日々の生活に、取り立てて大きな変化はなかった。
過去の亡霊とも言うべきデイモンとの戦いが幕を引いて、ボンゴレとシモンの長い諍いもまた氷解した。
綱吉の、十代目継承はしばしお預けとなった。大怪我をした山本も、白蘭のお陰ですっかり本来の調子を取り戻し、今日も元気にグラウンドを駆け回っている。
彼が瀕死の重傷を負ったという話は、ボンゴレ側で内々に処理されたのもあって、ごく近しい人間にしか伝えられていない。だから彼が笑っていられるのも、全力疾走できるのも、全て奇跡に等しい出来事だと知る人は少ない。
金網越しにバットを振る親友の姿を確認して、綱吉は安堵の息を吐いた。
「帰ろうっと」
重くはないが軽くも無い鞄を抱え直し、正門を潜り抜けて公道に出る。色褪せたアスファルトには沢山の枯葉が落ちて、足を進める度にサクサクといい音を立てた。
知らぬ間に季節はめぐり、秋が終わって冬が始まろうとしていた。
「んー」
なにはともあれ、今年も五体満足で終えられそうだ。
デイモンに砕かれた全身の骨は、少しばかり軟弱になって戻って来た。なかなか無茶な事をしたと後からリボーンに叱られたが、あの時はああするよりほかにすべがなかったし、後悔はしていない。
肉体の完全復活には、まだ当分時間がかかる。表向きは健康に見えても、内側はかなりボロボロだ。
損傷した肉体の治癒にエネルギーが消費されて、成長が止まるかもしれないと言ったのはシャマルだ。これ以上背が伸びない可能性を指摘されたときは流石にショックだったが、あの戦いで命が潰えてしまっていたら、成長どころの騒ぎではないのも確かだ。
何かを得るには、相応の代償が必要。それが自分の身長だと思えば、安いものだと笑い飛ばせる。
最近になって、ようやくそう思えるようになってきた。歩きながら左手首を握り、綱吉は苦笑した。
獄寺はすっかりシット・ピーに気に入られて、いつの間にか追いかける役が逆転していた。今日もご多聞に漏れず、授業が終わると同時に鬼ごっこが開始された。
お陰でこのところ、獄寺と一緒に帰れていない。それはそれで楽なのだが、右側が妙に寂しいのは、誰かと一緒にいるのに慣れてしまったからだろうか。
「炎真君も、アーデルハイドと帰っちゃったしな」
なんでも、世話になっている民宿のおばさんに、感謝の気持ちを込めてプレゼントを贈るらしい。それを選びに町に行くのだと、嬉しそうに言っていた。
普段はおっかないアーデルハイドだが、意外に優しいところがある。少々不器用で、感情表現が下手なところは、誰かに似ていなくも無い。
そういえばあの人は、元気だろうか。
「最近見てないな、ヒバリさん」
戦いが終わった後、ひとりだけ先にヘリコプターで帰ってしまった風紀委員長は、今どうしているだろう。
骸との決着をつけに黒曜ランドに乗り込んだまではいいものの、結局対峙できなかったという話は聞いている。お陰ですっかり不機嫌で、応接室に引き篭もって拗ねていると言っていたのはリボーンだ。
その骸も、あれ以来まるで顔を見かけない。
「元気にしてるのかなー」
クロームについても、心配だ。一日三食、ちゃんと食べているのだろうか。
天を仰げば、空は高い。白い綿雲がぷかぷかと、気持ち良さそうに泳いでいた。
次の週末、様子を見に行ってみようか。計画をあれこれ立てている時が一番楽しくて、仲間を誘ってピクニック、と当初の目的から大きく外れた考えに至ったところで、不意に。
「っ!」
ぞわりと、冷たい風が首筋を撫でた。
全身の産毛が逆立ち、嫌な予感に内臓が震え上がる。収縮した心臓の痛みに喘いで鞄ごと己を抱き締めた彼は、ハッと息を吐いて振り返った。
冷や汗が額を伝い、生温い唾液が喉を通り過ぎた。目立たない喉仏が上下して、緊張に頬が引き攣った。
