いつからか、その声がいやに耳につくようになっていた。
他に大勢の人間が雑談に興じ、騒いでいるにも関わらず、何故かこの耳はその人の声ばかりを拾ってしまう。どこに居ても、たとえ向こうが物陰に隠れていたとしても、だ。
声が聞こえないと、探してしまう。見つけたら見つけたで五月蝿いし、隣に置いていれば鬱陶しいくらいのお節介を発揮して、挙句人に迷惑ばかり振り撒くというのに、だ。
気がつけば身についてしまっていたそんな奇妙な習慣に、毎回のようになんだかんだと言い訳をして、今日もまたバーナビー・ブルックスJr.は長い廊下を歩いていた。
三十分ほど前までトレーニングルームにいたはずなのに、ちょっと席を外した隙に姿が見えなくなってしまった。この後一旦事務所に戻り、先日の事件の報告書を仕上げなければならないというのに、だ。
別段待ち合わせをしていたわけではないが、行く先は同じなのだから一緒に行けばいい。手間が省けるし、サボりたがる男の首根っこを捕まえておくのもまた、自分の仕事のひとつだ。
そう。彼を探すのも仕事のうちで、それ以外の理由はない。
カツカツと硬い足音を響かせて、バーナビーは険しい表情を一層引き締めた。憎き敵がそこにいるかのように鋭い眼差しを前方に投げて、若干前のめりに、勢いをつけて歩き続ける。
次第に速まっていく足取りは、しかし突然止まった。
笑い声がした、それも酷く下品な。
「……チッ」
右斜め後方から響いた低い声に、思わず舌打ちしてしまう。眉間の皺を深めたバーナビーは、けれど直後に女性職員が通り掛かると見るや、にこやかな営業スマイルを浮かべてみせた。
微笑みを交わして、行き違う。直後、再び般若の面を被った彼は、まだ止まない笑い声の主を探して視線を巡らせた。
ハイヒールにタイトスカートの女性が通路の角を曲がり、視界から消えた。その手前に細い通路が一本あるのを見つけて、彼は勇んでそちらに足を向けた。
真正面には、今いるのと同じような通路が見えた。両者を繋ぐ細い連絡通路には自動販売機が並べられ、反対側の壁には休憩用のベンチがふたつ、横並びに置かれていた。
その手前側に、捜し求めていた人物が座っていた。
「おじ……っ」
「それでよー、聞いてくれよ。もう傑作なんだぜ」
「おいおい、あんまり若い奴を苛めてやるなよ」
「別に苛めてなんかいねーさ。ただ、ちょーっとからかってやったら、ムキになって怒鳴り返してくるからさ」
「それが苛めてるんだろ」
「失礼なこと言うなよー。これはな、俺様なりの、ま、愛情表現って奴だ」
紙コップを片手に熱弁をふるい、販売機に寄りかかって立つ男ににやりと笑ってみせる。本人は口角を歪め、不敵な表情を作っているつもりかもしれないが、傍から見る分には滑稽極まりなかった。
ふたりはバーナビーの存在に気付く様子もなく、話に夢中になっていた。
お気に入りのハンチング帽を脇に置いた虎徹が、すっかり冷めてしまったコーヒーを口に含んだ。あまりの不味さに舌を出し、それをアントニオが豪快に笑い飛ばす。
大柄な見た目同様、笑い声も大きい。空気がビリビリ震えている気がして、バーナビーは眼鏡を庇って手を広げた。
額に翳し、表情の半分を隠す。前方の会話は、未だ終わることを知らない。
「無茶しなさんな。新しいの、買うか」
「いや、いいわ。あんまり無駄金使うのもなー」
「これくらいなら奢ってやらんでもないぞ」
「どうせなら、焼酎の一杯でも恵んでくれよ」
「一杯で済んだ例がないからな。断る」
「いーじゃねーかー、アントニオのケチー」
すげなくあしらわれて、虎徹は口を尖らせてぶーぶーと抗議の声をあげた。そのあまりにも子供っぽい拗ねた態度から、ふたりが非常に親密な関係にあるという事が、楽に想像できた。
元来、ヒーロー同士はあまり深い交流を持たない。
確かに職を同じくする者同士、信頼関係を築くのは重要だろう。が、ヒーローTVのシステムに則れば、評価に直結するポイントは奪い合うものであり、自分以外のヒーローはライバルに等しい。
