僣上

 隣家の木の枝に停まり、機嫌良く鳴いていた鳥が一斉に飛び立った。
「ん?」
 如雨露を片手に、綱吉は顔を上げた。足許では奈々が丹精込めて育てているミニトマトが、沢山の水滴を滴らせて赤々と輝いていた。
 鈴なりの苺のようだ。艶々した紅玉の群れを前に視線を泳がせた彼は、後ろを振り返って揺れる洗濯物に異常がないのを確かめ、眉を顰めて首を傾げた。
 塀の向こうの道にも、走り去る車の影はない。騒音や震動に驚いて逃げていったのではないようだが、では彼らはいったい何を気取り、去って行ったのだろう。
「気のせい、かな」
 首の向きを元に戻し、如雨露の先から滴り落ちる水滴を避けて足を引っ込める。中身はもう空で、片手で軽々持ち上げられる軽さだった。
 役目を終えた道具を片付けるべく、踵を返して歩き出す。涼しい風が吹いて、それまで大人しかった洗濯物が一斉にわっと大きく膨らんだ。
 視界を塞がれて、彼は思わずたたらを踏んだ。後ろに数歩よろめいて、それまでまるで目を向けようとしなかった方角に瞳を流す。
 瞬間、綱吉は凍り付き、手にしていたものを放り投げてしまった。
 歪な孤を描いた銀色の如雨露が、家庭菜園の僅かに手前に落ちた。心臓が破裂しそうなくらいに膨らんで、直後穴が空いた風船のように一気に萎んだ。バクバク言う胸をシャツの上から抱き締めて、彼は琥珀色の目を零れ落ちんばかりに見開いた。
「な……っ」
 先ほど、楽しげに囀っていた小鳥たちが不自然に飛び去っていった理由が分かった。
 彼は大袈裟なまでに仰け反っていた身体を真っ直ぐに正して、額に手をやってがっくり項垂れた。
 向こうもまさか、綱吉が庭先にいるとは思っていなかったようだ。如雨露が地面に落ちた音で存在に気付いて、上半身を捻った状態で停止していた。
 沢田家と隣家を区切る塀の上に、人が居た。
 黒い学生服を羽織り、腕の通らない袖には緋色の腕章が優雅にはためいている。長めの前髪の隙間からは、漆黒の瞳が覗いていた。
 呆気に取られて口をぽかんと開き、珍しく間抜けな表情を晒していた。だが笑えなくて、綱吉は頬を引き攣らせ、溜息と共に肩を落とした。
「何してるんですか、そこで」
 低い声で問えば、高い位置にいた青年は気まずげに目を逸らした。
 当たり前だろう。彼が居る場所は、普通に考えて、人が通る場所ではない。猫ならば或いは、だが。
「……別に、何も」
 心底呆れ果てている綱吉を前にぼそりと言い、彼はスクッと立ち上がった。
 幅十五センチもない塀の上で器用にバランスを取り、ふらつくこと無く数歩進んで、ひょいっと飛び降りる。
 前世は猫だったのではないのか、とそう思えるくらいの身軽な動きだった。迷いもなく、躊躇もしない。お陰で彼が普段から、こういう行為に慣れて居るのが窺えた。
 あのまま真っ直ぐ進んでいたら、二階のベランダのすぐ近くに出る。雨樋を支えに屋根を伝えば、綱吉の部屋にだって楽々顔を出せるだろう。
 以前から、彼がどうやって窓から出入りしているのか謎だったが、こういう経路をとっていたらしい。長年の疑問が解けたわけだが、だからといって凄いと拍手してやる気にはなれなかった。
 この男がやっていることは、言ってしまえば不法侵入だ。門を潜らず、玄関を通らずに入って来る、いわゆる不審者だ。
 どうやって褒められようか。険しい表情を作った綱吉を盗み見て、黒髪の青年はずり落ち掛けていた学生服を撫でた。
「……で? うちに何か御用ですか、ヒバリさん」
