夏が過ぎても外されずにいる風鈴が、ちりりん、と涼しげな音を立てた。
視線をあげるが、音がするだけで姿かたちは見えない。首を傾げていたらまた聞こえて来たが、今度は反対側から響いてきた気がして、彼は渋面を作った。
白昼夢を見るほど、寝ぼけてはいない筈だ。挙動不審にきょろきょろしていたら、怪訝に思ったのだろう、後ろから声がかかった。
「どうしたの?」
「あ、いえ」
穏やかな低い声に振り返り、首を振る。幻聴かもしれないのに、彼の手を煩わせることもない。なんでもないのだと早口に言って、綱吉は床の木目をそろりと撫でた。
座敷と縁側の境界線に指が触れたところでユーターンさせて、僅かに腰を浮かせて身体を前に押し出す。間もなく投げ出した脚が宙を泳いだ。膝で折って、開かれた空間に爪先を垂らす。
縁側の端に腰掛ければ、軒先から覗く空は眩しいほど青かった。
高い位置に雲が泳いでいる。まるで魚の鱗のように、細かく千切れた白い綿が、西の一画を埋め尽くしていた。
これもまた、雲雀に言わせたら群れている事になるのだろうか。鰯雲の列をぼんやり眺めて、綱吉は短い足を前後にぶらつかせた。
目の前に広がる日本庭園も、夏場に見た時とかなり様子が変わっていた。
暑い盛りに主役を演じていた緑濃い松の木は、相変わらずそこにある。だが同じ場所に生えていながら、妙に後ろに引っ込んでしまったように見えた。かわりに前に迫り出して来たのは、枝ぶりも立派な楓だ。
但し五つに先が割れた葉は、まだ緑色だ。これが鮮やかな赤に染まるのには、あと一ヶ月ほど待たなければならない。
それでも、これからは自分の時代だと言わんばかりに、堂々と胸を張っていた。
わざわざ遠出をして山を登らなくても、此処に来ればいくらでも紅葉狩りが出来る。観光客が押し寄せることもないので、静かに風景を楽しめた。
得をした気分だ。良い場所を手に入れたとひとりほくそ笑んでいたら、外廊下を歩いてくる人の姿が見えた。
「ヒバリさん」
母屋と離れを繋ぐ通路を通り、黒服の男が近付いて来る。その顔を瞬時に見分けて、綱吉は声を上げた。
腰を捻って開け放たれた障子戸の間から部屋を覗けば、読書に勤しんでいた青年がつと顔を上げた。
白い開襟シャツに、黒のスラックス。学校の制服と殆ど同じ格好をしていた彼は、綱吉の呼びかけに小首を傾げ、長い前髪を左右に揺らめかせた。
黒い瞳が見え隠れして、つい見惚れてしまった。三秒して我に返り、彼は勢い良く首を振ると、外廊下に向かって腕を伸ばした。
離れの影に入ってしまったので、綱吉の位置からでも人の姿はもう見えない。ましてや、部屋の中にいる雲雀など。それでも、彼が何を言わんとしているのか瞬時に理解して、部屋の主は鷹揚に頷いた。
「草壁?」
「はい。あ、こんにちは」
答えるが早いか、当人が通路の角から現れた。庇のように長いリーゼントをゆっさゆっさと揺らして、両手には丸い盆が握られていた。
傾けないように細心の注意を払いながら足を運び、挨拶と共に会釈した綱吉には笑顔を向ける。身体が大きく、厳しい顔つきをしている彼だが、なかなかどうして、目を細めるととても優しい表情になった。
彼は学校にいる時と同じ、黒の詰襟姿だった。学生服の長い裾が、今にも床に擦れてしまいそうだ。
「恭さん」
「なに」
穏やかな微笑みを瞬時に正した彼は、白い靴下で床板を踏みしめて更に進んだ。敷居の手前で立ち止まり、膝を折る。
屈まれて、彼が手にしていたものがなんなのか、座ったままの綱吉にもようやく見えた。
こげ茶色の丸盆には、白い陶器の皿がひとつ。直径三十センチ近くあり、底は浅い。そこにたっぷりと、果物が盛り付けられていた。
葡萄が右端に、その左にウサギに切った林檎が。瑞々しい梨もあった。
