嚆矢

「うあー、もう。さいってい!」
 息せき切らして校門を駆け抜けて、綱吉は暮れなずむ西の空に向かって吐き捨てた。
 ぜいぜいと乱れた呼吸を胸撫でて整えて、額に浮いた汗を袖で拭う。日増しに寒さが険しくなってきているというのに、全力疾走した所為で身体はかっかと火照り、暑くてならなかった。
 着込んだベストの襟を引っ張って首元から風を入れて、犬を真似て舌を伸ばす。長くなった校舎の影が足元を黒に染めて、赤く色付いた雲が不可思議なコントラストを描き出していた。
 あと三十分もすれば日も沈み、暗くなる。こんな時間に何故学校に来なければならないのかと、理由を思い出して彼は小さく舌打ちした。
 グラウンドからは威勢の良い声が響き、野球部が時間いっぱいまで精を出している様子が窺えた。
 下校時刻まであと十分を切っている。ぎりぎり間に合ったと安堵して、気持ちを切り替えるべく彼は首を振った。
「急がなきゃ」
 授業を終えて一旦は帰宅したものの、大事な忘れ物を思い出して慌てて取りに来たのがことの顛末だ。折角脱いだ制服にまた袖を通すのは正直嫌だったが、あの辞書がないと家で宿題も出来ない。
 どうして英和辞典などという、重要なアイテムを学校の引き出しに忘れてきてしまったのか。
 痛む頭を抱えつつ、綱吉は咽び泣きながら校舎に入った。
 照明は灯っていたが、人気は見事に皆無だった。空気はざわざわしているのにひっそりと静まり返っていて、違和感が凄まじい。どうにも落ち着かなくて、綱吉は急ぎ下駄箱を開けて上履きを取り出した。
 靴を履き替えて、扉を閉める。パタンという、日頃何気なく耳にしている音が、今日ばかりは異様に大きく聞こえた。
「うぅぅ、いっそげー」
 まだ外は明るいというのに寒気を覚えて、急ぎ足で階段に向かう。
 通い慣れた教室までは、迷いようがない。それでも不思議と、知らない学校に潜り込んだ気分になった。
 窓からグラウンドを見れば野球部が守備練習でノックを受けていた。山本の姿も見える。だのに綱吉ひとりが別の空間に閉じ込められて、さながら鏡の中から外の世界を眺めている感覚に陥った。
 そんな筈が無いと頬を抓れば、ちゃんと痛い。
「だよなあ」
 考えすぎだと自分に言い聞かせて、彼は爪の跡を残す赤い頬を撫で、明かりが消された廊下を進んだ。
 走ると危険なのは、日中となにも変わらない。どこに風紀委員が隠れているか、分かったものではないからだ。
 慎重に足を前に運んで、A組の教室に無事辿り着いた綱吉はそこで露骨にホッとした顔をして、閉まっていた扉を横にスライドさせた。引き戸を抜けて、廊下に比べるとまだほんのり空気が暖かい空間に身を滑り込ませる。
 誰も居ない。だが目を閉じれば昼間の、喧しいけれど程よく居心地良い景色が鮮やかに蘇った。
 いつも笑顔の京子、皮肉屋の黒川に、居眠りばかりの獄寺と、賑やかな山本。
「よし、あった」
 その真ん中にいる自分を思い浮かべながら、綱吉は自分の席について椅子を引いた。屈んで中を覗きこみ、厚さ五センチ以上ある辞書が無事なのを発見して胸を撫で下ろす。
 外箱は既になく、表面は手垢がついてかなり汚れている。まだ使い始めて一年半程度しか経っていないのに関わらず、だ。
 それだけ捲った回数が多いということなのだが、それはなにも熱心に勉強しているからではなく、いつまで経っても英単語のひとつも覚えられない所為だというのが情けない話だ。
 家庭教師を自認しているリボーンに、何度銃口を向けられたかも分からない。兎に角これで、今日の自分の身は安泰だとひとり喜びに浸って、彼は大事に英和辞書を抱き締めた。
 教室前方に設置された時計は、間もなく午後五時半を示そうとしていた。もう少ししたら校内放送で、下校を促すアナウンスが流れるに違いない。
 野球部の掛け声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。風紀委員に追い出される前にと、片付けに入ったらしい。
 本当にこの学校は、なにかにつけて風紀、風紀と五月蝿くてならない。
「よし、帰ろう」
 目的は達した。後は家に帰るだけだ。
 山のような宿題が手薬煉引いて待っているのだが、その部分については考えない。一刻も早く不安を煽るだけの夕方の学校から立ち去ろうと、綱吉は開けっ放しにしておいた扉を潜った。
 再び少し埃っぽい、冷えた空気が占める空間に身を置く。裸の辞書を宝物のように胸に抱えた少年に、首を傾げる存在はない筈だった。
「……ん?」
 正面玄関に戻るべく階段を先ず目指した綱吉の耳に、カタン、と何かがぶつかり合うような小さな音が響いた。
 人が多くて賑やかだったなら、全く気にも留めない音量だった。しかし帰宅部は皆下校して、部活動に専念している生徒もぱらぱらと帰路に着き始めたこの時間帯、一般教室棟に居残る物好きな生徒はゼロに等しい。
 偶々綱吉がイレギュラーを起こしただけで、ほかに人がいるとしたらそれは見回り中の風紀委員くらい。
 他の生徒とは異なる制服を身にまとう集団を思い浮かべて、綱吉はぶるりと来た悪寒に背筋を震わせた。
「あー、やだやだ」
 特にその頂点に君臨する男とは、出来るだけ接触を避けたかった。
 何故かリボーンが気に入っており、ことあるごとに綱吉にファミリーへ誘えと発破をかけてくるのだが、綱吉は頑として首を縦に振らずにいた。
