中に潜んでいた小さな虫を驚かせて笑っている。
 三日月を横向きにしたような目を細め、おちょぼ口を広げている姿は、愛嬌がある反面、その中身を知っている夏目にはどうしてもある種の気持ち悪さが付きまとう。
 オート三輪はあっという間に両者の間を通り過ぎ、ガタゴトと車体を揺らして遠ざかっていった。吐き出される排気ガスは黒ずんでいて、あまり手入れがされていない車だというのがよく分かった。
 軽く咳き込み、直ぐに綺麗な空気を肺に送り込んで呼吸を整えた夏目は、南の空に輝く太陽を見上げ、額に手を翳して庇の代わりにした。
 なだらかな平地に、どこまでも田圃が広がっている。住宅はその合間を縫って肩を寄せ合うように集い、更にその向こう側には駅があってちょっとした繁華街が構成されていた。とはいえ、都会に見受けられるようなネオンも煌びやかなものを想像したら、肩透かしを食うのは明らかだ。
 コンビニエンスストアに行くにも、キロ単位で歩かされる。ご近所の煙草屋兼文房具屋兼雑貨屋兼駄菓子屋は、ひとりで切り盛りしているお婆さんが病院に薬を貰いに行っているとかで、店は閉まっていた。
 スーパーなんて便利なものも近くにはなくて、駅前まで行くには少々骨。その手前にある雑貨屋なら、乾電池のひとつくらい扱っているとは思うのだが。
「まったく、ラジオなぞ一日聞かんでも困りはせんだろう」
「それは、そうかもしれないけど」
 小さくなり、やがて完全に見えなくなったオート三輪を見送って、道に戻った夏目の足元に素早く猫の姿をした妖怪が駆け寄ってくる。巨大な饅頭にも見える体で脛に体当たりされ、危うく転びそうになった夏目は、仕返しに彼の脇腹を蹴り飛ばして早々に歩き出した。
 背中側では夏目にやり返された、本来は斑という名の妖怪が天地を逆にしてじたばたと暴れている。なにやら口煩く喚いているが、どうやら脚が短すぎて正しい向きに身体を戻せないでいるらしい。
 あまりの五月蝿さと、人が近付いてくる気配に嘆息し、夏目は右耳に小指を突き立てて片方塞ぎながら、矢張り足で猫の背を支えて横に転がした。くるん、と餅をひっくり返したみたいに綺麗に猫が丸くなる。
 風を切って通り過ぎたのは、自転車に乗った女性だった。長い髪を揺らし、微かに良い香りを残して一瞬で夏目たちを追い越す。
 思わず目で追ってしまい、地面に蹲った斑からいやらしい目つきを向けられた。
「なんだよ」
「この助平」
「そんなんじゃないって」
 確かに綺麗な人だったが、夏目はまだまだ異性に対してそういった感情を抱いたことが無い。もとより人との係わり合いが希薄だった上に、自分の境遇上他者に対してどうしても一歩引いた態度で接してしまう為、女性のみならず、同性に対してもどう接してよいのか分からなくて困る点が多々あった。
 人と異なるものを感じ、目にし、言葉を交わし、時に襲われ、時に巻き込まれ。情けをかけ、或いはかけられ、そんな自分の状況を、どうやって何も感じ得ぬ人に説明すればよいのだろう。
 誰にも理解されない、誰にも共感してもらえない。そんな期間が長かったから、どうせ自分は誰とも心を通じ合わせられないのだと決め込んで、高い壁を造ってきた。
 それが今、ゆっくりと崩れようとしている。優しい人に出会い、慈しまれ、少しだけ自分と似通った人たちと出会い、そして。
 いつか、心から分かり合える人と出会えるだろうか。胸を張って、自分の思っていることや感じている事を語れるような相手と。
「じゃあ、なんだ」
 既に出会っているのかもしれないけれど、と低い位置でぶつくさ文句を垂れている猫を見下ろす。不貞腐れた顔で話の続きを促され、夏目は軽やかなベルの音が過ぎ去った方角に目を向けた。
 少しだけ、羨ましかったのだ。
「自転車があれば、楽だろうなあ、って」
「欲しいのか?」
「ニャンコ先生が乗せてくれるのが、一番早くて楽チンなんだけどさ」
「なんだと! 私を自転車代わりにしようなんざ、百万年早いわ!」
 流し目で下を見やり、憤慨している招き猫の姿がすっかり馴染んでしまった斑の反応を笑う。きっと怒るだろうと思って言ったのだが、本当に思っていた通りの罵声を返されて、尚更可笑しくてならなかった。
