応接室の窓からは、グラウンドがよく見渡せた。
明るい日差しが差し込み、室内はそれなりに暑い。冷房のスイッチは切られたままで、開け放たれた窓からは生温い風が絶えず吹き込んでいた。
日光を遮断する白いカーテンが、ゆらゆらと揺れていた。時に大きく膨らみ、時に凹んで、少しも落ち着いていない。まるでどこかの誰かのようだと思い耽っていたら、そのカーテンの隙間から、悲鳴のような声が飛び込んできた。
「?」
甲高い女子の叫び声が、ただでさえ暑さで参りかけていた頭に響く。嫌そうに顔を顰めて、雲雀恭弥は小さく舌打ちした。
どうせ、犬でも迷い込んだに違いない。下らないことで騒ぎたがる、思春期の女子の姦しさに辟易しながらも、一応は風紀委員長としての立場もあって、彼は渋々椅子を引き、立ち上がった。
細長いグラスに注がれた麦茶の中で、角の溶けた氷がカランと音を立てた。半分ほどに減った茶色の液体の周囲には、透明な雫が大量に付着して、ちょっとした滝が出来上がっていた。
流れた水滴は、コップの尻に敷かれたフェルトのコースターへ吸い込まれていく。
潰れた卵がふたつくっついたような形をして、模様なのか下手な刺繍が真ん中付近に施されていた。黒い点がふたつ、その上に張り付いて、遠目からでは鏡餅に顔が描かれているようにも見える。
「ピ」
グラスを手に取って濡れた表面をなぞっていたら、窓の外から黄色い小鳥が一匹、迷い込んできた。
ずんぐりむっくりなボディに、横に長い嘴。短い足で執務机に着地した鳥は、ひとり笑っている雲雀を見上げて不思議そうに首を傾げた。
円らな瞳がふたつ、嘴の上に並んでいる。そう、まるでこのフェルトのコースターのように。
両者を見比べてクク、と声を漏らし、雲雀は冷たい麦茶で喉を潤した。氷ばかりになったグラスを戻し、濡れた掌をスラックスにこすり付ける。その上でようやく踵を返し、先ほどの悲鳴の原因を確かめるべく窓辺に寄った。
宙に泳ぐカーテンを横に払い除け、眩しい日光に目を細めて奥歯を噛む。瞳を焼く灼熱の光線を避けて額に手を翳した彼は、ぼやける視界をクリアにすべく瞬きを繰り返した。
落ちない程度に身を乗り出した彼の目に、ざわつくグラウンドが映し出された。
「ヒバリ、ヒバリ」
「うん。どうしたのかな」
体操服姿の生徒が一箇所に集まって、そこに体育教師らしき大柄の男性が駆け寄ろうとしていた。輪の一画が崩れて、人垣を遠巻きに見守る群れが合計で三つほど。
体育は二クラス合同で行われているから、男女合わせると合計六十人近くがあそこに居る事になる。今の時間帯だと、どの学年のどの組が該当するのか、思い出そうとして雲雀は眉を顰めた。
机の上を跳び回っていた小鳥が、暑そうな羽を広げてぱたぱたと風を作った。端から飛び降りて、風に乗ってふわりと浮かび上がる。
旋回する鳥を視界の隅に置いて、雲雀は顎を撫でた。
「どこだったかな」
「ツナ、ツナ、ジュウダイメ! ツナクン、ツナクン」
「……?」
なかなか全学年分の時間割が思い出せない中、思考を遮る邪魔な声が喧しく室内に響いた。
優雅に飛ぶ鳥が囀るのは、何処で覚えてきたのか、雲雀もよく知っている人間の口調だった。
全校生徒三百人以上居る中で、そう呼ばれている人間はひとりしかいない。ハッとして、雲雀は再び窓の外に顔を向けた。
人垣の切れ目を、背の高い生徒が前屈みに抜け出そうとしていた。後ろを、陽光を反射して白くも見える銀髪の青年が、駆け足でついていく。先を行く生徒の背中には、大きな荷物があった。
背負われているのは、体操服姿の人間だ。
