白綾

 賑やかなテレビの声を掻き消して、更に騒々しい声がリビングに響き渡っていた。
 もじゃもじゃ頭のランボが、いつものようにイーピンに悪戯をして追い掛け回し、腹を立てた彼女に手痛い一撃を食らって床に激突した。
 巨大なタンコブをひとつ作って、痛みに負けて顔を歪める。笑い声よりももっと喧しい泣き声は、家全体を揺さぶるほどだ。
 これにはリボーンも我慢がならなかったようで、彼は顔を顰めると無言で拳銃を取り出した。両手両足をじたばたさせる五歳児に照準を合わせ、問答無用で引き金を引く。
 発射されたゴム弾は見事標的に命中した。
「ぎゃぴぃぁああぁぁ!」
 この世のものとは思えない悲鳴をあげて、ランボはいっそう声を大にして泣き喚いた。
 窓ガラスがビリリと震えて、テレビの声はもう聞こえない。思わぬ音波攻撃に、黒帽子を被った赤子は舌打ちした。
「あらあら、ランボちゃん。どうしたのー?」
 そこへ、天女が如き優しい声が降って来た。
 居候を含めて家族全員が揃っていたリビングに、最後のひとりが加わった。エプロン姿の奈々は大き目の皿を手に、開けたばかりのドアを尻で押して閉めた。
 普段、子供達には行儀良くしなさい、と言っているくせに、だ。
 年甲斐もなくお転婆な行動に出た彼女だったが、生憎と部屋にいたほぼ全員が大泣きしているランボに注目していた。誰に見咎められることもなく部屋の中央へ進み出た彼女は、駄々を捏ねている幼子に苦笑して、持って来たものをコタツの上に置いた。
 そろそろ片付けなければ、と思うのだが、未だ実行に移せずにいる。正月頃は蜜柑が盛り付けられていた籠は、今はチョコレートでいっぱいだった。
 親指サイズで、表面には数字が刻まれている。一個ずつフィルムに包まれており、子供たちはめいめい食べたいだけ手にとって、口に入れていた。
「わー、ママン。それ、どうしたのー?」
 そこに追加されたおやつに、フゥ太が歓声を上げた。
 奈々の登場に、ランボも泣き止んだ。まだ鼻を愚図らせているものの、目は輝きを取り戻していた。
 食べ物につられて痛みも忘れた幼児の現金さに呆れつつ、リボーンも拳銃をしまった。
「特売だったから、いっぱい買ってきちゃった」
 にこやかな笑顔と共に奈々が言って、どうぞ、と大皿を子供達の方へ押し出した。戻す手でひとつ抓んで、口に入れる。瑞々しい赤が照明を浴び、きらきらと輝いた。
「ん~~」
 目を細めた彼女が右手で頬を押さえた。落ちそうになるのを防ぎ、幸せだと言わんばかりに笑みを零す。
 大好きな母親代わりの女性の笑顔に、フゥ太、ランボ、イーピンも一斉に手を伸ばした。
「いただきます!」
 元気いっぱいに叫び、真っ赤な果実を掴んで口に運び入れる。前歯で噛み千切って奥歯で擂り潰すと、甘い果汁がじゅわっと染み出して咥内いっぱいに溢れた。
 皿に山盛りだった苺は、瞬く間に半分以下に減ってしまった。
 いったいこの小さな身体の何処に消えて行くのか、ランボが一番食べる量が多い。鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃだというのに、構いもせずに両手にひとつずつ持って口をもごもごさせる。
 なんとも美味しそうに食べる彼につられて、リビングに集合したみなの顔が綻んだ。
 ただひとり、綱吉を除いては。
「ツナ兄、どうしたの?」
 彼は窓辺に腰を下ろし、輪に加わりもせずぼんやりしていた。
 右膝を抱え、左足は伸ばし、日向からガラス窓の向こう側をじっと眺め続ける。賑やかなコタツには目もくれない。
 物干し竿は昼過ぎまで洗濯物でいっぱいだったが、もうじき日暮れがやってくるというのもあって、すべて回収されていた。細長い棒が三本、鉄棒の如く整列している以外、特に目立つものはない。
 夏場に大活躍の濡れ縁に雀が一羽舞い降りて、毛づくろいに精を出していた。
 チチチ、という可愛らしい声にも表情を変えず、フゥ太の声も耳に入っていないようで、振り向きすらしない。
 心此処にあらずの彼に眉を顰め、フゥ太は甘い苺をひとつ持ち、立ち上がった。
「ツナ兄」
 先ほどよりも心持ちボリュームを上げて呼びかけ、傍らに膝をつく。横から覗き込まれても、綱吉は無反応だった。
 何処を見ているか分からない眼にむっとして、フゥ太はしゃがんだまま彼ににじり寄った。右の膝で太腿を踏んで、強引に彼の意識を引き寄せる。
「わっ」
 それで我に返り、綱吉はとても近いところに居た少年に悲鳴を上げた。
 両手を挙げて驚きを表明し、仰け反って後頭部を窓ガラスにぶつける。ごんっ、と痛い音を響かせた彼に、コタツで寛いでいた大勢がドッと笑った。
「え? え?」
 沢山の視線が自分に集中している事にようやく気付いて、綱吉はうろたえて声を上擦らせた。
 落ち着き無くきょろきょろして、膨れ面のフゥ太に再度目をやって、窓で打った部分を誤魔化しに撫でる。
「……あれ?」
 奈々がリビングの輪に加わっている事にすら、今の今まで気づかなかった。目を瞬いている息子に目を細め、彼女はくすくす笑うと立ち上がった。
 夕飯の仕度は、これからだ。時計の針は午後四時を少し回ったばかり、日はまだ高い。
 西に傾きつつある太陽に背中を向けて、綱吉は遅れてやって来た恥ずかしさに頬を赤く染めた。