 確かに彼の強さは折り紙つきで、味方になってくれればこれ程頼りがいのある相手はいない。けれども、だ。そもそも彼は誰かと馴れ合うのを嫌い、群れを見れば逆に噛み付いてくるくらいだ。
 綱吉が泣いて頼んだところで、絶対に仲間になどなってはくれない。
「ほんと、何考えてんだか」
 それなのに一向に主張を曲げないリボーンには、ほとほと呆れるばかりだ。
 肩を竦めて嘆息し、何気なく居並ぶ教室の方に顔を向ける。隣のクラスの扉は、最後に教室を出た生徒がサボったのだろう、開かれたままだった。
 友人もいないので訪ねる機会も無い室内に、ちょっとした興味を抱く。作りは同じで、備品もほぼ同じはずなのに、使っている生徒が違うからか、全く別の風景に感じられた。
「あれ?」
 その中に、異物があった。
 いや、違う。人だ。
 人がいる。綱吉と同じ制服を着た男子と、京子たちが袖を通しているのと同じスカート姿の女子の、ふたりが。 
「……っ」
 彼らはまるでオブジェかなにかのように向かい合い、影をひとつにして抱き合っていた。
 窓辺の席の前で、暮れ行く西日を浴びながらなので姿ははっきりと見えない。顔の区別もつかないが、ついたところでどうせ名前も知らない生徒だ。
 思いも寄らぬ光景にたじろいで、綱吉は胸の前で交差させていた手を解いた。辞書の重みで先に右手が落ちて、振り子と化して大きく揺れた。息を飲んで後退しようとしたら、傍観者の存在など露知らず、向かい合う男女が静かに離れた。
 見詰めあい、そしてゆっくり。
「~~~~~~!」
 声にならない悲鳴をあげて、綱吉は左手で口を塞いだ。息を止め、右往左往するが足は凍り付いて動かない。
 誰もいないと思い込んでくちづけを交わした男女に目は釘付けで、瞬きさえ出来なかった。
 流石に苦しくなって鼻で息をしようとして、失敗して咳が出た。
「ぐぇっふ」
 潰されたカエルのような変な声に、発した本人がなにより驚いた。しまった、と焦るがもう遅い。教室にいたふたり組みが揃ってハッと息を飲んで、緊張に身を強張らせたのが分かった。
 いやな汗が全身から噴出す。顔を伏した女子に代わって、背の高い男子が戸口を振り返った。
「!」
 直前、綱吉は駆け出した。
 好きあっている男女が夕暮れの教室で、ちょっとロマンティックな雰囲気を楽しみながらキスをしていただけだ。誰かに迷惑を掛けてもいなければ、悪いことをしているわけでもない。
 偶々あの場に居合わせただけで覗くつもりなど皆無だったのだから、逃げる必要などないはずだ。だのに綱吉は、一目散に廊下を突き抜けて走った。
 今日二度目の全力疾走に、下校を促すアナウンスが重なった。
 淡々とした台詞に、やる気は感じられない。気がつけば一般教室棟を抜けて特別教室棟に来ていた綱吉は、そこで力尽きて足を止め、階段の手摺りに寄りかかってがっくり膝を折った。
 心臓が爆発しそうだ。胸が苦しくて、まともに呼吸も出来ない。
 ぜいぜいと喘いで肩を揺らし、浮いた汗も流れるに任せる。今日最後の陽光が西の空から降り注いで、廊下に長い影が落ちた。
 暗いのに、明るい。光と闇が混ざり合った不可思議な空間に気を向ける余裕もなく、綱吉は飛び出そうになった唾を飲みこみ、長い息を吐いて背を仰け反らせた。
 見上げた天井は灰色に濁り、誰かが投げた上履きの靴跡がくっきり残されて滑稽だった。
「びっ……、した」
 独り言を呟くが、ろくに声にもならなかった。喉に息が詰まって、噎せて咳き込む。両手で口元を覆い隠した彼は、そこで初めて両手が空っぽなのに気がついた。
 きょとんとして目をぱちくりさせて、挙動不審に首を振る。
「あれ。あれ、あれれ?」
 確かに少し前まで持っていたのに、いったいどこかに落としたのか。まるで心当たりがなくて、綱吉は中腰で唸った。
 もしや隣のクラスの教室の前に、と想像した途端に血の気がサーっと引いていった。
 青白い顔をして、紫色の唇を開閉させる。冷や汗をだらだら流して顔を引っ掻くが、そんな事をやったところで落とした英語の辞書が戻って来るわけがなかった。
 あれがなければ、今後の生活に関わる。そうでなくとも辞書は高い。紛失したとなれば、自腹を切らされるのは明白だ。
 ただでさえ少ない小遣いから辞書を買おうものなら、後には何も残らない。真っ暗闇の未来を想像して項垂れて、綱吉は止むに止まれず立ち上がった。
 下校時間到来のチャイムも鳴った。もし風紀委員に見付かろうものなら、そこでゲームオーバー。
 それに先ほどのカップルに遭遇でもしたら、気まずいことこの上ない。お幸せに、とでも言えばいいのか。彼らに辞書を拾われている可能性を考えて、頭が痛くなった。
「俺はなにも見てない、見てないぞ」
 どうにか上手にやり過ごす方法を思案して、妥協案として忘れることにした。自分に繰り返し言い聞かせて呪文をかけて、覚悟を決めてきた道を戻り始める。
 後は沈むばかりの太陽が、グラウンドを赤く染めていた。
 瞬きをしている間に地平線に吸い込まれて消えてしまいそうだ。朱色の雲もついでに眺めて、綱吉は渡り廊下の先を扉の影から恐々覗き込んだ。
 動き回る人の姿はない。第一関門はクリアしたかと、ホッと安堵の息を吐く。
 その背中を。
「ひぃぃぃぃ!」
 ぽんと叩かれ、彼は竦みあがって悲鳴を上げた。
