瑞夢

「お風呂あがったよー」
 脱衣所のドアを開けて、叫ぶ。返事は聞こえなかったが、台所から物音がしたので奈々にはちゃんと伝わっただろう。
 肩にタオルをかけて、髪から垂れる雫を吸わせながら廊下に出る。その足元をランボが、バスタオルを頭にぐるぐる巻き付けた状態で飛び出して行った。
「ちゃんと乾かしてもらえよー」
「ばびゅーん」
 一応忠告するが、五歳児は聞こえない振りをしてキッチンに飛び込んでいった。奈々とイーピンの騒ぐ声がする。様子を見に行く気にもなれず、綱吉は肩を竦めて苦笑した。
 後は母がなんとかしてくれるに違いない。パジャマの上からほかほかと湯気を放ち、綱吉は二階に通じる階段へ進路を取った。
 素足でも、風呂上りで温まっているからか、冷たいと感じない。このままいい気分で寝床に飛び込めたら最高に幸せだと、階段を登りながらだらしなく笑う。
 宿題は一応終わっている。夕方に遊びに来た獄寺に手伝ってもらったお陰だ。
 あとはテレビを見るか、ゲームをするか、漫画を読むか。机に向かわなくて済む夜は久しぶりで、心はうきうき弾んで足は自然とリズムを取った。
 スキップしながら部屋のドアを開ける。リボーンがいるはずだが、ノックはしない。元々そこは綱吉ひとりの為の部屋だ。何を遠慮するところがあろうか。
「ふんふふ~ん」
 呑気に鼻歌を歌いつつ、毛先から雫を散らして敷居を跨ぐ。
 瞬間。
「ひゃぎゃあ!」
 突き抜けていった突風に、彼は奇怪な悲鳴を上げた。
 自分自身を抱き締めて竦みあがり、爪先立ちで膝をぶつけ合わせる。風呂場でじっくり温まり、体内に貯えていた熱が一気に放出されてどこかに消し飛んでしまった。
 鳥肌を立てて垂れそうになった鼻水を啜り、極寒の地と化した部屋の状況に目を見張る。良く見れば正面の窓が開かれて、カーテンが軽やかにステップを刻んでいた。
 開けた覚えなどない。この時期、日が暮れた後の外気を取り込むなど、自殺行為だ。
「んな、なんでー!」
 叫び、綱吉はばたばたと部屋に駆け込んだ。壁まで一気に走り抜けて、勢い良く窓を閉める。反動で戻ろうとするのを力技で押さえ込めば、衝撃が掌に伝って指が痺れた。
 ともあれ十度以下の冷気の流入は止まった。足元から迫りあがってきた悪寒をやり過ごして安堵の息を吐き、綱吉が不在にしている間に勝手な事をしただろう赤ん坊を探す。
 リボーンはすぐに見付かった。部屋の中央にあるテーブルに向かって座って、分厚いコートをしっかり着込んでいた。
「お、お前なあ」
「うっせえぞ、ツナ。静かにしろ」
「なにがだよ。大体なんで、窓なんか開けたんだよ!」
「静かにしろつってんだろ」
「いでえ!」
 つかつかと歩み寄って文句を言えば、顔も向けぬまま冷たくあしらわれた。それでもしつこく食い下がれば、急に目の前が暗くなった。
 遅れて脳みそが揺れて、額がジンジンと痛んで熱を発した。仰け反った綱吉はリボーンがゴム弾を発射したのだと即座に理解して、倒れそうになったのをどうにか堪え、歯を食いしばった。
 涙目で睨み付けるが、赤子は何処吹く風と受け付けない。パジャマ姿で吹き曝しの外に放り出されたに等しい綱吉は、憤懣遣る方ない表情で地団太を踏んだ。
 どたばた五月蝿い彼に嘆息して、リボーンはようやく顔を上げた。
 どこから取り出したかも分からない拳銃の玩具を素早く片付け、真っ黒い瞳をふとベッドの方に向ける。
