和親

「入ってくんなって、言ってるだろ!」
 家中に響き渡る怒号の後に、五歳児の泣きじゃくる声がこだまして、ディーノは呆れ混じりに嘆息した。
 丁度怒鳴り声の主二名の話をしていただけに、ナイスタイミングと言わざるを得ない。生活感滲み出る天井から正面に視線を戻すと、座布団を積み重ねた椅子に座ったリボーンは苦笑していた。
「なるほどな」
 泣き声は段々近づいてきているので、怒鳴られた方の幼子は、階段を降りている真っ最中なのだろう。びええ、びええ、と耳を劈く大音響はなかなか止まず、喉が潰れてしまわないか、他人事ながら心配になった。
 話を聞くだけよりも、実際の状況を目の当たりにする方が理解も早い。
 納得だ、と頷いたディーノに、デミタスカップを持ち上げた赤子は困った様子で肩を竦めた。
「ずっとこの調子だ」
 言って、エスプレッソを喉に流し込む。空になったカップがテーブルに戻される頃になって、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになったランボが、台所に顔を出した。
 牛柄のつなぎを着て、頭には角が二本。真ん丸い緑の瞳は可哀想なくらい歪められて、大粒の涙で曇っていた。
 椅子を引いて腰を捻ったディーノを見ても、反応しない。彼は何かを探すように首を左右に振って、見付からなかったのか、酷く心細げにしながらテーブルに歩み寄った。
「ママン……」
 聞き取り辛い小声を拾い、金髪の青年は瑪瑙色の瞳を細めた。
 もじゃもじゃの頭を撫でて、脇に両手を差し入れて抱き上げてやる。優しい他人の温もりに、彼は止まりかけていた涙をぶわっと頬に流した。
「ママン、どこ」
「ツナのママンは、買い物に行ったぞ」
 しゃくり上げて問うた幼子に、彼はそこにあった布巾を取って顔を拭ってやった。ちーん、と鼻を噛んだランボは、告げられた台詞がすぐに理解出来なかったのか、きょとんとした顔をして、またも台所を見回した。
 優しくて、温かい奈々は、ディーノが言ったように外出中で、此処にはいない。だが彼にはそれが分からないようで、何度も、何度も同じ場所を見詰めては、不安げに足を揺らした。
 ちっともじっとしてくれない五歳児に肩を竦め、彼はランボを床に下ろした。
「ママン……」
「じきに帰ってくるから、心配すんな」
 思い切り甘えられる相手を探し続ける幼児を宥め、ディーノもまた立ち上がった。
「悪いな。折角来てくれたってのに」
「こっちこそ、急に連絡もなく寄っちまって、すまなかったな」
 香港への用事ついでに並盛町に足を伸ばしてみたら、訪ねた沢田家は一部の家族が絶賛冷戦中だった。リボーンの弁を丸ごと信じると、こんな状況に陥ってから既に三日が経過しているらしい。
 綱吉とランボは昔からなにかと喧嘩を繰り返していたが、それなりに仲も良かった。ランボの悪戯に辟易しつつも、小さい子のする事だから、と綱吉も寛容に接していた。
 こんなに長期間、険悪な状態が続くのは、これが初めてだ。
「ちょっと、ツナに会ってくる」
「殴られねーように気をつけろよ」
「はは。注意するさ」
 ディーノ的にも、久しぶりに会った弟分がずっと不貞腐れた顔をしているのは面白くないし、嬉しくない。それに、マフィアのボスには部下の失敗を許す心の広さも求められる。無論、時には厳しく接する必要もあるが、頭ごなしに叱るだけでは人は成長しない。
 リボーンに呵々と笑い返し、彼は台所を出た。後ろではランボが、いつまでも泣いているんじゃない、とリボーンに怒られていた。
 この家には既にひとり、なんとも手厳しい家庭教師がいるのだから、ランボも怒られる一方では可哀想だ。奈々が不在にしている以上、泣きじゃくる彼を慰めてやれるのは綱吉しかいないのに。
 ふたりの喧嘩の原因は、大雑把に聞いている。五歳児相手に大人げ無く怒りを振り撒き、未だ許そうとしないのが信じられないくらい、ディーノの目にはとても些細な理由に感じられた。
 又聞きだからそう思えるのかもしれない。本人に直接聞いて確かめてみなければ、どうとも判断出来ない。
 階段の真ん中辺りで一度滑って転び、ずるずると一階まで落ちてからもう一度登って、彼は綱吉の部屋に向かった。ドアは、先ほどランボが入ろうとした時そのままに、ちょっとだけ開いていた。
 隙間から室内の明かりが薄く漏れていた。物音は、これといって聞こえてこない。
 先ほど打った膝を気にしてズボンの上から撫でて、どうしたものかとしばし迷う。
「ツナ」
 変に気負わない方が良かろうと考え、ディーノは咳払いをするとドアを軽くノックした。
 呼びかけるが、返事はない。シンと静まり返っており、もしや不在かと疑ってしまいそうになった。
 が、ランボが降りてきて以降、誰かが階段を下った様子は無かった。勿論注意深く耳を欹てていたわけではないので、聞きそびれていた可能性は否定出来ない。