「な、なんだよ」
 ぼんやりしていたのがそんなに悪いのかと、声を荒げて怒鳴る。が、誰もまともに相手をしてくれなかった。
 奈々が部屋を出て行って、リビングは少しだけ広くなった。
「ツナ兄、食べる?」
 パタンと閉まった扉を見送ったフゥ太が、思い出したように右手に持った苺を揺らした。蔕は取り除かれて、表面に伸びる産毛には水滴が絡み付いていた。
 顔の前に差し出された苺から、ほんのり甘い香りが漂った。
 食欲を刺激する美味しそうな果物に唾を飲み、綱吉は一層顔を赤くした。
「い、いい」
「え?」
「俺は要らない。お前が食えよ」
 頬をヒクリと引き攣らせ、瞳を泳がせてしどろもどろに言う。予想と正反対の返答に、フゥ太もきょとんと目を丸くした。
 苺を持つ弟分の手を押し返し、綱吉は慌しく身を起こした。だが立とうとしてズボンの裾を踵で踏んでしまい、バランスを崩してまたもや頭から窓にぶつかっていった。
 ごちいん、と尚更痛そうな音を立てた彼に、今度は誰も笑わなかった。
 独り相撲に興じている綱吉に皆が目を点にして、どうしたのかと首を傾げる。
「いっつぅ……」
「大丈夫? ツナ兄」
 首を押さえて蹲る彼を見詰め、フゥ太が心配そうに問いかけた。だが綱吉は、痛みに負けて声も出ずにいる。うんうん唸って、目尻に浮かんだ涙を袖に押し付ける。
「どうしちゃったの?」
 さっきからずっと上の空で、注意力散漫。綱吉は元からドジだが、今日は輪にかけて酷い。
 否、なにも今日に限った話ではなかった。
 期間にして約一ヶ月、綱吉はずっとこんな調子だった。
 部下の居ないディーノにも匹敵するくらいに、何もないところで転び、滑り、階段を落ちた。道路の側溝に落ちること合計三回、体育でボールを顔面に受けること、なんと八回。
 ただの不運やドジで片付けるには、少々度が過ぎる。
「へーき……うん。痛い」
 不安そうに顔を寄せて来るフゥ太を避け、彼は首を振って窓に背中を押し当てた。両手を吸盤の代わりにして身体を支え、背筋を伸ばしたまま今度こそ立ち上がる。
 踏んでしまった裾をぶらぶらさせた彼に、フゥ太は膝立ちのまま赤い苺を睨んだ。
 人肌に温もってしまったそれをぽいっと口に入れて、乱暴に噛み砕く。甘い香りが咥内に満ちるが、あまり美味しいとは思えなかった。
「ツナ兄って、苺、好きだよね?」
「へ?」
 蔕に近い固い部分を奥歯で粉砕して訊ねれば、彼は琥珀色の目を真ん丸にして、数秒置いて頷いた。
 表情は、気のせいか硬い。
「だったら。ママンが買って来てくれたんだ、まだいっぱいあるよ」
 拒まれたのは自分が手づかみしていたからだと判断して、フゥ太はコタツの上を指差した。声を高くして、部屋を去ろうとする雰囲気の綱吉を懸命に引きとめる。
 が、肝心の綱吉は皿に残る苺を見るなり顔を強張らせ、目を閉じてぶんぶん首を振った。
 旋風を起こした彼に唖然とし、フゥ太はムッと眉を顰めた。
「じゃあさ、チョコもあるよ。いっぱい」
「むふふー、このチョコはぜーんぶ、ランボさんのものなんだもんねー」
 手を伸ばして彼の中指を掴み、フゥ太が必死になって語りかける。空気を読まないランボが独り占めしようと籠を引き寄せてイーピンに叱られるが、綱吉は微笑みすら浮かべなかった。
 相変わらず遠い目をして、鼻をむずむずさせて唇を噛み締め続ける。
「ツナ兄」
「俺は、いいから。お前らだけで食べろよ」
 意外に食い汚い綱吉は、お気に入りの菓子をランボに横取りされようものなら、容赦なく怒った。時に拳骨を繰り出すのも躊躇しない彼だったが、当時の覇気はもうどこにも感じられない。
 風が吹けば簡単に飛ばされてしまいそうな儚さの彼に、リボーンも難しい顔をした。
「ツナ」
「俺、部屋戻る」
 だが彼が口を開くより早く、綱吉は足早にリビングを出ていってしまった。転びこそしなかったが、扉の僅かな段差に爪先を引っ掛けておっとっと、と飛び跳ねて、危なっかしい足取りで階段を駆け上って行く。
 ドタバタ響く足音はやがて消えて、ビアンキを含め全員が天井を見上げてはてなマークを生やした。
 かれこれ一ヶ月近く、綱吉はこんな調子だ。
「どうしちゃったんだろ」
 コタツに戻り、フゥ太が心配そうに呟く。背中を丸めて小さくなった彼の頭を撫でて、ビアンキは意味ありげに目を細めた。
 落ち着きを失い、常にぼうっとして、急に赤くなったと思えば、次の瞬間青くなったり。
 意味不明な悲鳴をあげたり、何もないところでいきなり手を振ってと、挙動不審ぶりは半端ない。
 リボーンを膝に抱いた女性は、訳が分からないと膨れている子供をクスリと笑って、小指で唇をなぞった。
「なんだか、恋わずらいみたいね」
「……」
 自分もそうだった。そんな風に囁いた彼女を見上げ、リボーンは小さく嘆息した。
 

 二階の自分の部屋に駆け込んで、綱吉は一直線にベッドを目指した。
 五十センチばかり手前で床を蹴り、両手を広げて布団へとダイブする。
 ぼふん、と跳ねた身体は直ぐに沈んで、舞い上がった埃が気管に入った。
「えふっ」
 軽く咳き込み、背中を丸めて膝を寄せる。左を下にして横向きに、胎児のポーズを作った彼の首筋を、春の風がさらさらと撫でていった。
