犬も歩けば棒に当たる。
沢田綱吉が歩けば、トンファーに当たる。
「いってえぇぇ!」
嫌な慣用句が出来そうだと、綱吉は悲鳴をあげて右足を蹴り上げた。
もれなく宙を泳いだつま先が、数秒置いて床に戻った。踵は依然浮いたままで、少しサイズが大きい上履きがパカパカと音を立てた。
椅子に腰掛けて両手は膝の上に。今し方傷口に押し当てられた濡れたガーゼを睨みつけて、彼はヒリヒリする額から意識を引き摺り下ろした。
口の中も切れてじんじんと疼いていた。鼻の穴には丸めたガーゼが押し込められており、呼吸は苦しい。
水を吸わせただけのガーゼを引っ込めて、雲雀は小さく嘆息した。肩を竦めて首を振り、役目を終えた汚れた布切れを足元のゴミ箱へと投げ捨てる。
「急に飛び出してくるのが悪いんだよ」
「知らなかったんだから、しょうがないじゃないですかあ」
後ろに掻き上げていた前髪がはらり、はらりと垂れ下がってきて、綱吉の赤く染まった額を覆い隠した。治療の邪魔だからと雲雀がそれらを脇へ払い除ける。だが癖がついてしまっているのだろう、数秒としない間に元の場所に戻ってしまった。
ヘアピンでもあればよかったのだが、生憎と保健室にそんなものは常備されていない。当人らも、持ち合わせているわけがなかった。
「ちょっと長いんじゃない?」
「あぢっ」
こんもりと盛り上がった髪の毛は、淡い蜂蜜色をしていた。毛先は重力を無視して天に向かってそびえ立っているが、上から押さえ込むと呆気なく潰れて凹んだ。
鬱陶しい髪の毛を抓んで引っ張った雲雀に、さりげなく傷口も引っかかれた綱吉は首を竦めた。奥歯を噛んで涙を堪え、鼻をぐずぐず言わせて琥珀色の瞳を吊り上げる。
怒り心頭の様子だが表情はあまり怖くない。母親譲りの女顔で、童顔だからか、迫力は今ひとつだった。
「ほら、上向いて」
力むと鼻栓が外れそうになる。自分で押し戻していたら、ピンセットで新しいガーゼを抓んだ雲雀が素っ気無く言い放った。
少量のヨード溶液をしみこませた布を見て、彼は背を震え上がらせた。
「いえ、いいです」
「遠慮しない」
「いえいえいえ、ほんとに。平気だから」
「さっきまでビービー言ってたくせに」
あれが激烈に沁みるのは過去の経験から承知している。嫌がって首を振り、背凭れの無いパイプ椅子ごと後退を図った綱吉だけれど、彼が逃がしてくれるわけがなかった。
伸びて来た左手にガッと顎を掴まれた。舌を噛んでしまって呻いた綱吉は、直後額を焼いた凄まじい熱に四肢を強張らせた。
頬がヒクリと痙攣して、声もろくに出ない。堪え切れなかった涙がひとつ、ぽろりと零れ落ちた。
「……ひぐ」
「泣くほどのこと?」
「だっ、だって」
しゃくり上げれば頭の上から呆れた声が降って来た。確かに自分でもみっともなく、情けないと思うのだが、痛いのだから仕方が無いではないか。
小鼻を膨らませて反抗的な眼差しを投げ、ガーゼを捨てた雲雀を蹴る仕草を取る。爪先は届かなかったが、飛ばされた空気がスラックスの裾を揺らしたので、彼は恐らく気付いているのだろう。
敢えて何も言わずに済ませて、雲雀は銀色のピンセットを置いた。
消毒薬の瓶を片付けて、筒状に丸められたガーゼを手に取る。傍には刃先の鋭い鋏と、半透明のマスキングテープもあった。
「男なんだから」
簡単に涙を流すなと言外に告げた彼だが、そもそも綱吉がこんな目に遭ったのも雲雀の所為だ。
いや、違う。大元を辿れば、諸悪の根源はイタリアからやって来た最強のヒットマンと公言する奇妙な赤ん坊だ。
彼が中学校に無断で侵入し、追いかけてランボがやって来て、見つけた綱吉が捕まえようと追い回していたら、運悪く雲雀が不良たちを咬み殺す現場に突っ込んでしまった。
