鳴謝

 世界が回る。
 ぐるり、反転して。
「いでっ」
 天井が見えた。
 ゴンッ、という重い音に続いた悲鳴に、雲雀は顔を上げた。読みかけの資料を机に置いて、視線を手元から前へ移動させる。
 もれなく応接セットの足元で、頭を下にして倒れている少年が見て取れた。脚がソファに残ったままなので、寝ぼけて上半身だけを横に滑らせ、落ちたらしい。
 もれなく逆さを向いた視界で、綱吉は呆れ顔の雲雀に空笑いを浮かべた。誤魔化そうとして失敗して、ぶつけて痛い頭を抱えて脚も揃えて床に下ろす。
「い、てて……」
「器用だね」
「そりゃ、どうも」
 丸くなって後頭部を撫でていたら、嘆息混じりに言われた。嫌味に皮肉で応じて、首を振る。ふわふわの髪の毛が僅かに遅れて動きに従った。
 薄茶色の髪は毛先が天を向き、寝癖を通り越してある種のアートと化していた。どれだけ櫛を入れても、ドライヤーの熱風を浴びせようとも、なかなか真っ直ぐ下を向かない。大量の水で濡らしても、乾かした途端に爆発した。
 きっともう一生、この天然パーマからは逃げられないのだ。本人も諦め気味で、最近では寝癖すら直そうとしなくなった。
 明後日の方向を向いて毛先が跳ねている姿は可愛らしくもあるが、ややみっともない。せめて軽く櫛で梳いてくるくらいはして欲しいと、雲雀は毎朝、ひっそりと思っていた。
「起きた?」
 身じろいでソファに戻った少年に問いかければ、彼は小さく欠伸を零し、首の後ろを引っ掻いた。
 打ったところがまだ痛いらしく、頻りに気にしている。後は寝転がっていた時の体勢が悪かったようで、やたらと肩を回したり、腰を捻ったりしていた。
 ボキボキ言うのが雲雀にまで聞こえた。眉間に皺を寄せた青年を盗み見て、綱吉はもうひとつ欠伸をし、目尻を擦った。
「俺、どれくらい」
「十分くらいかな」
 此処は並盛町の、並盛中学校の応接室だ。即ち、風紀委員のお膝元であり、委員長の根城の真っ只中。
 一般生徒の大半は前を通り抜けるのさえ忌避する場所で堂々と昼寝を楽しんでいた少年は、悪びれる様子もなく頷き、三度目の欠伸を手で覆い隠した。
 両腕を真っ直ぐ上に伸ばし、背筋を反らして全身の筋肉を解す。
 もっと眠っていたような気もするし、一瞬だった気もした。意識を途切れさせる前の出来事を振り返りながら壁の時計を見れば、雲雀の言う通り、さほど時間は過ぎていなかった。
 昼休みも後半に差し掛かっていた。テーブルの上には奈々が持たせてくれた弁当の空箱が、風呂敷に包まれて鎮座していた。
 片付けた覚えが曖昧なのは、その頃から既に夢うつつの状態だったからに違いない。四時間目の授業が終わる頃には、睡魔はかなりのものだった。
 よくぞここまで、力尽きずに辿り着けたものだ。以前から通いなれていたお陰だと自分に苦笑して、彼は今一度、時計の針をじっくり眺めた。
「あと五分……」
「まだ寝るの?」
 応接室から教室に戻る時間を計算し、もう少し眠れそうだと呟いた彼に、雲雀が頬杖つきながら言った。
 夜もたっぷり睡眠を取って、授業も半分舟を漕ぎながら聞いているくせに、まだ寝足りないらしい。そのうち目玉が腐るぞ、と内心思っていたら、綱吉は頬を膨らませ、不満げに口を尖らせた。
「駄目ですか?」
 甘えた声で強請られて、雲雀はそっと溜息をついた。
 ついうっかり、許してしまいそうになった。弱々しい小動物を演じる術を覚えてしまった少年に緩く首を振り、雲雀は机の角を叩くと背筋を逸らした。
 椅子に体重を預け、偉そうに胸を張った状態で冷たく言い放つ。
「だめ。次、体育でしょ」
 彼のクラスの時間割を思い浮かべながら言うと、今になって思い出した綱吉はハッと息を飲んだ。
 そういえばそうだった。考えている事がそっくりそのまま顔に出ている彼に落胆し、雲雀は膝の上に置いた手を結び合わせた。指を互い違いに絡めて軽く握り、椅子をギシギシ軋ませる。