 若干引き攣った笑顔を浮かべ、改めて問い掛ける。彼処に居た以上、沢田家になんらかの用事があったとしか考えられない。いくら並盛町を溺愛する雲雀でも、公道でない場所を堂々と歩き回る人だとは思いたくなかった。
 妥当に考えて、リボーンに会いに来たか。
 それとも。
 ちらちらと人の顔を盗み見ては、直ぐに逸らして目を合わせようとしない青年に嘆息し、綱吉は落とした如雨露を拾い上げた。逆さ向いていたものを天地正しく持って、軒先の水道の傍へと運ぶ。
 そこには、子供用の靴が二足、並べられていた。どれも水で濡れてびしょびしょで、爪先を上にして斜めに立てかけられていた。
 近くには青色のバケツと、洗剤と、毛先の広がったブラシが一箇所にまとめられていた。
 綱吉はそれらも片付けると、指先に残っていた水滴をズボンに擦りつけた。肘まで捲っていた袖を伸ばし、皺を上から押さえつける。
 問い掛けの答えはまだ得られない。振り返ると雲雀は変わらずそこに立ち、どこか不満げにしていた。
「ヒバリさん?」
「なんで居るの」
「は?」
 塀の上にいるのを発見した時から、どうも様子が変だ。怪訝な顔をした綱吉は、逆に訊き返されて素っ頓狂な声をあげた。
 まん丸い琥珀の瞳いっぱいに雲雀の姿を映し出して、意味が分からないと眉を顰める。だが彼は真剣な顔をして、芝生を踏みしめ距離を詰めて来た。
 洗濯物が左側で揺れている。視界に紛れ混む白につい気を取られて、綱吉は前を塞いだ青年に鳥肌を立てた。
 黒い影が落ちてきて、世界が一寸だけ暗くなった。鋭い目つきで見下ろされて、顔が強張る。
「あの、え……?」
「どうして部屋にいないの」
「どうして、って」
 今にも殴りかかってきそうな雰囲気に臆し、落ち着くよう手を揺らせば、雲雀は不機嫌そうに言い捨てた。
 質問に、綱吉の目が泳いだ。
 奈々に頼まれてランボとフゥ太の靴を洗って、ついでに菜園の水やりも引き受けた。それらを自室で遣るなど、無茶も良い処だ。
 第一、彼と会う約束など一切していない。部屋にいるよう頼まれていたわけでもないのに、こんな風に詰問されるいわれはない。
「俺の家なんだから、俺がどこで何してようと、ヒバリさんには関係ないでしょう」
「ある」
 文句を言われる筋合いは無いと、至極まっとうな主張をしたつもりだったのに、一瞬で叩き伏せられてしまった。
 即答だった雲雀に唖然として、綱吉は瞬きも忘れて目を見開いた。
 顎が外れんばかりの彼にムッとして、雲雀は口を尖らせた。苛立たしげに舌打ちして、何故分からないのかと、そう言わんばかりに胸を張る。
「君は家に居る時は、常に部屋に居るべきだ」
「ちょっと。勝手な事言わないでくださいよ」
 どういう理由があって、そんな無茶な注文をしてくるのか。人の都合などお構いなしの主張に反論を企てるが、雲雀は聞く耳を貸そうとしない。
 ふん、と鼻息荒く吐き出した彼は、左手を腰に当て、右の人差し指で苦虫を噛み潰したような顔をしている少年の額を小突いた。
 僅かに前のめりになった所為で、雲雀の吐く息が綱吉の鼻先を掠めた。
 涼しい風が吹く中で、不意に肌を撫でた他人の体温。思わずどきりとしてしまって、頬は自然と赤らんだ。
 急に恥ずかしそうに身を捩った彼を不審な目で見つめて、雲雀はもう一度、無防備すぎる額を弾いた。
「いたっ」
「とにかく、次からはちゃんと部屋にいること。分かったね」
「無茶言わないでくださいよ。大体、ご飯の時とか、どうするんですか。お風呂だってあるのに」