「静かにしてねーと、起きるぞ?」
 そんな意味深な台詞もオマケで付け足されて、壁際のパイプベッドに意識を向けた綱吉は、同時に背筋を粟立てた。
 冷風の直撃を食らったときよりも激しく竦みあがり、出そうになる悲鳴を懸命に堪えて鼻水を垂らす。別の理由で寒くなっている彼を鼻で笑って、リボーンは着ていたコートを脱いで読書に戻った。
 優雅な時間を過ごしている赤子をガタガタ震えながら見下ろして、綱吉はベッド上の膨らみを恐る恐る指差した。
「あの、リボーン先生……?」
 何故彼が、どういった経緯でここにいるのか。
 さっぱり理由が分からなくて、頭は混乱の極みにあった。目をグルグル回しながら問いかけるが、赤子は口角歪めて笑うばかりで。
 もっとも聞いたところで「面白そうだったから」だとか、「断る義理などないから」などという返答しか得られないのは目に見えていた。意地の悪い表情を浮かべている家庭教師に悲壮な顔をして、綱吉は肩にかけたタオルの端を握り締めた。
 階段を登っている頃はまだ生温い湯だった髪に残る水滴も、今やすっかり冷めてさながら氷のようだった。
 このままでは風邪を引いてしまう。どうにもならない状況にがっくり肩を落として、綱吉は心でさめざめ泣きながら掴んだタオルを頭の上に移動させた。
 布に水分を吸い取らせるべく、わしゃわしゃとかき回す。湿って重くなった毛先が明後日の方向を向いて跳ね、角のように尖った。
「いつ来たの、この人」
「二十分くらい前だな」
「俺が入った直後かよ」
 奈々に風呂が空いたと言われたのが、三十分ほど前のこと。見事なすれ違いだったと、綱吉はタオルの隙間から足元を覗き込んで唸った。
 視線の先、シングル用のベッドの上には見事な黒髪の青年がひとり、すやすやと寝息を立てていた。
 持ち主の許可なく布団に包まり、我が物顔で寝床を占領している。真ん中に陣取っているので、壁との間に綱吉が潜り込むのもほぼ不可能だ。
 図々しいとしか表現のしようがない青年には、見覚えがあった。
「なんだって、ヒバリさん」
「眠かったんだろ」
「そりゃ、見れば分かるよ」
 綱吉が通う並盛中学校の風紀委員会委員長にして、周辺地域の不良の頂点に君臨する無敵の独裁者。
 群れるのを嫌い、弱い連中がいきがっているところを見つけた途端、愛用のトンファーを構えて老若男女問わずに咬み殺さずにはいられない厄介な性格の持ち主だ。
 傲岸不遜を絵に書いたような人物で、綱吉も過去に何度となく泣かされた。
 苦々しい思いで眠る青年を見詰めて、彼はゆっくり膝を折った。
 絨毯の上に座って、頭をタオルで引っ掻き回す。自分の部屋にいながらなるべく音を立てないよう気を配り、息を殺さなければならない環境は、なんとも居心地が悪かった。
 不本意でならない。幸せ気分も一気に抜けてしまった。
「俺の部屋、別荘か何かだと思ってんのかな」
「そんな良いもんじゃねーだろうさ」
「うっさいなー」
 抜けた髪を床に散らし、肩を竦めて呟く。すかさず後方から合いの手が飛んできて、意地悪いリボーンに綱吉は悪態をついた。
 但し声は控えめで、殆ど響かない。頬を膨らませて口を尖らせて、少年は琥珀色の瞳で寝入る青年を見詰めた。
 地域の見回り中だったのか。掛け布団から覗く肩は白いワイシャツに包まれており、黒一色の学生服はどうしたのかと探せば、綱吉の勉強机に無造作に転がされていた。