見開かれた琥珀の瞳に映ったのは、つい今し方脳裏に思い浮かべていた男に他ならなかった。
特徴的過ぎる、一部逆立った後ろ髪。ギザギザの分け目に、左右で色が異なる瞳。
不気味な漢数字が右の瞳にぼんやり浮かび上がっている。何かを企んでいると分かる笑みを口元に浮かべているが、一見しただけではきっと誰にも分かるまい。
不快な感覚に打ち震えて、綱吉はじり、と後退した。
「どうも、ご無沙汰をしております。沢田綱吉君?」
馴れ馴れしく名前を呼んで、大仰な仕草で腰を曲げる。六道骸とそう名乗る男の動きは優雅だったが、ひとつとして隙がなかった。
「なんで、お前」
隣町の黒曜中学校の制服を身に纏い、中には迷彩柄のシャツを着込んでいる。両手は空っぽだが、この男に限って目に映るものが全てでないのは承知済みだ。
未来の世界で垣間見た彼は、世界でも指折り数える幻術使いとして名が知られていた。
見た目に騙されると痛い目に遭う。敵に回すとなんとも厄介だが、味方にしておけば恐ろしいほど頼もしい。
彼に勝てたのもまた、偶然の奇跡。だが必然。
過去のあれこれを一瞬のうちに振り返りながら、綱吉は鞄を強く抱きしめた。
「なに、さ。何か用か?」
声が大きくなるのは、虚勢を張っている証拠だ。我ながら情けないと、ひとりきりで彼と対峙するだけの勇気がまだ育っていない現実に打ちひしがれる。
だが骸は、警戒を崩さない綱吉に些か傷ついた顔をした。両手をだらりと脇に垂らし、寂しそうに立ち尽くす。
「……骸?」
「どうやら僕は、まだ君に心を許してもらえていないようですね」
「え? え、あ、いや。そういうわけじゃ」
切なげに訴えられて、思わぬ方向から攻撃を食らった綱吉はうろたえた。慌てて首を振って否定するものの、実際に彼に対して警戒を抱いていたのは間違いない。
何をしてくるか分からない相手、だ。心強い味方であると同時に、この男は易々と人を裏切る危険性を秘めている。
最初に敵として出会った以上、最早仕方が無いともいえる。一度殺されかけたのだから、容易く心を開けるわけが無い。
クロームの件もあり、そう悪い奴ではないと分かっていても、初対面時の印象が痛烈すぎた。
巧い言い訳が見付からず、綱吉は知れず舌打ちした。面倒な相手と遭遇したものだと、肩を落として溜息をつく。
「あー、もう。んで? 用件はなにさ」
わざわざ遠征してきたくらいだ、散歩の途中で偶然、というのはないだろう。
いつも連れ歩いている城島や、柿本の姿はない。クロームは、と視線を右に流したところで、サッとブロック塀の向こうに隠れる紺色の芝のようなものが見えた。
分かり易い。温い汗を流し、綱吉はこめかみに指を置いた。
質問に対する回答はまだ得られない。骸は意味深に微笑みを浮かべて、道の真ん中に突っ立っていた。
五秒続いた沈黙に、先に耐え切れなくなったのは綱吉だ。首を振り、盛大な溜息をついて鞄を揺らす。
「用が無いなら帰る」
「綱吉君」
言うが早いか身体を反転させた彼の背中に、焦る風でもなく骸が呼びかけた。肩越しに振り返れば屈託なく笑う男がいる。見るからに妖しげな表情をして、嫌な予感を増幅させてくれた。
早く立ち去るに限る。無視して歩き出そうとした矢先、今度は軽やかな愛らしい声が彼の肩を叩いた。
「ボス、あのね」
いつの間にか表に出て来たクロームが、片方だけ露出している瞳で懸命に訴えかけてきた。骸と揃いの髪形をして、黒曜中学の女子の制服を身につけている。
胸の前で両手を結び合わせて桜色の唇を開閉させて、彼女は去ろうとする綱吉に続けた。
「骸様が、自由になれたお礼がしたいって。だから」
「骸が?」