 頭の天辺から響く甲高い雄叫びに、叩いた方も吃驚して目を丸くする。逆光に佇む影は背が高くて、体格も教室で見たあの男子に似ていた。
「ごごごご、ごめんなさい。俺は何も見てないですから! 俺は、ほんっとに何も見てませんから!」
 細身のシルエットに震え上がり、怒られると思い込んで咄嗟に捲くし立てる。半泣きでずるずるしゃがみ込んで小さくなった彼に、規定外の制服を羽織った青年が怪訝に眉を顰めた。
 いったい何を言っているのか、さっぱり分からない。首を傾げて両手を腰に当てて、並盛中学校風紀委員長こと雲雀恭弥は口を尖らせた。
「沢田綱吉?」
「ひぃぃ!」
 名前を呼べば、また過剰に反応された。
 両手で頭を抱え込み、小刻みに震えている姿はまるで小動物か何かだ。一瞬哀れとも思える姿は愛らしい限りだが、このままでは話もろくに出来ない。
 不満を隠さず顔に出し、雲雀は右足を前に滑らせた。爪先を蹴られて、少年は琥珀色の瞳にほんのり涙を浮かべて顔を上げた。
 そこに立つ人物が誰なのかをようやく悟って目をぱちぱちさせて、不思議そうに小首を傾げる。
「あれ、ちがう……?」
「なにが」
「よかったぁ~~――……って、良くない!」
 誰に向かってか呟いて、ぺたんとコンクリート製の床に腰を落とした後に自分に対して突っ込みを入れる。なんとも忙しい彼に嘆息し、雲雀はいい加減起き上がるよう顎をしゃくった。
 吹き抜ける風が冷たい。ブレザーの下にベストを着込んでいても突き刺さる冷気に震え、綱吉は渋々身を起こした。
 当然、雲雀は手を貸してくれない。肩に羽織った黒い学生服をはためかせて、眉目を顰めて綱吉を見下ろすばかりだ。
「下校時間はとっくに過ぎたよ」
「いや、あの。知ってます、けど」
 教室で見た男子生徒は、綱吉と同じブレザー姿だった。だからあれは、雲雀ではない。
 ただ一番悪い相手に捕まってしまった。なんとか無事に逃げ遂せる道を探して、彼は首を振ってから背後の校舎を窺い見た。
 大粒の瞳を歪めた少年に、雲雀はピンと来るものがあって目を瞬かせた。
「忘れ物?」
「はい。あの、辞書を。落としちゃって」
 聞けば、助け舟を得た綱吉が勢い良く頷いた。真っ直ぐに廊下を指差して言って、猶予が欲しいと訴えて握り拳を作る。
 妙に気色ばんでいる彼に胡乱げにしながらも、雲雀はひとまず許可を与えて首肯した。早く行くよう手を振って合図を送って、動き出した背中を追いかけて自分も校舎内に入る。
 綱吉は雲雀を気にしつつも足元に注意を向けて、右に左に、忙しく視線を走らせた。
 人が見れば不審極まりないが、本人はいたって真剣な様子だ。茶々を入れて邪魔をしてやりたいのをぐっと堪えて、雲雀は先ほど綱吉が口にした台詞をざっと頭の中に並べ立てた。
 そもそも辞書を落とすこと自体がおかしいのだ。
 掌サイズの電子辞書ならばありえる話だが、並盛中学校では使用、持ち込みを禁止している。ならば分厚く重い紙の辞書を落とした事になるのだが、そもそもあんなものを落として、どうしてその時に気付けないのか。
 そこで鍵になるのが、「違う」と、「何も見ていない」という台詞だ。
 雲雀に対して過剰に反応していたことといい、直前の彼になにかが起きたのは明らかだ。それで動揺して、辞書を落としたのにも気がつかなかった。ではなにがあったのかと考えると、そこで答えに行き詰る。
 なにかとても不味い現場に遭遇して、逃げ回っている最中だったのか。
 風紀委員の与り知らないところでそういう事態が発生していたとすれば、由々しき問題だ。ムッとしていたら、目の前を行く綱吉が不意に駆け出した。
「あった!」
 喜び勇んで彼が拾い上げたものは、使い古されてボロボロの辞書だった。手垢が付いて、白かった紙の表面はすっかり黒ずんでいた。
 背の厚みに比べ、捲る側の厚みが倍近くに膨れ上がっている。使い込まれているのが一目瞭然の辞書を大事に抱えて、彼は余程嬉しいのか表紙に頬擦りした。
 場所は二年B組の教室のすぐ手前。彼は一頻り喜びに浸ったあと、ふと何かを思い出した様子でびくりと肩を強張らせた。
 琥珀色の瞳が向いた先に目をやって、雲雀は右の眉を持ち上げた。
 怯えた顔をして教室内部を窺った後、露骨にホッとして息を吐く。その態度からひとつの答えが導き出されて、雲雀はツカツカと彼の元へ歩み寄った。
 背後から響いた足音にびくりとした少年が、恐る恐る振り返った。
「ヒバリさん?」
「ここで何を見たの?」
「ひえ!」
 言うが早いか、雲雀は半端に閉まっていたドアを全開にした。
 がらりとレールの上を滑った戸が、反対側の壁にぶつかって停止した。教室内部は薄暗く、動くものは何もなかった。
 綱吉が見たふたりは、とっくに下校したのだろう。出て来る人がないのに胸を撫で下ろしていたら、内部を覗いていた雲雀が勢い良く振り向いた。
「で?」
「え、ええ?」
 続きを促して顎をしゃくられて、綱吉は素っ頓狂な声を上げた。
 彼が何を聞きたがっているのか、一秒後に理解して目を瞬く。思い出すだけで顔は勝手に赤くなって、自分が体験したわけでもないのに恥ずかしさに膝が震えた。
 きゅっと小さくなった彼に怪訝な目を向けて、雲雀は右手を腰に当てた。
「なにを見たの、ここで」
「え、あの。いや、別になにも」
「僕に嘘をつこうだなんて、考えないほうがいいよ」