「そんなの、君が自分でなんとかしなよ」
「ヒバリさん、おかしい!」
 支離滅裂な注文を次々繰り出されて、綱吉は此処が庭先だというのも忘れて怒鳴った。
 興奮して次第に近くなる雲雀の胸を押し返して、後ろに半歩下がって距離を確保し、肩を上下させて荒く息を吐く。飛び出した唾を拭って深呼吸して、気持ちを鎮めて改めて雲雀に向き直る。
 気の強い眼差しに彼は顎を引き、首を少しだけ右に倒した。
「おかしくないよ」
「可笑しいです。だって、なんで」
 頭の中に数々の苦情が浮かんでは消えて、声に出したいのに喉に息が詰まって上手く言えない。
 綱吉は彼に叩かれた場所に手を押し当てると、疲れた調子で首を振った。
 がっくり肩を落とした少年に右の眉をピクリと持ち上げ、雲雀は何かを言おうと口を開いた。が、寸前で思い留まり、乗り出した身体も戻して乱暴に黒髪を掻き回した。
 緑の芝を蹴り飛ばし、自分に向かって舌打ちする。
 苛立たしげな態度に、綱吉は眉を顰めた。上目遣いに窺えば、同じく綱吉の様子を探っていた彼と久方ぶりに視線が交錯した。
「来たのに、君がいなかったらつまらないじゃない」
「……へ?」
「もういい。帰る」
 瞬間、思わずといった感じだろうか。雲雀がぽつりと呟いた。
 聞き間違いを真っ先に疑った綱吉に腹を立てて、拳を硬くした彼はいきなり身体を反転させた。踵を返して歩き出す。
 遠ざかる背中に、綱吉は咄嗟に手を伸ばした。
「っ」
 掴んだ学生服が、ずるりと落ちた。
 肩から背中にかけて一気に軽くなって、雲雀は身体から剥がれ落ちようといるものを掴もうと後ろに手を伸ばした。が、間に合わない。厚みのある布を使っている学生服は、綱吉が掴んだ右袖以外、だらりと垂れ下がって地面に沈んだ。
 まさかこんなに簡単に外れるとは思っていなかった綱吉も驚いて、自分のしでかしたことの大きさに慌てた。
「あ、あ。ごっ、ごめんなさい」
 咄嗟に飛び退いて手を広げて、あろうことか全部落としてしまう。ばさりと音立てて芝に覆い被さった制服に、ふたりは揃って凍り付いた。
 ひゅう、と乾いた風が吹いた。
「何やってるの、君」
「だっ、だって。ヒバリさんがいきなり帰るとか言うから」
 俯いて、ゆっくり顔を上げた雲雀が不機嫌に問う。綱吉は声を上擦らせ、空っぽの手を重ね合わせ、握り締めた。
 勝手に顔が赤くなり、心臓は破裂寸前のところで爆音を奏でている。全身を駆け巡る血液が熱くてならない。唇を噛み締めると、違う場所がきゅう、と音を立てて縮んだ。
 琥珀の瞳を潤ませる少年をじっと見つめ、雲雀はやおら首を振り、前髪を掻き上げた。
 落ちた制服を拾って絡みついていた枯葉を落とし、慣れた手つきで肩に羽織る。表面をそっと撫でて形を整えれば、緋色の腕章もいつも通りに戻った。
 目を瞬き、綱吉は一瞬の変化に息を呑んだ。
 ストン、と胸につっかえていたものが落ちた。先ほど、綱吉が「おかしい」の一点張りで受け入れなかった彼の願いの、本当の意味が今になって理解出来た気がした。
 ぽかんとしていた表情が急に引き締まったかと思えば、熟した林檎よりも赤くなって下を向いて、目も逸らしてしまう。恥ずかしそうに小さくなっている少年に最初は眉目を顰めていた雲雀も、数秒おいて雰囲気から状況を悟り、気まずげに顔を背けた。
 ふたりして黙り込んでしまい、庭先には戻ってきた小鳥の囀りだけが響いた。
「えっと。あの、それってつまり」
「……」
