Irene

 ホームルームが終わった。クラスメイトが早々に帰路に着くべく廊下に出て行く中、宙地渡もまた帰り支度を済ませて立ち上がった。
「宙地君」
「……?」
 しかし歩き出そうとした矢先に呼ばれて、振り返った彼は僅かに顔を顰めた。
 眉間に皺が寄る。不機嫌とも取れるその表情に、しかし話しかけて来た少年はとても楽しげな笑みを崩さなかった。
 両手を背中に回して、何かを隠している。鞄かと思ったが、机を見ればそれらしきものがどん、と仁王立ちしていた。
「なに」
 帰ろうとしていたところを呼び止められたのだから、それ相応の用件でなければ許し難い。一日中、前後の席で活動していたのだから、話をする機会はいくらでもあった筈だ。
 何故このタイミングで。
 訝しむ渡に、しかし癖だらけの髪型の少年は、なかなか話し始めようとしなかった。
 もぞもぞと身を捩って、なにやら恥ずかしそうに俯いて目を逸らしてしまう。渡も、これと言って彼と話す事が無いので黙っていたら、いつの間にか教室には他に誰もいなくなってしまった。
 西日が差し込む中、照明まで消されてしまった。明るいのに微妙に暗い空間を見詰めて、渡は深い溜息をついた。
「用が無いなら」
「ある!」
 廊下のざわめきも、次第に静まろうとしていた。早く帰りたいのに、と心の中で悪態をついて、この間抜けな時間を終わらせるべく口を開く。
 が、言い終わらぬうちに唐突に怒鳴りつけられて、渡はぎょっとして唇を噛んだ。
「……あ、あのさ」
 但し勢いが良かったのはそこまでで、彼はまた直ぐにどもり、下向いてしまった。
 いったいなんなのか。先日からやけに彼に振り回されて、それを悪くないとまで思い始めていた矢先なだけに、渡は焦れったさに苛立ち、黒髪を掻き回した。
「帰る」
「ああ、待って!」
 短く告げて歩き出そうとして、ようやく向こうも覚悟を決めたようだ。鋭い声を上げて叫んで、手を伸ばして人の制服を掴んで引っ張った。
 袖が破れそうになって、渡は仕方無く足を止めた。机をガタゴト言わせて身を乗り出した、ひとつ後ろの席の宇宙馬鹿の左手には、それなりに大きい箱が握られていた。
 表面に記された大きなロゴと、イラストで、それが何なのかは楽に想像がついた。
「あの、さ。……一緒に、作らない?」
 袖から手を離した彼――白舟真帆が、恐る恐るといった風情で声に出す。掲げられた箱には、天球儀の文字が記されていた。
 それは少し前に発売された、最新式のプラネタリウムキットだった。自分で組み立てるタイプなのだが、なかなかに精度が良いらしく、中に組み込むプログラミング次第では、かなり本格的なものが作り出せるという話だ。
 その分、当然ながら値段は高い。子供のオモチャ、というよりは、そういう趣味のある大人向けという売り出し方だった。
 中学生の小遣いで買える代物ではない。
「どうしたんだ、それ」
「えへへ。父さんが、宇宙学校合格祝いで買ってくれた!」
「……試験も受けてないのに?」
 世間の常識が完全に吹っ飛んだひと言に、渡は頭が痛くなった。右のこめかみをトントン叩きながら、得意満面の様子の真帆に肩を落とす。
「ひとりで作ればいいだろう」
「えー」
 そんなことで放課後の貴重な時間を使われたのかと、渡はすげなく言って手を振った。途端に真帆は箱を机に下ろし、不満げな声をあげた。
 心底残念そうにされて、自分が悪者になった気分にさせられた。口を尖らせて上目遣いに睨んでくる同い年の少年に若干狼狽えて、渡は上手い返答を探して眉間の皺を深くした。
「大体、それ、お前が買って貰った物だろう」
 作る楽しみは、真帆だけに与えられた権利だ。彼の父親だって、そのつもりで、こんな高い品を贈ったのだろうに。
 だが真帆は、そうは思っていないようだった。
「でもさ、でも! ふたりで作った方がきっと楽しいと思うし!」
 しつこく食い下がり、またも渡の袖を掴んで引っ張ってくる。そのうちセーターが伸びてしまうのではないかと、彼の手を見ながら、そんな事をふと思った。
 あまりの必死ぶりに、渡は捻っていた腰を戻して身体を真っ直ぐに伸ばした。正面から向き合って、睨むように見詰める。真帆もまた真剣な表情をして、挑むような眼差しを投げて来た。
 冷静になって観察すると、その姿は微妙に焦っているようにも見えた。
 生じた違和感におや、と首を傾げて、渡は冷や汗を流している真帆の、ほわほわしている頭に視点を定めた。
