匂玉

 千客万来、とはこういう事を指すのだろうか。
 昨晩のディーノに続き、今度は六道骸まで。お馴染みのメンバーを引き連れ、徒党を組んで現れた彼は、少し前まで水牢の中に閉じ込められていたに関わらず、すこぶる元気そうだった。
 しかもあろうことか、アルコバレーノのひとり、緑色のおしゃぶりを持つヴェルデと手を結び、虹の代理戦争に参戦するという。
 厄介な相手が出て来たものだ。ボンゴレ霧の守護者でありながら、その中心核たる大空の綱吉に堂々と敵対の意志を表明したのも、実に彼らしい。
 だがひとつ、気がかりがあるといえば、彼に心酔しているクロームだ。もし事の次第を知れば、哀しむに違いない。
 去り際にあの男が残した一言が、綱吉の胸にも重く圧し掛かる。今のあの子は嫌いだと、骸ははっきり、きっぱり、言い切った。
 あんな心優しい子の、いったいどこが気に入らないのだろう。反感を抱くと同時に、あれはあの男なりの気遣いなのかもしれないと思えて、綱吉は唸った。
「むーん」
 確かにクロームは、優しい。芯は強いけれど傷つき易く、身体だって丈夫ではない。
 もし並盛中学校に転入することなく、骸の陣営に居続けたなら、彼女は骸を守る為に懸命に戦うだろう。だが綱吉の側にいれば、綱吉が巻き込みさえしなければ、あの子は安全な場所にいられる。
「うーん……」
「なんだツナ、トイレか?」
「失礼な事を言うな、野球馬鹿!」
 肩にリボーンを乗せたまま唸り続けていたら、隣を行く山本が笑いながら問いかけてきた。即座に反対側にいた獄寺が牙を剥き、ダイナマイトをちらつかせながら吼えた。
 今にも咥え煙草で点火させそうな勢いの彼を呵々と笑い、山本はいつものように楽しそうに目を細める。本気だと取っていない態度に腹を立てて、獄寺がまた大声を張り上げた。
 朝から近所迷惑なふたりに苦笑を零し、綱吉は急に軽くなった肩に目を瞬いた。
 真ん丸い目を右に流せば、山本の肩を経由したリボーンが、小さな身体をブロック塀の上に移動させていた。
 先ほどまであった重みと温もりを探して左肩に触れて、首を傾げる。
「リボーン?」
「ヴェルデが骸と組んだとなりゃ、対策を練らねーとな。俺は戻る。お前らも早くしねーと、遅刻すっぞ」
「え?」
「あ!」
 黒いボルサリーノをきゅっ、と被りなおし、黄色いおしゃぶりをぶら下げた赤子が不遜に言い放った。告げられた台詞に綱吉はきょとんとしたが、いち早く気付いた獄寺が急に叫んだ。
 呼応するかのように山本も目を見開き、幾らか顔色を青くした。
「やっべえ。遅刻だ」
「うわあ!」
 余裕を持って家を出たのに、骸に会った所為で時間がなくなってしまった。慌てて時計を探すが、綱吉はそんなもの、持っていない。
 と思えば獄寺が携帯電話を覗き込んで、素っ頓狂な声を上げた。吃驚して山本とふたりして身を寄せ合い、恐る恐る獄寺の後ろに忍び寄る。盗み見たデジタル時計は、予鈴の四分前を表示していた。
 前を見る。右を見る。建物の影に見え隠れする中学校まで、全力疾走して三分かかるか否か。
「急げっ」
 山本が号令を発した。獄寺が瞬時にスタートダッシュを決めて飛び出す。綱吉ひとりが出遅れて、早速遠くなった友人の背中を必死に追いかけた。
 学校には一切関係のない赤子に見送られて、中学生三人組が横並びになって地面を蹴って走る。しかし徐々に体格差、運動神経、そしてなにより体力の差が現れて、最後の方では最後尾は先頭からかなり引き離されてしまった。
「せーーっふ」
 序盤で獄寺を追い抜いた山本が、余裕の表情で正門を潜り抜けた。見張りとして立っていた風紀委員の数名が渋い顔をしたが、チャイムはまだ鳴り始めてもいない。
 続けて獄寺が境界線を跨いで、直後、設置されたスピーカーから高らかとチャイムが鳴り響きだした。
 周辺が一気にざわつき始めた。他にもぎりぎりだった生徒が最後の力を振り絞って走って、正門前が急に混雑を開始する。鉄製の門を越えて外に出た風紀委員が、近付く生徒がほかにいないかを確かめ、視線を巡らせた。
