塀を飛び越え、素早い動きで屋根に乗り移り、ベランダを跨ぐ。開けっ放しの窓を覗けば、風に煽られたカーテンが視界を邪魔した。
「沢……だ?」
鬱陶しい布を押し退けて身を乗り出すが、返事はない。訪ねた部屋は無人で、雲雀は露骨に眉を顰めた。
蹴り飛ばされた布団が床に半分ずり下がり、脱ぎ捨てられた制服がだらしなく転がっていた。空のペットボトルがゴミ箱の横に並べられて、まるでボーリングのピンだ。
丸められた紙くずが散乱して、机の上には教科書が山積み。野放図状態に等しい有様に肩を竦めて嘆息して、雲雀は艶やかな黒髪をくしゃりと掻き回した。
どれだけ整理するように言っても、まるで効果が無い。こんなに汚い部屋でよく寝起きできるものだと、違った意味で感心して、彼は靴を履いたまま窓枠に足を引っ掛けた。
空調の室外機を乗り越えて、軽い身のこなしで部屋の中に降り立つ。風を受けて膨らんだ学生服が落ち着くのを待って、改めて室内を見回すけれども、闖入者に驚いて逃げ出す影はなかった。
人の気配は薄い。風に飛ばされたらしいプリントを拾い上げて机に置いて、雲雀は締め切られている扉に見入った。
「なんだ」
居ないのなら、先にそう言って欲しかった。
連絡もなしに押しかけたのは自分なのに、勝手な事を呟いて、嘆息する。わら半紙に印刷された文字を爪で削りながら、帰るか、待つか、どちらにするかしばし逡巡する。
麗らかな陽射しが空から降り注ぐ、穏やかに晴れた日曜の午後。
風紀委員の見回りの途中だから、本来ならば即座に仕事に戻るべきなのだが、折角此処まで来たのだから、という思いも働いて、なかなか結論が出なかった。
眉間に皺を寄せて口を尖らせて、無人の椅子を引いて腰を下ろす。長い脚を組んで頬杖をついて、視線はまたしても開かない扉に向かった。
こんなに悩まなければならないのだって、席を外している綱吉が悪いのだ。本人が聞いたら怒り出しそうな思考に至って、益々苛立ちを募らせた雲雀は落ち着きなく椅子を軋ませ、人差し指で頬を叩いた。
家にいるのか、いないのか。
トイレに立っているだけなのか、そうでないのか。
ただ座って待っているだけでは、なにひとつ分からない。だけれど雲雀は、この場所から動く気は一切なかった。
曲りなりにも、此処は他人の家だ。自分が好き勝手して良い範囲は限られている。
標的にされた部屋の主こと沢田綱吉にしてみれば、なんとも迷惑千万な考え方だけれども、家中を荒らし回られても良いかと聞かれたら、此処にいてくれと妥協するだろう。
第一、雲雀に部屋から出ないよう頼んだのは綱吉本人だ。
この家には、彼の顔を見たら爆発する、という奇妙かつ特異な体質を持つ幼女がいる。万が一屋内で爆発されようものなら、家ごと吹っ飛ぶ危険性があるので、それだけはなんとしても回避したいのが綱吉の本音だった。
「つまらないな」
とはいえ、自由にしても良いと言われたところで、雲雀にはこれといってやる事が無い。
テレビは好きではないし、漫画も読まない。部屋が汚いのは気になるが、かといってわざわざ片付けてやる義理もなくて、結局座って綱吉が戻って来るのを待つばかりだ。
ベッドを借りて昼寝をしようか。それとも仕事に戻るか。
今一度ふたつの選択肢を目の前に吊るして、どちらを取るか自分に決断を迫る。
あと十分もすれば、抜け出したと気付いた草壁から連絡が入るだろう。他人に行動を束縛されて、急かされるのは好きではない。心配性の部下の顔を思い浮かべて、彼はムッと頬を膨らませた。
「沢田」
早く戻って来い。
心の中で呪文を紡いで、雲雀は背筋をぐーっと伸ばした。
伸びをして、天井を仰ぐ。そちらは人の手が滅多に触れないからか、あまり汚れていなかった。
ぶら下がったハンモックも無人だ。綺麗に折り畳まれたタオルケットが、そこを寝床にしている人物の性格を如実に現していた。
家庭教師役を務めるのなら、勉強だけでなく、生活面でも厳しく仕込んでくれればよいものを。思うが、何でもかんでもリボーンの意図するように綱吉が仕込まれていくのは、正直あまり面白くなかった。