状況を簡単に説明すれば、つまりはそういうことだ。
「ヒバリさんって、俺のこときらいでしょ」
「どうしたの、急に」
薄い布を適当な長さに切って三回折り畳み、裏が透けない程度に厚みを持たせて左手に構える。右手でマスキングテープを抓んだ雲雀は、綱吉に前髪を持ち上げるよう指示を出した。
渋々従って、両手で髪を押し上げて額を晒した少年が、口を尖らせ言った。意外なひと言に首を傾げ、雲雀は目を眇めた。
どことなく楽しげな表情が気に食わない。ムッと頬を膨らませた彼に相好を崩し、雲雀は擦り切れて赤くなっている広い傷口に畳んだガーゼを押し当てた。
落ちないようテープで井の字型に固定して、余った部分は丸めてこれもゴミ箱へ。手際よく済ませた彼の手を見送って、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
時計の針はもれなく午後一時半を指し示そうとしていた。
昼の休憩開始直後に教室に乱入したリボーンとランボの所為で、昼ごはんを食べ損ねてしまった。学校中を駆けずり回り、その上不慮の事故で殴られて怪我をするとは、泣きっ面に蜂もいいところだ。
一時間ほど前の出来事を思い返していたら、折角引きかけていた痛みが戻って来た。ずきずきする奥歯を頬の上から撫でて、彼は止まっただろうかと鼻に挿したガーゼを引き抜いた。
血が固まりかけていたところを、ガーゼが擦ったのか。ちくりとしたかと思えば、遅れてだらりと生温いものが口の上を伝った。
「げっ」
「なにしてるの」
まだ早かった。慌ててガーゼを戻そうとしたところで雲雀にとめられて、綱吉は白い肌を汚す赤色を拭うことも出来ず、不快感をひたすら堪えた。
「鼻の、出口近くの。そう。そこ、押さえてて」
「しゅびばしぇん……」
鼻の穴が片方塞がっているからか、呂律が回らない。くぐもった声で謝罪すれば、苦笑した雲雀が濡らしたガーゼで鼻の下を擦ってくれた。
片側に血が付着した、細く丸めていた分も一緒に破棄して、人差し指を顔の中心につき立てている少年に肩を竦める。転んだ際に地面で擦った額の手当ては終わったが、鼻血は当分止まりそうにない。
出来ることは限られている。保険医であるはずの男は、保健室を訪ねた当初から不在だった。
「しばらく、そのままで我慢ね」
「ひゃぁい」
「苦しかったら、無理して返事しなくていいよ」
手持ち無沙汰になった雲雀が二歩ばかり後退して、普段はシャマルが使っている椅子に腰を落とした。
古めかしく、クッションもあまり宜しく無いらしい。尻を何度か浮かせては座り心地が良い場所を探して、ようやく落ち着ける位置を見つけ出した彼は肘掛けに両手を置くと、ふーっと長い息を吐いた。
その、微妙に年寄り臭い仕草がおかしい。つい笑ってしまった綱吉は、すかさず向けられた鋭い視線に萎縮して首を引っ込めた。
膝を揃えて畏まった彼に目尻を下げ、雲雀は左を上に脚を組んだ。一段高くなった膝に肘を置き、頬杖をつく。
「まだ痛む?」
「ちょっと、だけ」
「赤ん坊は?」
「多分、帰ったんじゃないかと」
無理をして喋らなくてもいいと言ったのは彼なのに、次々に話しかけてくる。治療が終わってしまって退屈なのだろう。気持ちは分かるが、綱吉は鼻を片方、常に押さえ続けている状況だ。
手は疲れるし、肩はだるいし、息継ぎはし辛いしで、出来るなら放っておいて欲しい。
思っている事が顔に出たのか、それとも素っ気無い応対に拗ねたのか。雲雀は口をへの字に曲げ、押し黙った。