 玄関に靴は残っていたかと首を捻るが、そちらに注意を向けていなかったので記憶には残っていない。喉の奥で唸ったディーノは、ここで悩んでいるより行動した方が早いと頭を切り替え、ドアを再度、強めに叩いた。
 コンコン、と度重なる音に気が障ったか、
「開いてます!」
 ランボ相手に響かせたのと同じくくらいの大音量で、綱吉が怒鳴った。
 鼓膜にビリリと来て、ディーノは苦笑した。在室が確かめられたのを心から喜んで、了解が得られたからとノブを掴んで扉を大きく開く。
 見慣れた室内は相変わらず雑然として、色々なものでごった返していた。
 綱吉は、勉強机に向かって座っていた。
「ちょっと良いか?」
 何をしているのかと思っていたら、勉強中だったらしい。予想外の展開に、ディーノは思わず窓の外に目をやってしまった。
 夕焼けの空は鮮やかな紅色に染まり、明日の快晴を人々に教えていた。なんとも失礼な事を考えている彼を睨みつけて、綱吉は椅子の上で身じろいだ。
「なんですか?」
 つっけんどんな態度は、ディーノ相手でも変わらない。不機嫌そうな声で訊かれて、兄貴分たる青年は両手を腰に当てた。
「降りて来いよ。土産、持って来てるからさ」
 爪先で床を叩いて、白い歯を見せてニカッと笑う。人好きのする笑顔を向けられても、綱吉はムッと口を尖らせただけだった。
 コマつきの椅子を軋ませて、さっさと視線を外して机に向き直ってしまう。直々の誘いをいともあっさり断られて、ディーノは困ったように頭を掻いた。
 これは聞いていた以上に、こじれてしまっているのかもしれない。強情という名の殻をかぶって閉じこもってしまった少年に、彼は助けを探して視線を泳がせた。
 正直言えば、自分が行けば綱吉も機嫌を取り戻すかもしれない、と事態を楽観視していた。心の内側に踏み込む前に入室を拒否されてしまうのは、想定していなかった。
「あ。あー……えっと。ツナ?」
「チビたちだけで分けちゃってください。俺、忙しいんで」
 右手に持ったシャープペンシルを動かしながら、綱吉は素っ気無く言い返した。以後雑音をシャットアウトして、ディーノからも完全に意識を切り離してしまう。
 彼が訪ねて来ているのは知っていたが、顔を見にわざわざ一階に下りることはしなかった。一ヶ月前にも気まぐれを働かせて遊びに来ている彼だから、今更珍しがって会いに行くのも馬鹿らしい。
 随分とドライな思考を働かせた綱吉は、ノートに書き込んだ数式に眉を顰め、消しゴムを探して手を泳がせた。
 土産と聞いて全く心が動かなかったわけではない。だが折角波に乗り始めているのに、中断させるのは惜しかった。
「ツナ」
 汚い自分の字を前に唸っていたら、控えめな声で呼びかけられた。
 まだ立ち去っていなかったらしい。振り返るのも億劫で、綱吉は彼に背を向けたまま口を開いた。
「なんですか」
 抑揚のない低い声を響かせて、閃いた数字を空白に書き込む。シャープペンシルの先で罫線をなぞり、これが正しいと信じて計算を続行させる。
 後方で蝶番の軋む音がした。どうやらディーノは、ドアを閉めたようだ。
 大人しく階下へ帰ってくれなかった兄貴分に些か腹を立てて、綱吉は案の定詰まってしまった数式に怒りを露わにした。
「なんなんですか!」
「ンなカリカリすんなって」
 消しゴムを力任せに机に叩きつけて、その勢いを利用して椅子ごと振り返る。ドアの数歩手前に立ったディーノは、こめかみに青筋を立てる綱吉に気の抜けた笑顔を投げかけた。
 人を脱力させる微笑に、綱吉は唇を噛んで耐えた。
 ふいっと顔を背けるが、ディーノはまるで気にしない。床に積み上げられた大量の衣服を蹴り飛ばしながら進んで、壁際に置かれた机まで歩み寄った。
 肩を叩かれ、綱吉は渋々顔を上げた。
「ちょっとは休憩しろよ。土産、好きなの選ばせてやるからさ」
 あれこれ理由をつけて部屋から連れ出すのが、彼の狙いなのだろう。鋭く察して、綱吉は他人の体温が残る肩を撫でた。
 汚れてもないのに埃を払う仕草をされて、これには流石のディーノも些か傷ついた。洗ったはずだが、と白い掌を見詰めて口を尖らせ、強情としか表現しようのない弟分に嘆息する。
 真横で聞こえた溜息に、綱吉もまた気を悪くしてむすっとした。
「リボーンに言われたんですか?」
「や、そうじゃないけど」
「好きなものをやるから、ランボと仲直りしろって。結局、そういう事でしょう?」
「いや、あ……」
 当たらずとも、遠からず。直感を働かせた綱吉から慌てて目を逸らして、ディーノは誤魔化すように金髪を掻き回した。
 わざとらしい態度にしらけた顔をして、綱吉は雑に消した文字の上にペンを走らせた。
 今度はなんとか、正しいと思える数字に行き着いた。方程式の上に矢印を伸ばして少し遠い場所にある空白に繋ぎ、そこから計算を再開させる。
 机の角で山になっている消しゴム屑を小突こうとしたら威嚇されて、ディーノは出した手を何処にもやれずに肩を落とした。