 緋色の裏地がてかてか光って、妙に艶めかしい。それなりに髪が乾いたのもあって、綱吉はくしゃくしゃになったタオルを肩まですべり落として立ち上がった。
 そうっと足を前に運んで学生服に手を伸ばす。持ち上げると、何が入っているのかずっしり重かった。
「皺になっちゃう」
 肩の部分を掴んで広げ、椅子の背凭れに広げて引っ掛けてやる。軽く表面を撫でて形を整えていたら、後ろから視線を感じた。
 ゾクッとして振り返れば、書籍から顔をあげたリボーンがにやにや笑っていた。
「な、なんだよ」
「いいや?」
 変なところを見られてしまって、声が上擦った。
 抗議の視線に不遜な態度を崩さず、リボーンはぺらりとページを捲って肩を竦めた。
「で、どーすんだ?」
「なにが?」
「ん」
 俯いた彼に訊かれて、省かれた主語が読み取れなかった綱吉は首を傾げた。怪訝にする教え子に呆れ顔をして、黄色いおしゃぶりを下げた赤ん坊が顎をしゃくった。
 再びベッドに意識を向けて、綱吉はあ、と息を飲んだ。
 黒髪の青年が相変わらずすやすやと、気持ち良さそうに眠っていた。起きる気配は、今のところ見られなかった。
 彼に退いてもらわないと、綱吉はベッドで眠れない。木の葉が落ちる音でも目を覚ますと、いつぞやには言っていたくせに。
 殴られるのは嫌だが、今だけは微かな物音ひとつでも目を覚ますあの頃に戻ってもらいたかった。このまま人の寝床を占拠し続けられては、綱吉は床で、寒さに震えながら横になるよりほかに道はない。
 もしくは別の部屋で、フゥ太たちと枕を並べるか。
 リボーンのハンモックは彼には小さすぎるので使えないし、貸してももらえないだろう。
 天井にぶら下がる網状の寝床を一瞥し、彼は深い溜息をついた。
「俺、どこで寝ればいいんだろう」
「一緒に眠りゃいいじゃねーか」
「そんなの、できっこないよ」
 心の嘆きを声にも出して呟いて、肩を落とす。すかさずリボーンが茶化してきて、綱吉は大慌てで首を振った。
 雲雀と同衾するなど、なんと恐れ多いことか。絶対に落ち着かないし、眠れないに決まっている。
 力強く否定した綱吉にふぅん、と相槌を打ち、リボーンは本を閉じた。ゴミが散乱するテーブルを掻き分けて置いて、立ち上がる。
「リボーン?」
「風呂だぞ」
「え、ちょっと待って」
 何処へ行くのか問えば、さらりと返された。そのまま出て行こうとする彼につい追い縋り、綱吉は手を伸ばした。
 無論、届くわけがない。眠る雲雀とふたりきりなどという、恐ろしい状況に捨て置かれるのに震え上がるが、大声を出すわけにもいかなくて、彼は苦虫を噛み潰したような顔をして小鼻を膨らませた。
 悔しげにしている少年を戸口で一瞬だけ振り返り、赤子は得意げに笑って扉を閉めた。
 ぱたんという小さな音がやけに虚しく響いた。静寂が綱吉を包み、押し潰した。
「うあああぁ……」
 呻き、膝を折ってしゃがみ込む。頭を抱え込めば、指に触れた髪はまだ僅かに湿っていた。
 絶対に面白がっている。自分は玩具ではないのだと、身勝手極まりない赤ん坊に腹を立てるが、怖いので声に出す事も出来なかった。
 無理矢理追い出すわけにもいかず、自然と目を覚まして出て行ってくれるのを待つしかないのか。だが果たしてそれがいつになるのか、さっぱり見当がつかない。
 指に絡みつく毛先をくしゃりと握り締めて、綱吉は膝を起こし、床にへたり込んだ。
 ずりずりと尻で絨毯を擦りながらベッドサイドに戻って、ひょっこり頭を出してベッドの上を窺う。