あまりにも意外すぎるひと言に、綱吉は素っ頓狂な声を上げた。改めて向き直り、上から下までイケメンなのにどこか残念でならない男を眺める。
見られているのを意識して妙なポーズを決めている男から早々に目を逸らし、綱吉は必死の形相のクロームに頬を緩めた。
「お礼って、俺は別に」
骸がヴェンディチェの牢獄に捕らえられたのは、いわば自業自得。その後一度脱走を試みて、城島と柿本を逃すためにひとり身代わりとなった。
彼が解放されたのは、デイモンを倒すのに本人が尽力したから。綱吉は格別、なにもしていない。
礼をされる謂れもない。それに、急に改まってそんな申し出を受けたら、照れてしまう。
予想していなかった展開に、気にしなくても構わないと言おうとした矢先だ。
「だからね、ボス。お願いがあるの」
「へ?」
ずい、と前に出たクロームに言い足されて、綱吉は目を点にした。
なにかがおかしい。彼女相手には働かない超直感を、彼は後から非常に恨めしく思った。
「そういうわけでして。綱吉君、ちょっと、失礼」
「はぁ?」
同じくクロームと共に距離を詰めてきた骸が、何処からか取り出した三叉槍を手ににっこり微笑んだ。悪巧みたっぷりの笑顔を浮かべて、予告もなく鋭い切っ先を突き出してくる。
「うわっ」
唐突の攻撃に吃驚して、綱吉は急いでしゃがんで避けた。鞄を抱えて蹲り、二撃目を警戒して瞬時に後退して、充分な距離を稼いで奥歯を噛み締める。
クロームに油断させておいて、いきなり攻撃とは、やはりこの男は卑怯だ。まだ身体の乗っ取りを諦めていないのかと歯軋りした綱吉だが、骸は予想に反し、もう攻めてこなかった。
それどころかとても満足した顔をして、クロームの肩に手を置いた。
「どうですか、凪。これでよいですか?」
「はい、骸様。とっても、……素敵です!」
目をキラキラ輝かせる彼女に、綱吉は訳が分からず混乱した。頭に沢山のクエスチョンマークを生やして、蜂蜜色の髪の毛をふさふさと風に揺らす。
いったい何が起きているのだろう。ふたりの視線が微妙に綱吉の上の方に集中していると気付いて恐る恐る手を伸ばせば、跳ね放題の髪とは違う感触が指に当たった。
頭の天辺から少し左右にずれた位置。
ふかふかして、柔らかくて、弾力があり、形としてはほぼ三角形。
嫌な想像をしてしまい、彼はゴクリと唾を飲んだ。
「え、あの……」
「思ったとおりだわ。ボス、凄く可愛い」
「クフフ、当然です。僕の有幻覚に不可能はありません」
感動しきりのクロームに、骸が得意げに言い放つ。完全にふたりきりの世界に入ってしまっていて、綱吉は置いてけぼりだ。
両手を使って頭を抱えれば、よりはっきりとその形が感じられた。見えないが、想像がつく。慌てて尻を確認するが、そちらは特に変化はなかった。
ホッとしていいのかわからないまま冷や汗を流し、綱吉は嬉しそうなクロームを見た。
彼女は先ほど、骸が礼をしたいと言った。
その礼を受ける対象を、綱吉はどうやら勘違いしていたらしい。
「クロー……ム?」
元々、ちょっと世間とズレたところがある子だとは思っていた。あの骸に心酔し、髪型まで真似してしまうような子だ。
だが綱吉が想定していた以上に、彼女は風変わりだったらしい。
掠れた小声で名前を呼んだ綱吉に、クロームは嬉しそうに頷いた。抱き締めていた鞄を広げて何かを取り出して、陽光反射するそれを嬉々として向けてくる。
四角いフレームに収まったそれは、鏡に他ならなかった。
そして銀に磨かれた表面に現れた綱吉の頭には。
「な、……んだ、これー!」
ある程度覚悟していた上で、彼を絶叫させるに充分な代物が張り付いていた。
「ボス、凄く似合ってる。可愛い」
「ええ、とても良くお似合いですよ」
牢獄を脱した骸が、その功績を認めて謝礼をしたいと言った相手は、綱吉ではなくて、クローム。