 他の事を考えたくないから、目の前の問題に躍起になって取り組んでいる。集中できているとは言い難いものの、珍しく自分からやる気を出している彼を邪魔するのも、少し悪い気がした。
 ここは大人しく退くべきか。
 迷い、ディーノは右手をカリカリ言わせている綱吉を暫く無言で眺めた。
 他人の視線が鬱陶しいようで、彼は時折隣を窺っては、肘で牽制して来た。
 五分ばかりそんな事を続けて、やがてディーノは苦笑混じりに呟いた。
「なに、まだ拗ねてんだ?」
「ム」
 大人気ないと嘲った彼に、綱吉はピタリと手を止めた。奥歯を噛み締め、蘇った悪夢のような出来事に怒りを再発させる。
 立ち上るどす黒い気配に、ディーノは柳眉を顰めた。
 整った顔立ちを怪訝に歪めた矢先、綱吉が、今度は握っていたペンを机に叩きつけた。数ミリ飛び出していた芯がぽっきり折れて、欠片が遠くへ飛んでいった。
 目を吊り上げて真っ赤になった彼に、ディーノは益々顔を顰めた。
「ツナ?」
「アイツが悪いんですよ!」
 鼻息荒くして、彼は差し伸べられた手を弾き返した。手首を叩き落されたディーノは目を見張り、部屋中に轟く絶叫に息を飲んだ。
 十も年下の少年に圧倒されてしまって、ややしてからハッと我に返る。綱吉は肩を大きく上下させて、飛び出てしまった唾を拭って椅子に深く座り直した。
 どうやらリボーンでも把握しきれていない、深い事情があるらしい。問いかける眼差しを受けて、彼は椅子の座面を両手で握った。
 肩幅に足を広げて間に手を置き、肩を丸めて小さくなる。視線は足元に向けられて、動かなかった。
「ランボの奴が、俺の部屋、っていうか、机、水浸しにしたんです」
「それは、聞いてるけど」
「机ですよ、机。解ります? 教科書もノートも、辞書も、折角やった宿題も。全部。ぜーんぶっ! 水浸しですよ!」
 喋りだした途端に興奮が高まったのか、綱吉は次第に早口に、声も大きくなっていった。
 最終的に身振りも交え、腕を伸ばして振り回した彼に、ディーノは光景を想像して頬をヒクつかせた。
 ランボがこの部屋で水鉄砲を使い、綱吉を攻撃した。止めるよう言ったが聞き入れず、大きめのタンクいっぱいの水を全部発射させた。
 それで綱吉はカンカンに怒って、彼を部屋から追い出した。以来絶対に室内に入れようとしない。こっそり足を踏み入れようものなら、先ほどのように怒鳴り散らし、力ずくで追い出しに掛かる。
 流石に殴りはしないが、拳をちらつかせることは何度かあった。
 言葉もろくすっぽ交わしていない。目もあわせない。綱吉は部屋の外では徹底的にランボを無視した。
 悪戯の度が過ぎたと、五歳児も反省しているのだろう。最近は目に見えて元気が無い。それでも綱吉は、彼を許そうとしなかった。
「そっか。机を、なぁ……」
 ベッドならばまだしも、とディーノは天井を仰いだ。
 彼もキャバッローネ・ファミリーを束ねる身だ。もし執務室で仕事中に水鉄砲で攻撃されたら、と思うとゾッとする。
 大事な書類を台無しにされたら、腹も立つだろう。綱吉の場合はそれが宿題だったという、そういうわけだ。
 確かに子供の悪戯と笑い飛ばすのは、少々きつい。成績が振るわない、あまり勉強が得意でない綱吉が、苦手意識を克服しながら必死に攻略したものを、一瞬にしてダメにされたのだから、怒るのも無理はない。
「先生にも、すっごく怒られるし。なんで、俺が。全部ランボが悪いのに」
 口を尖らせて悔し涙を飲む彼に、ディーノは返す言葉が見付からなかった。曖昧に笑って茶を濁し、階下で見たランボの、酷くしょげ返っている姿に重い溜息を零す。
 綱吉側の事情は良くわかった。が、このまま今の状態をずっと続けていくわけにもいくまい。
「なあ、ツナ」
「嫌です」
 もう三日も過ぎたことだし、ランボもあの様子では、大いに反省しているに違いない。
 此処はひとつ、綱吉から折れてやってはくれないか。そう言おうとした矢先、鋭く勘を働かせ、彼はきっぱり拒否して首を振った。
 取り付く島も与えてもらえなくて、ディーノは心底困り果てて苦笑した。ヘラヘラされるのは気に入らなくて、綱吉は強めの視線で睨みつけて、ふいっと顔を背けた。
「ツナー」
「いやです。絶対に、イヤだ」
「そういわずに、さ」
 相手は十歳も年下の、まだ善悪の区別すらままならない子供だ。
 それをいつまでも根に持って、腹を立て続けるのもどうか。
 そう言って宥めようとするディーノの言葉を遮って、綱吉は癇癪を爆発させた。
「だってアイツ、俺に謝ってないんですよ!」
 非があるのが誰で、被害者が誰であるのかは明らかだ。それなのに、加害者たるランボは『幼いから』という理由だけで無条件に許されようとしている。
 子供相手になにをムキに、と言われても、綱吉だってまだ充分子供だ。それなのに、年上なのだから納得できなくても譲らなければならない、という考え方は、どうあっても受け入れられない。
 悪いことをしたのに、謝罪もさせずになあなあで事を済ませようとする周囲にも、同じくらい腹が立つ。