 けれど自転車があれば、なにかと便利だというのは実感する。それだけではない、学校の友人と遠出するときだって、自分ひとりが自転車を持っておらず、後ろの座席に乗せて運んでもらった。
 妖怪たちに度々祖母と間違えられるような、華奢でひ弱な体格をしてはいても、一応人並みに体重はある。大丈夫だと友人は言ってくれたが、心苦しさは今でも重い澱となって胸の内に沈んでいる。
 軽く握った拳を左胸に添え、俯いた夏目の視界に、トテトテと忙しく脚を動かした斑が潜り込んで来る。今にも死にそうな顔をしていると指摘され、彼は曖昧に笑って己の心さえも誤魔化した。

 単一乾電池を二本購入し、来た道を帰る道中も陽射しはまだ厳しかった。
 汗だくで世話になっている藤原の家に帰り着き、復活を遂げた防水ラジオを風呂場に持ち込んで軽くシャワーを浴びる。冷たい水は火照った身体から一気に熱を奪い、濡れるのを嫌うはずの猫を擬した斑までもが、心地良さそうに冷水の恩恵を享受した。
 タオルに包んだダルマ猫を抱え、自身も頭にタオルを被って台所に出ると、塔子が忙しく夕食の支度に動き回っている。包丁を動かすトントンという小気味良い音に暫く耳を傾けていたら、顔を上げた彼女に微笑みかけられた。
「ありがとうね、貴志君。お夕飯、もう少しで出来るから」
「あ、いえ。はい」
 電池を買いに行くことくらい、何てことはない。自分に出来ることなどそう多くなくて、夏目は恐縮しながら胸の前で手をもぞもぞと動かした。
 床に降り立った斑が、タオルを引きずりながら廊下に出て行く。閉じていた戸を器用に前脚で開けるのだが、閉じることはしない。手を休めた塔子が細い隙間に消えた白い尻尾に目を細めて笑い、床に残された足跡を気にして夏目は慌てて彼を追いかけた。
 もっとちゃんと拭いてから、手放すべきだった。細長い綿のタオルは階段の少し手前に広がった状態で残されていて、飛び跳ねながら階段を登る音が聞こえる。急ぎ湿った布を拾い、段々薄くなっていく足跡を追いかけて夏目は自分にと宛がわれた部屋へと駆け込んだ。
 人間が通るには少々狭い隙間を押し広げ、畳に点々と刻まれた肉球の跡を目にする。一気に脱力感に苛まれた彼は、開けっ放しの窓辺によじ登り、夕暮れの風を浴びて涼んでいた斑の頭頂部に思い切り拳骨を叩き込んだ。
「何やってんだ、ちゃんと乾かしてから動き回れ」
「偉そうに言うな! 貴様がちゃんと、乾かさんのが悪い!」
 ぼてっ、と背中から落ちた斑が、即座に身体を返して後ろ足だけで立ち上がる。髭を舐めるのにも苦労する短い前脚を左右に振り回し、飼い主ならそれくらいしてみせろ、とこの時ばかりは飼い猫風情を気取って言い放った猫ダヌキに、夏目はもう一発、遠慮なしの鉄拳を食らわせた。
 横倒しになった招き猫もどきの頭に、アイスクリームを二段重ねたようなタンコブが見事に完成した。
 白い湯気を燻らせ、白目をむいて天井を仰ぐ姿は滑稽としか言いようがない。しかしお陰で畳に新しく染みが出来てしまい、自分の早計さを恥じて夏目は肩を落とした。
 自分の後ろ髪も、未だ冷たい露を浮かべて襟足を濡らしている。頭から肩にタオルの位置を入れ替え、左手を後頭部に添えてガシガシと短い髪を拭い、昼とは打って変わって冷たく吹く風に身を震わせた。
 早く乾かさなければ風邪を引いてしまう。寝込んで塔子に面倒をかけるのは避けたかった。
 持って上がってきたバスタオルを、未だ裏返っている斑の上に被せる。いっそそのまま窒息してしまえと半分冗談、半分真面目に考えてそっぽを向いていると、ゴキブリ並みの生命力を発揮した彼はタオルごと裏返り、それを座布団にしてじたばた暴れ始めた。
 何をしているのかと思えば、脚が短い所為でタオルを操れないので、身体をこすり付けて湿り気を移し変えていただけだった。
「あんまり暴れるな、下に響く」
「貴志君、どうしたのー?」
 二階建ての木造建築は、防音設備など当然整っていないので震動は直接階下に届く。注意をしている傍から、案の定音を聞きつけた塔子の声が聞こえて来て、夏目は斑の腹を直接踏みつけて大人しくさせた後、なんでもないと大声で返した。
