slowly glowing

 日差しがゆるいと思った。
 気だるさを覚える空気が肌に張り付いて離れない。まとわりつく不快感に舌打ちし、金臭いドアノブを引いて少しばかり湿気が薄い屋内へ足を踏み込んだ。玄関で靴を脱ぎ、一段高い板敷きの床につま先を落とす。そのしぐさを視線で追った後、顔を上げて奥を伺う。
「ただいま」
 短い言葉を口に出して告げれば、台所から顔を見せることなく末の妹の「おかえり」という声だけが返ってくる。診療所になっている方向にも視線を向けるが、あそこは他よりも防音が出来ているのか、こちらの声が届いていないらしく無反応だ。
 上の妹はどこかにでも遊びに出ているのだろう。玄関を振り返ると彼女が愛用しているスニーカーが見当たらない。だがもうじき日も暮れるから、近いうちに帰ってくるだろう。
 右肩にだけ担いでいた重たいリュックを抱えなおし、短い廊下を抜けて自室のある二階へ続く階段へ向かう。道中、台所からお玉を持った下の妹が廊下と台所をさえぎっている暖簾から顔を覗かせた。
「あ、お兄ちゃん」
 年相応のトーンの高いかわいらしい声。一段目に足を運ぼうとした動きを止め、視線を流す。お玉を口にくわえそうな距離に持った彼女は、背の高い兄を上目遣いに見上げていた。
 もじもじした態度に、なにやら不穏な気配を感じた一護はまさか、と冷や汗を背中に垂らす。
 だが予想に反し、彼女は今日のおかずがあまり凝ったものに出来そうにないという侘びの言葉を告げただけだった。今日は帰ってきてから家の用事が忙しく、買い物に行けなかったのだとの言い訳に、別に構わないと返してやると、彼女は安堵を浮かべて奥に引っ込んだ。
 気を取り直し、一護は階段を上っていく。狭い廊下を少しだけ進んで、しっかりと閉められた見慣れた自室の扉を開けると、中から生ぬるい風が流れ出てきた。他の人とは文字通り毛色の違う前髪が数本揺れ動き、視界を邪魔する。
 扉を入って直ぐの位置からはちょうど死角になっている区画、机の横にある窓が開け放たれ、薄色のカーテンがゆらゆらと裾を揺らしている。夕方自分が帰ってくる前に、小学生の妹に頼んで換気目的という理由で毎日あけてもらっている窓は、本来の目的と異なる役目が今現在もうひとつ加わっていた。
 一護より少し先に女子生徒数人と連れ立って帰っていった筈の女性が、窓に寄りかかるような格好で佇んでいる。腰をわずかに机に載せるようにして凭れ掛かり、物思いにふけって外を眺める横顔は、室内への侵入者に気づく素振りすらない。
 一護はひっそりと息を吐いた。自分の部屋のはずなのに他人の部屋に間違って入ってしまったような錯覚に陥りそうになる気持ちを抑え、後ろ手に扉を閉めて空間を遮断させる。
 戸が閉まる音で、窓辺の彼女――ルキアも一護の存在に気づいた。
「おかえり」
 首から上だけを振り返らせ、ルキアが言った。背中に担いでいたカバンを先ず下ろした一護がああ、という相槌を返す。
 会話はそこで終了し、お互い制服のまま気だるい夕暮れの時間を何をするともなしに過ごさねばならなくなった。カバンの中から借りてきた雑誌や、教科書の一部を抜き出して端を意味もなくそろえたりという作業をしてみたが、最終的に行くべき場所である机はルキアが占領していまっているようなもので、行き先に困って結局床に直接無造作に積み上げて放置された。退いてくれと言えば良いだけの話ではあるのだが、何故かそう言い出すのも憚られる空気が彼女の周りには張り詰めていて、見惚れるわけではないが、ひとたび見つめてしまうとなかなか目がそらせなくなる。
 ルキアはそんな一護に全く気づきもせず、彼が部屋から入ってきたとき同様、ぼんやりと窓から外の夕暮れを眺めていた。
 もう十何年と過ごしている自分の部屋だから、窓からどんな景色が広がっているのかなんて分かりきって見飽きている一護にとっては、何をそんなに見つめるものがあるのだろうかと不思議でならない。けれど彼女は外の、何の変哲もない光景に目を向けたまま、生きて動いている一護になんの興味も示そうとしない。それはある種の屈辱にも近くて、開け放たれたままの窓から時折忘れた頃に流れてくる風を鬱陶しそうにかき乱した。
 机の後ろ側、窓とは反対側の壁に置かれているベッドに居心地悪く腰を落とした彼は、右ひざに肘を立ててルキアごと外へと視線をやる。別にカラスがカーカー鳴いているわけではないが、少しずつ暮れ行く西の空は朱色に染まり、それはそれで、それなりに美しくある。
 ああ、そういえば彼女の故郷の話はほとんど聞いた覚えがないが、やはり日暮れ時はこんな風に空が夕焼けに染まるのだろうか。ふとそんな事を思う。
 しかし物思いは一瞬で、死神の世界に日々の通念などあるものかどうかも疑問に感じられ、ましてや死後の世界で朝に日が昇り夕方に暮れていくという光景が繰り広げられている様は、どうにも不可思議だ。だから一護はこの時、彼女はあまりこういった夕暮れ時に縁がなかったのだろうと考えた。
 それにしても夕暮れという時間帯は微妙なもので、その輪郭が曖昧になる光加減具合から逢魔が時とまで言われているだけに、この世とあの世の境界線が薄まった錯覚さえも起こりそうになる。ルキアがそんな事を知っているとは思えないが、夕暮れに郷愁の念が重なっているのかもしれぬと、どこを見ているのかも分からない瞳の色に、感じさせられた。
 彼女にも親しい間柄の存在はあったろう。今も会いたいと、戻りたいと思っているのだろうか?