 寝息は穏やかで、安定していた。
「人の気も知らないで」
 綺麗な寝顔につい恨み言を呟いて、反転して太いパイプに背中を預ける。自然と視線が上向いて、天井に灯る光に目を閉じる。
「どうしよっかなあ、本当に」
「そんなに僕と一緒に寝るのが嫌?」
「別に、そういうわけじゃな――……」
 テレビも見られないし、ゲームも出来ない。静かに出来ることなど限られていて、一気に狂った予定に頭を悩ませる。
 零れた愚痴に合いの手が返されて、無意識に相槌をうとうとした綱吉は三秒経ってからはたと我に返り、不自然なところで言葉を途切れさせた。
 口をパクパクさせて、瞬きも忘れて虚空に見入る。一時期は冷え切っていた身体がまたかっかと熱を持って、温い汗がだらだらと首筋や背中を流れていった。
 酸欠に陥って赤くなった彼の後ろで、衣擦れの音がした。
 パイプベッドが軋む。濃密な人の気配が背後に迫った。
 サーっと血の気が引く音がして、心臓が二倍にも三倍にも膨れ上がり、爆音を奏でた。
 喘ぐように息を吐いて、ギギギ、と錆び付いた玩具のように首をゆっくり振り向ける。見上げた先、ベッドのぎりぎり端に雲雀が横たわり、綱吉を見詰めていた。
 頭を浮かせ、腕を下に敷いて枕代わりにしている。肘が食い込んだ部分が凹んで、穴が空いていた。
「おはよう」
「お、おはっ、……まっ」
「今何時?」
 外はもう真っ暗で、どちらかと言えば「今晩は」の時間帯なのだが雲雀は意に介さない。欠伸をしながら聞かれて、言葉を詰まらせていた綱吉は目を白黒させてから急ぎ壁の時計に目をやった。
 続けて枕元の目覚まし時計も見て、電池が切れていないのを確認してからうん、と頷く。
「えと、えっと。よ、夜の八時、四十ろ……七分、です」
「そう」
 指を折りつつ数字を読み上げれば、雲雀は最初からさして興味がなかったのか、短く呟いた後に腕を解いてベッドに突っ伏した。ごろりと横になって、行き場をなくした右手を伸ばして来た。
 日中ほどではないにせよ跳ねている髪の毛を擽り、抓んで引っ張る。
「痛いです」
「濡れてるね」
 抗議の声をあげても無視された。代わりに囁かれたひと言が微風を伴い耳朶を掠めて、綱吉はかあっ、と赤くなった。
 肩に掛けたタオルごと肩を抱き締めて小さくなって、俯いて首を振る。薄茶の髪を取り戻して膝を胸に抱けば、綱吉の今の格好にようやく気付いた雲雀が、嗚呼、と合点いった様子で首肯した。
「お風呂あがり?」
「です」
 パジャマに、タオル。少し前まで綱吉が何をしていたのか、ひと目見ればすぐに分かる。
 それでも敢えて声に出して問えば、彼は小声で言って首を縦に振り、膝を倒してベッドに向き直った。
 縁を掴んで腰を浮かせれば、距離がぐっと縮まった。琥珀色の瞳は艶やかで、入浴のお陰で身体が火照っているからか、普段よりも少し熱を帯びていた。
 雲雀は相好を崩し、瞼を伏して首を倒した。
「そう。どうりでいい匂いがする」
 甘い囁きと共に近付いてこられて、綱吉は反射的に首を竦めた。
 咬みつかれることはなかったが、こめかみの生え際周辺を嗅がれた。ふんふんと、仔犬がじゃれ付いてくるみたいな感覚に背筋が震えた。
 首筋に吐息を浴びせられて、そこからじわじわと熱が広がっていくのが分かる。緊張でガチガチになった脚が小刻みに震えて、今にも腰が砕けてしまいそうだった。