安い嫉妬に胸を焦がし、足の上下を入れ替えて組みなおせば、衣擦れの音に紛れて異なる物音が耳朶を打った。
耳を澄ませば聞こえてくる。誰かが喋りながら、階段を登ってくる。
「ったく、もー。面倒臭いったらありゃしない」
耳慣れた声色に思わずどきりとしてしまい、雲雀はもう少しで椅子から落ちるところだった。
ガタガタ言わせて滑った尻を座面に戻し、咄嗟に掴んだ背凭れを解放する。冷や汗を拭って一息ついたところで、二階に到達した少年が勢い良くドアを開けた。
「あいつら、俺をなんだとおもっ……て」
「やあ」
「――てええええええ!?」
平静を装って、雲雀が右手を上げた。まさか先客がいると思っていなかった少年は琥珀色の瞳を真ん丸に見開き、素っ頓狂な声を上げた。
そして力一杯、開けたばかりのドアを閉めた。
バンッ、と乱暴な音を残して出て行かれて、雲雀は上げた手のやり場に困って凍りついた。これまでにも無人の部屋に上がりこみ、戻って来るのを待っていたことはあったのに、こんなに盛大な反応をされたのは初めてだった。
来てはいけないタイミングで訪ねてしまったのだろうか。
一抹の不安を抱くが、だったら先に言えと、またもや理不尽極まりない思考に陥って、彼はムスッと口を尖らせた。
怒り心頭に頬を膨らませていると、先ほどの元気よさは何処へ行ったのか、酷く慎重に、のろのろとドアが押し開かれた。隙間から恐々覗きこむ眼は、あからさまに怯えていた。
「沢田?」
「な、なんでヒバリさんが」
「いちゃ悪い?」
「悪いに、……ああ、いえ。なんでも」
うっかり口を滑らせそうになって、慌ててブレーキを引いた彼は寸前で言葉を濁した。目を泳がせ、中腰から背筋を伸ばして姿勢を正し、自分の部屋なのにいやに恐縮しながら入ってくる。
靴下がフローリングの床を踏んで、巻き込まれた古雑誌がガサガサ音を立てた。何冊か積まれていたものが崩れて、足の踏み場がまたひとつ、減った。
「うあちゃ」
横から攻撃された綱吉が、しまったと言わんばかりに顔を顰めた。だが屈んで片付けることはせず、そのまま無視して近付いて来る。
ドアは開けたままだ。風の通り道が出来て、雲雀の頬を秋風が撫でた。
「サボりですか?」
「そんなところだね」
「知りませんよ、怒られても」
「僕を叱れるのは、僕だけだよ」
綱吉は部屋の中心部手前で一旦足を止め、悠然と構えている雲雀に問うた。
嫌味のつもりだったのだろうが、軽々と受け止められて、表情が一気に渋くなる。恨めしげな、それでいてどこか羨ましそうな目で睨まれて、雲雀は呵々と笑った。
肩を揺らして椅子を軋ませ、机の角に肘を立てて頬杖をつけば、綱吉はもう何も言わず、黙って方向転換した。
てっきり近付いて来ると思いきや、予想は外れた。
「沢田?」
「良いですね、暇そうで。羨ましい」
背中を向けられて、雲雀は些か焦った声で名を呼んだ。彼の感情の変化に気付かず、綱吉は膝を折ってしゃがみ込むと、テレビの横に置かれている本棚の前に腰を下ろした。
そこに散らばっていたゴミを踏み潰して、詰め込まれている本を下から順に眺めて行く。
告げられた皮肉に小さく舌打ちして、雲雀は足を解き、踵を床にこすりつけた。
「えーっと、何処だったかな」
ぶつぶつとなにやら呟きながら、漫画本が八割を占める棚を探り始める。そこに雲雀がいるのに、まるで最初から誰も居ないかのような態度だ。
無視されるのは、面白くない。我慢の限界を見た雲雀は、勢い任せに立ち上がった。
「沢田」
「わっ、あー……吃驚させないでくださいよ」
足を強く踏み鳴らし、大き目の声で威嚇するように吼えれば、他所に集中していた綱吉がビクリと肩を震わせた。
零れ落ちそうな大粒の眼を見下ろして、雲雀が存在感たっぷりに胸を張る。無駄に威張っている彼を仰ぎ見て、綱吉は数秒沈黙し、後頭部を引っ掻き回した。
「なにしてるのさ」
以前なら簡単に怯えて、雲雀の言いなりだったのに、最近の彼は少し生意気だ。