 時間が経つに連れて、被害者であるはずの綱吉が、何故か悪者にされてしまっていた。此処のところのランボに元気が無いのは綱吉も気付いているけれども、自分の非を認めようともしない彼を許すなど、出来ない。
 いけない事をしたのだから、叱ってやるのが躾だ。ここで妥協して許して、また同じ事を繰り返されたらたまったものではない。
 奥歯を噛み締めて苛立ちを懸命に堪えている綱吉に、ディーノは眉間の皺を深めた。
 確かに、ごめんなさいのひと言も無しに許してやれ、というのは横暴だ。てっきりランボは謝罪済みで、綱吉ひとりが我を張っているだけと思っていたが、違ったらしい。
「……俺だって」
 ぼそりと呟いた彼の横顔はとても苦しげで、辛そうだった。
 ランボが本当に悪いと思っており、きちんと言葉に出していたなら、綱吉も此処まで強固に彼を拒絶したりしなかった。
 苦しい胸の内が読み取れて、ディーノは背筋を伸ばして腕を組んだ。
 許したいが、許せない。
 綱吉だって、年端の行かない子供の悪戯だというのは分かっている。だがここで安易に許してしまえば、ランボは益々増長し、善悪の区別もつかない人間になってしまう。
 きちんと叱ってやる大人も必要で、彼がその嫌な役目を引き受けたところは、褒めてやるべきだ。
「ママンは、優しいからな」
「ディーノさんも、ランボの味方なんですね」
「俺は、みんなの味方だぜ?」
 奈々は、よっぽどの事が無い限り怒らない。この家で子供たちを叱れるのは、綱吉かリボーンだけだ。そしてリボーンは、己に深く関わってくる案件以外は、基本的に無関心。
 当人が面白いと思ったことには積極的だが、そうでないことには目を向けようともしない。特に彼はランボを相当格下の、取るに足らない相手として認識しているので、今回は我関せずの構えを貫いていた。
 綱吉が勉学に励むのに、ランボの存在が邪魔だと感じていたからかもしれない。ディーノに事情を話して聞かせた時も、リボーンはあまり興味が無い様子だった。
 不貞腐れている弟分の頭をよしよしと撫でてやり、彼は白い歯を覗かせて笑った。
 ランボへの扱いに対し、彼はずっと孤立無援だった。言い分をきちんと聞いてくれる相手が得られて、綱吉はちょっとだけホッとした表情を作った。
 長らく強張っていた頬の筋肉が緩み、本来の彼が戻って来た。
 とはいえ、問題が解決したわけではない。この先どうするか、しっかり考えていかなければ、ふたりの関係はこじれるだけだ。
 時間が過ぎれば過ぎる程、ランボは謝罪するタイミングを失う。綱吉も、彼を許すタイミングがつかめずに、苛立ちをずるずる引きずっていかなければならない。
「どうすっかなぁ」
 目を閉じれば、台所で見たしょぼくれた顔のランボが思い浮かんだ。
 うざったらしいくらいの元気の良さが取柄だった彼が、今にも萎れて枯れてしまいそうなくらいに小さくなっていた。食欲もないのか、一ヶ月前に見た時よりも痩せて、やつれている気がした。
 このままの状態が続けば、そのうち倒れてしまう。子供たちの健康を気遣う立場からすれば、実の息子よりもランボを優先させる奈々の気持ちも、分からないではない。
 どちらにも不利益の出ない事態の解決方法は、果たしてあるのだろうか。
 考え込むディーノから目を逸らし、綱吉は机の上に投げ出した手を握り締めた。
 勉強を再開させる気にもなれず、鬱々としたものを抱え込んで下唇を噛む。
「そうだなぁ……」
 ランボが全く反省していない、という可能性は低い。階下で見た彼は明らかに落ち込んでいたし、寂しそうだった。綱吉の部屋を覗いたという事は、自分がしでかした事についても、きちんと理解しているのだろう。
 では何故、あの子は謝罪しようとしないのか。
 怒られると分かっていて尚、綱吉に構うのだろう。
「なあ」
 巡り巡った思考が、スタート地点に戻る。ディーノは綱吉の机に寄りかかり、何も置かれていない場所を選んで浅く腰掛けた。
 距離が狭まって、圧迫感を覚えた彼は椅子を引いた。コマが床に落ちていた雑誌に引っかかり、それ以上先に進めないところで停止する。
「ディーノさん」
「なんでランボは、ンなことしたんだ?」
「知りませんよ」
「だよなぁ」
 事の発端は、ランボの悪ふざけ。綱吉の机とその周囲を水浸しにして、教科書類をダメにしてしまったこと。
 辞書は、薄いものであってもそれなりの値段がするし、教科書だってタダではない。
 それに宿題には、綱吉の時間が詰まっている。苦労の末に問題を解き、解を導き出せた瞬間の喜びさえも、ランボは台無しにしてしまったのだ。
 先生に褒められるはずだったのが、逆に叱られた。天地がひっくり返って、綱吉は地獄を見た。
 なにか理由らしい理由があると踏んだディーノだが、綱吉はそんなわけが無いと首を振り、頬を膨らませた。
「あいつは、俺を困らせて面白がってるだけです。最低ですよ、ほんと」