 シャンプーの香りを一頻り嗅いで満足して、雲雀は身を引いた。ベッドが軋んで、遠ざかった気配に綱吉は露骨にホッとした。
 胸を撫で下ろす際に上下した肩に、雲雀が剣呑な顔をした。
 ムッとした彼の尖った気配を瞬時に悟り、綱吉がしまった、と顔を強張らせた。即座に目を反らして俯くが、寸前に見た彼は明らかに機嫌を損ねていた。
 迂闊な真似をしたと反省し、上唇を舐めて恐る恐る様子を窺う。上目遣いに見上げた先に、雲雀はいなかった。
「ヒバリさん」
 ベッドの中央に戻り、仰向けに寝そべっていた。明らかに不貞寝だと分かる態度をとられて、膝立ちになった綱吉は弱りきった表情で肩を竦めた。
「ヒバリさんってば」
 三秒で寝入るという特技があるとは聞いていないので、目は閉じていてもまだ起きている筈だ。ならば遠慮は不要と繰り返し呼びかけて、綱吉は立ち上がるとベッドに腰を下ろした。
 ふたり分の体重を受けて、パイプがギシギシと不穏な音を響かせる。だがこの程度で壊れたりしないのは、過去に実証済みだ。
 手を伸ばして肩に触れる。冷たい。
「君は床で眠れば?」
「まだそんな時間じゃないですってば」
 夜九時も回っていないのに、もう寝床に入るなど勿体無さ過ぎる。頬を膨らませて反論して揺り動かすが、雲雀はまるでお構いなしで、逆に綱吉の手を邪魔そうに払い除けた。
 また眠るつもりなのか。頑なに閉ざされた瞼と、それを縁取る黒い睫を前髪の隙間から覗き見て、綱吉は長大息を吐いた。
「見回り、いいんですか?」
 彼がここに来た理由は分からないが、通りかかった理由なら分かる。
 並盛町の夜の巡回だ。弱いくせに群れたがる連中が居ないかを確かめて、町の治安維持に貢献している。その行きなのか、帰りなのかは不明だけれども、ほかに考えられない。
 毎日、毎晩、お疲れ様と言いたい。ただその十分の一、いや、百分の一でも構わないので、並盛に向ける愛情をこちらに傾けてくれたらもっと嬉しいのだけれど。
 椅子に掛けた学生服と、空の袖にぶら下がる緋色の腕章とを眺めて、綱吉は黒髪に触れた。
 こちらは乾いていた。指で抓もうとしても、さらさらしているのですぐに逃げられてしまう。
 癖がなく真っ直ぐで、つやつやしていて、羨ましいことこの上ない。ちょっぴり悔しくて、繰り返し撫でて梳いていたら、鬱陶しかったのだろう、下から腕が伸びて来た。
 手首を取られ、綱吉は薄目を開けた雲雀ににんまり笑った。
「忙しかったんですか?」
「いつも通りだよ」
「じゃ、いつも通り忙しかったんですね」
 淡々とした切り替えしの揚げ足を取って呟いて、綱吉はふっ、とすぼめた口から息を吐いた。
 雲雀は黙って天井を見詰めた後、寝返りを打った。ぶつかる手前で停止して、両腕を伸ばしてくる。
 腰に回った手に、綱吉は苦笑した。抱き締めてくる力はさほど強くない、擦り寄ってくる彼はどことなく猫を連想させた。
 ゴロゴロと甘えてこらえれて、笑みが零れた。
「どうしたんですか?」
「べつに」
 耳に掛かる髪を払い除けてやり、訊ねる。返答は素っ気無いが、それもまたいつものことだ。
 暫く会えていなかったから寂しかったのだとしたら、不謹慎だが少し嬉しい。言葉ではなく態度でしか示してくれないのでなかなか分かり辛いけれども、心から好いてくれているのが十二分に感じられた。
 目を細め、綱吉は指を滑らせて後れ毛に触れた。
 と。
「うわっ」