 慌てて誤魔化そうとするが、どこから取り出したのかトンファーをチラつかされて、恐怖に負けてすくみ上がる。やり過ごすのは難しいと判断して、綱吉は弱りきった表情で唇を噛んだ。
 幽霊を見たとでも言えたらよかったのだが、生憎とそこまで頭が働かない。早々に諦めて、彼は深い溜息をついた。
 前髪をクシャリと掻き回して言葉を探し、戸口で待っている雲雀越しに教室内に目を向ける。
「別にそんな、たいしたことじゃ」
「じゃあなんで、走って逃げたの?」
「なっ。見てたんですか?」
 数分前、綱吉がここでどんな行動をとったか。まるで見ていたかのように訊ねられて、綱吉は声を上擦らせた。
 なにか勘違いしている少年に、雲雀は大仰に肩を竦めてみせた。呆れ顔で使い込まれた辞書を指し示し、つられて俯いた彼の無防備な額を返す手で弾く。
「あでっ」
 見事罠に引っかかった綱吉に口角歪めて笑って、今一度無人の空間に指先を向ける。
 涙目の綱吉に睨まれても、少しも怖くない。琥珀色の瞳に艶を持たせた少年に苦笑して、雲雀は腕を伸ばした。
 また叩かれるのかと警戒して目を瞑った彼に一寸だけ気を悪くした顔をして、広げた掌でぽすん、と頭を包み込む。跳ね放題の髪の毛を押し潰すのに、さほど力は必要なかった。
 あんなにも豪快に、重力を無視してそそり立っていたくせに、だ。
 意外な柔らかさに驚きつつくしゃくしゃに掻き回して、口を尖らせた綱吉が反撃に転じる前にサッと逃げる。捕まえ損ねた手を引っ込めて、綱吉は辞書の角を叩いた。
「べ、別に。ほんとに、そんな大袈裟な話じゃなくて」
「だったら、言えるでしょ」
「ぐ」
 なんとか逃げ道を探すが、揚げ足を取られて呆気なく封じられてしまった。息を詰まらせ、綱吉は雲雀に乱されたばかりの髪を撫でて指に絡めた。
 軽く引っ張って一本千切り、床に落とす。太陽はいっそう地平線に近付き、あと少しで完全に没してしまうところまできていた。
 陽射しが遠退いた所為もあるのだろう、肌寒い。上着の上から腕を撫でて、彼は爪先で床を蹴った。
「隣のクラスの、多分、ですけど。男子と、女子が、その」
 抱き合っていた、キスをしていた。たったそれだけのことなのに、声に出すのが異様なくらいに気恥ずかしかった。
 そんなこと、自分は一度だってしたことがない。女子と面と向かって会話出来るようになったのだってつい最近のことだし、ましてや思いを告げるなどもってのほかだ。
 第一、自分がどれだけ好いたところで、相手からも同じく好意を寄せてもらわなければ恋愛は成立しない。
 京子が果たして自分をどう思っているのか、考えるだけで憂鬱になった。
 嫌われてはいないだろう。だが異性として、特別な存在として見てもらえているかどうか。
 考えているうちに哀しくなって、綱吉は中途半端なところで言葉を切って俯いた。
 目に見えて落ち込んでいる彼に、雲雀が怪訝に眉を顰める。しかしヒントは充分得られたと、彼は暗い教室に目を眇めた。
「ああ、そういうこと」
「ヒバリさん?」
「つまりこの教室で、不純異性交遊が行われていたわけだ」
「ふじゅ……!」
 随分と時代がかった台詞に、綱吉はつい吹き出しそうになった。
 だが表現としては、間違ってはいないだろう。不純かどうかはさておき、異性同士が身を寄せ合っていたのは確かなのだから。
 じろりと睨まれて、綱吉は口を手で覆った。半歩後退して、愛想笑いを浮かべて茶を濁す。
 雲雀は不満げだったが特に何も言わず、腕組みをして眉間に皺を寄せた。
「そう。じゃあ今度見つけたら、咬み殺しておかないとね」
「え?」
 ボソリと吐き捨てられた一言に、綱吉は目を丸くした。
 聞き捨てならない物騒な台詞に、心がざわついた。
 雲雀は弱い連中が群れているのを兎に角嫌う。不良が徒党を組んでいるところを見つけようものなら、嬉々としてトンファーを振り回してこれを殲滅してしまう。
 彼の強さはリボーンも一目置くほどだ。綱吉も過去に数回、思い切り殴られている。
 半端ではない痛みだった。あんな一撃を女子が食らおうものなら、大変な事になる。
「なに」
 文句でもあるのかと、そう言いたげな目でにらみつけられて、綱吉は背筋を粟立てた。
 ここで余計な事を言って彼の機嫌を損ねるのは得策ではない。それは重々分かっているのに、顔もまともに覚えていない、話すらした事のない女子を庇わずにいられなかった。
「そんなの、ちょっと、酷くないですか」
「ひどい?」
 あのふたりはここで仲睦まじくしていただけで、なにも悪いことはしていない。群れていたと言われればその通りかもしれないが、学校の備品を壊したり、教員や他の生徒に迷惑をかけたりしたわけでもない。
 にもかかわらず、雲雀は見つけ次第咬み殺すと物騒なことを言う。
 米粒ほどの勇気を振り絞り、冷や汗を流しながら反論する。雲雀が床を蹴った。綱吉の方へ一歩近付き、威圧するように高い位置から見下ろして来た。
 膝が笑う。逃げ出したい気持ちを懸命に堪えて、必死になって己を鼓舞する。
 腹に力を込めて、綱吉は奥歯を噛み締めた。
「だって、なにも、……してないじゃないですか」
「したよ。不純異性交遊だろう? 僕の学校を汚すなんて、許せないね」
「ヒバリさん」
 吐き捨てた雲雀になおも食い下がるが、まるで聞いてもらえない。訴えは右の耳から左の耳に素通りして、てんで手応えがなかった。