遠いので見え辛いが、特徴的な髪の色なので直ぐに分かった。
「沢田綱吉」
「ツナ、ツナ、ダイジョーブカ」
恐らくこの鳥は、少し前まであそこにいたのだろう。炎天下、運動場を走り回る生徒のひとりが倒れたとあっては、体育教師も監督不行き届きと責められて然るべきだ。
山本武だろう声の真似をして、黄色い鳥はそのまま雲雀の頭上を抜け外に出ていってしまった。翼を広げ、悠然と空を駆けて行く。
あんな風に飛べたなら良かったのに。砂埃に覆われたグラウンドから校舎内へと駆け込む複数の背中を見送って、雲雀は強く奥歯を噛み締めた。
白いカーテンを勢い良く閉めて、前髪を掻き上げて額に爪を立てる。今すぐ走り出したい衝動を必死に堪えて、彼は窓に背中を向けた。
静まり返った室内に、自分の荒い息ばかりが響き渡る。倒れた生徒を保健室に追い遣ったからか、授業の再開を宣告する笛の音が高く天に吸い込まれていた。
温い唾を飲み、雲雀は執務机の前に戻った。引いたままだった椅子の背凭れを掴んで、座ろうかと一瞬躊躇してから机上のグラスに目を向ける。
水晶球の輝きを放つ表面の雫に指を這わせて、彼は思い切って残っていた氷を口に流し込んだ。がりがりと噛み砕いて、一気に飲み干す。あまりの冷たさに、口蓋垂が痺れるような痛みを発した。
胃に流れて行く冷水で、頭の中も少しは冷えた。肩で息を整えて、彼は右手の甲で口元を拭った。
入れ替わりに汗がひとつ、こめかみから滴り落ちた。
「今日の最高気温は、三十六度……だったか」
どうりで暑いわけだ。日光を遮断している応接室ですら、じっとしていても汗が噴き出るくらいなのだから、照り返しも厳しいグラウンドはもっと温度が高かろう。
帽子も被らずに激しい運動をして、体力のない生徒ならば倒れてもなんら不思議ではない。
「様子を見に行く、だけ。……よし」
何に対してか妙に言い訳がましい事を口にして、雲雀は既に生温いグラスを指で弾いた。湿り気は、下手な手作りのコースターをなぞって押し付けて、急ぎ足で部屋を出る。
扉を開けるとムッとした空気に圧倒された。不機嫌に舌打ちして歩き出そうとしたら、向かい側から見るからに暑苦しい格好をした男が、随分小さく見えるファイルを手に歩いてくるのが見えた。
鶏冠のように額から突き出たリーゼントに、裾が床につきそうなくらいに丈が長い黒の学生服。
左腕に緋色の腕章をつけた、中学生にはまず見えない強面顔の副委員長に、雲雀は出かかった足を慌てて引っ込めた。
「委員長?」
「さっき、生徒がひとり、倒れたみたいだけど」
「ああ、はい。一応確認しましたが、保険医は大事無いと」
「……そう」
現在並盛中学校の保健室を牛耳っているのは、無精髭によれよれ白衣の、女にすこぶるだらしない男だ。
明らかにうん臭い外見をして、女性には執心するのに男子にはめっぽう態度が冷たい。あの男のことだから、グラウンドから運び込まれた急患にだって、ろくな診断もせずにベッドに転がしているだけに違いない。
事務的な草壁の報告に、雲雀は低い声で呟いた。機嫌が悪いのは明らかで、副委員長は要らぬとばっちりを嫌い、一歩半、後退した。
「あの、委員長」
「ちょっと出て来る」
「は、はい!」
充分な距離を取ってから、恐る恐る呼びかければ、雲雀は素っ気無く言って歩き出した。背筋をピンと伸ばして手を前後に振り、軍隊のように整然と。
横を通り抜けた彼に一瞬呆気にとられた草壁は、直ぐに我に返って大声で返事した。反射的に敬礼して、白い半袖シャツに黒のネクタイを絞めた青年を見送る。
夏服に身を包んだ風紀委員長は、真っ直ぐ廊下を突き抜けて階段を二段飛ばしで駆け下りた。