見ているだけで涎が垂れそうだ。ひとりで食べるには量の多いフルーツ盛り合わせに、本を閉じた雲雀は眉を顰め、持って来た理由を問うた。草壁はからからと笑い、縁側にいる綱吉の傍に盆を置いた。
「沢山、送られてきましたので」
誰からとは言わなかった。わざわざ買って来たのではなく、偶々手元にあったから、切り分けて持って来ただけだと告げて、彼は素早く立ち上がった。
つられて首を上向けた綱吉だったが、甘い匂いに誘われて、直ぐに視線を下に戻してしまった。
もしかしたら先ほど聞こえた風鈴の音は、宅配便が呼び鈴を鳴らした音だったのかもしれない。そんな事を考えながら、魅惑的な色艶を食い入るように見詰める。
興味津々の少年に肩を竦め、雲雀は草壁に、下がるよう手で合図をした。
「いいよ、食べて」
「えっ」
「僕ひとりじゃね」
一人前にしてはボリュームがありすぎる。あれこれ気を回してくる草壁に、余計なお世話だと心の中で舌打ちして、雲雀は伸ばしていた足を崩し、頬杖をついた。
本に挟んだ栞の紐を小突いて、ゆっくり立ち上がる。主人に道を譲るようにして、従者たる男は無言で退いた。
「ごゆっくり」
胸に手を当てて恭しく礼をして、くるりと反転して去って行く。上機嫌に、足取りが軽く見えるのは、気の所為だろうか。
でしゃばりで、お節介で、面倒見が良くてよく気がつく男だと改めて実感する。時計を見れば丁度小腹が空く時間帯の、午後二時半を回ったところだった。
本当に、人の世話を焼くのが好きな男だ。
だからこそ傍若無人を絵に書いたような雲雀の傍に、長年居られるのだろうが。
「ヒバリさんも、食べましょうよ」
「そうだね」
草壁の背中が遠ざかるのを待って、綱吉がわくわくした顔で言った。手招かれて、雲雀は落ち着いた足取りで畳の縁を跨いだ。
縁側に出ると、風が変わったように感じた。夏の暑さは遠くなり、ぎらぎら照り付けていた太陽は穏やかさを取り戻した。軒に立てかけていた葦簾は片付けられて、視界を塞ぐものはなにもない。
開放感に包まれて、彼は深呼吸を三度繰り返した。
「あム」
雲雀がゆっくり腰を下ろす中、綱吉は爪楊枝を一本取ると、早速瑞々しい梨に突き刺した。
ずっしり重い果実を持ち上げて、大きな口を開けてかじりつく。しゃく、という小気味の良い音が響いた。
「どう?」
「美味しいです」
居住まいを正しながら問えば、彼は満面の笑みを雲雀に向けた。続けて反対側を齧り、最後に爪楊枝が支えている真ん中部分を口の中へと。
もぐもぐとリズミカルに動く頬が、見ていて面白い。小突いてやりたい気持ちを堪えて両手を膝の上で結べば、横からスッと大皿が差し出された。
横を向けば楊枝を置いた少年が、依然口をもごもごさせながら雲雀を見ていた。山盛りの果物を突きつけられて、彼は一瞬面くらい、唖然としてから苦笑した。
肩を竦め、輝く琥珀の目の誘惑に負けて静かに利き腕を伸ばす。
濡れていない方の楊枝を抓み持って、彼が選んだのは林檎だった。
「うん、悪くないね」
「でしょう?」
梨に比べると少し表面が滑らかで白い果実を半分齧って、奥歯で噛み砕いてやれば、甘い果実がじわり、咥内に広がった。
たっぷりの蜜を飲み下して、仄かな甘みを放つ果肉も細かく擂り潰して嚥下する。さほど濡れてもいない唇を親指でなぞれば、得意満面の綱吉が深く頷いた。
彼が持って来たものでなければ、切り分けたのも別の者だ。だのにまるで自分の手柄のような顔をして、目を細めてなんとも嬉しそうだ。
雲雀は赤い皮が残る部分もむしゃむしゃと食べつくすと、今度は綱吉が最初に選んだ梨をつまみ、口に運んだ。
ずっと抱えていたら、食べられない。綱吉ももとの場所に皿を戻して、今度は濃い紫色の皮を持つ果物に手を伸ばした。
「ん~~」
葡萄をひと粒、房から引き千切り、するりと咥内へ。皮だけを残して中身を押し出せば、柔らかな果肉は噛み砕かれる前に喉の奥へ吸い込まれてしまった。