ただの臆病者の弱虫でなくなった証拠だが、あまりにも強気に出てこられるとそれはそれで、楽しくない。か細く震えながら人の顔色を窺い、ビクビクしている小動物に戻れとは言わないが、少しくらい真面目に相手をしてくれても罰は当たらなかろうに。
折角足を運んでやったのに、感謝の言葉の一つも無い。傲慢な考え方を、以前同様振り翳す雲雀に肩を竦め、綱吉は聞こえないように舌打ちした。
「ヒバリさんには、関係ないです」
「ある」
つっけんどんに言い放ち、大人しく仕事に戻るよう忠告すれば、人の親切を雲雀はあっさり叩き落した。
即座に断言されて、虚を衝かれた。
「ひぎゃっ」
呆然としてしまい、引き抜こうとしていた本をうっかり掴み損ねた。真下に落下した厚めの本が、油断しきりの親指付け根に激突して、骨が砕けるかのような激痛が彼を見舞った。
全身を強張らせて変なところから悲鳴を上げた彼に、雲雀も呆気に取られて目を丸くした。
「沢田、大丈夫?」
「いっつ、ぁ~~~」
誰の所為でこうなったと思っているのか。小さく、丸くなり、じんじん響く痛みを耐えながら涙目で睨めば、心配そうな黒い瞳がふたつ、上から人を覗き込んでいた。
彼に悪気があったわけで無いのくらい、馬鹿でも分かる。責めるに責められなくて、綱吉は奥歯を噛んで堪えた。
死ぬほど痛いけれど、足の指は幸い無事だった。骨にも異常はない。爪先が曲がるかどうかを確かめて安堵して、彼は両手両足を床に投げ出した。
居場所を侵食されて、雲雀は屈んだまま後退した。洗濯物の山に背中から突っ込んだところで停止して、零れ落ちてきたものを救出すべく手を伸ばす。
「だあ!」
直後、綱吉が目にも留まらぬ速さで雲雀の手から衣類を奪い取った。
派手な色合いの物体は、良く見れば下着だ。可愛らしいピンクのハート柄に、雲雀はつい、笑ってしまった。
「勝手に触らないでください」
「落ちてきたのを拾っただけだよ」
「でも、触らないで」
親切心を働かせてやっただけなのに、詰られるのは納得行かない。言い返した雲雀を強く睨みつけて、綱吉はトランクスを握り潰すと、ズボンの後ろポケットに捻じ込んだ。
下着一枚でこうも過剰に反応されると、可笑しくて仕方がなかった。
数ヶ月前まで、彼はそれこそトランクス一丁で町内を駆けずり回っていたではないか。額にオレンジ色の炎を灯し、死ぬ気で全力疾走していた。
それを考えると、身につけても無い下着など、どうという事もなかろうに。揶揄すれば、彼は思い出したのか顔を赤く染めた。
「い、いいじゃないですか。それに、人の下着に手を出すヒバリさんこそ、どうかと思います」
「拾っただけなのに?」
「……」
別にくすねたわけでもなく、変な真似をしたのでもない。落ちてきたから受け止めただけなのに、酷い言われようだ。
つーん、としながら言い負かそうとした綱吉だったが、客観的な事実だけを告げられて、最早黙るしかなかった。頬を意味もなく擦って赤味を誤魔化し、咳払いをひとつしてから、先ほど自分の足にぶつけた本を膝に置く。
「っていうか、関係ないでしょ」
ハードカバー並みに分厚い表紙をして、専用のケースに入れられているそれは、表書きを信じるならアルバムだ。
それを大事に胸に抱え込んだ彼に、随分と懐かしくも思える話題を提供されて、雲雀は苦笑した。
「あるよ。君に関わることは、全部、僕にも関係ある」
「また、口ばっかり」
ご大層なことを言ってはいるけれども、結局のところ、綱吉の行動を逐一把握しておきたいという、ただの我が儘でしかない。最近やっと雲雀の思考回路というものが理解出来るようになって、綱吉は呆れ半分に呟き、まだ痛みの残る足を慰めた。
優しく撫でて、根元を掴んでぐるりと回す。真剣に受け止めてもらえなかったのを不満に思い、雲雀はムッと表情を険しくした。
知り合った当初は睨まれただけで竦みあがったのに、すっかり慣れてしまっている。余裕綽々の態度で接する綱吉が気に入らなくて、彼は上唇を舐めると、化粧箱から中身を抜き出そうとしている手をいきなり攫った。
「うわ」
箱ごとアルバムを放り投げてしまい、綱吉は面食らった顔をした。真ん丸に目を見開き、憤りを隠さない雲雀に気付いて即座に眉を顰める。