授業中なので、廊下を出歩く生徒はいない。音楽室からはアルトリコーダーの合奏が聞こえ、どこかの教室からは眠気を誘う朗読が滔々と流れていた。
大勢の人間が居るはずの空間が、実にひっそりと静まり返っている。ある意味不気味だと、開けっ放しの扉からとある教室の中を窺って、雲雀はひっそり溜息をついた。
自分はなにをしに、どこへ向かおうとしているのだろう。ふと胸を過ぎった疑問に対する答えは、草壁にも言ったように、風紀委員長としての責任から生じる定型句だった。
学校内部で熱中症患者が出ようものなら、保護者からどんなクレームが来るか分かったものではない。
相応の対策は講じているが、まだ足りないと声高に叫ぶ輩は多い。全学級に冷房を、と言うのは簡単だが、機材に加えて設置費用に管理費と、予算はいくらあっても足りない。
文句ばかり言うくせに、財布の紐は固くて一銭も出そうとしないのだから、面倒臭くて厄介だ。
「権利を主張する前に、義務を果たしてからにして欲しいね」
そういえば施設費を滞納している生徒が何人かいた。後で提出するよう釘を刺しておかなくてはと、記憶の片隅に留め置いて、雲雀は最後の三段をひと息に飛び降りた。
両足で着地を決めて、右袖に絡み付いていたネクタイを払い落とす。軽く身なりを整えて額に散らばる汗を拭った彼は、照明がなくても十分明るい廊下の先を見詰め、爪先で床を叩いた。
固い感触を上履きの底で受け止めて、汗ばんでいる髪の毛をくしゃりとかき回す。
正面玄関の前を抜ける際も、誰ともすれ違わなかった。解放された扉から見るグラウンドは、容赦なく照りつける太陽光を反射して、真っ白い砂浜のようだった。
あまりの眩しさにすぐ目を逸らして、雲雀は走り出したい気持ちを堪えて床を蹴った。早歩きで進み、職員室の前を素通りして、更に奥に向かう。
校舎のどん詰まり、その一歩手前。見えてきた保健室の札に肩の力を抜いて、雲雀は閉まっているドアに手を掛けた。
ノックもせずに引き戸を横にスライドさせる。滑りの悪い戸をガタガタ言わせて新たな道を切り開けば、中に居た髭面の男がぎょっとした顔で振り返った。
ぱさりと床に落ちた雑誌は、色彩鮮やかな写真集だった。艶めかしいポーズを決めた女性が、挑発的な眼差しを読者に投げかけている。
百歩譲っても中学校には相応しくないグラビア誌から顔を上げて、雲雀は射殺す勢いで男を睨んだ。
「お、おー。どうした?」
動揺をひた隠しにして、男が腰を屈めて雑誌を拾った。埃を叩き落して机に置いて、背中で隠す。コマ付きの椅子を半回転させた保険医に嘆息して、雲雀は他に人の気配が無い室内に眉を顰めた。
草壁は、倒れた生徒は保健室に運ばれた、と言っていた。
ならば、と右手のベッドコーナーを見れば、案の定白いカーテンが引かれて、目隠しの役目を果たしていた。
「ひとり、倒れたって」
「んん? ああ、ちょっと前にな。なんだ、風紀委員はンなことまで管轄なわけ?」
「仮病の可能性があるからね」
本当に具合が悪くて倒れたなら、それは保険委員の仕事だ。但し体育の授業が嫌で、わざと倒れたのであれば、風紀委員として見過ごせない。
尊大に言い放った雲雀に、シャマルはくっ、と喉を鳴らして笑った。肩を小刻みに震わせる男が気に食わず、彼は眉間の皺を深め、倍以上生きている男を睨んだ。
シャマルは右を上に足を組み、爪先をぶらぶらさせて顔の横で手を振った。人を馬鹿にしたような態度に益々腹が立って、雲雀が怒鳴ろうと身構える。それを見透かして、彼は立てた人差し指を唇に押し付けた。