正面に座る綱吉から目を逸らし、今は誰も使っていないベッドが並ぶ空間に視線を向ける。コチコチと壁の時計の奏でる音がいやに大きく、耳障りに響いた。
少し前まではまったく気にならなかったのに、沈黙が長引くにつれて神経を圧迫して、押し潰されそうなくらいだった。
血は止まったか。押さえ続けていた所為で感覚が若干麻痺しかけていた鼻から指をそっと外し、息を吸う。
ツ、と切れた場所から何かが滲み出てくる感覚がした。
「うぐぐ」
量こそ減ったが、まだ止まり切っていないらしい。歯軋りして呻いて、綱吉は手の左右を入れ替えた。
右手を下ろし、左手の人差し指を押し当てる。口の前に掌が来て、吐く息が都度皮膚を掠めた。
生温い呼気の感触があまり楽しくなくて渋い顔をしていたら、視線を戻した雲雀が一瞬目を見開き、笑った。
「変な顔」
「うるひゃいです」
おでこの真ん中に大きなガーゼを貼り付けて、鼻を膨らませているのだから、滑稽な表情になるのは当たり前だ。回りきらない舌を操って怒鳴って、綱吉は悔し紛れに左足を前に突き出した。
雲雀の上履きを、横から蹴りつける。数センチばかり靴底を滑らせた彼が一寸意外そうな顔をした。
「ヒバリさん、やっぱ俺のこと、きらい、でしょ」
「どうして?」
「だって――」
見開かれた切れ長の目をねめつけて、吐き捨てる。表情はそのままに首を左に倒した雲雀は、途端に口篭もった綱吉をじっと見詰めた。
こうやって待つ構えをとられると、喋らざるを得なくなってしまう。唇は閉ざしたまま口をもごもごさせて、彼は上目遣いに黒髪の青年を窺うと、数秒後には諦めがついたのか肩を落とし、項垂れた。
「ヒバリさん、俺が突っ込んでいったとき、笑ったじゃないですか」
学校中を駆け回るランボを追いかけて、校舎の外に出た。昼間も陽が当たらない裏手に逃げ込んだ彼の悲鳴が聞こえて、慌てて角を曲がって飛び出したら、目の前にはもうトンファーが。
気を失った不良たちが死屍累々としているのが見えて、瞬き一回分の時間でランボの悲鳴の意味が分かった。避けなければ、と思うのと、現れたのが自分だと知れば雲雀は手をとめてくれるのではないかという期待が同時に頭の中に生まれて、消えた。
結果は。
避けきれず、また雲雀も手心を加えてはくれなかった。
惨憺たる状況に怯え竦んだランボが角を出てすぐのところで立ち止まってしまっていて、彼を蹴り飛ばさないように先に避けようとしたのも悪かった。バランスを崩したところに顔面にトンファーがクリーンヒットして、綱吉は空中で一回転した後、顔から地面に落ちた。
吹っ飛ばされる寸前に見た雲雀は、一瞬驚いた顔をして、直後にやりと笑った。
少なくとも綱吉にはそう映った。
「濡れ衣だよ」
語り終えた途端に雲雀が憤慨した様子で吐き捨てた。
あくまで主観で述べただけであり、綱吉だって彼が本当に笑っていたとは思いたくない。だがこの男に限っては、充分ありえる話だから困る。
「だから、俺がそう見えただけです」
「避けると思ったんだよ」
「く、うぅ……」
殴られる直前の被害妄想から来た幻だと思いたかった。綱吉の言い分に幾らか傷ついただろう彼を慰めんと、貴方は悪くないと言ってやろうとした矢先、あまり聞きたくなかった一言を付け足されてしまった。
喉の奥で言いかけた言葉を押し潰し、綱吉は鼻を抓んだまま首を振った。
人の顔をなんだと思っているのだろう。一生消えない傷がついたらどうしてくれるつもりだったのか。
顎に力を入れて奥歯を噛み締めて睨むが、鼻を押さえているので表情の半分が掌で隠れてしまう。もれなく迫力も半減して、雲雀は少しも反省しないで逆に不遜に笑って返した。