そのクロームの願いが、まさか。
「私がやっても、きっとこんなに綺麗には表現出来ないわ。流石骸様です」
「ちょっと待って。馬鹿言ってないで、今すぐこれ、取って。骸、これ外せ。消せ。なに考えてんだ、お前は!」
激高して、綱吉は頼んだ方ではなく実行した張本人に怒鳴りつけた。唾を飛ばし、自分の頭を指差しながら喚き散らす。
彼の感情を伝えるかのように、三角形の耳がピン、と背筋を伸ばして反り返った。
現在、沢田綱吉の両耳の真上、頭の天辺から少しずれた場所には、トラ猫と思われる立派な耳がふたつ、生えていた。
被り物ではない。人工物でもない。きっと髪を掻き分けて根元を探れば、まるで本物かのように肌が張り合わさっているに違いない。怒りの次は哀しみ、或いは虚しさが襲って来たのか、萎れた花のようにしょんぼりと頭を垂れる。あわせて綱吉当人も俯き、背中を丸めた。
「可愛らしいじゃないですか」
「俺は男だぞ」
「ボス、素敵」
「クローム……」
男らしさからは遠くかけ離れた猫耳姿に、落ち込まないわけがない。だのに文句を言っても暖簾に腕押しすぎて、綱吉は泣きたくなった。
こんな情けないところ、もし知り合いに見られでもしたらと思うと寒気がした。
兎も角、今すぐに幻術を解いてもらわないことには始まらない。もう満足しただろう、と半泣きになりながら羞恥を耐えて骸を睨み付けた矢先。
黒い影がヒュッ、と奔った。
「――え?」
「ぐあぁああぁーーーーーーーー!」
呆気に取られる暇もなく、骸の巨体が唐突に、彼方の方角目指して吹っ飛んで行った。間延びした悲鳴がいつまでも耳に残り、驚いて目を見張ったクロームが、主人の行方を追って慌てて駆け出した。
「骸様、待って!」
「あーーれえーーーーー」
綱吉以上に情けない雄叫びをあげて、この世界でも最高峰に位置する幻術使いは明後日へと消えていった。隻眼の少女もばたばたと道を駆けて行き、黒曜中学校の制服は瞬く間に見えなくなった。
呆然と立ち尽くして、綱吉は視界を泳ぐ黒い学生服に瞠目した。
「ひ、……ヒバリさん!?」
「あの南国パイナップル、僕の町で何やってるの」
両手に構えたトンファーをギラリと輝かせて、怒り心頭の風紀委員長が低い声で吐き捨てた。肩で息をして、額には玉の汗が浮かんでいる。ここまで全力疾走して来たというのが、それだけで窺えた。
姿を見かけてすっ飛んできたのだろう。憤怒の形相のまま息を整える彼に目を瞬かせて、綱吉は数秒後ハッとして、両手で頭を抱え込んだ。
骸が幻覚でつけた耳が、まだ消えていない。しかも肝心の術師がどこかに行ってしまって、消す方法も分からない。
「ど、どうしよう」
なにか隠せるものはないかと探すが、ブレザーを頭に被ればそれはそれで不審だ。怪しまれずにやり過ごす方法を考えた結果、綱吉は何も言わずに此処から逃げることにした。
善は急げという。雲雀がまだ骸を警戒しているうちに、とそろり右足から後ろに下がろうとした瞬間。
「ねえ」
「ぎゃっ」
後ろに目でもあるのか、絶妙なタイミングで声を掛けられてしまった。
裏返った悲鳴をあげて、綱吉は両手を握って脇を締めた。もれなく頭がフリーになって、押し潰されていた猫耳がぴょこん、と跳ねた。
短い毛を逆立てて、オレンジ色の毛並みがいっそう鮮やかに露わになる。ゆっくり振り返った雲雀は、骸が何故並盛町にいたのか、その理由を問おうとして口をあけた。
そうしてひと言も発さぬまま、凍りついた。
「……ひばりさん?」
「なに、それ」
「!」
ピシっ、と音を立てた彼に目を丸くして、綱吉が思わず彼に手を伸ばす。だが触れる直前に訊かれて、一瞬耳の事を忘れていた彼はカッと赤くなった。