「ツナ」
 思い出すうちにまた腹が立ってきて、彼は低い声で吐き捨てた。
 今声に出した言葉は、そのうち綱吉のところへと戻って来る。人を貶めるようなことばは軽々しく口にしてはいけないと窘め、ディーノは眉間の皺を深くした。
 ランボの悪戯には手に余るところがあるのは、認めるほかない。だが、いくら五歳だからといって、やっていい事と悪いことの区別くらいは、ぼんやりとでもついていて良い筈だ。
 理由もなしに馬鹿な真似をするわけがないと呟けば、聞いていた綱吉が突然机を蹴り飛ばした。
 痛そうな物音にどきりとして、ディーノは腰を浮かせて床に下りた。
「ツナ?」
「いって、て。……そっか。やっぱりディーノさんも、ランボの味方なんだ」
 自業自得の痛みに顔を顰め、綱吉が奥歯を噛む。涙目で睨まれて、ディーノは瑪瑙色の瞳を細めた。
 ランボに対する怒りとはまた違うものを感じ取って、彼はにぃ、と笑った。
「うわっ」
「んーだよ、可愛いな、ツナ。そんな拗ねんなって」
 唯一味方だと信じていた人までもが敵側に寝返ったと知って、不貞腐れている。子供っぽい、そしてどうしようもなく愛らしい反応に満面の笑みを浮かべ、ディーノは綱吉の頭をくしゃくしゃに掻き回した。
 大きな両手に襲い掛かられて、彼は首を竦めて背中を丸くした。逃げようとするが、机を蹴った足は痛いし、椅子も雑誌に引っかかって思うように動かない。
 ただでさえ跳ね放題の髪の毛をもっと酷い有様にして、彼は鼻を愚図らせた。
「あー、もう。なにするんですか、ディーノさん」
「あはは、悪い。つい、な」
 文句を言われても全く意に介さず、彼は右手を挙げて軽い調子で謝った。
 ランボもこれくらい簡単に言えたなら、綱吉だって意固地にならずに済んだだろうに。
 事件の後、ふたりは顔を合わせてもまともに会話していないと聞いている。お互い、胸の内に秘めたものを洗い浚い声に出さない限り、問題の解決への糸口は見付からない気がした。
 とすれば、ディーノが出来ることはただひとつ。
「よっし。ツナ、下に行こうぜ」
「え?」
「俺、喉が渇いちまった。ツナだって、なんか飲みたいだろ?」
 猫背を叩いて強引に誘い、無理矢理立たせる。ドタバタと物音が響き、綱吉は眉を顰めた。
「飲み物だったら、母さんが」
「ママンは買い物に出てる。なんだったら、俺が淹れてもいいんだけど」
「あう……」
 なにも自分が台所に出向く必要はない、と言いかけて、綱吉はディーノの提案に肩を落とした。
 右手で額を覆い、得意げにしている兄弟子を指の隙間から睨みつける。
 今、この家にロマーリオたちはいない。部下がいないとてんでダメダメのディーノに茶を所望するのは、沢田家が廃墟になっても構わないというようなものだ。
 火災発生、或いはガス爆発。失礼ながら充分起こり得そうな展開を想像して溜息を零した綱吉は、仕方無く嫌々ながら立ち上がり、後頭部を撫でた。
「インスタントでいいですか?」
 エスプレッソマシーンを動かせるのは、リボーンと奈々だけだ。
 味は期待しないでくれるよう頼むと、ディーノは破顔一笑した。
 巧く言い包められてしまった気はするが、綱吉とてこのままで良いとは考えていない。部外者であるディーノが加わることでなにかが変わるかもしれないと期待しつつ、ふたりは連れ立って部屋を出た。
 階段をゆっくりと、いつも以上に慎重に降りる。玄関を覗くが、奈々の靴は無かった。
「泊まってくんですか?」
「ツナが良いなら」
「知りません」
 ベッドが狭くなっても構わないか、とウィンクされて、彼は赤くなってそっぽを向いた。
 ディーノが来た所為で食材が足りなくなったので、奈々は夕方であるに関わらず外に出たらしい。イーピンやフゥ太も一緒だ。
 だのに奇妙なことに、台所から物音がする。
「ビアンキかな」
 首を傾げ、綱吉はディーノと顔を見合わせた。
 彼女は、触れたものを問答無用で毒物に変化させる奇怪な、それでいて厄介な特技の持ち主だ。奈々が不在にしている間に料理に精を出し、とんでもないものを作り出している可能性は否定出来ない。
 今日の夕飯がにわかに恐ろしくなって、綱吉は恐る恐る、忍び足で台所に近付いた。
 中に居る人に気付かれないよう、廊下からそうっと覗き込む。
「あれ?」
 だが、流し台の前には誰もいなかった。コンロの上にはヤカンが置かれ、しゅわしゅわと白い湯気を噴いていた。
「ツナ」
「え? ――あ!」
 いつも奈々が立っている場所ばかり気にしていた綱吉は、後ろからディーノに肩を叩かれてはっとした。指差された方角に目を向けて、サッと顔を青褪めさせる。
 ランボが、背の高い棚の前に椅子を積み上げ、よじ登っていた。
 食事時に綱吉が座る椅子の上に、背凭れのない丸椅子を置いている。下の椅子は兎も角上の方は足場が不安定で、ぐらぐらと揺れていた。
 だのにランボは、お構い無しに椅子に張り付き、短い足で空を蹴って懸命に上に乗ろうとしていた。