なんともいえない甘酸っぱさに身悶えて、両手を頬に当てた綱吉は足をじたばたさせた。
「美味しい?」
「はい!」
味の感想など、答えを聞くまでも無く、顔を見れば分かる。それでも敢えて訊ねた雲雀に、彼は元気一杯に叫んだ。
立て続けに四つ、五つと葡萄を食べて、濡れてしまった指の始末に困って両手を泳がせる。室内に戻れば手拭の一枚くらいあったはずと、気付いた雲雀が立ち上がろうとしたのだが、焦れた彼は履いているズボンに擦りつけ、拭ってしまった。
「行儀が悪いよ」
「え? あ、ひゃ!」
呆れ混じりに呟いて、浮かせた腰を下ろして縁側に座りなおす。最初ぽかんとしていた綱吉だったが、三秒経ってから自分の行動を思い出し、赤くなって悲鳴を上げた。
恥ずかしそうに、それでいて申し訳無さそうにしながら、小さな手をもぞもぞさせる。ハンカチはポケットに入っていたのに、ついついズボラを働いてしまって、しかもそれを雲雀に見られてしまった。
無精な自分に恥じ入って、上目遣いに隣を窺えば、雲雀は呆れてはいても見下してはいなかった。
「手拭いを持ってこよう」
面倒見の良い草壁も、そこまで気が回らなかったらしい。果物以外には何も載っていない皿から外へ視線を向けて、雲雀は今度こそ立ち上がった。
とはいっても、なにも母屋まで出向くわけではない。離れにだって小さいながら炊事場はあって、そこに行けば清潔なタオルも何枚かストックされていた。
表面を湿らせ、軽く絞って持ってくるだけだ。さほど労力もかからなければ、面倒な仕事でもない。率先して動こうとする雲雀を見送って、遅れて綱吉はハッと目を見開いた。
「いいです、俺が」
「君はお客さんなんだから、そこに居て」
招いたのは自分だから、遠慮するな。
左手をヒラヒラ振りながら言われて、彼はすらりとした背中が角を曲がって消えるのを見送り、捻った腰を戻して己の爪先を見詰めた。
申し訳なさと照れ臭さが混じり合い、なんとも言えない気持ちになる。ほっこりして、鼻の奥がむずむずするような感覚に打ち震えていたら、約束どおり、雲雀は直ぐに戻って来た。貸し与えられたタオルは絞られた時のまま捩じられており、まるでチョココルネのようだった。
「あったかい」
揃えた掌に置かれた白い筒を緩く握れば、仄かな温かさが伝わって来た。
「丁度、湯があったからね」
「有難う御座います」
「どういたしまして」
ポットの湯をぬるめて、それで湿らせてきたらしい。小さな彼の気遣いに嬉しさがこみ上げてきて、綱吉は肩を揺らした。雲雀は面と向かって礼を言われたのが面映いのか、ぶっきらぼうに言ってぷいっと顔を背けた。
照れているのが丸分かりの態度に笑みを浮かべ、指先を温めながら拭って行く。
「いただきます」
合計十本の指を丁寧に拭き終えた後は、小さく畳んで盆の端に置き、再び爪楊枝を掴む。
雲雀は葡萄を抓んだ。綱吉は林檎を選び、しゃく、と快い音を響かせた。
「うーん、美味しい」
「季節だしね」
「俺、秋って大好き」
じんわり染み出てくる甘い蜜に、顔は勝手に綻んだ。幸せだと嘯いた彼に雲雀が頷き、軒先に広がる秋晴れの空を仰ぐ。
実感を込めて呟いた綱吉に目配せして、彼はひっそり微笑んだ。
「食欲の?」
「それもあるけどー……」
さっきから綱吉の手は、ちっとも止まらない。
あれだけ沢山あった果物も、残り半分を切っていた。そのうち大部分を、彼が消化していた。
この小さな身体の、どこにあれだけの量が入るのだろう。まだまだ食べたりないと言わんばかりの動きに苦笑して、雲雀はさりげなさを装い、彼の足に触れた。
ジーンズの上から太腿をなぞれば、即座に叩き落された。
「ヒバリさんのエッチ」
「太ったんじゃない?」
「ぐ」
行動の裏を読んだ綱吉だったが、そうではないと言外に告げられて口篭もった。