ヒーロー養成アカデミーでどれだけ仲が良かったとしても、ひと度番組が用意したステージに立てば、相手は敵にも等しい邪魔な存在となる。
いつまでも仲良しこよしで居られる程、このシステムは甘くも優しくも無い。獲得ポイント数次第で給料は上がるし、上司からの信頼も厚くなる。市民からの声援も、言わずもがな。
もっとも、ワイルドタイガーとロックバイソンは、最近ではポイント下位に甘んじることが多く、その辺りで傷の舐めあいをしているのかもしれない。
「お前んトコ、あれだろ。飲食業メインなんだから、顔パスでいけんだろ」
「馬鹿か。いくら所属企業だからって、ほいほい使えるわけがないだろう。第一俺だって、ヒーローやってることは公表してないんだぞ」
雑談は続いていた。姦しい女子高生ではなかろうに、話題は尽きない。
虎徹はコップに残っていた苦いコーヒーを一気に飲み干すと、真ん中で握り潰した。座ったままひょいっと右手を前後に振って、反対側の壁にあるゴミ箱目掛けて放り投げる。
が、狙いは外れて、跳ね返ったゴミは床に転がり落ちた。
「お前な、コーヒーで酔っ払ってんのか」
「んなわけねーだろ。偶々だよ、偶々。それよかさ、今度肉、食いに行こうぜ」
「それも俺のおごりだとか言うんだろう」
「けちけちすんなって。天下のロックバイソン様が行くとなれば、店側だってサービスしてくれんだろ」
「だから、俺は一般には」
「マスク被ってきゃいいじゃねーか。……お前だけ」
「それじゃ俺が食えないだろう」
「何言ってんだ。真ん中のあれ、シャッターあるだろ。そっから食えんだろ」
「それこそ馬鹿を言うな!」
アントニオが腰を曲げ、前屈みになって拉げた紙コップを拾った。虎徹の代わりにゴミ箱に放り込んで、腹を抱えている男の頭を小突く。
力の入っていない拳骨を喰らって、虎徹は一段と高い声で笑った。
細い脚を交互に揺らして床を蹴り、何がそんなに面白いのかケラケラと五月蝿い。屈託無い表情は相手に気を許している証拠であり、バーナビーに向けられるものとは趣が異なっていた。
「いいじゃんか、やろうぜ。他の連中も誘ってさ」
「断る。第一、あれはシャッターを開けたら、却って視野が狭くなる」
「そんじゃ、俺が食わせてやるよ。こうやって、ほれ、あーん」
断固として拒否を貫くアントニオに、虎徹も食い下がって諦めない。右手を緩く握り、箸を動かす仕草をとって、妙に艶めかしい動きでアントニオの方へ身を乗り出す。
やられる方も慣れているのか、格別驚きはしない。呆れ顔で肩を竦めてはいるが、虎徹を見下ろす目は優しかった。
「ちゃんと冷ましてから食わせてくれるんだろうな」
「あったりまえだろー。愛しのアントニオの為なら、なんだってサービスするわよん」
腰をくねらせて女言葉を駆使する、三十台の男。歓喜に染まった頬はほんのり色付いており、些か気色悪かった。
んー、と唇を突き出してキスを強請るポーズをする友人に、アントニオも苦笑を禁じえない。悪ふざけもいい加減にするよう言って額を押し返したところで、ようやく、傍にもうひとり居ることに気がついた。
廊下から照る照明を受け、床に長い影が伸びている。どこか呆然としているバーナビーをその場に認めて、アントニオは友人の額をもう一発、強めに叩いた。
「いって」
ごつん、と骨に響く音がバーナビーにも聞こえた。
両手を頭にやって苦悶の表情を作った虎徹が、急に何だと大きく口を開けてアントニオに噛み付く。だが彼は抗議の声を平然と受け流し、親指を立ててバーナビーの方に向けた。
指差されてむっとして、バーナビーは整った顔立ちを歪めた。
眼鏡の奥に潜む目が、あからさまに嫌悪の色を持った。堅く結ばれた唇に、引き気味の顎といい、ひと回り年上から言わせれば、生意気としか言いようのない顔だ。
だがアントニオは気にする様子もなく、今し方叩いたばかりの友人を撫でて慰め、苦笑した。
「あっれ。バニーちゃん、どったの」
教えられて初めて相棒の存在に気付いた男が、目を真ん丸にして素っ頓狂な声をあげた。