「遅刻は、許さないよ」
「ちぇ。はぁ~い」
 体育教師が腹痛かなにかで倒れて、自習になれば良かったのに。愚痴を零しつつ、綱吉は蜂蜜色の頭を掻き回して間延びした声を出した。
 ソファの上で身じろいで、けれどなかなか動き出さない。
 早く着替えないと、どんどん時間は減って行く。チャイムが鳴り終わる前にグラウンド、もしくは体育館に集合していなければ、もれなく遅刻扱いになるというのに。
 じれったい彼に苛々して、雲雀は手を解き、床を蹴った。
 ついでに机まで蹴ってしまい、ゴトゴトと大きな音が立て続けに響いた。ぼうっとしていた綱吉はビクリと肩を震わせて、雲雀に向かって改めて愛想笑いを浮かべた。
「沢田?」
 腰を浮かせた彼の右手が、背中に回ろうとしていた。
 低い声で名前を呼ばれて、圧倒的な迫力に息を飲む。次の瞬間、雲雀は銀に輝くトンファーを握っていた。
 その凶器が何の為にあるのかくらい、知らない綱吉ではない。間違っても餅つきをする為の道具でないのは明白で、彼は背中に冷たい汗を流すと、浅い眠りの名残を追い払い、首をブンブン振った。
「た、たっだいま!」
 慌てふためき両手を伸ばし、軽くなった弁当箱を攫って傍らの鞄に押し込む。入れ替わりに出て来たのは、体操服だ。
 白の半袖シャツには薄水色のラインが入り、上に羽織るジャージと長ズボンはラインと同じ色。三点セットを膝に置いた彼に、雲雀は取り出したばかりのトンファーを素早く片付けた。
 両手を空にして、どっかり椅子に座りなおす。
 居丈高に構える彼に苦虫を噛み潰したような顔をして、綱吉は鞄を床におろし、立ち上がった。
「あの……」
 その上で部屋の主を窺えば、心得ていた雲雀は鷹揚に頷いた。
「いいよ」
 怯え気味の眼差しを真っ直ぐ見詰め返し、許可を与える。綱吉は露骨にホッとした顔をして、ようやく着替えるべく、ネクタイを外しに掛かった。
 結び目を緩めてしゅるりと引き抜き、続けて紺色のベストを脱ぐ。静電気が起きないよう慎重に、ゆっくりと。もぞもぞ身じろいだ末にようやく頭から引き抜いて一息ついた後は、下に着込んだシャツのボタンを外して行く。
 鈍い動きにイラつくが、それが彼のペースなのだから仕方が無い。急かしたところで失敗して、余計に手間取るだけだと学習済みで、雲雀は敢えて何も言わずに過ごした。
 手元の資料に目をやるが、衣擦れの音が気に障って集中できない。
 我ながら情けないとひっそり溜息を零し、彼はもたもたしている少年に目を眇めた。
 思い切って立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。机を迂回して応接セットの傍に寄れば、丁度綱吉の肩から長袖シャツが滑り落ちるところだった。
 軽やかに宙を舞う白い布は、まるで天女の羽衣だ。奪い取って隠さなければ、いつか天に帰ってしまう。
 無意識に手を伸ばした雲雀だったが、指が目当てのものを掴み取る前に、敢え無く綱吉によって死守されてしまった。まさかそこに彼がいるなど思っていなかった少年は、琥珀色の目を真ん丸にして口を間抜けに開いた。
「ヒバリさん?」
「……いや」
 足音を立てず、気配を殺して動き回るのは、彼の癖だ。雲雀相手だと超直感も殆ど働かなくて、綱吉は吃驚したと呟き、己の体温が残るシャツを握り締めた。
 皺の寄った布から顔を上げ、雲雀は肌色の面積を広げた綱吉に見入った。
「まだ教室は怖い?」
「そういうわけじゃ、ないですけど」
 静かに問えば、彼は言い辛そうに口篭もった。否定の文言を吐くものの、下を向いて目を合わせようともしない。
 煮え切らない態度に腹を立てるより、小さな切なさを覚え、雲雀は拳を固くした。
「同じことだよ」
 囁いて、意識して四肢の力を抜く。持ち上げた右腕、伸ばした人差し指で触れたのは、綱吉の細い肩だ。