 昼間は温かいが、夜になると空気は一気に冷えた。窓を開けていられるのも今のうちで、早めに閉めておかないと日が暮れてからは寒くて仕方が無い。
 だが分かっていても起き上がる気になれなくて、綱吉は四肢を投げ出し、天井を仰いだ。
 目を閉じれば皿に盛られた苺の赤が、鮮やかに蘇った。
「美味しそう、だった、な」
 ひとつひとつが大きく、瑞々しく、見た目からして甘そうだった。
 思い出すだけで涎が出て、口の中が苺の味を求めて止まない。だが次の瞬間、彼は全く違うものを思い出してしまって、渋い顔をして、同時に頬を赤く染めた。
 鼻の奥がむずむずして、くしゃみが出そうで出ない。
 なんとも居心地が悪い状況に陥って、彼は奥歯を噛み締めて何もない空間を睨み付けた。
「うあ、あああぁぁー!」
 階下では思い切り叫べなかったのもあって、両手で頭を抱えると同時に身悶えて、足をじたばたさせる。一見すると、イーピンの反撃を食らった直後のランボのようだ。
 五歳児と同じ事をやって余計に埃を巻き上げて、彼は涙目で鼻を愚図らせた。
 ずず、と音を立て、訳の分からない感情に唇を噛み締める。
「チョコ……」
 大好物をふたつも前にして、食べたいのに手を出せない。これでは蛇の生殺しだ。
 食欲はあるし、気分が悪いわけでもない。恐らく一ヶ月前なら平気で手を伸ばし、頬張れた。
「ちっくしょー」
 悪態をつき、彼は口の中に広がる甘ったるい記憶に鼻を鳴らした。
 ぐずぐず言わせ、投げ出していた右手を引き寄せて唇に重ねる。薬指でなぞると、皆で美味しそうに苺を食べている光景が瞼の裏に広がった。
「ぐ……」
 それも直ぐに、別の人の姿に切り替わった。
 今や綱吉の頭は、苺イコールあの人、と認識してしまっていた。
 しかも、ご認識はなにも苺だけではない。あろうことか大好きなチョコレートさえも、同じ人物に結び付けられてしまった。
 それもこれも全部、あの人が悪いのだ。
「あー、もうー。なんだよ、なんなんだよ、これ」
 我慢ならずに怒鳴り、彼は勢いよく起き上がって掴んだ枕を床目掛けて放り投げた。
 クッションも宜しくないそれは弾みもせずに沈み、余計に綱吉を苛立たせた。両手で頭を掻き毟り、ただでさえぐちゃぐちゃの髪の毛を一層酷い有様にして、やがて力尽きて項垂れる。
 そんなつもりはなかったのに、指は自然と唇に触れた。
 今度は小指で、上唇をなぞる。
「……」
 膝を抱え、ベッドで丸くなった彼は、重力に導かれるまま、またもやコロン、と横になった。
 汚らしい部屋の床には目もくれず、壁にぶら下げたカレンダーを凝視する。あと一週間と少しすれば終了式で、三学期が終わって春休みに突入だというのに、彼の心はちっとも晴れなかった。
 期末試験も無事に終わり、首筋を撫でる風も春めいてきていた。
 にも関わらず、気持ちは暗く沈んだまま。
「苺、食べたかったな」
 ぼそりと呟き、綱吉は指に力を込めた。
 添える程度だった唇を押して、爪で引っ掻く。加減しているので痛くはない。その代わりに、違うものが胸の奥に湧き起こった。
 爪先をピクリと震わせて、彼はきつく瞼を閉ざした。
「……っ」
 背筋にゾワッとしたものが走り、心が過去へ引きこまれる。逆再生する記憶は丁度一ヶ月前で停止して、ゆっくりと本来の向きで流れ始めた。
 苺も、チョコレートも、大好きだった。
 だから母は、その日の弁当で特別なデザートを用意してくれた。
 溶かしたチョコレートを浸した苺は、合計五つ。そのうちふたつを、綱吉は口にした。
 いや、三つか。それとも、二個と半分というべきか。
「ふっ……」
 小さく鼻を鳴らし、彼は薄く唇を開いた。隙間に指を捻じ込み、潜り込んできたものに舌を絡ませる。
 短く切った爪で粘膜を引っかかれ、彼は背を撓らせた。
 左手で胸を掻き毟り、息苦しさに喘いで溜まらず口を大きく開く。どこからあふれ出したのか分からないくらいの唾液が、小指の先から垂れさがった。
 冷たい雫を前歯で受け止めて、酸素と一緒にぱくりとかぶりつく。
「んぅ、は、あム」
 咥内を傷つけないように、指を蠢かせる。舌を捏ね、臼歯の側面を削る。奥歯で挟んで軽く噛めば、背筋にビリリと電流が走った。
 爪先を跳ね上げ、綱吉は荒い息を吐いて蕩けそうになる眼を前方に投げた。
「……は」
 あの日もこんな風になった。
 応接室で、雲雀と。
 あの人とくちづけを交わした時も。
 チョコを寄越せと言ってきた風紀委員長に、もらえないもの同士の傷の舐めあいでデザートを分けてやった。
 少なくとも綱吉はそのつもりだった。
 中学校を恐怖のどん底に陥れている狂犬に妙なところで懐かれて、甘えられたのが嬉しかった。軽い気持ちでチョコを塗した苺をお裾分けしたら、酸っぱいと言われた。
 そんなわけが無いと言い張り、綱吉もひとつ口に入れた。ちゃんと甘く、美味しかった。
 だのに二個目も酸いといわれて、ムキになって三つ目を口にした綱吉は、それが甘いかどうか彼に聞かれた。
 当たり前だと頷いたら、頂戴と言われた。
 そうして無理矢理、奪われた。
「……っ」
 くちづけられた瞬間を思い出して、綱吉はカッと頬に朱を走らせた。身体まで熱くなって、うっかり強く指を噛んでしまった。
 ズキッと来た。だのにあまり痛くない。
 今まで経験した事のない奇妙な感覚に酔い痴れて、彼はしどけなく濡れた指を布団に転がした。