 もがき苦しんで圧迫から逃げ出した斑が、部屋の隅に移動してもっと丁重に扱えと喚き散らす。
「先生が暴れるから悪いんだろ。ほら、こっち」
 拭いてやるからと皺だらけのタオルを拾い上げ、それを使って手招く。彼は夏目の誘いに最初渋ったが、窓から流れ込んだ夜気を伴う冷風に身を竦ませ、いそいそと近付いてきて背中から夏目の手の中に倒れこんできた。
 柔らかなタオルに包まれ、幸せそうな顔をしているのを見ると、本気で猫になったのではないかと思ってしまう。が、彼はれっきとした妖怪であり、時として人を食らおうとさえする凶悪さも持ち合わせている。
 けれどなんだかんだと接しているうちに、情に絆されたとでもいうのか、最近ではいないと少し物足りないと感じるようになっていた。
 今までの自分には、なにひとつ自分の物が無かった。大切に思い、守り抜きたいものもなかった。
 妖怪は面倒で厄介で、怖いものでしかなくて、いつだって自分に危害を加えて、馴染もうとした人の輪から自分を追い出してばかりで。
 ああ、けれど実際には、自分が逃げていただけではなかろうか。
 妖怪からも、人からも。向き合おうとしなかったから、相手を知ろうともしなかったから。
 だから自分の周りには、何も残らなかったのだろうか。
「どうした」
「え」
「手が止まっておるぞ」
 ぼうっと考え込んでいたら、いつの間にかタオルを動かしていた手が確かに止まっていた。言われてやっと気付き、夏目は早口にすまないと詫びて作業を再開させた。
 元々陶器の置物だったからか、猫の姿を取る斑の肌は心持ちつるつるしている。短い脚を抓んで肉球の隙間に折ったタオルの山部分を押し当てると、流石に擽ったかったのか彼は甲高い悲鳴を上げて逃げていった。
 もう殆ど乾かし終えていたので、今度は夏目も追いかけない。再び部屋の角に逃げ込んだ彼に苦笑してタオルを二枚重ね、立ち上がったところで階下から塔子の呼ぶ声が聞こえた。
 耳聡い斑が先に反応して、呑気に返事をしている夏目を追い越し、部屋を飛び出した。
「あ、こら」
 だから騒々しく足音を響かせるなと、あれほど言っておいたのに。
 三秒後には忘れている小さな脳みそしか持ち合わせない相手に辟易して、夏目はまだ僅かに湿っている後ろ髪を気にし、首の後ろを撫でた。
 暮れなずむ空は赤と紫が混ざり合い、そこに雲の白が紛れ込んで不可思議な色合いを生み出している。窓という小さな枠に押し込められた、一秒として同じ姿をしていない絵画は、夏目が見詰める前で茜色を薄め、ゆっくりと藍色を強めていった。
「貴志くーん?」
「あ、はーい」
 夕飯の支度が出来たからと、再度声高に呼ぶ塔子に同じく大声を返し、夏目は素足で畳の縁を踏んで慌てて足を上げた。
 きちんと跨ぎ、廊下に出ようとして一度思い留まる。背中を叩かれた気がして振り返り、部屋を見回しても当然誰かが居るはずもなく、妖が侵入した気配もない。
 風の気まぐれだろうと夏目は冷えた廊下に足を伸ばし、そしてふと、何かを思い出して視線を上げた。
「そっか」
 着地させた足を軸にして身体を反転させ、彼は部屋の中に舞い戻った。壁際まで一直線に進み、開けっ放しにしていた窓を閉めて鍵をかける。
 夕食を終え、部屋に戻って来る頃はもう完全に日は沈み、夜だ。だから今窓を開けたままでおいたら、眠る時の部屋は冷えている。
「ありがと」
 誰に言うでもなしに礼を述べ、窓ガラスに手を添えた夏目が額をも擦り当てて目を閉じる。
 三度、塔子の呼び声が聞こえ、今度こそ夕食に舌鼓を打つべく、彼は部屋を出て階段を駆け下りた。

「えっと、あとは……」
 駅前の道は舗装も行き届き、交通量も藤原の家の周辺に比べればずっと多い。
 信号が青に切り替わるのを待ってから横断歩道を渡り、向かいから来る人を避けて夏目は思案に耽って眉間に皺を寄せた。
 俯かせた視線は当然足許にも及んで、遅れないようについてくる猫のような生き物の姿もきちんと見える。人に蹴られないよう、ちゃんと避けているところはさすがと言えた。
 今日の午後、友人連中で集まって、川原でちょっとしたバーベキューをやろうという案が持ち上がったのは一昨日のこと。食糧は各自持ち込み、もしくはお金を出し合って、器具は各自の家が所有しているものを集めればなんとかなると言っていた。