 他人の体温が肌を刺して、その瞬間だけ彼はピクリと反応した。だが依然、顔は上げない。俯いて肌寒さに鳥肌を立てるばかりだ。
 奥歯を噛み締めていると分かる表情を眺め、雲雀は指をツ、と斜め下に滑らせた。鎖骨を通り越えて脇腹に達しようとした辺りで停止して、ゆっくり離れて行く。
 もれなく雲雀の熱が遠ざかった。安堵すると同時に一抹の不安と、心細さが綱吉の中に残った。
 薄く開いた唇から息を吐いて、彼は瞳を左に流した。視界に、今し方雲雀が触れた場所が入って来た。
 目を覆いたくなるような傷跡が、そこにくっきりと刻まれていた。
 傷自体は既に塞がっている。骨に入っていたヒビも塞がって、すっかり元通りだ。
 身体を動かすことに、なんら不都合は生じていない。激しい運動は控えるよう、校医の男に釘を刺されてはいるものの、体育の授業程度ならば特に問題はないらしい。
 こうやって、五体満足に生きていられることが奇跡。
 そう言われる程の重傷を負いながらも、綱吉は今現在、此処に居る。それは即ち、彼の運命がまだ死ぬ時期ではないと告げたからに他ならない。
「ヒバリさん」
 互いに目を合わせぬまま向き合って、暫く黙り込む。そこに居られると動き辛く、着替え難くて、綱吉は恐る恐る名前を呼び、腕を振って制服で彼の手を叩いた。
 微かな刺激に目を瞬いて、雲雀はゆるりと首を振った。
「背中」
「え?」
「見せて」
 ぼそぼそと言われて、聞き取れなかった綱吉は顔を上げた。その先でやけに神妙で、儚げな表情を見出してしまって、嫌だとも言えずに口を噤む。
 脱ぎたてのシャツを胸に抱えてゆっくり後ろを向けば、すかさず長い指が伸びてきた。
「ひっ」
 触れた冷たさに悲鳴をあげて、彼はきゅっと脇を締めて縮こまった。首を竦めて小さくなって、そうっと表皮をなぞる感覚を追いかけぬよう、意識を他所へ向けるべく足掻く。
 だが、ささやかな抵抗は無駄に終わった。どうしても気持ちが、想いが、雲雀の手を辿ってしまう。
 あらゆる器官が息を潜め、雲雀を絡め取ろうと機を狙っていた。
 綱吉の、さほど広いともいえない背中には、一面に渡って鎖骨のものとは比べ物にならない傷跡が刻み付けられていた。
 十年後の未来、不条理が支配する世界に懸命に抗った彼が、戦いの最中に負った傷だ。四刀流の男によってつけられた十字の跡もまた、すっかり癒えて久しい。
 生々しい傷跡だけが、当時の戦いの激しさを伝えていた。
「痛い?」
「痛くはない、です。けど」
 二本の筋が交差する点、背中のほぼ中心に指を置き、雲雀が問うた。綱吉は言い難そうに口をもごもごさせて、そうっと肩越しに背後を窺った。
 表情は見えない。先ほど感じた切なげで、哀しげな空気は、幾らか薄らいでいた。
「けど?」
 半端なところで途切れた綱吉の、続きを促して雲雀が少し力を強めてきた。背骨の上を這いまわる温い熱にゾクリとして、彼は息を飲み、口を尖らせた。
 言いたくない。だが言わなければ、雲雀は勝手な想像を働かせて一方的に決め付けてくる。
 もう長い付き合いだ。彼の性格はとっくに把握済みだ。
「……くすぐったいです」
「そう?」
「ひゃあ!」
 渋々、一番無難な感想を述べて誤魔化そうとした矢先、雲雀の指がつい、と動いた。いきなり上に向かって擽られて、綱吉は跳びあがると同時に変なところから声を響かせた。
 十四歳としては少々高過ぎる、声変わり前のボーイソプラノ。
 真っ赤になった彼を見下ろして、雲雀は楽しげに目を眇めた。
 意地悪い青年を恐々振り返って、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ヒバリさんってば」
 琥珀色の瞳には、うっすら涙が浮かんでいた。弱りきった表情に満足そうに頷いて、雲雀はぺろりと唇を舐めて顎を撫でた。
 獲物を見定めている双眸に寒気を覚え、綱吉が己を強く抱き締めた。距離を広げようとして足を前に出し、ソファに引っかかって転びそうになる。