甲高い声で恥ずかしい愛称を呼ばれて、バーナビーの頬がヒクリと痙攣を起こした。あまり機嫌がいいとはいえない表情に、アントニオがひっそりと眉を顰める。
だが虎徹は気付いていないのか、それとも分かっていて無視しているのか、呑気極まりない態度を崩さなかった。
「どうしたも、こうしたも、ありません。此処で何をしているんです」
険のある声で告げて、バーナビーが右手を揺らした。広げた手を上下に振って、最後に握って拳を作る。腰に押し当てて居丈高に構える若者に、虎徹は答えに窮して視線を泳がせた。
どちらが年上なのか、分かったものではない。
「おい、虎徹」
「なにって、なあ。んー……イイ話?」
これ以上バーナビーの機嫌を損ねるのは得策ではない。さほど親しいわけでもないアントニオでもそれくらい分かるのに、虎徹は気にする素振りも見せずに、逆にアントニオに絡んで来た。
にこにこ笑って胸を叩かれて、鋼鉄の皮膚を持つ男はがっくり項垂れた。
「お前な……」
こんなところで下らない冗談を言っても、笑ってくれる人間はいない。案の定バーナビーは表情をより険しくして、虎徹のみならずアントニオまで睨んできた。
とんだとばっちりで、彼は慌てて手を横に振り、素面なのに酔っているとしか思えない友人を押した。
ベンチの上で横に倒れ伏しそうになって、虎徹は乱暴な男にムッと頬を膨らませた。
「いってーだろ、アントニオ」
「いいから。悪かった。俺が悪かったから、さっさと行け」
ぶーぶーと文句を言う三十路男を宥め、犬猫を追い払うときのように手を振る。しっしっ、とされて、虎徹は膨れ面のままベンチから立ち上がった。
ハンチング帽を忘れずに持ち、頭に被せる。その上で仁王立ちのバーナビーに駆け寄ると、用件は何かと早口に問うた。
「バニーちゃん?」
「バーナビーです」
こんな時でも律儀に訂正を求めてくる男は、はっきり言って神経質だとアントニオは思う。変にプライドが高く、それでいて、人付き合いに慣れていない。
虎徹が座っていたベンチに腰を下ろして、彼は脚を組んで頬杖をついた。
盗み聞きをするつもりはないが、ふたりとも声を潜めもしないので、自然と聞こえてしまう。自分が立ち去ってやる義理も無いと、彼は失笑寸前の会話に耳を傾けた。
「僕、さっき言いましたよね。今日はこの後、事務所に戻って報告書の作成があるって」
「あっれー。そうだっけ?」
「そうです。とぼけるのもいい加減にしてください」
「そうだったっけかなー。あ、でもバニーちゃんなら、俺が作るより何倍も速いだろ」
「おじさんが壊した分、加算しておいてもいいですか」
「一寸待て。それはないだろう、それは」
「知りません。僕に押し付けるつもりなら、それくらいのリスクは負ってもらわないと」
「そりゃないぜ、バニー。俺達は、チームだろ?」
「そう仰るなら、相応の誠意というものを見せてください」
ぴしゃりと言い切り、取り付く島を与えない。すげなくあしらわれた虎徹は、ショックに打ちひしがれた目をして、後ろに数歩よろめいて両手で顔を覆った。しくしくと哀しんでみせるが、明らかに嘘泣きだった。
バーナビーも分かっているようで、動揺する様子は一切ない。呆れ顔を強めて、盛大に溜息をついていた。
「おじさん」
「バニーちゃんが冷たい」
「僕は至って平常運転です。おじさんが、だらけすぎなんです」
人差し指をつきつけて説教をする二十代と、叱られて小さくなる三十代。最早どちらが年上か、分かったものではない。
バーナビーの小言の多さについては、酒の席でも頻繁に愚痴として聞かされている。だが冷静に考えてみたところ、非があるのは全て虎徹であり、バーナビーの言葉はどれも正しかった。
こんな同僚が居たら、さぞかし疲れるだろう。だのにバーナビーは飽きもせず、毎度の如く虎徹を探し出しては、首根っこを捕まえて引きずっていく。
「くくっ」
虎どころか、猫に等しい。ウサギに咥えられる子猫の図を想像したら思った以上に可笑しくて、アントニオはつい噴き出した。