 観音開きの戸が開いて、彼を待ち構えている。
「あいつ、何して……」
 呆気に取られる綱吉の前で、牛の角を生やした五歳児は苦心の末、高い山への登頂を果たした。両手を広げてバランスを保ち、なにかを探すように背伸びをして、膝を折る。
 彼が動く度に丸椅子がギシギシと嫌な音を立てた。
 見ていられない。蒼白になった綱吉は、心臓が軋む感覚に打ち震えて鳥肌を立てた。
「ランボ……」
 気が気でない綱吉の後方で、ディーノは違うことを考えていた。
 湯気立てるヤカン、テーブルに置かれた不揃いのカップふたつ、そしてランボが手にしようとしている蓋が茶色い瓶。
 小さな子の手に届かぬところにしまわれているものを敢えて取ろうとする、その理由。
 ランボの果敢な挑戦に、ディーノは綱吉の部屋で聞いた物音に思いを馳せた。
 綱吉が椅子を軋ませる音に紛れてしまった、とても小さな足音。それが意味するところを知って、興奮に鼻息が荒くなる。
 しかし。
「よい、しょ……うああ!」
「ランボ!」
 無謀な冒険は、やはり無謀でしかなかった。
 無事に瓶を手にし、胸に抱えたところで、ついに不安定な足場に耐えられなくなった椅子がぐらりと横に傾いだ。
 上に立っていたランボの手は大事に瓶を抱えるのに使われており、咄嗟になにかを掴む、というのは不可能だった。
 彼の小さな身体は呆気なく投げ出され、宙を彷徨った。
 ディーノが硬直している前で、綱吉は床を蹴った。喧嘩中だというのも忘れて、両手を伸ばして床に滑り込む。
「ぐ、……いでっ」
 ガラガラと音を立てて、足場に使われていた背凭れのある椅子もひっくり返した。背中に落ちてきた丸椅子の衝撃に悲鳴をあげて、綱吉は舞い上がった埃に咳き込み、鼻を膨らませた。
 彼の両手の上では、乳飲み子のように丸くなったランボが、呆気に取られた顔をして天井を見上げていた。
 弾みでテーブルの位置までずれて、台所はちょっとした嵐の後のようになっていた。
「おい、お前等。大丈夫か?」
 入り口から身を乗り出したディーノが、心配そうに声をかける。だが綱吉も、ランボも、凍りついたかのように動かなかった。
 床に転がった瓶は、幸いにも割れていなかった。横向きになっているそれを拾い上げたディーノは、表面に貼られたラベルを見て、やっぱりと頷いた。
 水の量が少なかったのか、短時間で沸騰した湯が白い煙を吐き続ける。
 しゅわしゅわ言う音が段々大きくなるのを聞き、ハッと息を吐いた綱吉は床に激突寸前で救い出した幼子からサッと手を引いた。
 自分はさっさと身を起こして座り、肩で息をして目を吊り上げる。落とされたランボは尻餅をつき、大きな目を歪ませて涙をいっぱいに溢れさせた。
「ふぇ……」
「この、馬鹿!」
 しゃくり上げ、泣こうとした幼子を綱吉が怒鳴りつけた。
 拳を震わせ、床を蹴って大音を響かせる。勢い良く立ち上がった彼を見上げ、ランボは声をあげるタイミングを逸し、ボロボロと涙を流した。
 奥歯を噛み締めて、声を堪えているのが分かる。ディーノはインスタントコーヒーのロゴが入った瓶をテーブルに置き、青い炎を放つコンロのスイッチを切った。
 ヤカンがちょっとだけ静かになって、入れ替わりに綱吉の荒い呼吸が台所に広がっていった。
「馬鹿。なにやってんだよ。お前、自分がなにしてんのか、ほんとに分かってんのかよ!」
 床に蹲る五歳児に向かって激しく叱責し、弁解の余地を与えない。ランボはランボで、哀しいのか悔しいのか、ひたすら涙を流して喘ぐばかりだった。
 呼吸ひとつままならず、喋りたくても喋れないのだろう。
 倒れた椅子はそのままで、落下の衝撃の凄まじさを物語っている。もし受身すらまともに取れない彼が床に激突していたらと考えると、それだけで血の気が引いた。
 怪我をするだけでは済まされなかったかもしれない。どうしてあんな無茶をしたのかと詰問しても、ランボは泣きじゃくるばかりで返事をしなかった。
「泣いてちゃ分かんないだろ!」
 それなのに綱吉は、早く答えろと急かす。恐らくは三日前の一件でも、こんなやり取りが交わされたに違いない。
 右手を横薙ぎに払って威嚇する綱吉に、怯えて小さくなるランボ。ふたりを交互に眺め、ディーノはいきり立っている弟分の肩を叩いた。
「ツナ」
 これでは怖がらせるだけで、話を聞くなど無理だ。落ち着くよう諭して、彼は瑪瑙色の瞳を優しく細めた。
 おいで、と手を差し伸べられて、ランボはよたよたと起き上がり、ディーノの足にしがみ付いた。
「ム」
 彼には甘えるのかと腹を立てた綱吉に苦笑し、ディーノはランボを抱き上げた。濡れた頬を指で拭ってやり、垂れる鼻水は棚にあったティッシュで取り除いてやる。
 ちーん、と鼻を鳴らしたランボに既視感を抱きながら、ディーノは全身でリズムを取った。
 まだ愚図る幼子をあやし、拗ねる綱吉の頭も撫でて宥める。
「ツナ。ランボって、コーヒー飲むのか?」
「飲みませんよ、そんなの」