 言葉を詰まらせる綱吉を一瞥して、雲雀は不機嫌に顔を背けた。遠くに目を向けて、口を尖らせて不機嫌を隠そうともしない。
 紅色に染まった頬だけが、彼の今の心を的確に現していた。
「ヒバリさん」
 綱吉は今一度、彼の学生服を掴んだ。抓んで軽く引っ張って、折角整えられた形を一寸だけ崩す。
 恥ずかしそうに、けれど少し嬉しそうに。
 琥珀色も鮮やかな瞳を輝かせて、少年は上目遣いに問うた。
「俺に、……会いに来てくれたって思って、良いんですよね」
「帰る」
「なんでー!」
 お気に入りの赤ん坊に会いに来たのではなく。
 横暴で勝手極まりないことを言っていたが、とどのつまりは、雲雀の本当の目的は。
 察するのが遅い上に、声に出して確認されたことへの羞恥心も重なって、彼は無感情に吐き捨てて歩き出そうとした。それを綱吉が引き止めんとし、腕に腕を絡ませて抱きついた。
 他人の体温が薄手のシャツ越しに伝わってきて、雲雀の肩からまた学生服が落ちた。もれなく綱吉が裾を踏んでしまい、黒い布に灰色の足型がくっきり刻まれた。
「あ……」
 爪先に生じた不可思議な感触に目を見張り、俯いた少年の顔から見る間に血の気が引いていった。
 サーっと音がしそうなくらいに見事に青に染まった肌色を盗み見て、雲雀は片足立ちで飛び退いた綱吉の足元から、愛用の制服を取り返した。
 表面を叩き、跡を消してから再び肩に羽織る。
「ご、ごめ……」
「靴なんか履いてるから」
 ドジで、間抜けで、愚図なところばかり披露している綱吉に呆れ、しどろもどろに謝ろうとしているのを遮って言い放つ。頭ごなしの説教にしゅんとして、彼は真ん丸い目をパチパチさせた。
 その台詞は、裏を返せば部屋にいないから、という意味だ。
 沢田家の二階の、綱吉の部屋。南に面した窓に、室外機を置くベランダが設けられた、六畳の個室。
「そんな事言われたって」
 土足で部屋に上がりこむ癖がある人にだけは言われたくなくて、ボソボソと文句を言うが雲雀には届かない。彼は膨れ面をした少年を面白がって、久方ぶりに相好を崩した。
 柔らかな表情にはっとして、綱吉は息を呑んだ。伸びた手が、ぼさぼさの頭に触れた。
 蜂蜜色の髪の毛は、長く屋外に居たのもあって、ほんのり汗ばみ、湿っていた。いつもと少し異なる感触を楽しみながら、雲雀は最後、無防備なおでこを人差し指で思い切り弾いた。
「でっ」
 首を後ろに倒して衝撃をやり過ごすが、それでも痛い。
 悲鳴を上げた綱吉を呵々と笑って、雲雀は溜飲を下げて満足げな顔をした。
 悔しさを噛み締め、綱吉は目尻に浮かんだ涙を堪えた。
「だったら、来る前に連絡のひとつくらい入れてくれればいいのに」
「いきなり来て驚かせるんじゃなきゃ、面白くないじゃない」
「俺の都合は!」
「そんなの、知らないよ」
 尊大に言い放ち、雲雀が胸を張る。きっぱり言い切った彼を睨む綱吉だが、優しすぎる顔立ちはどう頑張っても怖くならなかった。
 自分勝手で、我が儘で、傲慢で、思い通りにならないと拗ねて、怒る。まるできかんぼうの子供なのに、どうしてだか嫌いになれない。
 軒先で大声を張り上げた綱吉を小突き、彼はなおも言ってふん、と鼻を鳴らした。
「大体、こんなところじゃ、色々出来ないじゃない」
 腕を組んで偉そうに言い放ち、開放感たっぷりの狭い庭を見回す。塀の向こうは公道で、人通りは多くないが、少なくもなかった。
 背伸びをすれば隣家の敷地も覗けてしまう。綱吉の方に向き直れば、彼の後ろにあるのはリビングに通じる窓だ。