「ツナは?」
「まだだ」
 乱れた息を整えていた山本が、獄寺を見つけて問いかけた。肩を上下させた銀髪の少年は、顎に滴る汗を拭い、後ろを振り返った。
 他学年の生徒に押されて、前につんのめった彼の目の前で、正門が緩やかに閉まり始めた。チャイムが半分までメロディを刻んだ。これが鳴り終わると、遅刻扱いになる。
 余韻を刻む音色にじりじりして、獄寺は唇を噛んだ。
「十代目、早く!」
 もうそこまできているだろうに、塀の所為で姿が見えない。足踏みしながら待っていたら、門扉の影から茶色い塊が飛び出して来た。
 綱吉だ。
「ツナ!」
 あと五秒ある。急げば本当にぎりぎりのぎりぎりで、間に合う。
 だのに。
「ここまで」
 日頃より三秒早く、正門は閉ざされてしまった。
 最後の一音が宙に放たれるより早く、鉄門がぴしゃりと閉ざされる。腕を挟まれる寸前だった綱吉は急いで半歩下がり、無事だった右手を胸に大事に抱え込んだ。
 どっと冷や汗が出た。危険極まりない行為に出た風紀委員に怒りを抱き、獄寺が雄叫びを上げた。
「お前ら、十代目になにかあったらどうするつもりだ!」
 あと少しだった。間に合うはずだった。
 それを無情にも打ち砕いた背中に向かって吼えた獄寺を、後ろから抱え込んだのは山本だった。
「落ち着けって、獄寺」
「うっせえ、放せ」
 取っ組み合いの喧嘩を始めたふたりを、今度は長ラン姿の風紀委員が引き剥がす。じたばた暴れる獄寺の視界に、申し訳無さそうにしている綱吉の姿が映った。
 気付いた彼は手を振り、先に教室へ行くよう促した。
「獄寺君たちまで遅刻になっちゃう」
「しかし」
「いいから、行こうぜ。ツナなら大丈夫だろ」
「なんでンなこと……って。チッ」
 渋る獄寺の肩をたたき、山本が顎をしゃくった。妙に聞き分けのいい彼に怪訝にしてから視線を正門に戻せば、望む人は別の背中に隠されて見えなくなっていた。
 黒髪の後姿には覚えがあり、理解した獄寺は嫌そうに舌打ちした。
「十代目がそう仰有るのなら……」
 言い訳めいた言葉を発して自分を無理矢理納得させて、獄寺は落とした鞄を広い、乱れた制服を調えた。もうひとつ、外にまで聞こえるように大きく舌打ちして、急かす山本に続いて校舎へと駆け込む。
 クラスメイトふたりが無事授業に間に合いそうなのにホッとして、綱吉は意識を目の前に戻した。
 気難しい顔をして立っている青年と目があって、瞬時に逸らし、首を竦めて俯けば、頭の上に溜息が降って来た。
「生徒手帳」
「はぁい……」
 あと一歩だったのに、と心の中で愚痴を零し、言われるままに綱吉は鞄を探った。ポケットから薄い手帳を引き抜いて、差し出す。受け取った青年は慣れた手つきで表紙を捲り、赤文字で埋まりつつあるページで手を止めた。
 日付の隣には遅刻という文字が、数え切れないほどに並べられていた。
「また夜更かししたの?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
 暗に寝坊かとの問いかけに、綱吉は首を振って否定して、その続きを言い渋った。
 骸の事を正直に告げて良いかで迷う。相手が相手だけに、下手に教えると火に油を注ぐことになりそうだ。
 数日前、黒曜中学校にひとりで殴りこみに行ったという話も耳にしている。その時は幸い、骸は日本を離れていたので騒動には発展しなかったのだけれど。
 足りない頭であれこれ考えていたら、渋面が面白かったらしい、見守っていた雲雀がクスリと笑った。
「次からは、もうちょっと早く家を出るんだね」
「間に合う時間に出たもん」
 事情を知らない彼に偉そうに言われて、つい愚痴が零れた。
 口を尖らせてぼそりと言った綱吉に、雲雀がおや、と首を傾げる。眉目を顰めた彼にはっとするが、もう遅い。
 物憂げな表情からなにかを気取り、雲雀の目つきが瞬時に鋭くなった。
 他の風紀委員は取り締まりを終えて、各々の教室に戻っていった。唯一、副委員長の草壁だけが門を入って直ぐのところで待っていたが、雲雀の視線を受けて深々とお辞儀すると、くるりと反転して去っていってしまった。