 全身で息をして、潤んだ瞳を宙に彷徨わせる。
 風が吹き、白いカーテンが視界の半分を埋めた。
 大きく膨らんだ布が、ゆっくりと元の位置に戻ろうとする。だが途中で何かに引っかかってか、奇妙な形で停止した。裾を躍らせて、黒いものを覆い隠す。
 綱吉は目を瞬いた。
 首を起こそうとするが、力が入らない。
 カクン、と顎が数ミリ前に出ただけに終わった彼の瞳が、驚愕に彩られた。
「……っ!」
 吃驚し過ぎて声が出ない。呆気にとられている琥珀色の瞳に気まずげな顔をして、窓枠に腰掛けた青年は左右に視線を泳がせた。
「赤ん坊返り?」
 乳幼児が良くやるように、指を吸っていたからだろうか。
 投げかけられた質問に綱吉はボッと顔を真っ赤にして、金魚のように口をパクパクさせた。
 顔から火が出そうだ。見られてしまった恥ずかしさに加え、相手がよりによって雲雀だったというのもあって、声すら出ない。
「あ、あう、あ……」
「それとも」
 呻きながら両手をばたばたさせて、必死に言い訳を探す。だが頭の中は真っ白で、なにも浮かんでこなかった。
 いつかのように窓から乱入して来た青年は、ベッドの上で滑稽なダンスを披露する少年を暫くじっと見詰めた後、顎を撫でてふっ、と微笑んだ。
 滅多に見ることの叶わない柔らかな表情にどきりとして、綱吉は両手を掲げたまま硬直した。
「ああ。いやらしいこと、想像してたんだ?」
「ぶほっ」
 やがて雲雀が、斜め上を見ながら呟いた。
 直球過ぎる指摘に、思わず噴き出してしまう。ベッドの上で飛びあがった後、背中を丸めて盛大に噎せた彼に目を眇め、雲雀は窓枠に腰掛けたまま上半身を前後に揺らした。
 動きに合わせ、黒い学生服の裾がゆらゆらと泳いだ。
「ピ」
「キュ」
 息苦しいのを堪えて顔を上げた綱吉の視界に、可愛らしい生き物が二匹、ひょっこり現れた。
 一匹は雲雀の右肩に、もう一匹は頭の上に。
 トンファーを手に並盛町を我が物顔で闊歩している、鬼の風紀委員長という図からは想像がつかない、なんとも長閑な光景だった。
「楽しんでるところ、邪魔したかな?」
「げふっ」
 黄色い小鳥とハリネズミばかり見ていたら、トドメを刺すかのように言われてしまった。
 再度咳き込んで唾を飲み、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をして口元を拭った。
「ち、ちがいます。そんなんじゃないです!」
「じゃあ、赤ん坊返り?」
「もうそれでいいです……」
 しどろもどろに言い返して、そっぽを向く。両足を抱え込んだ彼の顔は、熟れた林檎のように赤かった。
 いやらしい想像、というものが具体的に何を指すかについては、考えるまでもない。そうではないのだけれど、では何を思い出していたのかと訊かれたら答えられない。
 まさか貴方とのキスを振り返り、疑似体験をしていたなど、恥ずかしくて到底いえるわけがなかった。
 まったくもって変なところを目撃されてしまった。いくら二階だからとはいえ、無防備に窓を開けっぱなしにすべきでなかった。
 数分前の自分に反省を強いて、綱吉は上目遣いに窓辺の青年を窺った。
 彼はいったい、何の用で訪ねて来たのだろう。不審がっていたら、部屋の中をぐるりと見回していた黒い瞳が、視線に気付いてベッドへ向けられた。
 あの日以来、彼とはまともに会話していなかった。
 元々、さほど接点があったわけではない。強引にボンゴレ十代目に仕立て上げられた綱吉の、その守護者に無理矢理選定されてしまった雲雀だが、基本的に彼は自由だ。
 綱吉が彼に何かをして欲しいと望むこともなければ、彼の方から交流を深めようともしない。
 守護者となった今も、彼は気ままに空を駆る雲そのものだ。
 観察するようにじっと見詰められて、綱吉は居心地の悪さを覚えて身を捩った。
「あ、あの」
 雲雀が訪ねて来るなど、これまで殆どなかった。
 あったとしても、目的はリボーンであって、綱吉ではない。その事実を思い出した彼の胸に、ちくりとした痛みが走った。
「……」
 針の先で軽く突かれたような、小さな痛み。その正体が分からぬまま、綱吉は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 顔を背け、奥歯を噛み締める。
 ちっとも目をあわそうとしない彼を見据え、雲雀は鼻先を寄せてきたハリネズミの頭を撫でた。
「最近、見ないから」
 そうやって斜め下を見たまま言って、反応があった気配にちょっとだけ気を良くする。彼はもったいぶった態度でベッドに向き直り、意地悪い笑みを浮かべた。
 口角を歪めた彼の目に見入り、綱吉は首を伸ばした。
 ベッドに座り込んだまま、琥珀色の瞳を大きく見開く。
「どうしてるかな、って」
「え……」
 俄かには信じ難い台詞に唖然とし、口をぽかんとさせる。目をぱちぱちさせて瞬きを繰り返すが、彼の姿が忽然と消えたりする事は無かった。
 足元にはちゃんと影がある。幻などではない。
 惚けた顔をして、綱吉は直後、ぼんっ、と頭を爆発させた。
 雲雀が自分を気にして、わざわざ訪ねて来るなど。少し前では、全く考えられなかった。