 自分たちだけで危ないのではないかと思ったが、田沼の父親が丁度暇をしていて見張り兼保護者として付き添ってくれることになり、突発的なイベントだったが意外にも話がまとまるのは早かった。
 学校の、同じクラスや同じ部活や、中学が同じだった面々が自然と集まって、最初は小規模のつもりが結果的には結構な騒ぎになりそうだ。本当はこういう企画物は苦手で、距離を取るつもりでいたのに、いつの間にかメンバーに加えられていて、断れなかった。
 お前も来るよな、と聞かれ、「嫌だ」と言うのはあまりにストレートすぎるからと答を迷っていたら、勝手に面子に数えられていただけだ。後からでもちゃんと言えば、相手も分かってくれただろうに、心証を悪くするだろうかと気兼ねして、強く出られなかった自分を悔いる。
 右手に握った袋の中で、購入した荷物がガサガサと揺れる。自分の遊びに関わることで、塔子の面倒をかけるわけにいかなくて、結局夏目は彼女に言い出せぬまま、ひとり分の食材を買い集めに奔走していた。
 藤原夫婦は毎月決まった額を、小遣いとして渡してくれる。趣味の範囲も狭い夏目はむしろ使い道に困るくらいだったが、最近は何かと出かける用事が多く、時々足りなくなって困ることがあった。
 贅沢は言いたくない、我侭も。今でさえ十二分に世話になって、学校にも通わせて貰っている恩義を、仇で返すような真似はしたくない。
 大丈夫。我慢するのには慣れている。夏目は視線を持ち上げ、一段高くなった歩道を蹴って八百屋の軒先を覗き込んだ。
 肉は肉屋で、野菜は八百屋で。後は飲み物と、余裕があれば何かスナック菓子も買って行こう。それだけあればきっと誰からも文句を言われないに違いないと、夏目は百グラムの肉が入った袋に人参とキャベツ半分を入れてもらい、代金を支払って店を後にした。
 バーベキューなんて初めてだから、テレビで見た程度の知識しかないけれど、大きく間違ってはいないはずだ。乳白色の袋の口を左右に広げ、中を覗きこんだ彼は、いまいち自信がない自分を奮い立たせて深く頷いた。
 足元で欠伸を噛み殺していた斑が、行き交う人の多さに辟易した様子で寛いでいる。次は何処へ行くのかと夏目を急かし、物珍しげに低い位置から町の光景を見回す。
 やがて彼はその中に何かを見つけ、夏目のズボンの裾を引いた。
「なに」
 あまり足を向けない為、夏目はこの辺りの地理に疎い。大通り沿いに何があるのか、いつも通り過ぎるばかりで意識しながら歩いたことがないからだ。
 初めてこの町の駅に降り立ち、迎えに来てくれた塔子につれられて歩いた時も、彼女は何処に何があるのか簡単に説明してくれた気がするが、夏目は彼女の背中ばかり見ていたので全く覚えていない。
 斑に意識を引き戻され、夏目は袋を閉じて右手に吊るした。ずっしり来る重みを肩で受け止めて耐え、猫が指差す方角に目を向けて首を傾げる。
「あ、こら」
 人目があるので言葉は使わず、紅と灰の帯模様の猫は夏目を置いて走り出した。
 人間の寿命を軽く凌駕し、人の知りえぬ知識にも通じている妖たる彼が、迷子になるなんてことは間違っても無いと思う。だが置いていかれる恐怖に一瞬心が竦み、夏目は慌てて彼を追って走り出した。人ごみを抜け、ぶつかりそうになった人に大声で謝って、視線を巡らせる。
 白い大柄の、猫にしては丸すぎる奇怪な生き物は、一軒の店の前で立ち止まってその姿を大判の窓ガラスに映し出していた。
 まさか自分の姿に見惚れているわけではあるまい、と追いついた夏目が左手を腰に当てて急にどうしたのかと問えば、斑はわざとらしく「にゃん」と鳴いて、これを見ろといわんばかりに店先を指し示した。
 促され、顔を上げた夏目は、今になって初めて、そこが色とりどりの自転車を並べた店だと気がついた。
 大人用から子供用まで、多種多様。それ程大きな店ではないが、歩道にはみ出る形で商品を陳列しており、品揃えはまずまずといえた。
「ああ」
 そういえば少し前に、自転車について話した気がする。思い出し、あんな些細な会話を覚えていた斑に感心して、夏目は右手の袋を握り直した。