声を殺したつもりだったが、場所柄、予想以上に響いてしまった。一向に終わる気配のない説教が一旦中断して、向けられた合計四つの眼に、彼は慌てて手を振った。
「いや、悪い。続けてくれ」
自分は気にするなと告げて、先を促す。だが今の一瞬で気勢を削がれたらしく、バーナビーは気難しい顔をしたかと思えば、わざとらしい咳払いをして、虎徹の手を取った。
時計の上から手首を握られて、触れた肌の熱に彼は眉目を顰めた。
「バニー?」
「行きますよ、おじさん」
今の今までアントニオの存在を忘れていたバーナビーが、若干気まずげな顔をして早口で告げた。引っ張られた虎徹は、繋がれた手と、苦笑している古くからの友人、そして最近出来たばかりの相棒を順番に見て、不思議そうに眉を顰めた。
敏感なのか、鈍感なのか、分かったものではない。アントニオは肩を竦めると、早く行けと手を振った。
「お前ら、ほんと、良いコンビだよ」
「はあ? どこが」
「おじさん、行きますよ」
去り際に捨て台詞を投げてやれば、虎徹ひとりが噛み付いた。が、バーナビーに問答無用で引きずられて、彼の姿は呆気なく見えなくなった。
頬杖着いたアントニオは、それでも暫く手を振り続けた。遠くふたりのやり取りが響いてきたが、それも一分と経たずに聞こえなくなった。
「昔に比べて、……良く喋るようになったな、あいつ」
すっかり静かになったところで、疲れを覚え始めていた利き腕を膝に置く。そうして空っぽの掌をしばし見詰めて、一抹の寂しさを覚えている自分に気付いて目尻を下げた。
一方のバーナビーは、やっとのことで捕獲に成功した野良猫、もとい虎徹をエレベーターに放り込むと、自分も中に入り、ドアを閉めた。
「ちょ、こら。バニー」
「仕事はきちんと終わらせてください。でないと、僕の信用にも関わります」
「……ちぇ。結局自分の為じゃねーか」
「おじさんの為でもあります。これ以上、評価さげてどうするんです。失業したいんですか?」
目的の階のボタンを押せば、最大十人乗りの箱はゆっくり下降を始めた。片面が全て窓になっており、シュテルンビルドの絶景を一望できる。
虎徹はその眩しいばかりの景色に一瞥をくれただけで済ませ、すまし顔の青年の背中をむすっとした顔で睨み付けた。
「俺が失業してくれたほうが、バニーちゃんにとっては嬉しいんじゃねーの?」
心配されている、というよりは馬鹿にされていると受け取ったらしい。揚げ足を取って言い返してきた年上の同僚に嘆息し、バーナビーは眼鏡をくい、と押し上げた。
前を見据えたまま、意識だけを後ろに傾ける。虎徹は両手をズボンのポケットに入れ、不貞腐れた表情でそっぽを向いていた。
あと数年で四十台に突入するくせに、なんとも大人気ない態度だった。これでよく、今まで干されずにやってこられたものだと、心底呆れると同時に感心してしまう。
ネクストは大勢いるが、実用的な能力を持つ人間はそう多くない。その中で更にヒーローとして活躍できるような能力を有し、且つ積極的に悪事を駆逐しようとする人間は、間違いなくレア中のレアだ。
パワー系の能力者は、どちらかと言えば目先の欲に目が眩んで、犯罪行為に走りやすい。彼の二つ名が示す通り、能力の行使イコール破壊行動に直結する者は特に、一般人から忌避されて、嫌悪される傾向にあるからだ。
ネクストだからと差別されて、正当な評価が得らないことへの怒りが、思考を狂わせる。バーナビーだって、父と母を殺した犯人を探す、という目的がなかったら、どうなっていたか分からない。
だから時々、虎徹が分からない。いくらミスター・レジェンドに感銘を受けたからといって、あれほどの賠償金を背負ってまで正義の味方に拘る必要が、何処にあるのか。
彼が動けば動くほど、損害額は増えていく。自分で自分の首を絞めているというのに、お構いなしだ。
「僕は、会社の命令に従うまでです」
「へいへい。かーいくねーの」
「可愛くなくて結構です。着きましたよ」