 周囲から人気が消えた。サーっと青くなった綱吉の手を取り、雲雀は正門ではなく、その隣の通用門を押し開いた。
「ヒバリさん」
「なにがあったの」
「べ、別に。なにもありません」
 引っ張られてつんのめり、倒れそうになった綱吉は踏ん張ると同時に吐き捨てた。ぷいっと首を背けて視線を外し、居心地悪げに身を捩る。
 手はまだ握られたままだ。生徒手帳も奪われたままで、これでは教室に向かえない。
 予鈴の五分後に、本鈴が鳴る。それまでに教室に入れなければ、一時間目は欠席扱いにされてしまう。
 遅刻の上に出席点まで失うのは辛い。かといって雲雀の手は、容易くは振り解けない。
 抵抗するが案の定無駄に終わって、綱吉は奥歯を噛み締めた。生意気な態度にむすっとして、雲雀は仕返しのつもりか、手首に爪を立ててきた。
「いった」
 皮膚を抉られて、細い三日月が肌に刻まれた。少しだけ白くなった患部に苦虫を噛み潰したような顔をして、綱吉は苛立っている風紀委員長に肩を落とした。
 言ってもいいのだろうか。
 彼もまた、綱吉の守護者のひとりだ。アルコバレーノの代理として綱吉が戦いに馳せ参じるかもしれないと知れば、きっと雲雀も無関係でいられない。
 なにより彼は、戦いがとても好きだ。強い相手と遣り合えると聞けば、是が非でも駆けつけるだろう。
 けれど。
 クロームと同じように、出来れば彼も巻き込みたくないと、綱吉は思っている。
 雲雀恭弥は並盛中学校風紀委員長であり、学校のみならず地域のあれこれを取り仕切る忙しい身分にあった。そんな彼の手を煩わせるような真似はしたくないし、なにより危険に晒したくない。
 本人に聞かせれば生意気だといわれそうだが、これが綱吉の本音だった。
 彼ほど味方でいてくれたら心強い人は居ない。彼がいなければ、綱吉はきっと、炎真を助けることも出来ずに朽ち果てていた。
 それでも、尚。
「沢田綱吉」
「ヒッ」
 険しい声で名前を呼ばれて、意識を引き戻された。気付けばすぐそこまで雲雀の顔が迫っており、整った鼻梁のアップに背筋が震えた。
 熱を含む呼気を浴びせられて、唇が震えた。胸の奥がざわざわして、勝手に身体が熱くなった。
 と、雲雀の顔がスッと上に流れた。つられて綱吉の瞳も、行方を追って上に向かった。
「ヒバリさん?」
 どうしたのかと怪訝にしていたら、ふんふんと鼻を鳴らされた。近付いては離れ、また近付いて、眉間の皺を深くする。
 犬のように嗅いで来る彼に戸惑っていたら、急に手を解放された。
「変な臭いがする」
「ええ?」
 ついでに突き飛ばされて、たたらを踏んだところでいきなり言われた。思いも寄らぬ一言に素っ頓狂な声をあげ、綱吉は左手を顔の前に持って行った。雲雀がしていたように鼻に寄せて匂いを探るが、これといった香りは別段感じられなかった。
 強いて言うなら石鹸の匂いくらいか。しかし果たしてこれが、彼の言う変な臭いなのかどうかは、分からなかった。
 首を傾げる綱吉に不満げな顔をして、雲雀は生徒手帳の背で頭を叩いてきた。
「わっ」
「並盛じゃない臭いがする」
 咄嗟に身構えた彼の額に声が落ちて、砕けた。素早く欠片を拾い集めた少年は、両手をきゅっと握り締めた後、寒気を覚えてふるりと震えた。
 些か自信なさげな雲雀の台詞に慄き、顔を青くする。
 見開かれた琥珀の瞳に現れた動揺を敏感に受けとめて、並盛中学校の支配者たる青年は不機嫌に上唇を噛んだ。
「南国果実が、僕の並盛に、何の用」
「やっ、あの、えっと。その、たいした話じゃなくてですね」
 ここで否定しておけば誤魔化せたかもしれないのに、根が正直な綱吉はつい、用意できていない言い訳を探して両手を泳がせた。
 しどろもどろに言葉を紡ぐ彼に確信を深め、雲雀は益々顔つきを険しくした。今にも門を飛び越えて、黒曜町まで殴りこみにいきそうな勢いだった。
 咄嗟に手を伸ばした綱吉は、彼の制服を抓んで引っ張った。