 両手を頬に当てれば、信じられないくらいに熱かった。身体がカッカとして、春先だというのに汗が止まらない。
 琥珀色の瞳を落ち着き無く泳がせて居る少年から目を逸らし、雲雀は釣られて赤くなりそうな顔を隠してそっぽを向いた。
「別にね、僕は君の事なんかどうでもいいんだけど。ただ、この子がね」
「……へ?」
 急に声を大にした雲雀に、綱吉は目をぱちくりさせた。
 雰囲気が一変した。身体中に蔓延っていた熱が一気に冷めて、彼は頬をヒクリと痙攣させた。
「ああ、はあ」
 雲雀の手は、肩に乗った愛らしいハリネズミを絶えず撫で回していた。背中に棘をいっぱい生やした小動物は、時折擽ったそうに目を細め、可愛らしい声で鳴いた。
 だが見た目に騙されると、痛い目をみる。あんなに小さいロールだけれど、その正体はれっきとした兵器だ。
 雲の炎を糧に無限に増殖する、扱い方によっては軍艦さえ破壊出来てしまう恐ろしい武器。
 絶句している綱吉をちらりと見やり、雲雀はロールを膝に移動させた。滑り落ちそうになった背中を優しく支えてやり、人間相手には絶対向けないような笑顔を作る。
「この子が、君のところの子に会いたがってね」
「……左様で」
 さっきまであんなにドキドキして、動悸が止まらなかったというのに。
 訪問の理由と目的を教えられた途端にすべてが馬鹿らしく思えてきて、綱吉は素っ気無く言って口を尖らせた。
 何を期待したのかと、数秒前の自分に呆れて肩を落とす。大体あの雲雀恭弥が、綱吉の顔を見るためだけに、わざわざ大好きな学校を離れてやってくるわけが無いではないか。
 落ち着くと同時に無性に腹が立ってきて、彼はぶすっと頬を膨らませた。
「草食動物?」
「はいはい、ナッツですね。そうですよね、そうでしょうとも」
「どうしたの」
 あさっての方向を見たまま不貞腐れている綱吉に眉を顰め、雲雀は首を傾げた。ロールを抱えたまま窓枠から離れ、床に降り立つ。紺色の靴下が、落ちていた紙くずを蹴り飛ばした。
 カサリと鳴った足元を見た彼を思い切り睨み、綱吉は奥歯を噛み締めた。
 急に不機嫌になった彼に眉目を顰め、雲雀がロールを床に下ろした。足の踏み場も無い荒れ具合なので、小さな獣は自由に駆け回ることも出来ず、主人の足元をおろおろするばかり。
「キュ、キュウー」
「もうちょっと掃除したら? ま、君らしいけど」
「むっ」
 右往左往しているハリネズミから顔を上げ、右手を腰に当てた雲雀が言った。肩を竦めて呆れ混じりに告げられて、綱吉は反論出来ずに押し黙った。
 頬を膨らませ、目を吊り上げるがちっとも恐い顔にならないのが悔しい。
 雲雀も黙って、綱吉が行動に移るのをじっと待っていた。なにを期待されているのか痛いくらいに感じられて、綱吉は奥歯を痛いくらいに噛み締めた。
 このまま追い出してやろうか。反発心ばかりが膨らむけれど、折角訪ね来てくれた彼を追い返すのは忍びないとも思ってしまう。結局のところ綱吉は、彼が顔を出してくれた事を少なからず嬉しく感じているのだ。
 複雑怪奇な自分の心に項垂れて、彼は渋々、首にぶら下げていた銀のチェーンを引っ張りだした。
 細かな意匠が施されたリングを指に装着して、心の中でそっと、名前を囁く。
「おいで」
 出来るだけ平静を装って呼びかけると、オレンジ色の炎がぼわっ、と眼前で膨らんだ。
 周囲の空気が圧迫されて、瞬時に破裂した。巻き込まれた前髪がバサバサと大きく揺れ動く。眩い閃光を避けて目を閉じた綱吉は、膝にぽふん、と落ちてきた柔らかな感触にふっ、と気の抜けた表情を作った。
「ガウ、ゥゥ~?」
 指輪の中で昼寝でもしていたのだろうか、寝ぼけた声が聞こえた。
 目をあければ、膝の上にオレンジ色の毛玉があった。淡い輝きの炎を灯し、短い尻尾が踊っている。
「ガ、ガウ?」
 真ん丸いお尻をちょん、と小突いてやれば、それで初めて外に出たことに気付いたらしい、天空ライオンことナッツがきょとんとした顔で振り返った。
 暫く不思議そうに綱吉の顔をじっと見詰めたかと思うと、パチパチと二度ほど瞬きを繰り返して後、ガウッ、と元気良く吼えた。
「あはは。お前はいいよな、いつも呑気で」
 誰に似たのかと苦笑して、サンバイザーの上から頭を撫でてやる。仔ライオンの毛並みは滑らかで柔らかく、適度な弾力もあって、触っていて心地よかった。
 ふと視線を感じて顔を上げれば、窓辺に佇む青年がじっと彼らを見ていた。
 はたと我に返り、綱吉はパッと首を右に向けた。そっぽを向かれた雲雀がどんな顔をしたかも知らず、もやもやするものを懸命に胸の中に押し込める。
「ガウゥ?」
 どうしたのかとナッツが心配そうに鳴いた。短い前足でちょんちょん突かれるが、綱吉は構いもしなかった。
 主に冷たくされて、匣アニマルはしょんぼりと頭を垂れた。
 その彼のあんまりな態度に幾らか腹を立て、雲雀は眉間に皺を寄せた。足元で洗濯物の山に埋もれていたロールは、主人たる青年の心に過敏に反応して、キュゥゥ、と小さな声で鳴いた。
「ガウ?」
 ピクリと、ナッツの耳が震えた。
「キュ」
 綱吉の膝から飛び降りて、ナッツがベッドの端へ駆け寄った。恐々下を覗きこんで、声の出所を探してきょろきょろし始める。
 棘に布が引っかかって身動きが取れずにいたロールに手を差し伸べて、雲雀が片膝折ってしゃがみ込んだ。