 突然肘をとられて、捻られた。防ぎようがないまま引っ張られ、ベッドに転がされた。素早く起き上がった雲雀が上に圧し掛かって、四つん這いになった彼の顔が天井との間に紛れ込んだ。
 やや斜めになっている彼に目を瞬き、囚われたままの右手の痛みに顔を顰める。唇を噛んだ少年を楽しそうに見下ろして、黒髪の青年は赤い舌をくねらせた。
 唇を舐める仕草が卑猥だ。ゾッとするものを覚えて、綱吉は竦みあがった。
「あの、ちょっと」
「なにか失礼なこと、考えてたよね」
「そ、そんなことありません」
 心を見透かした雲雀の台詞に鳥肌立てて、声を荒らげて否定する。だが強く言い張るほどに図星なのが露見して、逃げ場を失った彼は瞳を泳がせた。
 甘えて来る雲雀が可愛いと思ったなど、どうしてバレたのだろう。声には出していないはずなのに、何故。
「君の考えてることなんか、全部お見通しだよ」
 混乱する頭を抱えて右往左往していたら、真上から覗き込んできた雲雀が意地悪く口角を歪めた。本当に人の心を盗み見たかのような発言にどきりとさせられて、綱吉は奥歯をカタカタ鳴らして息を飲んだ。
 深く透き通る黒水晶の瞳に見詰められて、射抜かれる。心臓がトクンと跳ねた。息苦しさに喘いで薄く唇を開けば、見越していたのか、雲雀がにぃと笑った。
 黒い影が迫る。吐息を鼻の頭に感じた。
 熱に肌を擽られて、背筋が粟立った。
「……っ」
 反射的に唇を引き結んで顎を引き、息を止めて固く目を閉じる。きゅっ、と顔のパーツが真ん中に寄った綱吉に目尻を下げて、雲雀は首を伸ばした。
 ちゅ、と小粒な鼻に軽くキスを落として、離れる。上が空いて、圧迫感が消え失せたのを感じて綱吉はゆっくり瞼を持ち上げた。
 雲雀を探してきょろきょろして、足元に座っているところを見つけて口を尖らせる。不満げな表情に破顔一笑し、彼は近づいて来た額を人差し指で押し返した。
「うー」
 思っていた場所とは違うところにキスが落ちたものだから、気に入らないのだ。
 両手を交差させて打たれた場所を庇った綱吉に肩を竦め、雲雀は襟元から覗いている鎖骨の窪みに指を這わせた。
 途端にピクリと華奢な肩が跳ね上がり、なにかを期待する眼差しが向けられた。
 分かり易い反応に苦笑を禁じえない。雲雀は右に首を傾がせて、足をベッドから下ろした。
「ヒバリさん」
「このままだと、君、もう一度風呂に入らなきゃいけなくなるよ?」
 距離が広がって、綱吉の首が上向いた。零れ落ちそうな琥珀に見詰められながら口を開いた雲雀に、彼は一瞬きょとんとしてからぼんっ、と真っ赤になって火を噴いた。
 かっかと熱い顔を手で扇いで冷やそうとするが、まるで効果が無い。頭を爆発させた綱吉を呵々と笑い飛ばして、雲雀は跳ね放題の髪の毛ごと彼を撫でた。
 すっかり乾いている、もうタオルは必要なかろう。
「う、う、うあ、あう」
 言葉のならない呻き声をあげて、綱吉は雲雀の袖を抓んだ。弱い力で引っ張って、きゅっと唇を噛み締めてから恐る恐る上を見る。
 雄弁に語りかけてくる熱っぽい眼差しに、立ち眩みを覚えた雲雀は慌てて目を逸らした。
「駄目だよ。もうじき赤ん坊が戻って来る」
「あ、……そっか」
 魅力的な誘惑に負けそうになるのを踏み止まって、早口に告げる。緩めたネクタイを弄りながらの台詞に綱吉ははっとして、今は閉ざされている扉を盗み見た。
 風呂に入っているリボーンがいつ戻って来るかは、はっきりしない。ただ彼はあまり長湯しないので、そう時間はかからないだろう。