急いで両手で頭を隠すが、既に遅し。切れ長の目を限界まで見開いて、雲雀はトンファーを落とした。
「え、えへ。えへへへ、へ」
「沢田綱吉」
「違うんです。これは、俺の所為じゃないんですってばー!」
笑って誤魔化そうとするが無駄だった。じりじり詰め寄られて、逃げようと足掻いた結果、ブロック塀に追い込まれてしまった。
ガッと腕を掴まれて、無理矢理引き剥がされた。再びぴょこんと顔を出した耳が、恐々と雲雀を見上げた。
恥ずかしさに、顔が勝手に赤くなる。琥珀色の瞳が涙で潤んで、艶を増して輝いた。
首を竦める綱吉に倣って、ニセモノの耳もしゅん、と萎れて小さくなった。まるでそれ自体が生き物のように動いて、雲雀をひたすら驚かせた。
「……なに、これ」
先ほどと同じ質問をして、ちょん、と雲雀が耳を小突く。オジギソウ宜しく、突かれた瞬間だけピクリと、猫を模した耳が大袈裟に反応した。もれなく綱吉もぶるりと震えて、涙目で雲雀を仰ぎ見た。
「骸が」
雲雀が吹っ飛ばしてくれたので、術の解除はされないままだ。どういう原理でこうなっているのかさっぱり分からないので、綱吉もどうする事も出来ない。
時間が経てば消えてくれるのを祈りつつ、小声で大まかに事情を説明し、詰め寄ってくる雲雀に離れてくれるよう頼む。
だが話を聞いている間も、彼は猫耳に視線が釘付けだった。
「触っても?」
「へ? え、ヤですよ」
いきなり言われて、断ったのに手を伸ばされた。いきなり左右両方をむんずと掴まれて、引っ張られて、綱吉は骸の幻覚が生み出したものというのも忘れて四肢を硬直させた。
千切れない。一緒になって身体が伸びる。
「痛っ」
「痛いの?」
思わず口について出た単語に、雲雀が右の眉を持ちあげた。興味津々に訊かれて、綱吉は瞼を片方持ち上げて唇を噛み締めた。
痛くない。だが痛いような気もする。触覚が繋がっているとは思いたくないが、身体の一部と化してしまっている気配もあって、なんとも奇妙な感じだった。
パッと手を離されて、綱吉は壁に凭れ掛かって転倒を回避した。通りがかりの一般人が、端で身を寄せ合っている男ふたりに奇異の目を向けて去って行く。
色が色なので、骸が作った猫耳は髪に紛れて見え辛い。大勢にこの醜態を目撃される危険性が減るのは嬉しいが、だからといってこのままでいるわけにもいかない。
雲雀もまた、幻覚なのに実際に触れてしまうのを不思議がり、自分の手と綱吉の頭を交互に見比べた。
握っては広げて、指の感覚に異常が無いのを確認する。その上でまた触れてきて、綱吉は首を竦めて肩を強張らせた。
もみもみと、今度は耳の外周を揉み、擽られた。先ほどのように乱暴にはしない。本物の猫を労わるように撫でられて、最初はビクついていた綱吉も次第に四肢の力を抜いていった。
「あの……」
それにしても、雲雀の顔は妙に真剣だった。
無表情に耳を弄られるのは、はっきり言って怖い。止めてくれと言っても聞いて貰えないのは実証済みで、弱りきった綱吉は仕方なく彼の袖を引っ張った。
学生服の下に羽織った白いシャツ、長袖の釦を抓んで捻れば、雲雀はようやく綱吉に目を向けた。
その瞳はクロームに似て、いやにキラキラと輝いていた。
「ム」
「なに?」
猫耳を生やされて、遊ばれている身としてはあまり面白くない目だ。思わずムッとした綱吉を前に、彼は瞬きひとつで表情を入れ替えた。
しかし手は、依然頭の上に落ちたままだ。
「えっと。……いい加減離れてもらえませんか」
通行人も見ているし、なにより帰れない。
足を軽く蹴って威嚇すれば、雲雀は俯いた後、人の話を無視してまたずい、と距離を詰めてきた。
鼻先が掠めそうな近さに眩暈がして、綱吉は無自覚に赤くなる頬と熱くなる身体に身震いした。