静かに、の合図に、流石の雲雀も黙るしかない。
「お姫さんなら、そっちの、ほれ、右側だ」
「誰が」
「心配すんな。ただの貧血だから、暫く寝てりゃ治る」
顎をしゃくりながら言われて、雲雀は口篭もった。
姫、などと称される知り合いはひとりもいない。だが思い当たる節はあった。
分かった上でからかってくるシャマルが癇に障る。腹立たしいが、保健室で騒ぐのはもってのほかであると、雲雀も一応は弁えていた。
いずれ痛い目にあわせてやろうと心に誓って、示されたカーテンへと向かう。反抗的な態度が薄まったのを確認して、シャマルもまた自分の仕事、もとい読書に戻るべく椅子を半回転させた。
保健室は冷房が効いており、ひんやりした空気に包まれていた。
ずるいと言われそうだが、体調不良を訴える生徒を灼熱地獄に寝かせておくわけにはいかない。そんなわけで、先ほど雲雀が懸念していたように、仮病を使って涼もうという生徒が毎年のように現れた。
校医がシャマルになってからは、そういう不埒な考えを持った男子生徒は一気に減った。ならば女子は増えたのかといえば、それもない。シャマルの前でベッドに横になるなど、襲ってくれと言っているようなものだからだ。
身の危険を感じた女生徒も近付かなくなって、最近の保健室はすっかり閑古鳥が鳴いていた。
「沢田綱吉?」
念のために呼びかけてから、カーテンをちょっとだけ引く。隙間から顔を覗かせて様子を窺うが、返事はなかった。
視線を下向ければ、白いシーツに包まれて、やや青白い顔をした少年が寝かされていた。
当たり前だが、体操服のままだ。枕に乗った頭が少し高い位置にあって、瞼は閉ざされており琥珀色の瞳は見えない。うっすら開いた唇が時折引き攣るように動いて、小振りの鼻がひくひく震えた。
見るからに辛そうなのに、冷やしたタオルが添えられることもなければ、水枕の用意もされていなかった。
まさしく、放置。
「ねえ」
「ンな怖い顔すんなって。心配なら、お前が看病してやんな」
どういうつもりなのかと身を引いてシャマルに問えば、彼はいかがわしい雑誌から顔を上げる事無く言った。頭の上で手をひらひらさせて、任せる、と無責任に言い放つ。
それでも保険医なのかと怒鳴りつけたいのを堪え、雲雀は憎々しげに皺の寄った白衣の背中を睨んだ。
ただシャマルには、彼の怒気など痛くも痒くもない。やろうと思えば幾らでも、トライデントモスキートの餌食に出来る。雲雀も過去の失態があるからこそ、この男に迂闊に手を出せずにいた。
結局忌々しげに舌打ちするに留めて、自分で歩いて壁に並ぶ戸棚に向かう。ちらりとシャマルが視線を横に流したのは、危険な薬品も中には含まれているからに違いなかった。
雲雀はそれらを一切無視して、手を泳がせて戸棚から洗濯済みのタオルを引き抜いた。他に、ゴム製の水枕を見つけて取り出して、出入り口傍に設置された水道へ向かう。
コンロもあって、ちょっとした料理なら此処でも可能だ。年季の入った手鍋がひとつ、水を張った状態で流し台に放置されていた。
不快な臭いを放つ鍋に渋面をして、彼は蛇口を捻った。先ず水枕に溢れない程度に注ぎいれて、金属製の留め具で中身が漏れないようにしっかり固定する。続けてタオルを湿らせて、左右の手にひとつずつ持ってベッドの傍へ戻る。
甲斐甲斐しく世話しようとする様は、トンファーを手に不良を薙ぎ倒している男ととても同一人物には見えなかった。
人間、変われば変わるものだ。妙にしんみりしてしまって、シャマルは気配に振り返った雲雀から慌てて目を逸らした。