 あの男はふたりの関係を知っているから、くちづけの真っ最中に出くわしても恐らくは驚くまい。逆にじろじろと観察してくるに違いなくて、それはそれで非常に気分が悪い。
 綱吉だって落ち着いて抱き合えないのは嫌だ。
 諦めるしかないのだが、やはり悔しい。面白くないと頬を膨らませる少年の正直さに苦笑して、雲雀はその細い肩に手を置いた。
 残る手で顎を抓み、持ち上げる。
 自然と目があって、綱吉が先に瞼を下ろした。
「風邪ひかないようにね」
「ヒバリさんこそ」
 至近距離で囁きあって、そうっと唇を重ねあう。
 まるで幼い子供の戯れの、可愛らしいキスで今しばらくは互いの心を慰めあう。一度離れ、名残惜しさに負けて再びくちづけて、雲雀は後退した。
 椅子の上着を取って肩に羽織り、袖も通して金ボタンを上から順に留めていく。彼が身なりを整え終えるのを待って、綱吉は窓辺に足を向けた。
 開ければ、冷たい風がふたりを引き裂いた。
「また明日」
「おやすみなさい」
 靴はベランダにあった。素早く窓を飛び越えて移動して、雲雀が振り返り際に囁く。
 定型句の挨拶だとしても嬉しくて、綱吉は相好を崩し、手を振った。
 窓が全開になっているのに、少しも寒く感じなかった。空気は冷えて肌に突き刺さり、体温をどんどん奪い取って行くに関わらず、だ。
 去りがたい気持ちを押し殺し、雲雀が鉄柵を乗り越えた。屋根に飛び移り、闇に向かって駆けて行く。足を滑らせやしないか心配だったが、庭に着地する音以外なにも聞こえてこなかったので、恐らくは無事だろう。
 門扉の照明に一瞬影が走ったのを最後に、姿は完全に見えなくなった。気配は消え去り、後には冬の夜の冷たい風が吹き荒れるばかり。
 それでもしばらく窓辺に佇み続けた綱吉は、急に鼻の奥がむずむずし始めて瞬きを三度繰り返した。
「ふ、ふぇ、……へっくしゅ!」
「ぼさっとしてるからだ、ダメツナ」
「ぎゃあ!」
 出そうで出なかったくしゃみに背筋を粟立て、足元から登って来た悪寒にガタガタ震え上がる。
 自分で自分を抱き締めた彼の背後からぬっと影を伸ばしたリボーンが、ほかほかと湯気を立てながら嗤った。
 いると思っていなかった人物に話しかけられて、素っ頓狂な悲鳴を上げた少年が飛びあがる。急いで窓を閉めてカーテンも引いて、綱吉はまるで気配を感じさせなかった家庭教師から大急ぎで逃げた。
 ベッドに駆け戻り、勢い良くダイブして布団に包まる。
 蓑虫になった彼に、リボーンは目を細めた。
「寝るには早いんじゃねーか?」
「いいんだよ!」
 またしても嫌なところを見られてしまって、平気でいられない。恥ずかしさに真っ赤になって、綱吉は怒鳴ると頭まですっぽり布を被った。
 鼻先に、微かながら雲雀の匂いが触れた。
 冷え切った身体にじんわりしみこんでくる。暖かい。凍り付いていた末端から解れて、滞っていた血流が蘇るのがありありと感じられた。
 安堵の息を吐き、頬を緩める。幸せそうに微笑んで、彼はごろりと寝返りを打った。
 起き上がりたいと思わない。時間的に早いのは分かっているけれども、雲雀の温もりを捨ててまでなにかしようとは考えられなかった。
「おっやすみい~」
 だらしなく笑って言って、同室のリボーンに手を振って瞼を閉ざす。
 今夜はきっと、素敵な夢が見られる。そんな予感がした。

2011/11/01 脱稿