Pollux

 手を伸ばせば簡単につかめそうなのに、実際には爪の先に掠めることすら出来ないもの。
 太陽。
 月。
 星。
 当たり前のようにそこに存在しているのに、この手に触れるどころか、簡単にすり抜けていってしまうもの。
 時間。
 未来。
 あやふやなのに、あると信じればあって、ないと思えばないもの。
 運命。
「これで全部か」
「うん」
 父親に言われ、渡は頷いた。床に山積みにされた段ボール箱を右から順に眺めて、手近なところにあったものをひとつ、開けてみる。
 出て来たのは春物の衣服で、側面を見れば確かに自分の字でその旨が記されていた。
 先に確認すべきだったと後悔しても遅くて、彼は役目を追えたガムテープをぐしゃぐしゃに丸めると、半透明のゴミ袋へと放り投げた。
 机も、ベッドも、指定の位置に置いてもらった。ただ実際に移ってみなければ分からないことも多くて、本棚は、予定していたスペースには狭すぎて入らなかった。
 居心地悪そうに壁に張り付いている棚には、まだ何も入っていない。これから徐々に整理していくつもりだが、果たして全ての棚を埋めてしまってよいものか、渡には分からなかった。
 冬休みを目前に控えた中途半端な時期に、引越しなど。
 高校受験も間近に迫り、志望校の絞り込みも急がなければならない。そんな大事な時に、学校が変わり、環境が変わった。
 前の学校にも、さほど親しい友人はいなかった。別れが惜しんだとは、正直言いがたい。もっともあの猥雑な空気には随分と慣れて馴染んでいたので、新しい学校で心機一転を図れるかと聞かれたら、答えは保留せざるを得ない。
 制服も、結局間に合わなかった。
「ブレザー、だったけ」
 翌週から通う学校については、知識だけなら先に貰っている。男女共学で、マンションからはさほど離れていない。
 直ぐに使うからと、制服は他の荷物とは別にしておいた。お陰で見つけ出すのに苦労もなく、今は皺を伸ばすべくハンガーに吊るして壁にぶら下げられていた。
 矢張り、物珍しがられるのだろうか。
 段ボールの整理は後回しにして、渡は制服へと歩み寄った。表面をそっとなぞり、だらりと垂れ下がっているネクタイの先を抓んで指に絡める。
 意味も無い事をしている、と無意識の行動に苦笑して手を離し、ふと気になって窓の外を見る。
 時計を探して視線を一周させて、最後に左手首へと。巻き付けた腕時計の文字盤を確認した彼は、小さく頷き、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
 誤作動防止のロックを外し、慣れた手つきで望む画面を呼び出す。
「そういえば、確か」
 毎日のように眺めている、とあるプロジェクトの日報の賑わいぶりに、とある事柄を思い出して呟く。テレビでも大々的に取り上げられていたのだが、引越しの慌しさの中ですっかり失念していた。
 ここ十数年間、宇宙工学に関する分野の進展ぶりは目覚しいものがあった。
 外宇宙からのメッセージにより、一時期停滞ムードが漂っていた宇宙開発は急激な加速を見た。火星で会おう、という突飛とも思える約束をかなえるべく、地球に暮らす大勢の人々が力を出し合い、協力し、ひとつの夢に向かって邁進している。
 スペースシャトルが引退して、既に久しい。宇宙へ人や物資を運ぶのは、もっと簡素で、経済的コストも安いものに切り替えられた。
 地球を周回する国際宇宙ステーションの建設が急がれ、月面での鉱物採掘が実現化した時、火星に行く、という夢物語は一足飛びに現実味を帯びた。
 無論、トラブルがなにもなかったわけではない。今でも、月の鉱山の所有権を巡って大国同士が水面下の駆け引きを繰り返している。だが人々はそういった血生臭い話から目を逸らし、ただ明るい未来を、外宇宙からやって来るであろう知的生命体との出会いを想像し、無邪気に興奮した。
 渡もまた、そういった自分にはおおよそ関わり合いの無い話から意識を逸らし、画面に表示される文面に気持ちを切り替えた。
「凄いな」
 携帯電話を操作しながら、画面上に次々現れる情報を素早く読み進めていく。
 大型掲示板サイトには幾つものスレッドが乱立し、発見されたばかりの新星について、様々な意見が飛び交っていた。
 大きさ、重量、寿命に、挙げ句構成されている物質についても。
 地球から最もよく見える時間帯を算出している人もいる。計算違いを指摘して、実際はこうだ、と持論を展開する人も多い。
「見えるか?」
 多少の誤差はあれど、どの数値も大体似通っていた。時計を再確認して、渡は湧き起こる興奮に息を飲んだ。