「うわ」
「沢田」
 みっともなく悲鳴をあげて両手をバタつかせた彼に、雲雀は咄嗟に手を伸ばした。華奢な肩を捕まえて、残る手で細い手首を掴む。花開いた指先から白いシャツがはらりと落ちた。
 抱き締めるところまではいかない、後ろから不自然に束縛した状態で停止して、雲雀は短く息を吐いた。
 肩を上下させて、寒さ以外の理由で震えている少年に見入る。
「十字架みたいだ」
 消え入りそうな声で囁かれた言葉に、壁を見詰めていた綱吉は瞠目した。
 指が再び動き出す。つい、と軽く表皮をなぞられて、脳裏にあの瞬間が蘇った。
 空中で不利な体勢のまま、自在に剣を操る男に翻弄された。決死の覚悟で挑み、どうにか退けるのには成功したけれども、背負わされた傷はあまりにも深かった。
 敵地の真っ只中で、治療が受けられるわけもない。簡単に消毒と止血処理はしたけれどそれだけで、お陰で本来なら簡単に消えるはずの傷跡は未だくっきりと、この身体に残されたまま。
「そんな、大層なものじゃないですよ」
 解放された手を胸の前で重ね、擦り合わせることで摩擦熱を生む。僅かでも温まろうと足掻きながら、控えめに、苦笑を交えて呟く。
 雲雀は返事をしなかった。飽きもせず人の背中を撫で回し、傷跡をなぞって、過ぎ去った日を否応無しに思い出させる。
 白蘭。綱吉たちが飛ばされた十年後の世界で、己の欲望の為にあらゆるものを踏み躙っていた男。人の命を軽んじ、気に入らぬものは徹底的に破壊し、望むものを得る為ならば手段を選ばなかった。
 ユニを人としてではなく、便利なアイテムだと言い放った男を、どうしても許せなかった。
 あの時はああするより他に、道はなかった。
 白蘭を斃さなければ、戦いは終わらなかった。生かしておいても、反省は望めない。ましてや、更正など。
 たった一人を殺せば、世界は救われるのだ。天秤にかけるまでもない決断だったと、人が聞けば言うかもしれない。
 だがどれだけ言い訳を繰り返そうとも、綱吉が人を殺したのは確かだ。ユニの最後の願いにより、白蘭によって破壊されたあらゆる平行世界の未来は元の形を取り戻した。無論、綱吉たちが闘った時間軸もまた、大きな変化を見たに違いない。
 我欲の為に白蘭が力をふるった世界は、消滅した。それは即ち、白蘭自身の命もまた救われた事になる。
 それでも、綱吉がひとりの人間を断罪した事実は覆らない。
「この傷、もしかしたら一生消えないかも」
「どうして?」
「だって普通……恨むでしょう」
 綱吉の背中を斬ったのは、白蘭を敬愛し、死の瞬間まで彼を信奉し続けた男だ。いいように使われて、捨て駒としか思われていなかったとしても、幻騎士が彼に抱いていた尊敬の念に偽りはなかったはずだ。
 その白蘭を、綱吉は殺した。消した。
 無に帰した。
 綱吉達が今生きているこの時間の先で、幻騎士が白蘭に遭遇する確率は著しく減少したことだろう。未来の世界で築かれていた一歩的な主従関係も、信頼も、綱吉は一緒に吹き飛ばしたのだ。
「そうかな」
「そう、ですよ」
 炎真を救いたかったのだって、似たようなものだ。
 一度は交わった時間を、なかったものにしたくなかった。折角友達になったのだ、この先もずっと同じ関係でいたいではないか。
 友情にヒビを入れたデイモンを憎んだ。足掻いた。逆らった。
 同じだ。
「着替えます」
 このままだと授業に遅れてしまう。思考を切り替え、綱吉は現実に戻って呟いた。
 雲雀が手を止めた。後ろで息を飲むのが分かった。顔は見えない。見たくもなかった。
「君を憎んでいるのは、君自身だろう?」
 声も聞きたくなかった。だのに雲雀は、口を開いた。容赦なく切り込んで、綱吉の塞がった傷を抉った。
 細い肩が大きく跳ね上がった。拳を作り、勢い良く振り返る。今にも泣き出しそうな顔で睨まれても、雲雀は驚きも哀しみもせず、能面に近い表情で静かに彼を見詰め続けた。