虎徹をクビにするか、このまま契約を続けるかは、全て上の判断だ。マーベリックが、新人の引き立て役として古参の落ち目ヒーローを拾ってきた理由は分からないが、虎徹の抱える賠償金は、ある意味アポロンメディアにとっての癌ともいえる。
放っておけばどんどん悪くなる。だのに上はバーナビーと虎徹のコンビを解消させる気はない様子で、虎徹も体力的に辛いだろうに辞めようとしない。
開いたドアを抜けて、ロビーに出る。虎徹も、渋々ながら後ろについて歩き出した。
建物の外に出ると、目の前は公園になっていた。風船を手にした子供と、その母親らしき女性が仲睦まじげに歩いている。
なんでもない、どこにでもある光景だ。それを眺めた虎徹の表情はいくらか和らぎ、そして哀しげに伏せられた。
「お嬢さんの養育費の為にも、せいぜいクビにならないよう、頑張って働いてください」
「わーってるよ、このバカーナビー」
「バーナビーです。変な渾名を増やさないでください」
虎徹には、娘がいる。妻は既にこの世にないという。
最初に教えてくれたのは、そういえばアントニオだった。
市長の子供を預かることになって、カリーナの言葉に反応したアントニオが何気ない様子で告げたのだ。至極自然に、それが当たり前だと言わんばかりに。
だがバーナビーは知らなかった。虎徹がいつも、左の薬指にシンプルなリングを嵌めているのは知っていたが、所帯を持っているという雰囲気は感じなかったので、ただの人避けと思っていた。
世の中には、望まれてもないのに人のプライベートに踏み込んできたがる輩がいる。独身だと断るのにあれこれ理由が要るが、既婚者であればパートナーの為と言い訳をすれば、面倒な接待を抜け出すのも容易だ。
だが違った。憶測は外れて、バーナビーの知らない事実を、アントニオは知っていた。
「おじさん」
そっぽを向いて早足になっている虎徹の背中に話しかける。追いかけて、追いついて、横に並べば、彼は一瞬だけバーナビーを見た後、口をつぐんだ。
分かり易い拗ねた態度に嘆息を重ねて、バーナビーは幾らか声のトーンを落とした。
「あの方とは、随分と仲が良さそうでしたが」
「あのかた? ……ああ、アントニオか」
畏まった呼び方をされて、ぴんとこなかったのだろう。一瞬空を見て考え込んだ虎徹が、苦笑と共に頷いた。
バーナビーは、ヒーローとしてデビューしてからまださほど経っていない。即ち、それ以前の虎徹を知らない。その破壊神ぶりはテレビの中継で度々目撃しているものの、舞台裏ともいえる私生活や、友人関係にはまったくノータッチだった。
この世界に入るまで、ヒーローたちはもっとぎすぎすした関係にあると、勝手に思っていた。
「彼とは、長いのですか?」
虎徹は今年でデビュー十年目を迎えたベテランで、ロックバイソンもそれなりに年季が入っている。職を同じくするライバルとして知り合ってから、軽く五年以上過ぎている。
だがその推測も、外れだった。
「長いかって、そりゃ、……ああ、長いな。俺らがまだハイ・スクールの頃からだから、ええと」
「ハイ・スクール!」
またひとつ、予想外過ぎるひと言がぽんと飛び出して来て、バーナビーは場所も考えずに叫んでしまった。
素っ頓狂な声に、通行人も何事かと振り返った。テレビでよく見る男だと気付く人も多く、ヒソヒソ話す声があちこちから聞こえた。
珍しく感情を表に出したバーナビーに失笑して、虎徹は彼から距離を取った。置いていかれそうになって、バーナビーも慌ててブーツで路面を蹴った。
注目を振り払い、逃げた男を捕まえて、肩で息を整える。ベンチを勧められて、バーナビーは仕方なく頷いた。
買って来てもらった缶入りの炭酸飲料で喉を潤せば、虎徹は当然のように隣に座り、人が口をつけたばかりの飲み物を横取りした。
「あ……」
「んだよ。俺んだぞ」
飲め、と手渡してきたのは彼だ。理不尽なやり取りに眉を顰め、バーナビーは湿っている唇を撫でた。
「それで、なんだっけ? あー、俺とアントニオな。知らなかったのか?」
「知るわけが無いでしょう」