 自転車があれば、行動範囲が広がる。誰かに連れて行ってもらわなくても、自分の力で峠を越えることが出来る。重い荷物を抱え、長い距離を歩かずに済む。
 持っていなくても暮らしていけるが、あると何かと便利な乗り物であるのは確かだ。夏目は興味引かれるままに店内に視線を投じ、ガラス越しに展示されている商品に貼り付けられた値札の、ゼロの数を右から左へと数えた。
「う……」
 何度数えても、指を使ってみても、黒いマジックで書かれた数値は変わらない。歩道から見て一番目立つ場所に飾られているだけあって、この店の主力商品なのだろうその自転車は、とても夏目の小遣い程度で何とかできる代物ではなかった。
 仕方なく後ろに向き直り、ガードレールに向かって斜めに並べられている、ごくごく一般的な自転車をし始める。だがこの道に精通していない夏目には、提示されている金額が物に見合う値段なのかどうか、さっぱり見当がつかなかった。
「夏目、これがいい。これにしろ」
「にゃんこせ……」
 大通りから脇に一本入っているので、人通りは最初の比ではない。けれどまだ充分警戒して然るべきところでいきなり話しかけられ、眉間に皺寄せて真剣に考え込んでいた夏目は、邪魔された憤りも含めて顔を顰め、そして額に手を当てて天を仰いだ。
 彼は底の浅い四角形の前籠が付属する、青色の自転車のその前籠にちょこんと座り、期待の眼差しで夏目を見詰めていた。
「う、わあ。何やってんだよ、ニャンコ先生!」
「君の猫かい。なんなら、乗ってみる?」
 他の自転車はどれも籠が深い。自由に出入りするにはこの四角い籠が、彼には丁度良いのだろう。
 だが、それは売り物だ。まだ買うとも決めていないのに、こちらの趣向も一切無視して勝手に選ばないで欲しい。
 拳を作って怒鳴った夏目だったが、彼らのやり取りを(声は幸いにも聞こえなかったらしい)見ていた店主らしき男性が、戸の無い出入り口を抜けて話しかけて来た。
 傍目には、夏目は熱心に商品を眺めているように見えたのだろう。にこにこと屈託なく笑う、まだ若いのに顎にたっぷりと髭を蓄えた男性に言われ、夏目は自分に話しかけられたのだと理解するまでに三秒を要した。
「へ? え、あ、いや」
 だからまだ買うと決めたわけではない。突然斜め後ろから話しかけられたのにも驚いて、夏目は巧く立ち回れずに挙動不審に声を上擦らせた。
 路上に並んでいる自転車は、どれも最初に見たものよりは安価であるものの、藤原夫妻が出してくれる月の小遣いだけでは到底事足りなかった。三ヶ月、一銭も使わずにいれば購入圏内に入るが、今の状況がそれを許すとも思えない。友人づきあいひとつにしたって、金銭は切っても切れない関係だ。
 まさかこんなに高いものとは思わず、臆して夏目は答えに躊躇する。
「サドルの高さをあわせないとね。座ってごらん」
「いや、あの。だから俺は、……ニャンコ先生!」
 その間にもどんどん男性は自分のペースで進み、斑を籠に置いたまま青い自転車を列から引っ張りだした。人が来ないのを良いことに、歩道を占領して停車させ、しゃがみ込んでサドル部の下に手を伸ばす。
 このままでは流されてしまう。焦り、夏目は前籠の中で居心地よさげに寛いでいる招き猫に怒鳴りつけた。
 元凶はこの厄介な妖怪だ。自分は巻き込まれただけだと苛立ちを全部彼に向け、夏目は拳を震わせてスニーカーの裏で歩道の砂利を削った。
 しかし。
「あら、貴志君」
 背後から朗々と響いた、穏やかで柔らかい声にとめられ、握り締めた拳は空振るどころか、繰り出すことさえ出来なかった。
「と、塔子さ、ん……?」
「どうかしたの?」
 事の次第を知らぬ塔子の問いかけに、夏目は答えられずにがっくり項垂れ、籠の中の妖怪はしてやったりとにんまり笑った。

 バーベキュー翌日の朝食は、微妙に気まずかった。
 友人連中と遊び、そのついでに夕食も済ませるので自分の分は不要と報せるのが遅くなったというのもあるし、何より塔子に見付かった場所が、場所だった。
「ご、ご馳走様、です」
 しっかり三人分の夕食を拵えるつもりでいた塔子には、余分な食材を買わせてしまった。まだ調理を始める前だったのが幸いだったが、なんとも申し訳ない気分になってしまって、バーベキューもあまり楽しめなかった。