 足が自然と窓の方へ向かい、鍵を外して身を乗り出す。十二月の冷たい風が頬に辺り、黒髪を弾き飛ばした。
 目に入りそうになった埃を避けて首を竦め、彼はまだ幾ばくか明るさを残す空を仰ぎ、胸を過ぎった寂しさに奥歯を噛んだ。
「……」
 裸眼で見えるわけがないのに。
 何をやっているのかと、溜息をついた彼は潔く部屋に戻った。窓を閉めると、耳を打った冷たい風の声も、走る車のエンジン音も、一瞬で消えてしまった。
 打ちひしがれた自分を慰めるように、彼は携帯電話に目を戻した。暗くなっていた画面にライトを灯し、早い時間から繁盛している掲示板を呼び戻す。
 まだ学生なのか、随分と元気のよい書き込みが見られた。文面から興奮具合が窺えて、渡はつい、笑ってしまった。
 くるりと反転して室内に向き直り、窓ガラスに背中を預ける。背筋を伸ばすと、後頭部がコツンとガラスに当たった。
 宇宙学校説明会の参加証も、制服と同じく、他の荷物とは別にしておいた。誰にも見付からないよう、引っ越し業者が引き上げた後に、机の引き出しにこっそり潜ませた。だがそれを取り出して眺める気には、どうしてもなれなかった。
 何故申し込んだのだろう、どうせ行かないのに。
 いけるわけが無いのに。
 机の上に無造作に放置された医学書、頭蓋骨が描かれた一見グロテスクな表紙を一瞥して、渡はすぐに手元に意識を戻した。
 先ほどの書き込みの学生が、次の投稿を行っていた。他の投稿も辿っていくうちに、元気の良い、明るい性格が窺えて、奇妙なことに不思議な安心感を覚えた。
 年齢が近いような気がする。もしこの投稿者のような知り合いが傍にいたら、もやもやして見えない未来も、意外にはっきりと見えるようになるかもしれない。
「何を考えてるんだろうな、俺は」
 馬鹿な空想に耽って時間を潰すくらいなら、教科書でも捲って一問でも多く問題を解いたほうが有意義だ。
 それは分かっているのに、妙に惹き付けられて、目が逸らせない。
 やたらと擬音を用いて、実に回りくどい説明をして、理解するのに時間がかかる。だが言っている事はどれも正しく、奇想天外な文面とは裏腹に、真理をついていてどきりとさせられた。
 双子座の超新星についての意見もしっかりしており、周囲の嘲笑にもまるでへこたれない。
 面白い奴だと思った。
 話しかけてみたいと思った。
 指が動く。画面を撫でる親指がヒクリと痙攣した。
 はっと息を吐いて、渡は開きかけた口を急いで閉じた。下唇を咬み、吐き出したいあれこれを懸命に押し留めて低い声で唸る。
 呼びかけて、それでどうする。返事がなかったら、虚しいだけだ。
 星の話をしようにも、誰も相手をしてくれなかった。教室でもひとりで、家でも、ひとりで。
 あの時と同じ事を繰り返すくらいなら、最初から興味ないふりをしていればいい。そう、天体になど心動かされず、未開の地の宇宙に興味を抱いたりもしない。
 与えられた課題をこなし、問題を解き、良い点数を取るお手本のような学生であれば、周囲は誰も文句を言わない。
 それでいいのに。
「……」
 渡は画面を閉じた。液晶が真っ暗になるのを見届けて、力尽きたように首を後ろに倒す。逆さまになった視界で、薄暗い中にぼんやり輝く月が見えた。
 火星ほど遠くなくていい。月よりも近くが良い。
「きこえますか」
 此処にあるドアを、誰か叩いてはくれないだろうか。
「もしもし、きこえますか。だれか、きこえますか」
 この声は、届きますか。
 愚かしいと思いつつ呟いて、目を閉じる。
 呼ばれた気がして、顔を上げる。
「真帆、さっさとお風呂入っちゃいなさい」
 父親のパソコンを占領している息子に、母親が喧しく命令して、不思議そうに首を傾げた。
「真帆?」
 惚けた顔をして虚空を見ている姿に、十四年前の光景が蘇る。まさか、と待ち構えていると、息子はきょとんとしたまま母を振り返った。
「なんだ、母さんか」
「なんだとは、なによ。お風呂、真帆が最後よ」
「あー、あとちょっと。今いいところなんだ」
 再読み込みボタンを押した瞬間、掲示板への書き込みが一気に増えた。自分への返信をチェックしながら、彼は忙しく手を振り、もう少し待ってくれるよう頼み込んだ。
 いつもの光景に肩を竦め、母は呆れ気味に部屋を出て行った。残された少年は、画面の文字を食い入るように見つめた後、先ほどの不可思議な感覚を思い出して目を瞬いた。
 なにか、とても大切な事を忘れている気がした。
「……ま、いっか」
 三十秒考えても分からなくて、真帆はあっけらかんと笑い、パソコンに意識を戻した。

 とんとん、とんとん。
 ドアを叩くのは、だあれ?

2011/07/11 脱稿