 言葉が通じ合わないもどかしさに、言い知れぬ不安を抱かされる。
 どうすれば伝わるのか、懸命に最適の言葉を探すけれども見付からない。好きあう男女が人目を憚りながら逢瀬を重ねることが、悪いことであるはずがないのに、雲雀にはそれが分からないのだ。
 もっとも綱吉だって、事の次第に詳しいわけではない。ともすればあのふたり組は、自分が生み出した幻ではないのかとさえ思ってしまうくらいだ。
 上唇を頻りに噛んで、綱吉は呻いた。
 押し黙った彼を睥睨して、雲雀はふん、と鼻を鳴らした。
 苛立ちを隠しもせずに床を叩き、組んだ腕を揺すって居丈高に構える。
「随分と肩を持つんだね」
「え?」
「ひょっとして此処で変なことしてたのって、君だったりする?」
「……は? え、ちょっ、えええ!」
 変な事、と曖昧にぼやかされた内容が途端に綱吉の中で爆発して、彼は真っ赤になって煙を噴いた。
 ただでさえぐしゃぐしゃの髪の毛をもっと酷い状態にして、拳を作ってブンブン首を振る。吹き飛んでいきそうな勢いの彼に、雲雀は緩慢に頷いた。
 あっさりと嫌疑から解放されて、嬉しいやら哀しいやら、とにかく情けなかった。
 額に手を当ててがっくり肩を落とした少年に、雲雀は苦笑した。先ほどからの百面相は、眺めていて非常に面白かった。
 よくぞこうもコロコロと表情が変わるものだ。いったいどういう構造をしているのかと不思議でならず、ためしに頬に手を伸ばして抓んでみたら、当然ながら嫌がられた。
 首を振って逃げた綱吉に手の甲を叩かれて、雲雀はそれで自分の行動に気付いて目を見開いた。
「なにするんですか」
「いや」
 訊かれても、答えられない。無意識のうちに触れていたのだと、言ったところでどうせ信じてはもらえないだろう。
 答えを濁して手を振って、雲雀は行き場を無くしたそれを背中に隠した。
 気まずい空気に負けて、綱吉は少し赤くなった頬を撫でてそっぽを向いた。雲雀が何か言いたげにしながら見詰めてくるけれども、待っても口を開く気配はなかった。
 沈黙が辛くて、どっと押し寄せた疲れに負けて首を振る。
「だって、好きなだけ、なのに」
「へえ?」
「一緒にいたいだけなのに、それが駄目って、辛いじゃないですか」
「知らないよ、そんなの」
「ヒバリさん」
「僕は誰かと一緒にいたいなんて、思わないし」
「ヒバリさんはそうかもしれないけど、でも、そうじゃない人もいるんです」
「君みたいな?」
「うぐ」
 痛いところを衝かれて、綱吉は唸った。
 ひとりでは生きられないのに、ひとりにならざるを得なかったのが昔の綱吉だ。好き好んでひとりで居たわけではない。
 だから今の環境はとても恵まれていると思う。友人が出来て、毎日が楽しい。
 孤独だった時間を振り返って、綱吉はふと、雲雀を哀れに思った。
「……なに」
 見詰めてくる琥珀の眼差しに不快感を覚え、雲雀が剣呑な目をして口を尖らせた。直後に逸らして、綱吉は頬を掻いた。
 廊下に走る影が薄くなって行く。空は藍色に染まり、赤焼けていた雲も姿を消した。
 深く息を吐いて、雲雀は沈黙を嫌ってかぶりを振った。
「ともあれ、僕の学校で僕の許可なく勝手なことは許さない。君も、分かったならさっさと帰りなよ」
 有益な情報を寄越した見返りとして、今回は見逃してやると言い放って偉そうに胸を張る。矢張り次、男女が親しげにしているのを見ただけでも群れていると判断し、蹴散らすつもりでいるらしい。
 それはかわいそうだし、困る。
 綱吉だっていつかは可愛い彼女を作って、楽しく学校生活を送りたい。
「だから、それは駄目だって言ってるじゃないですか」
 先ほど叩き落とされたばかりの言葉を再び口にして、綱吉は両手を広げた。辞書は右手に持って、立ち去ろうとする雲雀の前を塞ぐ。
 道を阻まれた青年は不愉快そうに顔を顰め、肩を突っ張らせた。
「君には関係ないことだろう」
「あります。大有りです!」
 つっけんどんに言われて、ついムキになって怒鳴り返す。拳を上下に振り回した少年に、雲雀は右の眉を吊り上げた。
 引き結んだ唇も右側だけ持ち上げて、疑わしい目でもって綱吉を見下ろす。
「どこが?」
「だって、お、俺だって、そのうち彼女できたら……ヒバリさんに、邪魔されるの、嫌だし」
「出来る見込みがあるの?」
「だー! そういう事は言わないで!」
 可能性が低いのは認めるが、ゼロではないと信じたい。あっさり言われて傷ついて、綱吉は唾を飛ばして叫んだ。
 一瞬で泣きそうになった彼が、直後にぷんすか煙を吐いて地団太を踏んでいる。切り替えの速さには驚かされるばかりで、雲雀は彼をからかうのが段々楽しくなって来た。
 正直、もう教室でいちゃついていたカップルなどどうでも良くなっていた。それよりもずっと、綱吉を突っついて反応を引き出す方が面白かった。
 次はなんと言ってからかってやろう。なにに対しても過剰反応する彼の姿を想像しながら、雲雀は不遜に笑った。
「第一、僕には分からないんだけど。誰かを好きになる、とか、そういうの」
「えっ」
「結局さ、どういうものなわけ?」
 立て続けに訊けば、綱吉は戸惑いを前面に押し出して瞳を右往左往させた。
 ずい、と前のめりになった雲雀から逃げてたたらを踏み、壁際に追い込まれて縮こまる。背中が触れた窓枠の冷たさに竦みあがった彼の前を塞いで、雲雀は目を眇めた。