 今はカーテンが閉まっているので中が見えないけれど、騒ぎ続ければ誰かが様子を見に現れるかもしれない。
「い、色々って。色々って、なんですか!」
 急に不穏な事を言った彼に慄いて、綱吉は声を上擦らせた。勝手に顔が赤くなり、暑くてならない。動揺激しく息を詰まらせた彼を笑って、雲雀は意味ありげに唇を舐めた。
「色々は、色々だよ」
 声を潜め、淫靡に囁く。眇められた黒い瞳に映る自分を直視できず、綱吉は後ずさった。
 ただ直ぐに行き止まりにぶつかってしまって、ガラスに張り付くことも出来ずに唇を戦慄かせる。雲雀は大股で距離を詰めて、綱吉に被さる格好で顔を寄せた。
 吐く息が鼻先を掠めた。誰かの血の臭いが混じった独特の匂いが、鼻腔を甘く擽る。
 息を飲み、綱吉は身を捩って逃げようとした。それを雲雀の手が防ぎ、悪足掻きする肩を掴んだ。
 身動きを封じられ、はっと上を見た綱吉の瞳に、黒い影を背負った青年が大きく映し出された。
「――ダメ!」
 こんなところで。
 誰に見られるか分からないような場所で。
 窓ガラスとカーテンの向こうには、家族だっているのに。
 キスしようと屈む雲雀の胸を押すが、抵抗は弱く何の役にも立たない。止めてくれるよう懇願するが聞き入れてもらえず、あと数センチと迫る唇に身震いし、綱吉はぎゅっと固く瞼を閉ざした。
 両手を握り締め、拳を作って胸に押し当てる。
 こんな事になるなら、大人しく部屋で待っていればよかった。
 頭の片隅を駆け抜けた後悔に奥歯を噛み締めて、誰も通り掛らないようにひたすら神様に祈る。
 だが。
「……え?」
 ちゅ、という軽い音は思っていたとは違う場所から響いて、綱吉はぽかんと間抜けに口を開いた。
 素早く離れた雲雀の両側から、光が戻って来る。何度も瞬きを繰り返して、彼は今し方触れられた場所を撫でた。
 前髪に隠れがちの額を両手で包み、じわじわ迫りあがってくる恥ずかしさに、林檎よりも顔を赤く染め上げる。
「変な顔」
「ヒバリさん!」
 いけないと思いつつ、どこかで期待していたのを指摘された気がして、綱吉は声を荒げた。琥珀を潤ませ、鼻を愚図らせて殴りかかるが一歩遅く、スッと身を引いた雲雀は楽々と攻撃を躱してステップを刻んだ。
 楽しそうに笑って後退して、少ない動作であっという間に塀に登ってしまう。
 矢張り彼の前世は、猫だったに違いない。
「今日は時間切れ。また来るよ」
 ひらりと手を振って、不安定な足場をものともせず立ち上がる。背筋を伸ばした彼は太陽を背負い、眩しすぎてまともに見られなかった。
「今度はちゃんと部屋にいてよね」
「ヒバリさんってば」
「じゃあね。赤ん坊によろしく」
 言いたい事だけ言って、すたすた歩き出して道路に降り立つ。振り返りもしなかった彼を呆然と見送って、綱吉はもう一度、彼が触れた額を撫でた。
 なんともいえない恥ずかしさの後に、嬉しさがじわり、じわりと広がって彼を包んだ。
「えへへ、へへ」
 だらしなく笑って頬を緩め、自分自身を抱き締めて幸せに浸る。そんなだから後ろで窓が開いたのにも、彼は直ぐに気付かなかった。
 長い髪を背中に垂らした女性が、赤ん坊を抱いて涼やかな目で綱吉を見下ろす。
「見せびらかすのもいいけど、ああいうのは部屋でやりなさい」
「うわあ!」
 開口一番、抑揚ない声で言われて、振り返った綱吉は月までいけそうな勢いで跳びあがり、逃げ出した。

2011/09/04 脱稿