 下方ばかり気にしていたナッツもようやく彼の存在に気付き、目があった瞬間、爛々と琥珀の瞳を輝かせた。
「ガウ!」
「ナッツ!」
 高らかに吼えて、ぴょん、とベッドを飛び降りる。綱吉が気付いて手を伸ばしたが、一歩遅く、届かなかった。
 いつもは三十センチ足らずの落差さえ恐がり、抱いて下ろしてくれるよう頼むくらいなのに。
 ライオンとしての矜持を持ち合わせていない、とリボーンが言っていたのを思い出す。今のこの動きを見たら、あの赤ん坊も流石に前言撤回せざるを得まい。
 とはいえ、階下まで呼びに行くのもいかがなものか。
 そんな事を一秒の間に考えて、綱吉はベッドから身を乗り出した状態でぽかんと間抜けに口を開いた。
「ガウ。ガウガウ、ガウ~」
「くすぐったいよ」
 床に飛び降りたナッツは、その足で高く跳びあがり、学生服を羽織った青年に飛びかかった。頭から突っ込んでいって、受け止められたのをいい事にゴロゴロ喉を鳴らす。
 甘えて擦り寄る彼を抱えて、雲雀は笑いながら言った。
 もふもふした毛足に首筋を擽られて、彼はどこか嬉しそうだ。稀に見る笑顔に綱吉はまたもドキッとさせられて、直後に面白くないと口を尖らせた。
 雲雀は残る膝も床に下ろすと、まだ甘え足りない様子のナッツを下ろした。待ち構えていたロールが鼻をヒクヒクさせて、嬉しそうに甲高い声で鳴いた。
「ガウ!」
 ナッツも楽しそうに吼えて、身を屈めた。鼻を小突き合わせて挨拶をして、ニコニコと目を細める。
 なんとも微笑ましい小動物の触れあいを見下ろし、雲雀は非常に満足げだ。頭の上の小鳥も上機嫌に歌い始めて、綱吉の部屋は一気に賑やかになった。
 静かな環境を求めてリビングから出て来たのに、これでは意味が無い。
 不貞腐れる綱吉を他所に、三匹は雲雀を囲んで輪を作り、恐れ多くも膝に乗って遊び始めた。
 確かにロールは、ナッツに会えてとても嬉しそうだった。だがそれ以上に、主人たる雲雀が、嬉しそうだ。
 雲ハリネズミが寂しがっているというのはただの言い訳で、本音は、自分がナッツに会いたかっただけではないか。
 そう思えるくらいに、雲雀は天空ライオンに構った。
 抱き上げ、頭を撫で、喉を擽り、鬣を梳る。人一倍人見知りで、臆病者のナッツも、雲雀は平気らしい。ひっきりなしに喉を鳴らして、ご満悦の様子だった。
 盗み見た雲雀の顔は綻んでおり、学校や、戦場で見かける彼とは別人だった。
 彼もあんな顔をするのだと教えられて胸が弾んで、それと同時にもやっとしたものを覚えた。
「むんぬ、ぐぐぐ」
 浮かんだり、沈んだり、一向に定まらない。
 鼻を膨らませて急に唸りだした彼を怪訝に見詰め、雲雀は抱え上げたナッツを相手に首を傾げた。
「ガウ」
 意味を理解したかどうかは定かでないが、仔ライオンは尻尾をゆらゆらさせながら吼えた。小さな牙が覗く口をパクッと広げて閉ざし、空気を噛み千切る。
 両手で抱きかかえられるこの状態が苦しいのか、嫌々と首を振った。
「ん、どうしたの?」
「ガウ、ガウッ」
「キュキュー」
 ロールは言葉が分かるのか、雲雀の太腿をスラックスの上からカリカリ掻いた。下ろして欲しいのだと判断して、雲雀が肩を引く。だが高度が下がるに従って、ナッツは余計暴れた。
 放される方が嫌なのか。どうすべきかで迷い、雲雀は軽いナッツの身体を抱えなおし、胸元に引き寄せた。
 両腕で尻を支えて、間近から顔を覗き込む。
 と。
「っ」
「ナッツ!」
 次の瞬間、ナッツが取った行動に、綱吉は目を見開いた。
 悲鳴のような叫び声をあげて、勢い余ってベッドから滑り落ちる。ドゴン、と痛そうな音を響かせた彼にも目を丸くして、雲雀は今し方舐められた場所に指を這わせた。
 あと二センチ横にずれていたら、唇に触れていた。
「ガウっ」
 上機嫌にひとつ吼えたナッツは雲雀の腕からするりと抜け出して、床へ綺麗に着地した。ロールの頭もぺろぺろと舐めて、これは親愛の情を表す行為なのだと人間たちに教える。
 だが綱吉は、まるで見ていなかった。
 零れ落ちそうなくらいに大きく目を見開いて、愕然として頬を撫でている雲雀を凝視する。
 哀しいのか、腹立たしいのか、それともまた違うものなのか。兎も角様々な感情が一緒くたになって襲い掛かってきて、彼は震え上がり、床の上で己を抱き締めた。
 落ちた時にぶつけた額や肩が痛いが、まるで構おうとしない。奥歯をカチリと鳴らして、鼻を膨らませてふるふる首を振る。
「ガーウ」
「キュゥ」
 楽しそうにお喋りしている小動物を前にしても、ちっとも和めない。
 自分が何に対して怒りを抱いているのか、その根源すら掴めなかった。
「ナッツ!」
「ギャピッ」
 腹立ち紛れに怒鳴り、勢い任せに立ち上がる。強く床を踏み鳴らした彼を、ひとりと三匹が一斉に仰ぎ見た。
 呼ばれた小動物は情けない声をあげて震え上がり、真ん丸い瞳を歪めて恐々主たる人物を見詰めた。表情は不安に揺らぎ、尻尾は垂れ下がって後ろ足の間に潜り込んだ。
 見るからに怯えている。だが綱吉は気にも留めず、唐突に腕を伸ばした。
「もうお前、戻れ」
「ガウー」
「いいから。口答えすんな!」
「ちょっと」
 呼び出したばかりのナッツへ炎の供給を止めて、指輪へ戻そうとする。だがナッツは嫌がって、尻込みしながら後退した。