「許したくないのは、君だろう。自分を、罪人だと」
「だってそうじゃないですか!」
 癇癪を爆発させて、気がつけば怒鳴っていた。
 かぶりを振り、声を荒げる。図星を指されて、胸が痛くて仕方が無い。
 たとえ未来が変わり、過去に戻り、白蘭を殺した事実が消えても、綱吉の手にはあの一瞬の感触が今のはっきりと残されているのだ。
 彼はこの手で、ひとりの男の未来を摘んだ。握り潰した。消し飛ばした。
 罪に問われる日は来ない。他に方法がなかった。未来を、仲間を、世界を守る為にはやむを得なかった。
 仲間は皆、褒めてくれた。良くやったと肩を叩いて、頭を撫でてくれた。
 だのに気は晴れない。胸の奥底には暗く重いものが沈殿して、時々嫌な臭いを放って綱吉に絡みついた。寝ようと目を閉じれば、白蘭の顔が浮かんだ。間際の囁きが耳から離れない。眠りは、自然と浅くなった。
 炎真達が転校してきて、友達になって、さほど面白いことがあったわけでもないのに笑い合える時間が増えるに従い、思い出す事は少しずつだが減っていった。
 いつか、完全に忘れ去ることは出来なくても、悪夢に魘されることはなくなるのではないか。そう考えた時期もあった。
 だのに。
「無理です。俺は、間違いなくこの手で白蘭の息の根を止めた。許せるわけがない。許していいわけがない」
 誰も覚えていなくても、自分だけは覚えている。
 誰も咎めないというのなら、自分で自分に罰を与えよう。
 空っぽの手を震わせて、綱吉は息巻いた。堪えきれなくなった涙がひとつ、頬を伝って落ちて行く。一度箍が外れたものは、なかなか元には戻らない。静かに、はらはらと零れて行く透明な雫を見詰め、雲雀は長い時間をかけて息を吐き出した。
 呆れるでもなく。
 憐れむでもなく。
「僕は君の抱える痛みを、共有することは出来ない」
「……そうですね」
 ただ淡々と、現実をありのままにことばに乗せる。偽らない、飾りもしない、突き刺さるひと言に、綱吉は淡い笑みを浮かべた。
 慰めなど欲しくなかった。上面だけを取り繕った、お仕着せの言葉など、要らない。
 俯き、しゃくり上げる少年を見詰め、雲雀は手を伸ばした。柔らかな毛先に触れて、優しく包み込む。
 引き寄せられても、綱吉は抗わなかった。
「でもね、沢田。感謝なら出来るんだよ」
 ぽすん、と彼の胸板に額を寄せて、掴むものを求めて泳いだ手が凍りついた。耳元で囁かれた言葉に愕然として、三秒後我に返って顔を上げる。
 バッと勢い良く振り仰いだ彼に、雲雀は穏やかに微笑んだ。
 久しぶりに彼を見た気がした。
「ヒバリさん……?」
「未来の僕は、君になにか、言っていた?」
「え? ――え、いえ」
 急に話の矛先を変えられて、綱吉は面食らった。瞬時に瞼の裏に蘇るのは、成長を遂げた目の前の人。黒いスーツを身にまとい、今とそう替わらない愛想のなさで、けれど少しだけ人を気遣い、労われるようになっていた。
 短くなった前髪から覗く黒水晶の双眸はどこか哀しげで、寂しそうだった。
「そう。まあ、僕だしね。言わないだろうね」
「あの。どういう?」
 自分自身のことだから、手に取るように分かる。含みを持たせて笑った彼に、意味が分からないと綱吉は首を捻った。
 未来の雲雀は、綱吉に稽古をつけてくれた。匣兵器相手の戦い方を、容赦ない攻撃でもって身体に叩き込んでくれた。
 彼が居なければ、綱吉の今はない。徹底的に痛めつけられたが、妥協のない姿勢には感謝している。
 たとえそれが、未来の沢田綱吉がいなくなってしまったことへの腹いせだったとしても。
 そう、未来のあの時間に、綱吉はいなかった。後から死んだのではなく、仮死状態になっただけと教えられたけれども、一時期は本当に、そう信じ込んでいた。
「ヒバリさん」
 続きを紡ごうとしない雲雀に焦れて、大きな手を取る。袖を抓んで引っ張ると、彼は二度瞬きをして、ふっ、と微笑んだ。