 五歳児と同列扱いされたのを不満に感じながら、綱吉は質問に言葉を返した。
 ランボは見た目からも分かるように、頭の中もかなり幼い。好きなものは葡萄味の飴に、ジュース。味覚も子供そのもので、苦いものや辛いものは嫌いだ。
 だからコーヒーは、出されても絶対に飲まない。
 予想通りの返事に頷き、ディーノは彼の前から退いた。テーブルに置かれているものを顎で示し、それらのものを誰が用意したのか考えるよう告げる。
 カップふたつに、コーヒーの粉が入った瓶。カップは流し台横の食器乾燥機にあったものだろうが、瓶は違う。
 それが普段どこに片付けられているか、知らない綱吉ではない。はっとした彼は慌てた様子で後ろを振り返った。
 開けっ放しの棚の戸を閉めて、ガラス窓を撫でる。
「ランボ、盗み聞きは良くないぞ」
「ひぐっ、だ、っでぇ……」
 ドアの前で中の様子を窺っていたら、ディーノが綱吉を階下に誘う声が聞こえた。
 だったら先回りして準備して、彼らが降りてくる頃に欲しいものを用意しておけば、きっと褒めてもらえる。
 足りない頭で懸命に考えて、頑張ったけれど、失敗した。ランボの無謀な行動にはちゃんと理由があったのだと気づいて、綱吉は唖然とした。
「ランボ、お前は、俺達の為にコーヒーを淹れようとしてくれてたんだな」
「だからって」
 俯いてしまった幼子に、ディーノが静かに問いかける。綱吉もまた下を向いて、自分の爪先を睨み付けた。
 いくら綱吉たちの為にランボが努力したと教えられても、ちっとも嬉しくない。もしふたりが一階に下りるのがもうちょっと遅くて、ランボの無茶に気付けずにいたら、最悪な展開になっていたはずだ。
 痛い目を見ないと分からないのかと憤りを隠しもしない綱吉に、ランボは怯えて震え上がった。
 折角止まった涙をまた頬に流した彼の背中を撫でて、ディーノは静かに問うた。
「どうして、ランボ。お前、ツナの部屋を水浸しになんかしたんだ?」
「それ!」
 今ここで、それを聞くのか。
 綱吉が鋭い声をあげて非難したが、ディーノは屈託なく笑うと唇に人差し指を押し当てた。
 任せるよう言われて、反論を封じ込められてしまった。綱吉は行き場の無くなった拳を解くと、倒れたままの椅子をふたつ、続けて起こした。
 元あった場所に押し込んで片付けて、テーブルの角度も戻す。その上でランボが落としたコーヒーの瓶を取り、蓋を開けて中のスプーンを引っ張りだした。
 ふたつ並んだカップのうち、片方だけに粉を注ぐ。彼はそこにカップをもうひとつ足して、冷蔵庫を開けた。
 忙しく動き回る彼を目で追って、ランボはぐじゅり、鼻を鳴らした。
「ツナの馬鹿ちん。ランボさんともっと遊べ!」
「なっ!」
 だが飛び出したのはそんな憎まれ口で、この期に及んでまだ謝ろうともしない彼に呆気にとられた綱吉は、取り出した牛乳を落としそうになった。
 開封済みのパック牛乳は、ちょっと傾けるだけでも大惨事を引き起こす。両手で抱えて事なきを得た彼は、ほっと安堵の息を吐いて苦々しげに顔を歪めた。
 眉を寄せて、思い通りにならない現実に腹を立てる。
「ランボ」
 堪忍袋の緒が切れかけている綱吉を制し、ディーノが肩で息をしている幼子の頭を軽く小突く。コチン、とやられて、彼はぷっくり頬を膨らませて地団太を踏んだ。
 腕の中で暴れられて、ディーノは顎を殴られて苦笑した。
「ツナのばか。バカたれー」
「お前な、人が大人しく聞いてやってると思ったら――」
「ツナなんか、ランボさん、もう遊んでやんないもんねー」
 あっかんべーと舌を出し、捲くし立てたランボに今度こそ綱吉が拳を振り翳す。殴られると見た瞬間、彼は凍りつき、大粒の涙を流した。
 彼を両手で抱え直して、突然ディーノが、声を高くして笑った。
「はは、あははっ。そっか。そういうことか」
「ディーノさん?」
 ふたりのやり取りを黙って聞いているうちに、分かったことが幾つかあった。彼は一頻り笑って肩を上下させると、目を真ん中に寄せている少年に微笑みかけ、泣いているのか怒っているのか微妙な顔のランボを椅子に下ろした。
 綱吉が空のコップに牛乳を注ぎ、残るひとつには湯を注いだ。茶色い粉が溶けて、こげ茶色の液体が完成した。
 ディーノもまた隣の椅子を引いて腰を落ち着かせて、差し出されたカップを受け取った。インスタントだが、香りは悪くない。まだ熱いそれをひとくち啜って頷いて、彼は徐にいじけているランボを指差した。
「ランボは、ツナに遊んで欲しかっただけなんだな」
「ぴぎゃっ」
「……はい?」
 呵々と笑いながら告げたディーノの言葉に、ランボの悲鳴と綱吉の素っ頓狂な声が重なった。
 椅子の上でぴょん、と跳ねた五歳児に目をやって、綱吉は怪訝に顔を顰め、口を尖らせた。
 最近の子供は、遊んで欲しくて部屋を水浸しにするのか。随分と考え方が極端だと首を傾げていたら、コーヒーに舌鼓を打ったディーノが丸くなっているランボを小突いた。