 学校での行事を除いて、生まれて初めての経験だったのに、存外にしょっぱいものになってしまった。しかも自分ひとり分だけの食糧を持ち込むのは微妙に認識が間違っているとも言われ、何故か怒られてしまった。
 頭の上にクエスチョンマークを色々と浮かべ、もやもやとした気持ちを残したまま夜は更けていった。まだ日が残る時間から開始し、八時半には撤収作業を終えて、誰かが持ち込んだ花火を思い思いに楽しみ、そして解散。慣れないことに首を突っ込んだ手前、疲れてしまった夏目はその日早々に寝床に入り、泥のように眠って塔子とはその夜ろくに話をしなかった。
 故に今朝、どうにも不機嫌な彼女に夏目はひたすら怯えている。
 テーブルの下では相変わらず丸々とした猫姿の斑が、白皿に盛られた山女を齧っている。それは昨日のバーベキューの際、その場で誰かが釣り上げた分の残りだ。
 しっかりと夏目にくっついてきた斑が、猫撫で声で強請るものだから、最初気味悪がっていた級友も次第に面白がって分け与えるようになっていた。最終的には夏目以上に食べていたのであろうか、妖怪の癖に大飯食らいで困る。いや、妖怪だからこそ大食漢なのかもしれないが。
 世話になっているというのに、ちっとも遠慮しない斑の頭を踵で叩き、夏目は綺麗に食べ終えて空になった食器を前に黙礼した。
 手を合わせ、こうして毎日胃袋を満たせる生活を送れる環境に感謝する。閉じた瞼をそっと開き、俯かせた顔を戻した夏目は、真向かいに座る塔子と、その左隣――夏目から見て右手に座っている滋のふたりの箸が、揃って止まっているのに心の中で首を傾げた。
 しかも彼らの視線は一様に夏目に向けられている。
「う……」
 何かふたりの気に障るような事をしたろうか。人から注目されるのに不得手の彼は臆し、きゅっと心臓を縮こませた。
 足元では食事を終えた斑がゲップをし、我関せずの構えを取ってそそくさと台所を出て行った。
 裏切り者と罵りたい気持ちを堪え、立ち上がろうとしていた夏目はテーブルに添えていた両手を膝に下ろした。去りづらい空気を肌に感じ取り、生唾を飲んで塔子たちの次の反応を窺う。
「あ、の」
「昨日は楽しかったか」
 食事中、とどのつまり口の中に食べ物が入っているうちは、基本的に会話はしない。行儀が悪いからだ。
 もとより口下手で語彙に乏しい夏目は無駄口を挟まず、黙々と箸を動かす癖がついている。そして食べ終えれば即座に席を離れ、ひとりになるのが今までの彼の生活だった。
 それが、藤原の家に来てからは少し変わった。滋の問いかけに夏目は一瞬きょとんとし、それから慌てて首を縦に振った。
 椅子の上で居住まいを正し、緊張気味に肩を強張らせる。膝に置いた両手は握られて力み、冷や汗が背中を伝った。
 ガチガチになっている夏目を前に、お茶を飲んで口を漱いでいた塔子が笑みを零した。凍り付いている彼をリラックスさせようと「良かったわね」と優しい声で言って、それから夫に目を向けて糸の如く細める。
「でもねー、先に言って欲しかったわ。教えてくれてたら、おにぎり作って持って行ったのに」
「いえ、でも。そんなことまで」
 毎日三食欠かさず食べさせてくれるだけでも充分なのに、そこまでしてもらっては申し訳なさ過ぎる。咄嗟に腰を浮かせて椅子をガタン、と鳴らした夏目に、しかし塔子は拗ねた顔で唇を尖らせた。
 ありありと分かる不満顔に、夏目は二の句が告げなくなる。
「あまり貴志を困らせるんじゃないよ」
 助け舟を出したのは、灰色の湯飲みに茶を注いでいた滋だ。穏やかで厚みのある低音を響かせ、妻を嗜めると同時に夏目にも着席するように促して頷く。眼鏡の奥に宿る小さな瞳に見詰められ、夏目は軽い会釈を返事に変えて、後ろにずれた椅子を戻して座り直した。
 ただ居心地の悪さは依然変わらず、テーブルに隠れた両足がもぞもぞと落ち着き無く動いて貧乏ゆすりをしてしまう。
 ひとくち茶を飲み、喉を流れた熱が納まるのを待った滋がほうっと息を吐き、まだ中身が残る椀を置いた。ご馳走様、と塔子に向かって短く告げ、少し遅れて両手を合わせて目を閉じる。そうして静かに立ち上がった彼は、俯き加減で上目遣いに様子を窺ってくる夏目の横を通り過ぎる際、広げた手でぽん、と夏目の頭をかき回すようにして撫でた。