「そういや言ってなかったな。んー……そうだな。もうかれこれ、二十年くらいになるか」
指折り数え始めた彼だが、途中で計算が面倒臭くなったらしい。大雑把な年数を口にして、冷たいドリンクで喉を潤す。
だが実際は、とても軽々しく言える年数ではなくて、バーナビーは唖然となった。
高校生の頃に知り合って、今も交流が続いている。そんな人間、自分にいたかと考えて、目の前が一瞬暗くなった。
「てっきり、ヒーローになってからの知り合いだと」
「あー、みんなそう言うな。けど違うぜ。アイツ、俺が前のトコ採用なったの知って、猛烈に悔しがってよ。自分もヒーローになるんだっつって、あちこち面接受けまくったんだぜ」
当時を思い出してか、虎徹が楽しげに笑った。白い歯を見せて、豪快に。
盗み見た横顔はとても眩しくて、バーナビーは直視出来ないのは太陽の所為だと言い訳して、目を逸らした。
それだけの年数を共に過ごしていたのなら、あれだけ親密なのも頷ける。虎徹の家族構成を、ごく自然に口にするのだって容易だろう。
「長いですね、二十年」
翻って自分はどうか。この二十年間、いったい何をして来たか。
直ぐに思い出せる出来事のどれもが、ウロボロスのマークに染められていた。学校にもきちんと通っていた筈なのに、クラスメイトと気さくに談笑し、遊んだ記憶は殆どない。
いつも気難しい顔をしていた。話しかけても碌に返事をせず、愛想もない。そんな男に構う同年代は居なかった。
見た目の華やかさから女子には人気があったが、人付き合いは面倒臭いだけで嫌いだった。
二十年後、隣の席に座ってくれる人は誰もいないかもしれない。寒々しい光景をふと想像して、背筋が震えた。
「長いかー? 意外にあっという間だったぞ」
鳥肌立った腕を撫でたバーナビーを他所に、虎徹はどこまでも呑気だ。あっけらかんと言って、中身の減った缶をぶらぶら揺らす。長い脚を見せ付けているつもりか、右を上に組んでおり、爪先の細い靴が踵に別れを告げていた。
格好悪い。決めようとして決めきらないのは、彼の持ち味のひとつかもしれない。
笑いがこみ上げてきて、バーナビーは右手で口元を覆った。覚えた寒気は、いつの間にか消えていた。
「長いですよ、二十年。吃驚するくらい、……そう。長かったです」
しみじみ呟く。
だが思えば確かに、短かったかもしれない。
脇目も振らずに、一心に両親殺しの犯人を追い求めた。誰が、どういう目的で。それが分からない限り、バーナビーは一生安眠を得ることが出来ない。
必死だった。他のことに目を向ける時間が惜しかった。
いや、違うかもしれない。両親の無念が晴れていないのに、生き残った自分だけが青春を謳歌して、笑っているのが苦しかっただけだ。
それはさながら、呪縛の如く。茨の鎖となって、絡み付いて離れない。
先のことは考えなかった。将来というものに、思えば一度も真面目に向き合ってこなかった。
肩幅に広げた足の間に手を置いて、指を結び合わせる。親指と人差し指の間に出来た小さな空間をじっと睨むように見詰める彼に、虎徹は一瞬躊躇し、緩く首を振った。
淡い笑みを浮かべ、まだ冷たい缶を揺らす。
「ひゃっ」
いきなり頬に押し当てられて、バーナビーは変なところから声を出した。
ビクリと身を竦ませた彼にしたり顔を向けて、虎徹がふふん、と鼻を鳴らした。
悪戯が成功したガキ大将の表情で、満面の笑みがなんとも憎らしい。
「な、なんですか」
「飲むか?」
冷やされたばかりだというのに熱くてならない場所を押さえ、バーナビーが声を上擦らせる。怒鳴り声の抗議も無視して、虎徹はいつも通り平然と、どうでもいい事を口にした。
ちゃぷん、と缶の中の液体が音を響かせた。あまり揺らすと炭酸が抜けてしまう、とは言わず、バーナビーは納得が行かないながらも手を差し出し、缶を両手で受け取った。
一度は自分が口をつけ、そして虎徹も口にしたものが、また戻って来た。雫が張り付いている飲み口部分をじいっと見詰めて、バーナビーは半眼した。