確かに此処のところ、ずっと食べてばかりいる。お菓子も秋の新作が続々発売されていて、しかもチョコレート系が多いものだから、摂取カロリーは必然的に大きくなっていた。
昨晩風呂場で見た自分の裸体を思い出して、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「スポーツの秋とも言うね」
「それは、まあ、はい」
さらりと言った雲雀に、綱吉の返答は歯切れが悪い。言葉を濁し、曖昧に頷くだけに留めて、最後の梨を咥内に捻じ込んだ。
大きな塊を頬張って、咀嚼もそこそこに飲み込んで噎せる。背中を丸めて咳き込んでいる少年に眉目を顰め、雲雀は両腕を頭上高くに伸ばし、全身を撓らせた。
「少しは動いたほうがいいよ」
言いながら目を閉じた彼は、そのまま後ろに倒れていった。
縁側に寝転がった青年に瞠目し、綱吉は楊枝の先を噛んだ。
それくらい、言われずとも分かっている。だが運動神経がゼロに等しく、団体競技ではひたすら仲間の足を引っ張るだけ。体育の授業ではいつだってチーム分けではみ出てしまい、押し付け合いが発生した。
そんな彼が自ら進んで運動に励もうと、どうして思えようか。
幾らか傷ついた顔をしている綱吉に、雲雀はそうと知られぬ程度に溜息を零した。
ちょっとは肉がついている方が柔らかくて触り心地もよいのだが、あまり丸々と太られると見た目も、健康上も宜しくない。もしこれ以上体重が増えるようなら、考え物だ。
その際は雲雀自ら指導してやるべきか。
あれこれ考えていたら、突き刺さる視線を感じた。
「もう食べないんですか?」
「食べさせて」
「はい?」
「葡萄がいいな。ちゃんと皮も剥いてね」
「誰も、やるとは言ってませんけど」
「ほら、早く」
両腕を枕にした雲雀に言われて、綱吉は上唇を噛んだ。暗に嫌だと訴えるが、彼は聞く耳を持たない。
急かし、口を開けた状態で待ち構えられてしまって、やるしかない状況に追い込まれた少年は仕方なく、赤い顔をしながら残り少ない葡萄の粒を房からもぎ取った。
親指と人差し指で挟めば、裂け目から中身が飛び出した。皿に転がった色の薄い球体をつまみ、種が無いのを確認して、そろり、手を伸ばす。
「ヒバリさん」
「ン」
呼びかけて合図を送って、唇の隙間へと葡萄を落とす。即座に肘を引くと、捕まえ損ねた彼が少し悔しそうにした。
指ごと食べるつもりでいたのだ。警戒しておいて正解だったと、綱吉は嘆息した。
あっという間に葡萄を飲み込んだ雲雀が、次を求めて口を開いた。まるで生まれたての雛が、親鳥に餌を強請っているみたいで、なんだか可笑しかった。
「ヒバリさん、赤ちゃんみたい」
「ム、……ん。なら君は、お母さん?」
もうひとつ貰って、飲み込んで、問いかける。綱吉は軽やかに笑い、相好を崩した。
あっという間に葡萄はなくなった。皮の汁で汚れた手を布巾で綺麗にして、彼は房の芯と皮ばかりが残る皿を敷居の方へ退かせた。そうして空いたスペースに身を横たわらせれば、薄目を開けた雲雀が欠伸を零した。
「良い天気ー」
「本当に」
穏やかな風が吹き、暑くもなく、寒くもなく。
絶好のピクニック日和だ。遠出をしなくとも、弁当を持って近所の公園に行くだけでも楽しい。
十月も半ばに差し掛かり、これからはどんどん空気が冷えて行く。こうやって薄着で屋外に出ていられるのも、あと僅かだ。
「僕も、秋は好きだよ」
コツン、と頭をぶつけてこられて、綱吉は目を瞬いた。首を傾がせて隣を見れば、黒い双眸がすぐ其処にあった。
闇色の鏡に吸い込まれる錯覚に身震いして、彼は目を見張った。
「ヒバリさん」
「君が産まれた季節だ」
背筋を伸ばし、天井に向き直った雲雀が囁く。
聞き取れるか否かの音量で呟かれたひと言に、綱吉は我知らず赤面し、悔し紛れに自分からも頭をぶつけてやった。
2011/10/11 脱稿