邪魔ばかりする彼をいい加減鬱陶しく思いながら、綱吉は乱暴する手を振り解き、捩じられた手首を撫でた。
「良いんですか、仕事。草壁さんが悲しみますよ」
「どうでもいいよ」
「良くないでしょう。こうしている間に並盛の風紀が乱れてるかもしれないのに」
「風紀よりも君の方が大事」
「っ」
嫌味を言えば、素っ気無くやり返される。そういう態度に腹が立って言い返せば、負けじと声を荒げた雲雀がぽろっと口を滑らせた。
面と向かってきっぱり断言されて、これには綱吉も驚いた。息を詰まらせ、顔面を真っ赤に染めて唇を戦慄かせる。
凍りついた彼を見て、今し方自分が発した台詞を理解した雲雀もまた、数秒遅れで首から上をじんわり紅色に変えて行った。
「なんで、ヒバリさんが照れるんですか」
「知らないよ」
居た堪れなくなって、綱吉は彼の膝を叩いた。吐き捨てて、雲雀は口元を手で覆い隠した。
暫く二人揃って頬を染めて、別々の方向を向いて黙り込む。緩く吹く風がカーテンを揺らし、遠く新聞回収を謳う音声が響いた。
開けっ放しの扉からは、子供達の騒ぐ声が断続的に聞こえて来た。そのうち階段を駆け上がってくるのではないかと不安になったが、今のところ誰かが二階を訪ねてくる気配はなかった。
沈黙に耐え切れなくなった綱吉が、二度も落としてしまったアルバムを掴んで持ち上げた。
「凹んじゃってるや」
右下の角が、何度も床に打ち付けた所為で変形してしまっていた。溜息混じりに呟いて表面を撫でた彼は、雲雀が気まずげにする中、箱から中身を取り出した。
「ン?」
その表紙と箱の隙間から、何かが零れ落ちた。
雲雀の足元に滑り落ちたものを、彼が素早く拾い上げた。表も裏も何も書かれていない、なんとも味気ない封筒だった。
「なんだろ、それ」
「君のじゃないの?」
「覚えてないなー」
当然切手も張られておらず、消印もない。それどころか封もされていなかった。蓋を開けて中を覗くと、四つに折り畳んだ便箋が見えた。
出しはせず、雲雀は首を傾げる綱吉の手からアルバムも奪い取った。
「あっ」
「小学校の?」
油断していたところを攻撃されて、空になった両手に慌てた少年が腕を伸ばした。しかしそれも難なく躱して、雲雀は封筒を手にしたまま表紙を捲った。
出て来たのはモノクロの写真。それなりに大きな建物を空撮したものだった。
普段見上げるのとは角度が違うので分かり難いが、雲雀もよく知っている場所だ。通いこそしなかったが、存在だけなら熟知している。並盛町にある小学校のうちのひとつだ。
それは卒業アルバムだった。
「そうですよ」
返せ、と抵抗を諦めない綱吉がなんとか奪い返そうと足掻きながら吐き捨てた。
リビングで子供達と喋っていて、フゥ太は小学校に行かないのか、という話になった。家で勉強も出来るけれど、友達も増えるし通った方が良いのでは、と奈々も言った。だが本人は嫌がって、絶対に行かないと言い張った。
そこで奈々が、綱吉の通っていたところならどうだ、と提案したところ、卒業アルバムの話に至った次第。
ランボやイーピン、果てはビアンキまで一緒になって見たいと言い出して、面倒臭くて嫌だったのに、綱吉は部屋までアルバムを取りに行かねばならなくなった。そうして戻った自室で、思いがけず雲雀に遭遇した。
ざっと経緯を説明して、綱吉はだから、と掌を上にして雲雀に差し出した。
「返してください」
自分には、今すぐ卒業アルバムをリビングに配達しなければならない義務がある。
ここで遊んでいる暇はないのだといえば、雲雀は不機嫌そうに顔を顰めた。
「いいじゃない、放っておけば」
「良くないですよ」
約束は守らなければならない。フゥ太にも、家に篭もっていないで沢山友人を作って欲しい。
同年代の、なんでも話せる仲間が居るというのは、とても幸せなことだ。実感を込めて呟いた綱吉に、雲雀は一瞬手を止めて見入った。
「隙あり!」
「ないよ」
だが真摯な訴えも、雲雀の前には無意味。サッと手を伸ばした綱吉だが、簡単にあしらわれてしまった。