こみあげる笑いを押し殺し、目の前の雑誌に意識を集中させる。雲雀も、視界に他人が入るのが気に食わないのだろう、カーテンをサッと閉めてしまった。
白に囲まれた狭い空間に佇んで、雲雀は運んで来たもののうち、どちらを先に使うかで躊躇した。
タオルを額に載せてから水枕を敷いてやったら、動かした時にタオルが落ちてしまう。かといって湿ったタオルを置いておく場所もない。
握り続ければ、折角の冷たいタオルも段々温くなってしまう。行動するなら早いに越した事はないのだが、分かっていても慣れなさ過ぎて直ぐに動けなかった。
どうしたものかと戸惑っていたら、人の気配を察知したらしく、ずっと閉ざされていた瞼がピクリと動いた。
「う……、ん――あ、れ」
夢うつつの声で呟き、綱吉は見えた景色に首を捻った。汗ばんだ肌の不快感に身動ぎ、口を開いて舌を伸ばす。体内の熱気を追い払おうとした彼に目を瞬かせて、雲雀は息を飲んだ。
凍りついている存在に三秒してから気付き、綱吉は不思議そうに目を丸くした。まだ少し眠そうな顔をして、不思議そうにじっと見詰めて来る。
凝視されるのにあまり慣れていなくて、雲雀は気まずげに顔を背けた。
手にしているものを背中に隠すが、水枕は大きすぎて端がはみ出てしまった。温くなったタオルを強く握ると、滲み出た水滴がぽとり、床に落ちた。
「……はえ?」
白い天井に覚えがなくて、綱吉は間抜けな声を出してだるそうに右手を持ち上げた。汗で湿っている髪の毛を掻き上げて、広い額を曝け出して眉を顰める。
「沢田?」
意識が完全に覚醒していないのかと、雲雀が怪訝に名前を呼んだ。
倒れた時に頭でも打ったか。心配そうに顔を覗き込めば、彼はようやく状況が理解出来たのか、身を起こそうと肘をベッドに突き刺した。
それを雲雀が、タオルを持ったままの手で制した。
「寝てなよ」
「俺、そうだ。授業」
短く命令されるが無視して、綱吉はかぶりを振った。仕方なく雲雀は、彼が上半身を起こして座ったところに枕を差し替え、タオルは広げて水枕に被せた。
手際よく動く彼を横目で窺って、綱吉はふらつく頭を片手で支え、浅い呼吸を繰り返した。
鼻から吸って、口から吐き出す。そうしているうちに記憶も繋がって、状況がより正確に理解出来た。
ただ分からないのは、雲雀が何故此処に居るか、だ。
「体育の授業中に倒れたのは、覚えてる?」
「なんとなく、ですけど」
「ちゃんと水分は摂ってるの? 暑いんだから、気をつけないと」
シャマルは貧血だといっていたが、雲雀は端から熱中症を疑っていた。最悪死に至る症状であり、油断は命取りだ。
水分と塩分の補給は怠らず、身体に異変を感じたら無理をせずに涼しい場所で休憩を取る。まだ大丈夫、という過信は禁物だ。
水枕の上に転がされて、綱吉はタオルの湿った感触に身じろいだ。ちゃぷん、と頭の中で水が踊る音がする。額に手を押し当てられて、覚悟していた生温さがないのに、彼は目を丸くした。
琥珀色の瞳を細め、微笑む。
「ヒバリさんの手、冷たいですね」
「そう?」
「はい。気持ち良い」
クスクス笑って、本当に心地よさげに目を閉じる。彼にならば笑われても嫌な気分にはならなくて、雲雀はそれを不思議だと思いながら、綱吉のあちこちに手を押し当てていった。
額に始まり、こめかみ、頬、耳朶に、顎の付け根、そして頚部。太い血管が走っている部分は熱を持っていた。動脈を探るように指を這わせて、やがて皮膚に浮き上がる鎖骨へと。
一度上に転じて顎を擽ってやれば、綱吉は猫のようにゴロゴロと鳴いた。
「くすぐったいです」
「気持ちよくない?」
「お前ら、此処はラブホじゃねーぞ!」