 同じ質問を繰り返して困らせて、答えを急かして脛を蹴る。
 不敵に笑う雲雀に恐れおののき、綱吉はカタカタ震えながら俯いた。
 事の発端となった辞書を両手で抱き締めて、頻りに唇を舐めては噛み、視線はあちこちを彷徨って少しも定まらない。
 赤い顔をした彼の右側に腕を衝き立て、雲雀は斜め上から綱吉を見下ろした。
 鼻先を掠めた毛先から、ほんのりとだがシャンプーだろうか、甘い匂いがした。薄茶色の髪の毛そのものがお菓子のようで、琥珀色の瞳や赤らんだ頬と相俟って、彼自体が甘いのではないかと思われた。
 心の中も、身体さえも。
 味見してみたい。ふとそんな気持ちが湧き起こって、雲雀は口角を歪めた。
「どうしたの? 答えなよ」
 知らないから教えてくれ、という態度ではないが、それを声に出すのも恐ろしい。催促されて、綱吉は泣きそうになりながら唾と一緒に空気を飲み込んだ。
 は、と熱っぽい息を吐いて咥内で舌をくねらせ、これはいったいどういう状況なのかと考えながら自分の爪先ばかりを見詰める。
「その、そういう、のは。十人十色というか」
「じゃあ君の主観でいいよ」
「俺のは、参考にならないと思いますんで」
「それを判断するのは君じゃない」
 ああ言えば、こう言う。いつまで経っても話が進まないのに焦れて、雲雀はもう片方の腕も伸ばし、綱吉の頭を挟み込んだ。
 影が落ちる。目の前十センチのところまで迫られて、脳裏に教室で抱き合っていた男女の姿が蘇った。
 キスをしていた。嬉しそうで、幸せそうで、羨ましかった。
「あ、あの……」
「はやく」
 距離が近すぎる。視界は、日が暮れたのもあって一気に暗くなった。目に見えるものが減った分、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされていく。
 雲雀の気配を濃密に感じた。吐息が鼻先を掠めて、火傷しそうだった。
 喉が渇いた。音を立てて唾を飲めば、緊張が伝わったのか雲雀が笑った。
 強張る頬に手が添えられた。触れられた瞬間にビクリとしてしまうが、抓ろうとしたわけではないようだった。指の背でそうっと撫でられて、首を竦めていた綱吉は恐々瞼を開き、不思議そうに眼前の青年を見上げた。
 何故だろうか、心が落ち着いた。頬の強張りが解けて、自然と笑みが浮かんだ。
「好きって、いうのは。一緒にいたらどきどきして、なんだか落ち着かなくて。なんでもないことなのに急に恥ずかしくなったり、ちっちゃなことでも嬉しくなったり、して」
 それまで喉の奥につかえて出てこなかった言葉が、唐突にすらすらと舌の上を転がり始めた。
 同じクラスの、笑顔が眩しい女子を思い浮かべながらはにかむ。辞書を彼女だと思って大事に抱き締めて、綱吉は頬を緩めた。
 その心から幸せそうな笑顔をじっと見詰めて、雲雀は首を一度だけ、小さくだが縦に振った。
「それで?」
「えっと、えと。朝から会えたりしたらもうラッキーだし、それだけでなんだかいいことが起きそうな気がして。でも大体嫌なことも一緒に起きるんですけど、でもいつもよりは落ち込まなかったりもして。喋れたりとかしたら、ほんとに超ラッキーって感じで。ああ、でもふたりだけとかになったらやっぱり全然で、緊張して巧く話せなくて、その辺はやっぱ俺、ダメダメで」
 興奮に頬を紅潮させたかと思えば、急に声を潜めて肩を落とす。
 鼻息荒くした次の瞬間にはしょんぼり項垂れて、忙しいことこの上ない。
 見ていて面白いし、少しも飽きない。むしろもっと眺めていたい気持ちにさせられる。
 雲雀はそんな、胸に覚えた奇妙な感覚の答えを探し、綱吉の頬に掌を押し付けた。
 力を込められて、顎関節を押された少年ははたと我に返って目を瞬かせた。自分が今し方告げた内容を思い出して照れ臭そうにして、さりげなく雲雀の手から遠ざかろうと身じろぐ。
 それを許さず、彼は突如乱暴に細い顎を掴んだ。足を前に送り出し、無防備だった膝を割って爪先をもぐりこませる。
「ひ、ヒバリさん?」
 十センチが五センチに縮まって、吐息が触れるどころの騒ぎではない。これまで、こんなにも至近距離から人に見詰められた経験など殆どなくて、綱吉はなにがなんだか分からないまま声を上擦らせた。
 だのに雲雀はまるで意に介する事無く、あと一寸前に出れば唇が触れるか否かという位置に留まり続けた。
 目を逸らすことも出来ない。澄んだ黒い瞳に吸い込まれてしまいそうで、落ち着かなかった。
 顔が勝手に赤くなり、心臓が爆音を奏でた。と思えば急に雲雀が、手を左胸の上に置いた。
「ひゃ」
「どきどき言ってる」
 制服の上から心音を計られて、全身の毛が逆立った。ぞわっと来たところに追い討ちをかけるように囁かれて、頭がぐるぐるした。
「ひば、りしゃ、……っ」
「ねえ。じゃあ抱き合いたいって思うのも、好きってこと?」
 舌が回らない。巧く言えずに噛んでしまった綱吉に微笑み、雲雀が耳元で囁く。
 浴びせられた熱風に背筋がぞくぞくして、膝が折れそうになった。
「それ、はっ」
「キスしたいって思うのも?」
「ひ、は!?」
 なんとか喋ろうとするが、頭の中はパンク寸前だった。
 彼が何を言っているのかが、理解出来ない。
 いや、分かることは分かる。ただこの場で、この状況下で口にする意味が掴めない。