腕を高く伸ばしてアルバムを掲げた雲雀は、攻撃を回避すると同時に肘を曲げ、集合写真を探してページを捲った。制服を着た男女が椅子に座り、或いは台に並んで立って、校舎を背景に笑顔を浮かべていた。
中には緊張して強張っている子もいるが、大方はリラックスしている様子だ。女子はスカート、男子は半ズボン。紺色のブレザーに、中は白い無地のシャツだ。
「君はどれ?」
「どれだって良いじゃないですか」
「……ああ、いた」
胡坐をかいた膝に広げて、次々ページを進めて行く。蜂蜜色の髪の毛の、寝癖で爆発した頭は非常に目立つ。あっさり発見されて、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
当時からこの髪型だったのかと笑われて、拳を作る。肩を殴られた雲雀は嫌そうに眉を寄せ、乱暴な手を叩き落した。
「なにするの」
「見ないでくださいってば」
「僕には、君のすべてを知る義務がある」
「勝手なこと言わないで」
「そんなに恥ずかしい?」
「当たり前です」
暴力を働かれたのを何より怒った雲雀に、綱吉は赤ら顔のまま叫んだ。両手をぶんぶん振り回す彼の顔は、先ほどの比ではない濃い色をしていた。
涙ぐみ、鼻を愚図らせた少年を上に見て、雲雀はきっぱり断言されて溜息をついた。
折角の綱吉の、小学校時代の日々が覗けると思ったのに。出会ったのは彼が中学校に上がってからで、本人があまり喋りたがらないのもあって、雲雀は綱吉の幼い頃をあまり知らなかった。
写真も、見せてもらったことがない。きっと可愛いだろうに、欲しいのに、手に入らないのが悔しい。
「ちょっとくらい、いいじゃない」
「ヤだ。俺ばっかり不公平」
「沢田?」
「あー、もう。返してくださいって……あ!」
「あ?」
見たければ、雲雀も卒業アルバムを提供しろと怒鳴った直後。
ハッと目を見開いた綱吉があらぬ方向を見詰めたまま硬直した。
鋭い声をひとつあげて、完全に凍り付いてしまった。膝立ちで仰け反ったまま停止している。雲雀は首を傾げ、サーっと青褪めて行く綱吉に眉を顰めた。
元々喜怒哀楽が激しい子だったが、ここまで劇的な変化は珍しい。不思議に思っていたら、やがて彼はわなわなと震え始めた。
そして。
「返して!」
甲高い声で叫んで、雲雀に跳びかかった。
咄嗟に後ろに倒れこんで避けるが、綱吉の手は諦めない。しつこく追い回し、雲雀の手首を引っ掻いた。
爪を立てられ、チリッとした痛みが走った。顔を歪めて奥歯を噛んだ雲雀は、綱吉の狙いがどうやらアルバム本体ではないと気付いて目を眇めた。
大きいものを狙っているわけではない。しつこく手首を掻き回してくるのだって、彼が握っているものを掠め取りたいからに他ならない。
アルバムが欲しいのなら、ページが折れ曲がるのを覚悟で端を掴んで引っ張ればいいのだ。そうしないのは何故かと考えて、雲雀は長く握り締めたままの封筒を思い出した。
表面も色褪せた、古い手紙。何年もアルバムと一緒に挟まれていたのだろう、しまった本人たる綱吉にまで存在を忘れ去られていたもの。
それを、此処に来て急に取り戻さんと足掻いている。
理由を考える。答えは直ぐに出た。簡単だ。
この封筒に収められている手紙の内容を、思い出したのだ。
その上で、焦っている。雲雀から奪い取ろうと躍起になっている。
「これ?」
雲雀はアルバムを広げたまま床に置いた。残った封筒を高く掲げてひらりと揺らせば、猫じゃらしに飛びつく猫宜しく、綱吉が大きく伸び上がった。
「返してください!」
声を荒げ、サッと避けた雲雀を追いかけて立ち上がる。床を踏み鳴らした彼に意地悪い笑みを返し、雲雀は色褪せた封筒の角に唇を押し当てた。
「どうしようかな」
今此処で中身を引き抜いて広げてやったら、この子はどんな顔をするだろう。
怒るか。いや、既に怒っている。ならば泣くか。びーびーと、雲雀を糾弾する声をあげながら。
光景を想像して、彼はぐっと息を飲んだ。泣かれるのは辛いし、嫌われるのは嫌だ。しかしこうも懸命になられると、是が非でも中身を拝んでみたくてならない。