 その色っぽい眼差しにどきりとして、綱吉は顔を赤らめた。
 無性に背中が痒くなって、膝が勝手にもぞもぞ動いた。急に色々な事が恥ずかしくなってしまい、目を逸らして俯いていたら、堪えきれなくなったのだろう、雲雀がぷっ、と噴き出した。
「はは」
「ヒバリさん!」
 真剣な話をしていたのに、笑うとはなにごとか。憤慨して怒鳴れば、彼は打ち込まれた拳を楽々と受け止めて目尻を下げた。
「有難う」
「――っ」
 その上で耳朶に触れる近さで囁かれて、背筋が粟立ち、全身に電流が走った。
 雷で打たれたような衝撃に、危うく心臓が止まりかけた。
 彼が礼を言うなど、今までありえないことだった。
 信じられない出来事に呆気に取られ、呼吸さえ忘れかけた。胸の苦しさにハッとして咳き込み、丸めた背中を伸ばして前を見れば、雲雀は機嫌を損ねたのか、口をへの字に曲げていた。
 拗ねている、その子供っぽい表情がなんだか可笑しくて、綱吉はつい、頬を緩めた。
「急に、どうしたんですか」
「未来の僕が、君に言わなかったみたいだから」
「――……」
「癪だけど、君は言わないと分からないみたいだから。代わりに、伝える」
 笑って誤魔化し、茶化してやろうとしたのに、叶わなかった。
 言葉を失い、呆然となった。嘘偽りのない正直で真っ直ぐな告白に、目の前が真っ白になった。
 十年先の世界に、沢田綱吉は居なかった。雲雀恭弥は秘密を抱えたままひとり残され、遠すぎる空に手を伸ばし続けた。
 綱吉の決断が、未来を変えた。
「君のお陰で、『君』にまた会えた。だから君が負う十字架の半分は、僕が貰う」
 雲雀の手が頬に触れた。涙の跡を拭って、少し赤くなった肌を慰めるように撫でる。
 染みこんでくる優しい体温に息が詰まった。この人に殺されてしまうと、本気で思った。
 目を閉じれば十年後の雲雀恭弥が蘇る。常に何かに思いを馳せて、綱吉の向こう側に違う誰かを見ていた。
 綱吉が闘わず、諦めていたら、彼はもう『沢田綱吉』にも会えなかった。綱吉の決断は、無駄ではない。綱吉に勝って欲しいと願った分だけ、未来の雲雀は幼い綱吉が背負う咎を受け持つという。
 否、彼が抱えるといった咎の持ち主もまた、未来の『沢田綱吉』か。
 白蘭に勝つ術を模索し、過去の自分たちに縋った。未来では失われていたボンゴレリングを所有し、過大なる可能性を秘めた子供達に未来を託すと、そう最初に決めたことへの咎だ。
『沢田綱吉』もまた、きっと悔いている――過去の自分に罪を着せてしまった事を。
 自分自身のことだ、痛いくらいに実感できる。
「聞いてるよね、『君』が立てた作戦には『僕』も関わっていたと。ならば、それを止めなかったのは『僕』の罪だ。『君』一人が負う必要は無いと、……いい加減、気付いて欲しいんだけど」
 吐き捨てて、雲雀が首を前に倒した。
「いでっ」
 思い切りおでこをぶつけられて、綱吉は脳みそが揺れる衝撃に目を回した。
 舌を噛んでしまった。ヒリヒリ痛むのを伸ばして空気に晒し、冷ましていたら、何を思ったのか雲雀がいきなり下から掬い取っていった。
「ンっ」
「隙だらけだよ」
「ちょっと、ヒバリさんってば」
 ちろりと掠めて行った唇に赤くなり、余裕綽々の男を怒鳴りつける。振り上げた拳を肩に叩き込んでみたものの、ダメージはゼロに等しい。微動だにしない彼に歯軋りして、綱吉はもう一発殴ろうと拳を震わせた。
 直後、壁のスピーカーから高々とチャイムが鳴り響いた。
「あっ!」
 昼休みが終わってしまった。本当ならとっくに着替えを済ませ、グラウンドに向かっていたはずなのに、未だ上半身裸になっただけの自分に気付いて、彼は目を丸くした。
 急いで雲雀から離れ、両手を胸の前で交差させる。
 今更ながら素肌を隠した彼にきょとんとして、雲雀は困った風に前髪を掻き上げた。
「ともあれ、……そういう事だから」