 目をぐるぐる回しながら頭をぐらつかせる少年をクスリと笑って、雲雀は薄い唇を舐めた。
 艶めかしい仕草にどきりとして、綱吉が肩を跳ね上げた。歯の根の合わない奥歯をカタカタ言わせて、息苦しさに喘ぎながら胸を上下させる。
 彼につられたわけではないが、自分まで舌を繰って上唇を舐めてしまった。顔を出して直ぐに引っ込んだ赤い舌先に相好を崩し、雲雀は戸惑いを隠さない瞳を覗き込んだ。
「ね、……どうなの?」
 低い声で問う。浴びせられた熱風に、背筋が粟立った。
 心臓がきゅう、と縮こまった。ぞわわ、と足元から何かが駆け上って頭を貫いた。
 息が出来ない。酸欠に陥って、綱吉は大きく口を開いた。
「……れ、は」
 懸命に酸素を掻き集め、息を吐くと同時に呟く。擦れた小声に、実際に音になった分よりもずっと多くの情報を集めて、雲雀は満足げに頷いた。
 妖しげに笑うその瞳に魅入られて、逸らせない。魔法にかかったかのように、指一本すらまともに動かせなかった。
「ねえ、沢田。どうしてどきどきしてるの?」
 視線に絡め取られ、身動きが取れない。耳に心地よい低音がするりと頭に忍び込んで、思考回路を悉く麻痺させた。
 訊かれても、答えられない。唇を開閉させることしか出来ないでいたら、ふふ、と鼻で笑われた。
 殴ったり、蹴ったりしようという意思は感じられない。だからこそ戸惑う。雲雀が何を目論んでいるかが見えてこないから、緊張して、心拍数は上がる一方だ。
「ひ、ヒバリさん、こそ」
 鼓膜を震わせる爆音が自分のものだと思いたくなくて、苦し紛れに綱吉は叫んだ。
 何を言っているのかと、後から自分でも首を傾げたくなる発言に、雲雀の動きが何故かぴたりと止まった。
 目を見開いて、二秒後には眉間に皺を寄せて口を尖らせる。機嫌を損ねてしまったかと竦みあがっていたら、五秒後に彼はふっと、笑った。
 その、滅多にお目にかかれない綺麗な顔に、つい見惚れてしまう。
「そうだね。たぶん、だけど」
 つい、と顎のラインをなぞられた。珍しく彼が答えてくれる。触れられた場所から走る熱に慄きながら、綱吉は闇を背負う男に見入った。
 睫が長い。こんな顔をしていたのかと、知っていたはずなのに驚かされた。
 きょとんとしている彼に目を眇めて、雲雀がくっ、と喉を鳴らした。
「君が好きだからだと思うよ」
「へえ、そうな……――へ?」
 今日の夕飯はハンバーグ、くらいにサラッと告げられて、綱吉はうっかり相槌を打ちそうになった。
 目を瞬かせ、呆然と目の前の男を仰ぐ。息をするのも忘れている彼に意味ありげに微笑んで、雲雀はスッと前に出て距離をもう一段階、詰めた。
 あと三センチ。額同士が擦れ合う近さにこられて、それで我に返った綱吉がカチリと奥歯を鳴らした。
「え……えと?」
「君は?」
「は、はい?」
 たった二文字の、とても簡単なことば。
 意味は知っているのに、今のこの瞬間だけ、自分が知っているものとはまったく異なることばに思えてしまった。
 どこかの国の、別の意味を持つ単語を告げられただけだと思いたかった。もしくは農具の鋤、という駄洒落にも劣る発想しか出て来ない。
 素っ頓狂な声を上げた綱吉の動揺を悉く無視して、雲雀はコツンとおでこをぶつけあわせた。
「君は僕のこと、好き?」
「あの、あの。言っている意味が」
「すきか、きらいか。どっち?」
 ドキドキして胸が高鳴り、一緒にいると落ち着かない。相手をもっと知りたくてならず、もっと色々な表情を見てみたいと渇望している。
 キスしたいとさえ、思っている。
 綱吉が言ったのだ、そういう気持ちが「好き」という感情なのだと。
「そんな」
 訥々と語られて、頭の混乱に拍車がかかった。
 それはおかしい、解釈として間違っているといいたい。だのに言葉にならない。破れそうな心臓の音が邪魔をして、何一つまともに考えられなかった。
 雲雀が答えを迫る。熱い吐息に背筋が粟立つ。爪先が痺れて、膝がガクガク震えた。
 求められている答えは好きか、嫌いかの二者択一のみ。そのどちらでもない、という選択肢は許してもらえそうな雰囲気になかった。
 では、どちらか。好きかと答えるには綱吉は彼を良く知らない。かといって嫌いと断じてしまえるほど、彼を嫌悪しているわけでもなかった。別の言葉を宛がうとしたら、「苦手」だろうか。
 ただその選択肢は提示されていない。選びようがなくて、彼は弱々しく首を振った。
 目を閉じ、息を飲む。あまり目立たない喉仏が上下して、雲雀が気まぐれにそこを擽った。
 急所を押さえられた恐怖に鳥肌が立った。
 もし嫌いだといったら、彼はどうするだろう。怒るか。殴りかかってくるか。
 想像したら全身の産毛がぶわっと膨らんだ。サーっと青くなって、直後に赤くなる。寒かったのも一瞬で、今は暑くてならなかった。
 答えなど、選べるわけがなかった。
 選択肢は最初からひとつきりしか用意されていない。
「……き、……です」
 この状況下で嫌いだと言えるだけの勇気は、綱吉にはなかった。掠れ声の返答に、雲雀が眉目を顰める。聞こえなかったのだと解釈して、綱吉は半泣きで鼻を愚図らせた。
「すき、です!」
 破れかぶれで怒鳴りつけてやれば、気勢に圧倒されたのか、雲雀が数センチだけ頭を引っ込めた。
 無理矢理言わされたとはいえ、誰かに対して生まれて初めてこんな台詞を口にした。肩で息をして、後からこみ上げてきた恥ずかしさにカーッと真っ赤になる。