好奇心か、良心か。
両立しない感情の真ん中に立たされて、雲雀は半泣きになっている綱吉に溜息をついた。
「そんなに僕に見られるのが嫌なの?」
「そうです!」
「どうして?」
「それは……」
声を低くして問えば、即答した綱吉が言葉を詰まらせた。追求する眼差しを避けて顔を背け、俯いてしまう。
林檎にも負けない紅色の頬がなんとも甘そうだった。耳の先まで朱に染めている彼は、時々雲雀を盗み見ては、許してもらえないかと懇願した。
差し出された手を拒んで、雲雀は古びた手紙をじっと見詰めた。
表書きも、裏書きもない。これでは郵送できないので、恐らくは手渡しの品だ。卒業アルバムに挟まったままだったので、恐らくその時期に書かれたものと思ってよかろう。綱吉は部屋に戻って来たとき、本棚を前にして何かを探す仕草を取ったので、アルバム自体長く放置されたままだったと考えられる。
卒業を祝う教員から、或いは両親からの手紙か。けれど、それならここまで恥ずかしがることはなかろう。
となれば。
「……ラブレター?」
「っ!」
消去法で最後に残った可能性を声に出せば、非常に分かり易い反応で綱吉が竦みあがった。
息を飲んだ彼に、雲雀はどす黒いものが自分の中に広がるのを感じた。
これまでとは明らかに異なる反応をして、頬を淡い紅に染める。恥ずかしそうに身を捩り、否定したいのか首を横に振った綱吉を前にして、雲雀は手にしていたものを思わず握り潰してしまった。
ぐしゃりと真ん中で拉げたそれにはっとして、彼は急いで手を広げた。皺の寄った封筒を見て、綱吉も少し哀しそうな顔をした。
この中に、雲雀の知らない綱吉の過去がある。
卒業アルバムに挟んで残しておくくらいだ、きっと本人にとっても思い出深いものに違いない。
どこの誰だかも分からない相手から貰ったものだとしたらと考えるだけで、嫉妬の炎があふれ出しそうだった。
「貰ったの?」
朽ちた色合いの、けれど大事に保管されていた封筒。
気に入らない。出来るものなら今すぐにでも真っ二つに引き裂いて、跡形もなく粉砕してやりたかった。
自分の中に、こんなにも激しく醜い感情が宿っていたのだと初めて知った。驚愕に打ち震えながら、雲雀は右膝を前に滑らせた。
棒立ちの綱吉との距離を詰め、足元から顔を覗き込む。暗い色をした漆黒の瞳に問いかけられて、彼はハッと息を飲み、吹き飛びそうな勢いで首を横に振った。
後ろに下がろうとして足を滑らせ、先ほど崩した雑誌の山に尻餅をつく。
衝撃と痛みに苦悶する暇を与えず、雲雀は更に前に出て、綱吉に詰め寄った。
「沢田?」
貰ったのであれば、いったい誰から。
宛名がない封筒だから、直接手渡されたか、或いは机の引き出しに。どちらにせよ、淡い恋心を想像させるには充分だ。
追求の手を緩めない雲雀に血の気の引いた顔をして、綱吉は唇を戦慄かせ、ぎゅっと固く目を閉じた。
「……い、ます」
「沢田?」
「違います!」
蚊の鳴くような、細い声。聞き取り辛い独白に雲雀が耳を傾けた瞬間、彼は家中に響き渡る大声で怒鳴った。
間近で聞かされて、耳がキーンと来た。脳みそを激しく揺さぶられて、目の前が白黒に点滅する。くらくらする頭を片手で支えた雲雀の前で、綱吉は肩で息をして、溢れた涙を乱暴に拭った。
茹蛸になりながら歯を食いしばり、羞恥を怒りでねじ伏せている。立ち上る怒気に目を見張り、雲雀は背筋を震わせた。
「違います。それは、その……貰ったんじゃなくて」
もっとも勢いが良かったのは最初だけで、喋っているうちに気後れが生じたのか、声は段々小さくなっていった。
ダメツナの渾名は、中学校に上がる前からあった。運動音痴で、頭の出来も宜しくなくて、何をやってもダメダメだった彼は、仲間に恵まれず、友人らしい友人もいない状態が長く続いた。
酷い時には、喋るだけで駄目菌が伝染る、とまで言われた。そんなだから女子とも気軽に話せるわけがなかった。
ラブレターを貰うなど、夢のまた夢。自嘲を交えて呟いて、彼は寂しそうに笑った。