 いい雰囲気だったのに、チャイムひとつで台無しだ。今度から応接室のスピーカーだけ切ってやろうと考えながら、口元を手で覆い隠す。
 遅れて、恥ずかしさがこみ上げてきた。いったいどんな顔をして、自分はあんな台詞を吐いたのだろう。一時の気の迷いで口走った内容もついでに振り返って、彼は目を泳がせ、綱吉に背を向けた。
 黒髪をガシガシ掻き回して、ざわつく心を鎮めようと無駄な努力を繰り返す。若干前傾姿勢の、ひとり照れている後姿に、綱吉もまた頬を染めた。
 温かなものが胸に流れ込んでくる。
 奥底で蠢いている、黒く不気味な感情を完全に洗い流すまではいかないものの、四肢の自由を奪い取ろうとする気味悪い触手を溶かし、押し戻すには充分だった。
 自ずと頬が緩んだ。幸せそうに微笑んだ彼を盗み見て、雲雀は口を尖らせ、右足で床を蹴った。
 心がスッと軽くなった気がして、綱吉は胸に手を押し当てた。本当に半分、彼が掠め取っていったらしい。今なら翼がなくても空を飛べそうで、目尻が下がり、表情はだらしなかった。
 一気にしまりの無い顔になった彼にむっとして、雲雀がもう一度、床を踏み鳴らした。
 喧しい騒音さえもクスクス笑って、綱吉はいい加減服を着ようと、落とした制服を拾うべく腰を屈めた。応接室は窓が閉めきられて機密性が高く、それなりに温かいけれど、流石に秋も終わりのこの季節で半裸は辛い。
 授業には遅刻になるが、欠席になるよりは良かろうと、制服を置いた手で掴んだ半袖の体操服に袖を通す。その上で長袖のジャージを羽織るべく、ソファに手を伸ばした彼の背中を。
 雲雀がぽん、と押した。
「ふわっ」
 完全に油断していた。
 突然の事に吃驚してバランスを崩し、片足立ちになった綱吉がばたばたと両手を振り回す。しかし懸命に堪えて踏み止まろうとする彼を嘲笑うかのように、雲雀はトドメの一撃を加えた。
 努力虚しく、華奢な体躯がソファに転がった。柔らかなクッションに守られて衝撃はさほどではなかったが、顔から突っ込んでいったのでそれなりに痛い。激突の恐怖に負けて閉ざした瞼を薄く開き、両手をつっかえ棒にして身を起こす。
「なにす……ぐは」
「眠い」
 文句を言ってやろうと口を開いた矢先、背中にズドン、と漬物石が落ちてきた。
 否、それは他ならぬ雲雀本人であり、押し潰された綱吉は敢え無くソファに這い蹲った。
 座られた。あろう事か、全体重を乗せられた。
 背骨が折れそうなくらいに軋んで、内臓が圧迫されてぎりぎり痛む。四肢を引き攣らせて喘いだ彼を無視し、雲雀は人をクッションにして悠然と腕を組むと、わざとらしい欠伸を零して肩を揺らした。
「お、重い……」
「真面目な話したら、疲れた。ちょっと寝るから、三十分したら起こして」
「その前に、退いてく、だ……ぎゅえ」
 人に頼みごとをする態度ではないといいたかったが、余計に体重を押し付けられて綱吉は呻いた。ソファに突っ伏しているところに上から覆いかぶさってこられて、雲雀の重みが全身に広がった。
 もれなく心地よい温もりも伝わってきて、首筋を掠めた吐息に背筋がざわめく。
「ひばりさん?」
「寝る。起こさないで」
 一方的に言い放って、返事もろくにしてくれない。命令されて、綱吉は困った様子で身じろいだ。
 真上に圧し掛かってくる男から自分を守ろうと、少しは楽になれる場所を探してもぞもぞ動く。雲雀はその間何も言わず、好きにさせてくれた。
 うつ伏せからどうにか仰向けになって、平らな胸に雲雀の頭を乗せる。すかさず背中に腕が回された。抱き締められて、益々身動きが取れなくなり、綱吉は無機質な天井を仰いで苦笑した。
 本鈴が鳴り響く。授業は、どうやら出られそうに無い。
「三十分ですね」
「うん」
 互いに違う場所を見ながら言葉を交わして、綱吉もまた彼に倣い、目を閉じた。
 耳を澄ませば、鼓動が聞こえる。
 生きているのだと実感する。
 きっと今夜は、夢さえみない。

2011/09/20 脱稿