 いきなり降ってきた大きな手に驚き、首を引っ込めた夏目は、加重が遠退くのにあわせて顔を上げた。
 天井の蛍光灯の明りを背負い、存外に近い位置にいた滋に何も言えずにいると、彼はまた、今度はわしゃわしゃと本格的に人の頭を掻き混ぜて肩を揺らした。
「自転車、欲しいのか」
「え」
 そして唐突に言われ、夏目は目を丸くしたまま逆立った自分の細い髪にやろうとしていた手を止めた。
 前屈みだった姿勢を真っ直ぐに戻し、滋を見上げてから塔子に顔を向ける。彼女も立ち上がって、テーブル上に残された使用済みの食器を集めて片付けに取り掛かっていた。
 割烹着がよく似合う彼女は、陶器の皿を丁寧に重ねて両手に持ち、視線を感じて夏目を見た。にこりと微笑まれ、気まずさにパッと顔ごと逸らしてしまったのは失敗だったろう。
「貴志君」
「いえ、その。欲しいって、別にそんなわけじゃ」
 昨日は夕食の席を一緒にしなかったので、この夫婦の間でどんな会話が成立していたのか、夏目は知る由もない。しかし話題のひとつに、町で見かけた夏目の様子も含まれるだろうことは、ちょっと考えれば直ぐに分かる事だった。
 自転車屋の前で塔子に遭遇した夏目は、挙動不審なまでに驚き、慄き、動かす準備をしていた店の主人に大声で謝罪して、籠の中にいた斑の首根っこを引っつかんで逃げるように走り去った。
 塔子が何をしているのか問う暇すら与えない早業で、自転車屋の男性も呆気に取られて支度中だった自転車を前に頻りに首を傾げていた。
 このふたりの間にも、短時間だったが会話が交わされていて、夏目が熱心に自転車を見ていたことは店の主人から塔子、塔子から滋へと伝言ゲームのように伝わっていった。
 滋の問いかけに夏目は視線を泳がせ、右手を頭上に残して左手は再び膝に置いた。
 ただでさえ色々と経済的に負担をかけているのに、これ以上欲しいものがあるだなんて、口が裂けても言えない。夏目は滋と視線を合わさぬまま首を横へ振り、手を動かしながらも聞き耳を立てている塔子にも背を向けた。
「今まで無くても困りませんでしたし、だから、そんな。どうしてもってわけじゃ」
 こういう時の、巧い断り方が解らない。相手の気分を損ねず、上手に自分を誤魔化す術があれば是非とも教えてもらいたい。遠慮しているのではないと滋に悟らせないように、塔子が気に病んでしまわぬように。
 作り笑いを浮かべ、話を一方的に切り上げて夏目は立ち上がった。斜めに引いた椅子を真っ直ぐにしてテーブルの下に押し込み、追求される前に逃げてしまおうと試みる。
 自転車一台と、数日分の食費は天秤にかけられない。夏目としては至極真っ当な判断だったのだが、曖昧に笑った彼を引きとめ、滋は髭の残る顎を撫でてそういえば、と塔子に呼びかけた。
「倉庫の奥に、古いが、自転車があったんじゃなかったかな」
「あら、そうでした?」
「もう何年も前にパンクして、修理しないでそのままにしてあったと思う。空気を入れて、油を差してやれば、まだ乗れるんじゃないかな」
 扉に手をかけ、横にスライドさせようとしていた夏目は後ろで展開されるふたりの会話にピクリと肩を震わせ、首から上だけを振り返らせた。
 滋の、ちょっと得意げになった顔が真っ先に目に入り、彼は返す言葉を持たぬまま驚きに顔色を染める。
「どうする?」
「え、いや、あの」
「午前中は調べ物があるが、午後なら空いているよ」
 問われ、夏目は即座に言葉を返せない。なにをどう、言って良いのかが解らないのだ。嬉しいのに、悪い気がして、けれど矢張り、堪え切れないほどに嬉しくて。
 胸元に手をあて、汚れても居ないのにパタパタとシャツの表面を叩いて皺を伸ばした彼は、最後に裾をぎゅっと握り締め、真下へ布を引き伸ばした。
 繊維が長く伸びる中に視線を落とし、正面からふたりを見返せぬまま、赤くなった顔を隠す。無論今の夏目がどんな表情をしているのか、藤原夫婦には丸分かりなのだけれど、茶化すような真似はせず、ふたりは向き合ってにこやかに微笑みあった。
「あ、ありが、とう、ございま、す」