ぐっと来る色気を含んだ微笑に、雲雀は唇を噛んだ。どうして他の連中は、この子の魅力が分からないのかと腹が立つ。と同時に、自分だけが知っていればいいのだとも思えて、甚だ不可解だった。
感情が複雑に入り乱れている雲雀を知らず、彼は床に座りなおし、胸の前で両手をあわせた。
互い違いに指を絡めて、緩く握る。照れ臭そうにはにかむ姿は、お世辞抜きに美しかった。
「それは、俺があの頃憧れていた女の子に、その、渡そうと書いて。でも結局、渡せなかった奴です」
隣のクラスだった。六年間を通して、一度も同じ組になったことはない。言葉を交わしたこともなければ、直接の関わりがあったわけでもない。
黒髪の、綺麗な子だった。凛として、いつも友人に囲まれていた。リーダーシップに富み、常にクラスの中心にいて、教師からの信頼も厚かった。
「好きだったの?」
「多分。ああ、いや、どうかな」
声を潜めた雲雀に、綱吉は頷く寸前で首を右に倒した。視線を宙に泳がせて、当時を振り返って優しい顔をする。
「理想だったんだと思います。あんな風になりたいって、ずっと思ってた」
気取ることなく、気負うこともなく、皆を引っ張って行く。そうするのが自分の役目であり、当然だと受け入れている雰囲気があった。
卒業した彼女がどうしているか、綱吉は知らない。風の噂で、某有名中学校を受験して見事合格したと聞いたくらい。
今となっては顔も、名前も思い出せない。ぼんやりした記憶は美化されて、あやふやだった少女の輪郭はいつしか雲雀の顔に入れ替わった。
ふっ、と気の抜けた笑みを浮かべて、彼は肩を竦めた。
「まだその子が好きなのか――とか、考えてるでしょ」
「ム」
気難しい顔をしている雲雀に目尻を下げて、訊ねる。まったくもってその通りだった男は、見透かされたのを嫌い、頬を膨らませた。
雲雀もある意味、とても分かり易い。否、分かるようなってきた。
「大丈夫ですよ」
要らぬ不安を彼に与えてしまった。自分の過去を暴かれたことよりもそちらがショックで、綱吉は優しく囁きかけると、雲雀の手をそうっと握った。
くしゃくしゃになってしまった封筒を引き抜いて、床に置く。そうして空になった大きな手を、今一度ぎゅっと握り締めた。
「沢田」
「昔のことは、昔のことです。ずっと忘れてたんですよ?」
握り返そうとする雲雀の指が、躊躇して空を掻いた。彼が落ち着くのを待って、綱吉は小さく舌を出して首を竦めた。
事実だ。古い記憶は長く本棚の中にしまわれて、すっかり色褪せてしまっていた。曇りガラス越しに景色を眺めているみたいに、あらゆる思い出がぼんやりと霞みがかっていた。
当時、あれだけ焦がれていた少女の姿もまた然り。
クスクス笑って、彼は目を細めた。
「さわだ」
「それにね、困ったな。無理矢理思い出そうとしたら、全部ヒバリさんになっちゃうんですけど?」
黒髪だったのと、リーダー格だったくらいしか共通点が無い。性別も違えば、性格もかなり異なるのに、ふたりが同じ人物であったかのように思えてくる。
あまりにも可笑しくて、綱吉はこうなった責任の所在を求めて雲雀に目配せした。意味深な眼差しにどきりとして、彼は血色良い顔に新たな紅を追加させた。
「それって、僕の所為なの?」
「そうですよ。どうしてくれるんですか」
重なり合った掌から熱が伝わってくる。ようやく握り返されて、綱吉は茶目っ気たっぷりに言った。
得意げに胸を張り、鼻を高くして主張する。どうにも締まらない姿に相好を崩し、雲雀は考え込む素振りを見せた。
「そうだね、どうしようか」
ふたりが出会ったのは、綱吉が中学校に上がってからのこと。雲雀はランドセルを背負っていた頃の彼と言葉を交わしたこともなければ、姿を見かけたことすらなかった。
だのに知らず知らずのうちに、綱吉の過去に雲雀が潜り込んでいた。
居ないはずの人が、心の中に居る。気がつけば増殖している。
残る手を胸に当てた綱吉が、探るような目で雲雀を見た。彼は直ぐに視線に気付き、ほくそ笑んだ。
「どうして欲しい?」
意地悪く問いかけて、右目だけを閉じる。ウィンクを飛ばされて、初めての事に綱吉は背筋を震わせた。