 つんつんされて、彼はテーブルの縁から恐る恐る、向かい側にいる綱吉を窺った。
「ほら、ランボ」
「ディーノさん」
「ツナに言うこと、あるだろ」
 急かされて、ランボが身じろいだ。綱吉と目が合うと「ひゃっ」と言って首を竦めて隠れて、暫くするとまた頭を出して来る。
 もぐら叩きを思い出して、綱吉は最後のカップに牛乳を注ぐ手を止めた。
「ランボ」
「ツナの、ぶぁーか」
「ランボ!」
 この三日間、殆ど呼ぶことのなかった名前を優しげに口にした途端、悪態をつかれて綱吉はいきり立った。
 ドン、と床を踏み鳴らすと、牛の子はまたしてもテーブルの下に隠れて、もじゃもじゃ頭の先っぽだけを表に出した。
 いつまで待っても仲直りにならない。素直でないランボに肩を竦め、ディーノは濡れたカップの縁を指でなぞった。綱吉もまた牛乳その他を片付けて、椅子を引いて座った。
「分かった。もうお前とは絶交だ」
 そうしてやおら、言った。
「ぜっこう?」
 意味が分からなかったランボが、のっそり顔を出してテーブルに顎を置いた。生首状態の彼を笑いもせず、綱吉は冷えた牛乳で喉を潤し、憤然とした面持ちで頷いた。
 話に割り込まない方がいいと、ディーノはコーヒー片手に静観する。五歳児を相手にどう説明するかでしばし逡巡し、綱吉はランボの分だったコップを取って、高く掲げた。
「もうお前とは口も利かないし、遊んでもやらない。これも、やらない」
 言いながら立ち上がって、流し台の方に向き直る。勿体無いという気持ちを押し殺して流して捨てようとした彼に、ランボは大慌てで椅子の上で背伸びをした。
 テーブルに圧し掛かりながら、両手を伸ばしてじたばたする。
「だ、ダメぇ!」
 頭の天辺から飛び出したような甲高い悲鳴をあげて、ランボは届かないと知りつつ懸命に手を伸ばした。
 一生無視され続けるよりも、今牛乳を飲めない方が辛いらしい。天秤にかけても凡そ釣りあいそうにない比較対象にがっくり肩を落とし、綱吉はもうどうでも良くなって、カップをテーブルに戻した。
「ランボ?」
 捨てるのは止めたが、ただで渡すわけにはいかないと彼はカップに手を重ねた。飲み口を覆われて、ランボはひっく、しゃくり上げた。
 ディーノも隣で見守っている。彼は向けられる二対の眼差しに項垂れて、胸の前で手をもぞもぞさせた。
「ご、めん……さい」
「聞こえないぞ」
「ごめんなさい!」
 かすれる小声の謝罪では納得してやらず、やり直すよう綱吉が言う。
 きつい口調で怒られて、ランボは奥歯をぎりぎりさせた後、先ほどとは対照的な大声で怒鳴った。
 キーンと来るボリュームに綱吉が仰け反った隙に、彼はテーブルによじ登って牛乳入りのコップを攫っていった。大事に抱え持ち、椅子を伝って床へと降り立つ。
 呆気に取られたふたりが我に返る頃には、トトト、と足音を立てた彼は台所の出口にいた。
「ツナの、ぶわぁーか」
「お前なあ!」
 最後までウザったらしいランボのままの彼に罵声をあげた綱吉だったが、彼はお尻を向けて振った後、捕まる前にと駆け足で逃げていってしまった。
 駆け込んだリビングでリボーンと鉢合わせしたか、なにやらドタバタ騒がしい物音が聞こえてきた。綱吉はこめかみに残る鈍痛に肩を落とし、椅子に戻って苦笑した。
「良かったのか?」
「いいですよ、もう。アイツと真面目に向き合うだけ、時間の無駄なんだから」
「そっか」
 長らく蟠っていた凝りを融かし、溜飲を下げた綱吉が控えめに笑う。ディーノは小さく頷いて、少し苦いコーヒーを飲み干した。
 此処のところの課題漬けで、綱吉が小さい子供達と遊ぶ時間がなかなか持てなかったのが、そもそもの原因だ。構ってもらえずに寂しかったランボが、綱吉の気を引こうとして方法を間違えた。
 綱吉が机にかじりつく原因が教科書にあると、幼心に思ったのかもしれない。
 自分たちよりも夢中になっているものに、敵対心を燃やしたのかもしれない。
 その辺りは憶測の域を出ないが、ランボなりに一所懸命考えた結果だ。
「それにしても、酷い目に遭った」
 ようやく冷静に振り返れると肩を竦め、綱吉も温くなり始めた牛乳を飲み干した。白く濡れた唇を拭って、指の腹を舐める。ディーノも同調して笑って、頬杖をついた。
「忙しいのは分かるけど、な」
「もうあんな目はこりごりなんで、ちょっとは時間を作ることにします」
 五分遊んでやるだけで、一時間放っておいて貰えるなら安いほうだ。
 嘆息交じりに呟いて、彼は使い終えたコップをふたつ並べた。ひとまとめに持って、流し台へ置こうと腰を浮かせる。
 ふと前を見た彼は、意味深な視線を投げてくる良い大人に気付き、相好を崩した。
 嬉しそうに笑いかけられて、ディーノの表情がにわかに華やぐ。
「ディーノさんには、作ってあげません」
「ぬあ!」
 期待を裏切るどころか、絶望に叩き落とす台詞をにこやかに告げられて、彼は天を仰ぎ、よよよ、と涙を流した。

2011/06/27  脱稿