 ありったけの感謝の気持ちを込めた言葉を告げるが、思いを詰め込みすぎた所為か、夏目は巧く発音できなかった。

 

 倉庫の奥で眠っていた自転車は、長期間放棄されていた為かあちこち錆び付き、蜘蛛の巣が蔓延っていた。
 タイヤの空気は前後輪ともに全部抜けてぺしゃんこで、チェーンも赤茶けた色に染まっていた。が、丁寧に磨き、穴を塞いで空気を入れなおせば、一応乗れる程度には状況は回復した。斑が楽しみにしていた前籠は装着されておらず、後輪上部に荷物を置く台もない。
 もっとも、そういったものは後から幾らでも買い足せば済む。新品を一台丸ごと買うのと、不足するパーツだけを補うのとでは、財布の中身の減り具合も随分と違っていた。
 空気いれも長年使っていなかった所為で錆びて動かなかったが、これはご近所に頼んで貸してもらえたので事なきを得た。
「よし。これで、良いだろう」
 鉢巻などして張り切っていた滋が、捲くった袖で汗を拭って立ち上がる。パンクしている箇所を調べるのに使ったバケツの水を捨てて戻って来た夏目は、玄関先で堂々と鎮座する細身の自転車に、思わず目を輝かせた。
 最初は貧相で、本当に動くのかと心配が先につく外見だったものが、一応それなりの見た目を取り戻していた。
 部分的に塗装が剥げて格好が悪いが、ペンキで塗り重ねればどうにかなる範囲だ。いっそ自分の好きな色にすればいいといわれ、夏目は照れ臭そうにしてからにやにやしている斑を思い切り蹴り飛ばした。
「なにをするか!」
 珍しく運動をしたと、滋は家の中に姿を消す。人の気配が遠くなったのを待ってから非難の声を上げた斑を足で追い払い、夏目は濡れている手をズボンで拭って、いそいそと藤原夫婦が用意してくれた自転車の前に移動した。
 しゃがみ込み、古めかしいものの作りはしっかりとしている全体を眺め、ハンドルを握り締める。
 厚みのあるゴムの感触が掌にずっしりと来て、ブレーキを握ると錆が邪魔をしているのか反応はかなり硬かった。
 けれど、嬉しい。純粋に。
「色はどうしようかな。先生は前と後ろ、どっちに乗りたい? やっぱり前かな、昨日のあの底が浅い奴、ああいうの」
 最初はあまり実感が沸かなかったが、次第に興奮して夏目の声が徐々に上擦っていく。胸が高鳴り、高揚感に煽られてじっとしていられない。
 軽く握った拳を上下に動かし、夏目はひっくり返ったままじたばたしている斑を振り返って珍しく明るい声を出した。
 親戚中をたらい回しにされて、自分だけの所有物など殆どこの手に掴んでこなかった。自転車で遊びに行く同級生の背中を何度も見送ってきたが、これで少しは自分も、出来る事が増えるだろうか。
 いとおしげにサドルを撫で、ベルとライトも必要だと、頭の中で次々にパーツを組み込んだ自分だけの自転車を思い浮かべる。漸く天地逆だったのを修正し、短い四本の足を操って地面を蹴った斑が背中から飛び掛ってきて、夢見がちに自転車を見下ろしている夏目の思考を邪魔した。
 どすん、と一気に重みが圧し掛かり、潰されそうになった彼が腹立たしげに犯人を睨みつける。
「なにするんだ、先生。乗せてやらないぞ」
「夏目、お前、肝心な事を忘れていないか」
「なに?」
 たぷたぷした肉を抓み、顔の前にぶら下げた夏目の鼻を叩いて斑は人を馬鹿にしたような描かれた顔を僅かに歪めた。
 いったい何を忘れているというのだろう。思い当たる節に行き当たらず首を傾げた彼に呆れた表情を向け、夏目の手から逃れた斑は空中でくるり、と一回転して狭いサドルの上に見事着地を果たした。
 バランスが崩れ、倒れそうになった自転車のハンドルを掴んで支えた夏目が怪訝な視線を彼に流す。いったい何を、と答を待ち構える彼の瞳に向かい、斑は意地悪くにやりと笑って言った。
「お前、自転車に乗れるのか?」
 ぺし、と左前脚でサドルの側面を叩かれる。
「あ……」
 言われてみれば、確かにそう。自転車を所有した過去の無い夏目は、この二輪車に一度も乗ったことが無い。
 指摘されて絶句し、思わずハンドルから手を離してしまう。呆然と立ち尽くす夏目の目の前で、斑を巻き込んだ自転車は音を立てて地面に落ちた。

2008/09/10 脱稿