悔しい。いつか一度、ぎゃふんといわせてやりたい。
「血は?」
「……どうだろ」
歯軋りしていたら聞かれて、綱吉は肩の力を意識して抜いた。
先ほどのことがあるので、指を外すのに少し勇気が要った。恐る恐る肘を下ろし、鼻を解放する。長い間圧迫されていた為に、閉じた穴はなかなか開かなかった。
息を吸って、吐く。
違和感は残るものの、血は止まったようだ。
「大丈夫みたい」
「そう。ならよかった」
ちょっとした衝撃でまた出血しそうだが、今のところは問題なさそうだ。頭に血が登ることが立て続けに起きなければ、もう平気だろう。
ホッと胸を撫で下ろした綱吉に、雲雀も相好を崩した。穏やかな微笑みに、心臓がトクンと跳ねた。
サッと頬に朱を走らせた彼を目敏く見つけ、雲雀が小首を傾げる。興味津々に覗き込まれて、綱吉はカーッと火照った身体を持て余して意味もなく足をばたばたさせた。
挙動不審極まりない彼に、失笑を禁じえない。
雲雀は巻き上げられた埃を手で追い払うと、中身の少ないゴミ箱を足で脇へ追いやって立ち上がった。
「五時間目、どうする?」
「あー……」
校舎裏で吹っ飛ばされて、そのまま保健室に担ぎ込まれたのだった。昼休憩もとっくに終わって、午後の授業が開始されて既に久しい。
時計を見れば、次のチャイムまで二十分を切っている。今から教室に戻ったところで、どこまで進んだのかもさっぱり分からない。
数秒停止して、綱吉は照れ臭そうに頬を掻いた。引きつり気味のその表情から頭の中で巡っている考えを読み取り、雲雀はやれやれと肩を竦めた。
「赤点取ったら許さないよ」
「そこをなんとか」
五時間目は諦めるつもりでいる彼に釘を刺してみるが、糠に向かって金槌を振り下ろしているようなものだ。
両手を胸の前で擦り合わせた少年の、憎らしいのに憎みきれないポーズに自然と頬が緩んだ。
「駄目。ひとつでも赤点だったら、追試と補習ね」
「えー」
「嫌なら今すぐ教室に戻る」
「ヒバリさん、やっぱ俺のこと」
「嫌いじゃないよ?」
とことん意地悪な彼に頬を膨らませ、言い連ねようとしたところで先を塞がれた。
遮って告げられて、綱吉の目がきょとんと丸くなる。今にも蜜が零れてきそうな鮮やかな琥珀色を楽しそうに見下ろして、性格が若干どころかかなり捻じ曲がっている男は不遜に胸を張った。
「じゃなきゃ、手当てなんかしてあげないよ」
「ふぎっ」
折角血が止まったばかりの鼻を抓んで引っ張られて、変な声が出た。
鎮まりかけていた痛みが再発して、ずきずきと痛む。とろりとした液体が粘膜を伝う感触が頭の中を駆け巡り、実際に細められた鼻腔から溢れ出した。
「これじゃ、六時間目も無理かもね」
人が苦痛に顔を歪めているのも無視して、雲雀が得意げに呟く。不穏な気配に背筋を粟立て、綱吉は乱暴に手を叩き落した。
座っていた椅子を蹴り飛ばして立ち上がるが、ふらついて尻餅をついてしまった。床に座り込んで手の甲で口元を擦れば、案の定赤い色が皮膚に広がった。
人には赤点を取るなと言いながら、授業に行かせようとしない彼の狙いが分からない。
もしや補習参加を強制することで、綱吉を学校に閉じ込めようとしているのか。
取るなと言いながら、本当は取らせたくて仕方が無い、と。
「ヒバリさんって、本当に最低っ」
「好きなくせに」
ぞっとして叫べば、瞬時に切り返された。意味ありげに目を細めた彼が舌なめずりする瞬間を見てしまい、綱吉は己を抱き締めて竦みあがった。
「馬鹿。きらい!」
負け惜しみで怒鳴りつけても、彼は楽しそうに笑うだけだった。
2011/11/16 脱稿