綱吉の体温を吸って、雲雀の指先もそれなりに熱くなっていく。あまり触れられると変な声が出そうで、嫌がって逃げようとしたら、カーテンの向こうから罵声が飛んで来た。
思わず首を竦めた綱吉に、雲雀は顔を顰めて舌打ちした。
「そっか。保健室」
「応接室の方が良かった?」
姿の見えない第三者の声に、現在地を改めて強く認識して、綱吉は頷いた。
まだ少し惚けている彼を覗き込み、雲雀が小声で問いかける。そのどきりとする低音に頬を僅かに紅潮させて、綱吉は喘ぐように唇を開閉させた。
艶やかなサクランボのような色をした唇に、吸い寄せられるように雲雀が顔を寄せる。鼻先を掠めた熱風に、蜂蜜色の髪の少年は緊張気味に頬を強張らせた。
ぎゅっと目を閉じて、少しだけ顎を突き出す。蛸を真似て口を窄ませた彼を笑い、雲雀は甘い蜜を啜るべくベッドに腕を突き立てた。
瞬間。
「うっ」
きゅるるるる、と聞く者の心を切なくさせる音色が、ふたりの間を駆け抜けて行った。
いったいどこから生じたものなのか、直ぐに理解出来なかった雲雀は目を点にした。唖然として、キスまであと五センチのところで凍りつく。固まってしまった彼を見上げ、綱吉が引き攣った笑みを浮かべた。
「え、えへ。えへへへ」
「……」
甘い雰囲気は一瞬で粉砕されて、どうにも微妙な、気まずい空気が場に漂った。雲雀は身を引き、こめかみに指を置いた。綱吉はベッドに横になったまま、薄手のタオルケットの上から腹を撫でた。
空気すら入っていないのではないかと思える薄さに、雲雀は腕時計を確かめた。午前十時を過ぎた辺り。体育は二時間目で、綱吉が倒れたのは始業開始直後だ。
朝食が完全に消化され、吸収されつくしたと考えるには、やや早すぎる。
「あは。あはは。あは」
考え込んでいる雲雀に、綱吉は空笑いを繰り返した。頭を掻き、水枕から滑らせて、雲雀が居るのとは反対側へと逃げて行く。
シャマルの診断が脳裏を駆け抜けて行った。
貧血。
空腹。
そういえば綱吉の目の下には、うっすら隈が出来ていた。
顔色の悪さは、体調不良が原因とばかり思っていたが。
「まさか、君」
「ええっと。この前発売されたゲームが、その、面白くて……つい」
嫌な予感がして問うた雲雀に、綱吉が申し訳無さそうに言った。尻窄みに小さくなって行く声に、上目遣いの瞳。倒れた原因はゲームの長時間プレイによる眼精疲労、睡眠不足、そして寝坊して朝食を抜いたため。
酷な暑さも原因の一端を担っているだろうが、そもそもの原因は綱吉本人の不摂生。
自業自得。
「君って子は」
心配するだけ無駄だった。気を使ってやる必要などなかった。
声を震わせる雲雀に、綱吉は一気に青褪めた。血の気の引いた顔をして、もっと距離を稼ごうと起き上がって後退する。だが直ぐに端に行き着いてしまって、もう少しで落ちるところだった。
「うわ」
両手を振り回してどうにかバランスを取り、転落を回避するが、彼の今の状況はまさしく前門の虎、後門の狼。
チャキ、と音がした。後ろを気にしていた綱吉が視線を戻すと、そこにはトンファーを構えた鬼の風紀委員長が立っていた。凄まじい怒りのオーラを放ち、酷薄な笑みを浮かべて獲物を見定めている。
獰猛な肉食獣を前に、抗う術のない小動物は竦みあがった。
「ひ、ヒバリさん。タンマ、タンマ!」
「五月蝿い。咬み殺す!」
「ヒバリさんが勝手に勘違いしただけなのにー!」
理不尽だと叫び、振り翳された一撃を避けて綱吉はベッドから落ちた。どんがらがっしゃん、と騒々しい音を響かせた彼らに、シャマルは呆れ顔で肩を竦めた。
2011/09/04 脱稿