 反抗されて益々怒りを膨らませ、綱吉は地団太を踏んで拳を上下に振り回した。
「ガウゥ、ガウー」
 ドスドス言わせる彼を恐がって、ナッツとロールが揃って雲雀の後ろに隠れた。頭だけ出して様子を窺って、睨まれてなにか言いたげな顔をする。
 床に爪を立ててカリカリ言わせるのにも苛立つ。綱吉は下から睨んでくる黒い瞳に、不意に泣きそうになった。
「なにしてるの」
「ヒバリさんには、関係、ないです」
 彼からすれば、綱吉が急に癇癪を爆発させたようにしか見えない。何を怒っているのかと問われて、答えられなかった彼はそっぽを向いて返答を誤魔化した。
 声を詰まらせ、鼻を愚図らせて拳を硬くする。震えている彼に眉を顰め、雲雀は落ち込んでいるのか元気のないナッツの頭を撫でた。
 慰められて、オレンジ色の毛玉は嬉しそうに彼の指に擦り寄った。
「っ!」
 仲睦まじい光景を見せ付けられて、綱吉はカッと来た。頭の中が真っ白になって、もう何も考えられない。
「ナッツ!」
 罵声を上げ、頭ごなしに怒鳴りつける。今までで一番大きな声にビクッとして、ナッツは綱吉と同じ色の眼をウルウルさせた。
「ガ~ウゥ~」
「君、その言い方はどうなの」
「ヒバリさんは黙っててください」
 ごめんなさい、と何も悪くないのに謝るナッツを撫で、雲雀が庇って前に出た。綱吉は、生意気な匣アニマル側に立つ青年にぐっと息を殺し、咎める視線を嫌がってかぶりを振った。
 ロールも、ヒバードも、綱吉に冷たい目を向けていた。
 自分ひとりが悪者にさせられて、彼は唇を痛いくらいに噛み締めた。
 雲雀は怒っていた。険しい目つきをして、いつでも飛びだせるように構えている。
 敵と認識されてしまったのが哀しくて、彼は嗚咽を漏らし、震える拳を左胸に押し当てた。
 彼が訪ねて来てくれたのが嬉しかったのに、こんなつもりではなかったのに、どこでなにをどう間違えたのだろう。
 ナッツはたまに、じゃれ付いた相手を舐めることがあった。獣なのだから、これくらいのスキンシップはむしろ当たり前だ。
 だのにどうしてだか見過ごせなかった。腹が立った。
 ナッツに懐かれて嬉しそうにしている雲雀も、腹立たしかった。
「ナッツ、こっち来い」
「ガウ……」
 短く言うが、小癪にも匣アニマルは命令に背いた。益々雲雀に擦り寄って、その腕の中に潜り込もうとする。しかも雲雀はそれを許容し、守ろうとさえした。
 大空の炎を糧にするナッツは、いわば綱吉の分身だ。
 だのに雲雀は、綱吉を無視してナッツばかり可愛がる。
「君」
 厳しい目で見詰められて、彼はハッとした。
 血の混じった唾を飲んで、零れそうになった涙を堪えて鼻を膨らませて。
「ヒバリさんなんか、だいっきらい!」
 家中に響き渡る怒号に、ロールが吃驚して丸くなった。ヒバードが雲雀の頭上から飛び去った。
 ナッツがぽふん、と煙と共に姿を消した。
 後には肩で息をする綱吉と、唖然とする中に静かな怒りを秘めた雲雀だけが残された。
 毬栗と化したロールを掬い上げて、彼は無言で立ち上がった。
「そう」
 それだけを言って、踵を返す。
 涼しい風が吹き込む窓辺に立って、彼はアルミサッシの窓枠に手を伸ばした。
 ハッと息を吐き、綱吉は瞠目した。
 帰ってしまう。
 否、綱吉が彼を追い返した。
 何故嫌いなどと言ってしまったのかと、一秒前の自分すらもう分からなかった。他人の意識が紛れ込んで、いいように操られてしまったとさえ感じる。そんなわけが無いと知っているのに、考えずにいられない。
 ふるふると首を横に振って唇を戦慄かせるが、言葉はひとつも出てこなかった。
 鼻から漏れる息が熱い。喉が焼け焦げてしまいそうだ。
 瞼が重い。視界が暗い。
「君がそんな子だとは思わなかったよ」
「待っ――!」
 呆れ顔で捨て台詞を残し、雲雀の姿が窓から消えた。室外機置き場に飛び降りたのか、瞬く間に見えなくなる。
 黄色い小鳥が僅かに遅れ、大空へ飛び立った。
 綱吉は出し掛けた手を呆然と見詰めた。行き場のない指が蠢き、空気を握り潰して下を向いた。一緒に項垂れて、我慢が利かなくなった涙をぽとり、膝に落とす。
 必死に声を殺して、次に溢れ出そうになった分を袖に吸わせて上を向く。
 鼻を愚図つかせ、しゃくり上げてベッドに頭から倒れこむ。
「もうやだ……」
 あんな事を言うつもりはなかったのに、気がつけば叫んでいた。
 ナッツは何も悪くないのに、八つ当たりをした。
 雲雀に白い目で見られた。嫌われてしまった。
 後悔が押し寄せてくる。荒波に押し流されて、このまま水底へ沈んでしまえたらいいのに。
 ベッドに寄りかかって仰け反る彼の両手を、温い風が撫でた。鳥の囀りが聞こえる。パタパタと空を叩く羽音が鼓膜を震わせた。
「キュゥゥゥ」
 大丈夫かとハリネズミが鳴いた。
「……」
 幻聴を疑い、綱吉は両手で覆ったまま顔を顰めた。眉を寄せ、口をヘの字に曲げて首を傾げる。
 トス、と投げ出した足に触れるものがあった。ちょっと固くて、温かい。引っかかれた。痛い。
「キュキュ、キュゥ」
「なにやってるの」
 今し方去ったばかりの人の声が、頭の上に落ちてきた。
 夢でも見ている気分になった。指の隙間から零れ落ちる光に目を瞬かせて、口をあんぐりさせながらゆっくりと頭を起こす。