「窓」
 不意に口を突いて出た言葉は、けれど考えていたのとは全く無関係に感じられる単語だった。
 自分でも何故そんな単語を口にしたのかが分からない。だが、言葉の意味を理解しきれなかったものの音が発せられたことだけは分かったらしいルキアが、わずかに首を傾がせて一護の方を見た。
 様子を伺い、一護が次の句を継がないので自分に向けて発せられたものではないと自分で判断した彼女が再び窓を向き直った後姿に、一護ははっとなって、先程の自分が呟いたことばの意味をようやく理解する。
「閉めろよ、窓」
 自分が外から帰ってきているというのに、まるで自分が居ない時のままのごとく振舞う彼女が許せなくて、そして彼女の気持ちを一心に集めている、自室の窓に少なからず嫉妬したのだ。
 はっきりと音を成して発せられた一護のことばに、今度こそしっかり振り返ったルキアがやや右側に首を傾けて、その意味を咀嚼する。数秒後浅くうなずいた彼女は、
「ああ、そうだな。すまない、日も暮れて風も冷たくなっている。寒かったか」
 さっきからずっと、どこか不機嫌そうな顔をしている一護に向かって、彼の思いには全く気づかず自分の解釈を口にして、それから細い白い腕を伸ばし、窓を閉めた。
 ふたりの頬を撫でていた生ぬるく、けれど冷たさを感じさせる風は止んだ。それでもどこか名残惜しそうに彼女は窓を見据えて、夕日に照らされたルキアの横顔をもう暫くの間だけ、一護は眺め続ける。沈黙はやがて闇に溶け、遠くから上の妹の帰宅を告げる声が響くまで穏やかで、けれどどこか物悲しい空気は続いた。
 程なくして、夕食の準備が整ったと一護を呼ぶ声が。夕暮れはもう既に遠く、名残惜しそうに地平線の雲が薄紅色を濁らせている。膝の上にひじを立て、頬杖をついていた一護は、先程までのルキアのようにどこか遠い場所を眺めていた事に気づく。思わぬ近くから、彼女の声がしたからだ。
「良いのか? 行かなくて」
 我に返り顔を上向かせれば、手を伸ばせば直ぐに届きそうな位置に彼女の姿。あまりに無防備に彼女の接近を許してしまっていた自分に慌て、一護は思わずベッドの上で後ずさりしてしまった。その態度に、ルキアは失敬な、とでも言いたげな目を彼に向ける。
 耳を澄ませば、階段下からの呼び声は繰り返し何度も行われていたようで、もうあと数回待てば部屋まで呼びに来てもおかしくない雰囲気になりつつあった。一護は急ぎ立ち上がり、入れ替わるようにしてベッドの端に腰を下ろした彼女の小さな身体を見下ろす。
 彼女は一護が階下で家族との団欒を過ごす間、ひとり此処で待たねば成らない。彼女は本来、この家にあるべき存在ではなく、居ない筈の存在でもあるから。
 広くもないが決して狭くないこの家で、彼女が自由に動き回れるのはこの部屋だけなのだ。
「すぐ戻る」
 ベッドのやわらかさに身を預け、僅かに身体を上下させている彼女に告げると、自分は気にせずに家族でゆっくり過ごして来いと言う。事も無げに、表情を変えもせず。
「いや。直ぐ戻る」
 けれど同じ言葉を再度繰り返し言えば、彼女は少しだけ寂しそうな、それだけどどことなくうれしそうな微妙な表情を一護に見せる。薄く微笑んで、仕方ないやつだと首を振る。
 いつも、そうやって、彼女は部屋を出て行く一護の背中を見送るのだ。
 やがて軽い音を短く立てて扉は閉められ、部屋は沈黙に落ちる。誰も居ないという風に表向きは設定されている一護の部屋では、不用意に明かりをつけて怪しまれたりしないようにルキアはずっと、暗くなりつつある部屋の中で身動きもせずに待ち続ける。
 視線は、再び窓の向こう側へ。
 けれどさっきまで明るかったはずの空はとうに夕焼けも薄まり、天頂から侵食を開始した闇に飲み込まれ思うほど遠くまでの景色は見渡せなくなっていた。ガラス窓に写る小さな自分の姿を皮肉そうに微笑んでみて、ふっと息を吐く。まつげを伏せて僅かに瞼を閉ざした。
 半眼のまま、己の膝元だけを見下ろし続ける。制服のスカートの皺を右から順番に数えて左端に届きそうな頃になってから顔を上げ、何かを思ったわけでも無し、開かない扉に目を向ける。
 一護が出て行ってからどれくらいの時間が経過したのか、彼女には分からなかった。短いようで長いようで、やはりまだ幾ばくも経っていないのだろうと思い直して、首を振る。以前ならば多少の時間を一人で過ごす事など造作なく、当たり前の日々だったはずなのに。
 今は心のどこかで、今すぐにでもあの扉が外側から開かれることを願っている。
「一護……」
 呟きは夕闇に溶け、かなたへと消えていく。
 もう窓の外に、太陽は見えなかった。