 顔を上げられない。とんでもない事を言ってしまったと思う前に、雲雀がぷっ、と吹き出した。
 笑われて、余計に羞恥心が膨らんだ。拳を作って震わせていたら、肩を揺らした雲雀が綱吉の頬を擽った。
 手つきは優しかった。
「そう。じゃあ僕達、両思いだね」
「は? え?」
 今度こそ目をぱちくりさせて、綱吉は顎をあんぐり開けた。
 ぽかんとして、瞬きを連発させる。たっぷり三十秒近く沈黙して、彼は数分前に彼から告げられた台詞を思い出して顔から火を噴いた。
 そういえば言われていたのだった、彼に「好き」だと。
 こちらもまた人生初の、親族以外からの愛の告白だ。あまりにも雲雀に似合わない台詞なものだから、頭が完全にスルーしていた。
「え? ええ?」
 雲雀は綱吉を好きだと言う。そして綱吉は、彼を好きだと言ってしまった。
 確かに字面だけを見れば見事な両思いだ。言わされた感満載だが、結果的にそうなる。否定出来ない。
「いや、あの。でも、ヒバリさん、校内でいちゃつくのは駄目だって」
「いいんだよ。禁止なのは不純異性交遊だから」
「待って。待って!」
 告白よりも酷い爆弾発言をされた気がする。膝の間に潜り込んでいた足で内腿をなぞられて、ぞわぞわと悪寒が走った。
 分厚い辞書も使って雲雀の胸を押し返し、距離を取ろうと足掻く。けれど抵抗は無意味だった。雲雀に力で敵うわけがなかった。
 細い手首を捕らえた雲雀が、力技で腕を下ろさせた。壁に縫い付けて、身動きを封じて顔を寄せる。呼気が鼻筋を掠めて、浴びせられた場所からぞくぞくするものが湧き起こった。
 食べられてしまう。本気でそう思った。
「キスしようか」
 雲雀が囁く。一瞬目を見張った綱吉は、は、と息を吐いた唇を閉じることが出来なかった。
 嫌だと言いたいのに声が出ない。雲雀は返事が無いのを承諾の意と解釈して、不遜に目を細めて微笑んだ。
 言質は取られてしまっている。今更否定出来ない。自分の失態をひたすら悔いながら、彼は迫りくる気配に臆してぎゅっと目を閉じた。
 視界を闇に閉ざし、一刻も早く終わってくれるように願う。だが実際は、考えれば考えるほどに、頭の中でキスの妄想がはじけた。
 軽く触れるだけか、それとも舌を絡める熱烈なディープキスか。一瞬で終わるのか、それともじっくり時間をかけて相手の唇を味わいながらなのか。なにせ経験がないので、その後自分がどうなってしまうのかも分からない。終わってからどんな顔をするべきかなど、まとまりのない想像が無数に駆け巡った。
 相手が雲雀なのが残念でならないが、キスという行為自体には興味があった。
 どんな風なのか、試してみたいという気持ちは常にあった。
 期待と不安と興奮が混ざり合って、小さな喉仏がコクンと音を立てた。
「……ふっ」
 どきどきしながら、待つ。早く来い、早く終われと呪文のように繰り返す。
 それを遮り、雲雀が突如、噴き出した。
「ふは、はは。ははは、ははっ」
「――え?」
 耳朶まで赤くして壁に張り付いていた綱吉は、急に廊下中に響いた声に目を丸くした。見れば雲雀は後退して、教室のドア前まで移動していた。腹を抱え、心底おかしそうに笑っている。
 初めて見る雲雀お大笑いに唖然として、言葉が出てこない。
 ぽかんとしていたら、苦しそうに息継ぎした雲雀が右手をヒラヒラ振った。
「冗談だよ」
「は――はいぃぃ!?」
 いったいどこからがそうなのかは分からないが、あっけらかんといわれて綱吉は素っ頓狂な声をあげた。
 怒りも、哀しみも沸いてこなかった。ひたすら呆然として、またクスクス笑い始めた男を見詰めるのみだ。
「じょ、じょうだ……ん?」
 からかわれたのだと一分近く経ってからようやく理解して、綱吉は力の抜けた膝をカクリと折った。そのまま壁沿いにずるずる沈んで、冷たい床に腰を落とす。
 座り込んでしまった少年に、雲雀は肩を竦めた。
「なに。本当にして欲しかったの?」
「ち、違います!」
 訊かれて、反射的に綱吉は怒鳴り返した。ずい、と近付いてこられて慌てて左に逃げて、赤い顔を両手で隠す。
 そうだ、違う。雲雀にからかわれたのは腹立たしいが、彼とはキスせずに済んだ。
 安堵しているだけだ。間違ってもがっかりしているだとか、そんなわけがない。
 あるはずが無い。
「早く帰りなよ。正門、閉めるから」
「誰の所為ですか」
 蹴る仕草だけされて、綱吉は急いで立ち上がった。制服を叩いて埃を払い、今度こそ落とさないようしっかり英語辞書を抱き締める。
 雲雀が先に歩き出した。校舎に閉じ込められてはたまらないと、急いで後ろを追いかける。静まり返った学校は別世界のようで、闇に濡れる廊下は奈落の底に通じているようにすら見えた。
 胸の鼓動は幾分落ち着いたものの、まだ完全には静まりきってくれていない。火照った頬を擽れば、否応無しに雲雀の指先を思い出してしまう。
 これは、違う。
 つり橋で対面した男女が、恐怖を恋心と勘違いするのと同じだ。早鐘を打つ心臓も、ざわめく肌も、なにもかも全部、恐怖から生じたものに他ならない。
 懸命に言い聞かせ、否定を繰り返す。
 それなのに。
「明日は遅刻しないようにね」
 正門まで見送られて、そう告げられても。
 綱吉は最後まで、彼の顔が見られなかった。

2011/11/20 脱稿