 床に座り直した彼を前に、雲雀は両手を腰に当て、呆れ顔を作った。
「……あれ?」
 彼は確かに、帰ったはずだ。綱吉の大嫌いと言われて、入って来たとき同様窓から出て行った。
 それなのに、何故。
 目尻に涙を残す目でじっと見詰めていたら、雲雀はどうしたのか急に赤くなって、口を尖らせてそっぽを向いた。
「別に、君が心配になったから戻って来たわけじゃないよ」
 つっけんどんに言い放って、偉そうに腕を組む。胸を張った彼の言い分にきょとんとして、綱吉は足を叩いているロールにも目を向けた。
 ボスッと首に重みを感じて、なにかと思えばヒバードが彼の頭に着地していた。
「ミードリタナービクー」
 機嫌よく歌いだした小鳥は、瞳をどれだけ上向けても見えない。髪型の所為で巣と勘違いされたのかと、そんな風に考えながら肩を竦める。
 どうしてだか、急に笑えて来た。
「はは」
 睫にこびり付いていた涙を拭い、笑う。表情はまだ少しぎこちなかったけれど、先ほどまであった嫌な感情はすっかり消えてなくなった。
 ほうっと息を吐き、胸を撫でて頬を緩める。相好を崩した彼を見下ろし、雲雀は安堵を顔に出した。
 が、綱吉が首を上向けた瞬間にそれは掻き消えて、いつもの鉄面皮が現れた。
「……ごめんなさい」
「謝るのは僕にじゃないよね」
「そう、ですね」
 三白眼に睨み下ろされて、彼は頭を垂れた。
 緩く首を振った雲雀に指摘されて、その通りだと頷く。目に見えて落ち込んでいる彼の旋毛は、黄色い小鳥に塞がれて見えなかった。
 両者の間に火花が散ったのも知らず、綱吉は照れ臭さと、恥ずかしさと、ほんの少しの嬉しさで頬を紅に染めた。
 雲雀が嘆息する。ズボンのポケットを弄って、潰れかけた何かを取り出す。
 長方形の箱だ。開封済みで、蓋部分が拉げてしまっている。表面のロゴや彩りに、綱吉も見覚えがあった。
 市販されている菓子だ。だが雲雀が手に持つと、違うものに見えてしまうから不思議だ。
 つまるところ、似合わない。
 両者の結びつきが理解できぬまま、綱吉は目をぱちくりさせた。琥珀色の瞳が、好奇心で満たされる。
 輝いた眼に苦笑して、彼はそれで、綱吉の頭を叩いた。
「あうち」
 痛くないが、吃驚した。咄嗟に首を竦めた膝に、雲雀が手放した箱が滑り落ちた。
 横倒しに転がって、中身が飛び出そうになった。黒っぽい茶色と、ピンク色が二層になったチョコレートは小粒で、円錐形をしていた。
 苺味。
 違うなにかを思い出させられて、綱吉は知れず赤くなった。
「ヒバリさん」
「それを渡すの、忘れてたから」
「……え?」
「貰いっ放しは性に合わない」
 告げられた台詞の意味が分からない。首を傾げた綱吉の目に、壁のカレンダーが飛び込んできた。
「あ」
 答えはすとんと落ちてきた。
 今日はホワイトデーだ。バレンタインデー程のお祭り騒ぎも起きないので、すっかり忘れていた。
 ならばこれは、あの日雲雀に分けて上げた苺のお礼だろうか。
「……安」
「何か言った?」
「いえ、なにも」
 値段的につりあわないと思ったが、言わないでおく。雲雀は不満げにした後、肩を竦めて両腕を脇に垂らした。
 律儀と言うべきか、どうなのか。
 綱吉は箱の蓋を指で穿り、底を持ち上げた。中身をひとつ掌に転がして、口の中へ放り込む。
 奥歯で噛み砕くと、口の中いっぱいにチョコレートの甘味が広がった。
「酸っぱい」
 にもかかわらず正反対の事を口にして、唇を舐める。
 眉をヒクリとさせて、雲雀は物言いたげな目で綱吉を見た。
 彼はもうひとつ口に入れて、舌の上に転がした。
「酸っぱいですよ、これ」
 いつかのやり取りを思い出させる台詞を口ずさみ、顔の横で箱を揺らす。中身が詰まっているので、あまり音はしなかった。
 軽くはないが重くも無いそれを右手でしっかり握り、綱吉は目を眇めた雲雀にしたり顔を向けた。
「そんなわけないでしょ」
「ホントです。酸っぱいですよ」
 食べるかと誘い、差し出された掌にひとつ転がしてやる。雲雀は黙ってチョコレートを口に入れた。唇を閉ざし、舌に転がして熱で溶かす。唾液に混じって薄められても、充分甘かった。
 眉間の皺を深め、彼は首を振った。
「甘いよ」
「嘘だ。こんなに酸っぱいのに」
 不満げに言い返し、綱吉がもうひとつ、摘み上げる。光に翳し、三角形のそれを口に放り込む。
 美味しそうに食べるくせに、感想はいずれも「酸っぱい」だった。
 あの日の仕返しかと、雲雀は不機嫌に顔を顰めた。
「甘いよ」
「酸っぱいです」
 早く終わらせたくて、声を荒くする。綱吉は気にも留めず、箱を差し出した。ひとつ受け取って、口に入れて、歯が融けそうな甘さを堪えて、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 滅多に見るのも叶わない百面相を笑って、綱吉は目を細めた。
 見詰められて、雲雀は嘆息した。膝を折ってしゃがみ、ロールを退かせて床に手をつく。
 吐息が掠めあう近さまで迫って、彼は意味ありげに微笑んだ。正面から受け止めて、綱吉は甘ったるい唾を飲み込んだ。
「甘いよ、すごく」
「ホントですか?」
「なら、試してみる?」
 ひめやかに囁いて。
 ふたりは揃って、目を閉じた。

2011/05/14 脱稿