「全部飲みますよ」
「おう、いいぜ」
「奢りですよね。僕は払いませんよ」
「ンなケチくせーことは言わねーよ」
酒を奢らせてはくれないらしい。アントニオとの差を痛烈に感じて、バーナビーは息苦しさに喘いだ。
ベンチに凭れ掛かった虎徹が、暮れゆかんとする空を仰いで満足げにしている。何を考えているのか読めない横顔を渾身の思いで睨みつけて、彼は残っていた炭酸飲料を一気に飲み干した。
当然、噎せた。
「げほっ」
思えばこんな果汁入りの炭酸飲料、数えるほどしか飲んだことが無い。いかにも健康に悪そうな色をしているし、妙に甘ったるくて舌に残る。
あろう事か虎徹の前で醜態を晒してしまい、バーナビーは顔を赤くして腕で鼻から下半分を覆い隠した。空になった缶をベンチの、虎徹の真横に置いて、不快でならない胃や食道の辺りを撫で回す。
雫を飛ばされた男は、濡れたズボンを気にして立ち上がり、染みになった部分に掌を押し当てた。
体温で乾かそうとしているらしい。匂いはどうするつもりなのかと呆れつつ目を吊り上げれば、久方ぶりに視線が交錯して、思いがけず笑いかけられた。
「心配しなくても、二十年、退屈なんかさせてやんねーから」
「……は?」
「時間ってやつは、何かに打ち込んでる時は短く感じるモンだ。だからよ、二十年なんて、お前さんが思ってるよりずっと一瞬だぜ」
両手を広げて堂々と言い放ち、最後に親指を立ててポーズを決める。ウィンクされて、何の話か分からなかったバーナビーは呆然と彼を見詰め返すしかなかった。
反応が鈍いのをいぶかしみ、虎徹が眉を顰める。下顎を突き出して詰め寄られて、バーナビーははっと我に返って目を瞬いた。
近付いて来る虎徹から逃げてベンチに深く腰掛け直して、一連の会話を振り返る。
二十年は長い、という話から、短い、と反論されて。
二十年退屈させない、と彼は言う。
「おじさん。貴方、まさか二十年後も僕とコンビ組んでるとか、言うんじゃないでしょうね」
「え? 俺はそのつもりだけど」
「二十年後っていったら、貴方、もう六十近いじゃないですか。いったい、いつまでヒーローやるつもりなんです」
「そりゃ、決まってるだろ。俺は生涯現役だぜ!」
握り拳を作って意気込んだ男に唖然として、バーナビーは肩を落とした。額に手をやり、いかにも呆れているというポーズで首を振る。
虎徹が心酔して止まないミスター・レジェンドも、結構な期間を現役で過ごした。彼を目標に掲げているのだとしたら、虎徹がなかなかヒーロー職を引退したがらないのも頷ける。
分からないことだらけの鏑木・T・虎徹だが、ひとつ分かったことがある。
彼は金の為、または名誉の為、ましてや両親の仇を探す為にヒーローをやっているのではない。純粋に、ヒーローという仕事が好きだから、ヒーローを続けているのだ。
バーナビーは空になった空き缶を手に立ち上がった。虎徹が右にずれて道を譲る。
スローモーションで放り投げた缶は、綺麗な弧を描いて見事、遊歩道を挟んで向かい側に置かれたゴミ箱に入った。
「おー、ストライク」
「おじさんとは、違いますから」
「んなっ。さてはお前、見てたな!」
「気付かない方がどうかしてるんです。仕方がありませんね、おじさんひとりじゃ不安ですから、つきあってあげてもいいですよ」
「うん? なに、何処に?」
「ずっと、貴方のパートナーで居てあげます、という話です」
「あれ、そっち? っていうか、マジ? いいの?」
「構いませんよ、乗りかかった船といいますし。ああ、でもトイレはちゃんと自分で行って下さいね。オムツは変えてあげませんから」
「って……おい。そりゃどういう意味だよ!」
休憩が思った以上に長引いてしまった。いい加減当初の目的地を目指すべく、ふたりして歩き出す。
太陽は西に傾き、シュテルンビルドの町並みを鮮やかな赤色に染め上げていた。
それまで見ようともしなかった、見えなかった未来が見えた気がして、バーナビーは運命の女神に向かって微笑んだ。
2011/06/29 脱稿