「どう、って……」
顔を直視できなくて、背けてしまう。勝手に赤くなる頬と、ドクドク言う心臓と、熱を持つ身体に頭が沸騰しそうだった。
ずっと傍に居て欲しい。今だけではなく、この先も永遠に、隣に。
自分を好きで居続けて欲しい。少しくらいの我が儘なら我慢するから、こちらの我が儘も聞き届けて欲しい。
願いことは沢山あった。言えずにいる注文も多い。だがそれらを今この場で告げるのは、少し勿体無い気がした。
遠い未来のことではなくて、もっと近しい、例えば今すぐに手に入るものが欲しい。十四年間の人生で一度も貰ったことのないラブレター、その記念すべき一通目を、ならば雲雀に書いてもらいたい。
いいや、それよりも早く。
「う、と」
目まぐるしく駆け回る思考に眩暈を起こして、綱吉は上半身を揺らした。倒れそうになった彼を身体で受け止めて、雲雀は急かすように肩を叩いた。
後ろ髪も撫で回されて、綱吉は脳裏を過ぎった願いごとに鳥肌を立てた。
「き、き、……」
「キ?」
「してくださいっ」
どうしても言えない、たった二文字。語感で読み取った雲雀が目を眇めるのを見て、彼は弱々しい声で訴えた。
雲雀のシャツを握って、自分から身を乗り出す。顎を突き出して目を閉じれば、緊張しすぎだと笑われた。
「そんなのでいいの?」
「い、……いいから!」
もったいぶられて、綱吉は声を荒げた。早くしろと右目だけで睨みつけて、再び視界を闇に閉ざす。
間もなく訪れるだろう至福の時を心待ちにして、胸を躍らせる。鼻先を掠めた吐息で距離を測り、その瞬間までの残り時間を心の中でカウントする。
「綱吉」
魂さえ戦慄く囁きに、頭が爆発しそうだった。
ところが。
「ふーん。なかなか降りてこないと思ったら、そういう事」
「――っ!」
あと一ミリの瞬間を待って、開けっ放しのドアに寄りかかっていた女性が面白く無さそうに呟いた。
まるで存在に気付いていなかったふたりを冷たい目で見下ろして、ウェーブかかった髪を無造作に掻き上げる。
長い脚、細い腰、ふくよかな胸に艶っぽい唇。長い睫が二重瞼を飾り、婀娜な眼差しは惚れっぽい男には抜群の効力を発揮しよう。ただ残念ながら、この場には彼女の視線に蕩かされる人間はいなかった。
「び、び、びっ、ビ……!」
吃驚し過ぎて呂律が回らない。雲雀を思い切り突き飛ばして、綱吉は真っ青になった。
洗濯物の山に頭から突っ込んでいった青年が、散らかったシャツやズボンの中から顔を出した。頭に被ったトレーナーを抓んで脇に退けてやれば、埋もれていた下着が彼を見上げた。うっかり手が伸びそうになって、慌ててもう片方の手で叩いて落とす。
挙動不審な動きを見せた彼を一瞥して、女性は直ぐに綱吉に視線を戻した。意味ありげに微笑み、飾り立てた爪でふっくらした唇をなぞって腰をくねらせる。
「いやね、ツナ。私はそんな変な名前じゃないわよ」
「ビアンキ!」
「子供達が心配してたわよ。見付かったのかしら、卒業アルバムは」
彼女は沢田家に居候する異邦人のひとり、名前はビアンキ。綱吉の家庭教師を自称する赤ん坊の愛人にして、獄寺隼人の異父姉にも当たる。
触れたものを毒に変えてしまう特異体質の持ち主は、綱吉が部屋に戻った理由を声に出してゆっくり室内を見回した。
床に放り出されたアルバムに目をやって、雲雀がページを閉じた。差し出されて受け取って、綱吉はカーッと赤くなったまま数秒停止した。
「えと、あの。ビアンキ、これはその」
彼女はどの段階からそこに居て、やり取りを見聞きしていたのだろう。知りたいが聞くのは怖くて口篭もっていたら、分厚いアルバムに気付いたビアンキが声を高くした。
「なによ、あるんじゃない。じゃあ貰って行くから、後はご自由に」
大股で部屋に入って来て、綱吉の手からサッと抜き取る。表紙を捲って中身を確認した彼女は、満足そうに頷いた末に意味深に微笑んだ。
颯爽と出て行って、ドアを音立てて閉める。階段を駆け下りる足音が続いて、それが聞こえなくなっても、ふたりはずっと俯いていた。
2011/09/19 脱稿