 紺色のベストが伸びて、毛糸が指に絡んだ。動きを邪魔されて出足を挫かれ、雲雀は苦々しい顔をして小さく舌打ちした。
 睨まれた綱吉が恐怖に竦み、手を放した。ベストはすぐに真っ直ぐに戻って、もう彼がどこをつかんでいたのかも分からなくなってしまった。
 それを敢えて撫でて整え、雲雀は腹立たしげに息を吐き、黒髪を掻き回した。
「なにもされてない?」
 綱吉達が遅刻ぎりぎりに学校に駆け込んできた理由がようやく分かって、彼は並盛町に紛れ混んだ異分子に気づけなかったことを悔やみ、険しい顔をして呟いた。
 低い声での質問に、綱吉は間髪入れずに頷いた。
 宣戦布告はされたが、これは雲雀が言う「なにか」に合致しないはずだ。嘘は言っていないと自分を励まし、綱吉は鞄を強く抱き締めた。
 他にも隠し事がある雰囲気を嗅ぎ取った雲雀だったが、問い詰めるのは早々に諦めた。最近の綱吉は、時にとても頑固だ。融通が利かなくなったともいえる。脅しに屈することも減った。
 以前との違いに戸惑うが、新たな発見をするのもまた楽しい。
 ふっと微笑み、彼はくしゃくしゃになっている綱吉の頭をぽん、と叩いた。
 そして。
「脱げ」
「……へ?」
「脱ぎなよ、服」
「ちょっ、えええ!」
 唐突に言われて、綱吉は甲高い悲鳴を上げた。
 有無を言わさず着ているベストを引っ張られて、鞄を振り回して必死に抵抗する。けれど雲雀の力はそれ以上で、抗いきれぬまま、綱吉はブロック塀の間際まで追い詰められてしまった。
「な、なに考えてるんですか。朝ですよ。外ですよ。ヒバリさん?」
 ならば夜の屋内ならいいのか、という話はよそに置いて、声を上擦らせた彼に、雲雀は眉を顰めた。
 変な顔をされた。不思議そうに見詰められて、鞄を抱く腕の力が一瞬弱まった。
 隙を見逃さず、雲雀が脇腹を掴んだかと思った瞬間、ベストの裾が胸郭まで捲し上げられた。
 真上に引っ張られて、握りが甘くなった鞄が地面に落ちた。静電気がぱちぱちいって、目の前で弾ける。鼻先に受けた衝撃に息を飲み、顔を無茶苦茶に引っ掻かれる感覚に鳥肌を立て、綱吉は最後、へなへなと膝を折ってその場に崩れ落ちた。
 肌寒い季節だ、ベストを取られたら当然冷える。
 冬に近い晩秋の風に身を震わせて奥歯を噛み締めていたら、紺色のベストがばさりと降って来た。頭からずり落ちたそれに視界を塞がれて、彼は首を振った。
 奪ったと思いきや、返却するとは、いったいどういう了見だろう。
 意味不明な雲雀の行動に戸惑っていたら、チャイムが鳴った。我に返り慌てて顔からベストを引き剥がせば、目の前に聳え立つ青年もまた、何故か上着を着ていなかった。
 綱吉と同じ紺色のベストを身につけていたはずなのに、それがない。代わりに、綱吉のものと思われるベストを右手に握り締めていた。
「……え?」
 では、今綱吉が持っているものは、誰のものか。
「ヒバリさん?」
「早くそれ着て、教室いきなよ。授業が始まるよ」
 真ん中で折り目のついた生徒手帳も投げ返されて、綱吉は受け取った台詞に目を瞬いた。
 余裕が無いのに手帳を広げて今日の日付を確かめる。赤文字は、記されていなかった。
 頭にクエスチョンマークを生やし、綱吉は今一度ベストと、雲雀とを見比べた。彼は仄かに赤い顔をして目を逸らし、幾らかサイズの小さいベストで腰や太腿を意味もなく叩いた。
 ともあれ、このままでは寒い。言われるままにベストを着ると、案の定、少し大きかった。
 肩がずり下がりそうになる。微かに他人の体温を残す上着に包まれて、胸の中まで温かくなるようだった。
「ふふ」
「ほら、授業」
「ひゃっ」
 笑っていたら叱られた。蹴られて、綱吉は慌てて立ち上がった。
 鞄を拾い、ぶかぶかのベストを着て駆け出す。雲雀は追いかけてこない。あの、並盛以外の臭いが染み付いてしまったベストがこのあとどうなるのかは、考えない方がよかろう。
「えへへ」
 朝から変な奴に絡まれて憂鬱だったのが、一気にどこかへ行ってしまった。
 並盛の、雲雀の匂いに包まれて、綱吉は幸せそうに微笑んだ。

2011/10/06 脱稿