思えば雲雀の周囲には、随分可愛らしい生き物が集まっていた。黄色い小鳥然り、ハリネズミのロール然り。その上獄寺の匣アニマルである瓜や、綱吉のナッツまで手懐けている。動物に囲まれている時だけは、雲雀は随分と楽しそうだった。
つまり、彼は。
「沢田。ひとつ訊くけど」
「な、なんでしょう」
至極真剣な顔をして問いかけられて、綱吉は声を上擦らせた。
近すぎる距離に喘ぎ、無駄と知りつつ後頭部を壁に押し付けて遠ざかろうと足掻く。やや興奮気味の雲雀は珍しくて、綱吉はドギマギしている自分にも驚きながら彼の次の言葉を待った。
雲雀は一寸だけ躊躇して視線を泳がせた後、覚悟を決めたのかふーっと息を吐いた。
微風が肌を擽る。人が見れば違う想像を巡らせそうな雰囲気に、綱吉は唇を噛んだ。
雲雀が口を開いた。黒い影が落ちた。
「尻尾はどうなってるの?」
「――は?」
綱吉の目が点になった。
と、唖然としているうちに雲雀の手が滑り降りて、綱吉の腰に触れたかと思った瞬間にはもう、尻をむんず、と掴まれていた。
「ぎゃあっ」
色気のない悲鳴をあげて跳びあがるが、雲雀の腕からは逃れられない。ズボンの上から弄られて、全身に悪寒が奔った。
有無を確かめようとしているのだろうが、ならば表面をサッと撫でるだけで済むはず。わざわざ両側から包み込まれて、抱き締められているに近い状態に鳥肌が立った。
「ひ、ひば……っ」
「おやおや、雲雀恭弥君は耳よりも尻尾がお好きですか?」
「うわあ!」
狭い空間に閉じ込められていた綱吉の耳に、第三者の声が響く。覚えのあるトーンに仰け反れば、寄りかかるブロック塀の天辺に赤と青の瞳が見えた。
雲雀もまた同じものに目をやって、ムッと口を尖らせた。
「六道骸」
「ちょ、お前。この耳、どうにかしろ!」
どうやって戻って来たのかは置いておくことにして、綱吉は雲雀を押し退けて怒鳴った。
ここで彼に逃げられたら、一生猫耳のままかもしれない。それだけは絶対に避けたい綱吉の必死の訴えに、骸は目を眇め、実に楽しそうに笑った。
「ふむ、クロームからのリクエストは気に入りませんでしたか?」
「当たり前だ!」
しれっと言われて、深く頷く。握り拳を振り翳した彼を避けて、骸は塀の上から地面へ移動した。
軽い動きで着地して、不遜な笑みを浮かべて綱吉に向き合う。素早く雲雀が、庇うように前に出た。
「おや?」
骸の目には、それが奇怪な風に映ったらしい。物珍しそうに見詰められて、雲雀は不機嫌に眉を顰めた。
一方の綱吉も、まさか彼の背に守られるとは思っていなくて、些か吃驚し、目を丸くした。
「ヒバリさん」
「この子の耳、元に戻しなよ」
「これは意外です。良いのですか? 随分と気に入った様子でしたが」
「ああ、気に入らないね。君がまやかしで作った耳なんて」
「…………」
一瞬格好いい事を言っているように錯覚しそうになったが、冷静になって考えれば、雲雀のこの受け答えもどこかおかしい。
一気に冷めた目をして、綱吉は広い背中を見詰めた。
「それにね、君は分かってないよ」
「ほう?」
段々頭が痛くなってきて、綱吉は眉間に指を置いた。疲れた顔をして溜息をつき、緩く首を振る。
いそいそと鞄のファスナーを開けた彼に気付かず、雲雀は腕を振り、自信満々に叫んだ。
「この子が一番似合うのはね。……ロップイヤーだよ!」
ひゅう、と冷たい晩秋の風が吹いた。どう答えてよいか分からず、骸が愛想笑いを浮かべて凍りつく。
その後ろで、綱吉はボンゴレリングを嵌めた右手を握り締めた。
「ヒバリさんって、実は馬鹿でしょ?」
そう言って、にっこり笑顔を浮かべて。
猫耳の少年は渾身の力を込めて、雲と霧の守護者を揃って殴り飛ばした。
2011/08/30 脱稿