 腕を組んで少し考え込み、続けて真帆の机に置かれている箱を、断ってから持ち上げる。
 一度開封したようで、封は解かれていた。蓋を開けて、小冊子になっている説明書を取り出して広げる。素早く紙面に目を走らせた渡は、核心を深めて溜息をついた。
 ぎくりとしたように、真帆の頬が引き攣った。
「これ、学校で作るのはまず無理だな」
「そ、そんなことはー」
「工具が足りない。盤陀鏝なんて、うちにだって無いぞ」
「えっ、無いの?」
「……無いだろう、普通」
 平均的な一般家庭で、先ず見る事は無い。断言してやれば、真帆は明らかにショックを受けた顔をして項垂れてしまった。
 自分はいったい、彼にどういう風に思われていたのか。渡もまた些か衝撃を受けて、一気に悪くなった場の空気を誤魔化すように、説明書のページを捲った。
 流石に個人向けとはいえ、最新鋭のシステムを用いているだけの事はある。手順も複雑で、本体を動かすプログラムについても、かなり本格的だ。
 専門用語も多い。渡でさえ、全部を読み解くには一苦労させられそうだ。
 だからこそ、思ってしまう。
 面白そうだ、と。
 思いがけない誘いだった。中身を知れば知る程、興味が湧いて来る。
 渡は分厚い小冊子を閉じると、軽く丸めた。曲線を描く背で項垂れている頭をぽん、と叩いて顔を上げるように促す。
 真帆は心底落ち込んだ表情をして、悔しそうに下唇を噛み締めていた。
「分かったよ」
 今回も、真帆のペースにはまってしまった。だが嫌な気分はしないと、渡は自分に向かって苦笑した。
「道具だけなら、工務店に行けば揃うだろう」
「……え?」
「それに、お前。プログラム出来るのか?」
「なにそれ?」
「…………お前がひとりでは無理だというのは、良く分かった」
 宇宙にまつわる知識が豊富で、惑星間の距離や動きを正確に把握する――但しそれを上手く言葉で説明出来ない――という他人には先ず無い能力を持つ癖に、色々なところで穴がある。
 むしろ穴の方が多い真帆に肩を竦め、渡はくしゃりと前髪を握りつぶした。
「手伝ってやるよ」
「え?」
 ぼそりと呟かれたひと言に、聞き間違いを疑った真帆が目を見開いた。
 もう一回言ってくれるよう頼まれて、渡は説明書を箱に戻し、きちんと蓋をした。鞄を担ぎ、不遜に笑い返す。
 作成に必要な道具を指折り数えて行く間に、真帆はこれが夢でないとようやく理解したようだ。途端にきらきらと目を輝かせて、興奮気味に頬を紅潮させた。
「あ……ありがとう! 宙地君、大好き!」
「え?」
「わ-、やったー!」
 叫び、諸手を挙げて大喜びしている真帆に、しかし渡は顔を引き攣らせた。
 大声で告げられた台詞が信じられず、呆然とはしゃぎ回っている同い年の中学生男子を見詰める事しか出来ない。頬をヒクリとさせて、試しに抓ってみるが、ちゃんと痛かった。
「宙地君?」
「は、……恥ずかしい奴だな」
「僕が? なにが?」
「なにが、って……だから」
「好きなのを好きっていうのは、恥ずかしい事じゃないと思うけど?」
「そういうのを、恥ずかしい奴って言うんだよ」
 不思議そうに顔を覗き込まれて、渡は声を上擦らせた。迂闊にも動揺してしまった自分に驚きつつ、必死に冷静さを取り戻そうと深呼吸を繰り返す。
 噴き出た冷や汗を拭っていると、屈託無く笑った真帆が大事そうにプラネタリウム、になる予定のパーツが入った箱を抱きしめた。
「だって、僕、これまで星の話とか、宇宙の事とか、誰に話してもみんな興味持ってくれなくて。宙地君が初めてなんだ、こんな風に喋れるの。凄く嬉しい。だから、大好き」
「……」
 臆面もなく告げられて、渡は息を呑んだ。担いだ鞄を落としそうになって、いやに汗ばんでいる掌に気付いて指を震わせる。
 真帆はスキップしながら、教室出口へ向かって歩き出していた。弾む背中にまるで若葉のような頭がくっついて、踊っているようだった。
 彼の言葉に、他意はない筈だ。共通の趣味を持つ友人が出来た事に、年甲斐もなくはしゃいでいるだけで。
 そう、たったそれだけの事。
 だのに。
「宙地君、早く。はやくー」
「はいはい」
 出口でぶんぶん手を振っている子供に呼ばれて、渡は渋々歩き出した。
 一歩進む度に、自分が知らなかった世界に近付いている気分になる。己が産み出す影を踏みしめて、彼は顔をあげた。

2011/07/04 脱稿