遠乗

 春風が心地よく吹いていた。
 こんな日はきっと屋上にいる、とヤマを張ってみたのだけれど、訪ねて行った先は見事に無人だった。
 誰かが居た形跡も見つけられなかった。通常立ち入り禁止の屋上は物悲しい景色を提供するばかりで、なんとも味気ない、面白くない空間と化していた。
「ちぇ」
 直感を働かせたつもりだったのに、空振りだった。時間を無駄にしたと、誰が悪いわけでもないのに拗ねて、綱吉は右足を大きく前に蹴りだした。
 登ったばかりの階段をくだり、最後の二段は足を揃えて飛び降りる。綺麗に着地を決めて、それで少しだけ溜飲を下げた彼は、つい一分前までいた場所を振り返り、溜息をついた。
 折角、急いで昼食を片付けたというのに。
 膨らんで、まだこなれていない胃袋を制服の上から撫でて慰め、唇を噛む。
「何処にいるんだろ」
 こうなってしまうと、先に応接室に寄ればよかったと後悔が押し寄せてきた。本人が不在でも、草壁さえ捕まえられたら行き先が確認できただろうに。
 教室棟から屋上に直行するのと、応接室のある特別教室棟を経てから上に向かうのでは、距離が違う。中継地点が無い分、直接屋上に出向く方がずっと近いのだ。
 手間を惜しんだばかりに、無駄な遠回りを強いられてしまった。空の両手をぎゅっと握り締めて、綱吉は苛立ちを発奮させるべく、前後に勢いよく振り回した。
 雄々しい足取りで残りの階段も下って、人気の乏しい廊下に出る。照明は消されており、窓から差し込む光だけが綱吉を照らしていた。
 短い影を踏みしめて、更に進む。この辺りは風紀委員の支配領域というのもあって、一般の生徒は滅多なことでは足を向けない地帯だった。お陰で昼休みが半分過ぎたこの時間でも、かなり静かだった。
 本校舎の賑わいがまるで夢か幻のようだ。教室に残して来た獄寺や山本の事をふと思い出して、綱吉は足を緩めた。
「……ン?」
 話し声が聞こえた。
 珍しいこともあるものだと、綱吉は目を凝らして耳を澄ませた。
 それは低い男の声で、どうやらふたり組みらしい。背伸びをすれば、目的地の直ぐ近くを歩く黒っぽい後姿が見えた。
 仲良く並んで、綱吉がいるのとは反対方向へ歩いて行く。左側に立っている人物は裾が床に着くくらいの長ランを着ており、リーゼントまでは見えなかったが、どうやら草壁のようだ。
 もうひとりが誰なのかが分からない。どこかで見た気がする背中なのだが、と綱吉が首を傾げている間に、男ふたりは角を曲がってしまった。
 話し声も一緒になって遠くなって、やがて消えた。綱吉は置き去りにされた気分でぽかんとして、数秒してからハッと我に返って首を振った。
「いるのかな、ヒバリさん」
 草壁の右にいた人は、学生服ではなかった。スーツのように思えたが、遠かったのでどうにもはっきりしない。
 ともあれ、雲雀でないのは確かだ。目当ての人の姿を思い浮かべ、彼は不安げに呟いた。
 近くに誰も居ないのを確かめてから小走りに廊下を駆けて、応接室の札が出ている扉の手前で速度を緩める。薄汚れた上履きの底で廊下を踏みしめて、前に行き過ぎようとした身体を引きとめる。
 制服の裾を引っ張って形を整え、軽く叩いて埃を払い、ネクタイが曲がっていないかどうかを簡単にチェックして、最後に咳払いをひとつ。
 緊張が顔に出るのだけは、どうしても止められなかった。
「いますように」
 願いを込めて、祈るようにドアを叩く。
 ぎゅっと強く瞼を閉ざし、頭を垂れてより掛かる。返事があるまでの僅かな時間が、綱吉にはとても長いものに感じられた。
 あと三秒待って何もなければ、大人しく教室に戻ろう。昼休みの残り時間を考えると、あちこち探し回って見つけたとしても、ゆっくりする暇は無さそうだ。
 こんな気持ちよく晴れた日には、いつだって大空の下にいる人なのに。
 どうして今日に限って屋上の日向ぼっこを中止したのだろう、彼は。
「誰?」
 あれやこれやと考えて悶々としていた所為で、室内から声がかかったのになかなか気付けなかった。拳をドアに押し当てたままだった綱吉は慌てて顔を上げ、ノブが回り始めていると知って急ぎ姿勢を正した。
 両手を背中に隠し、気をつけのポーズを取る。ゆっくり開かれた扉の向こうから、黒髪の青年が怪訝な顔をして現れた。
「ああ、……君か」
 剣呑な目つきが、機嫌の悪さを物語っていた。声も一段と低く、若干の怒気が込められていた。
 多少慣れてきているとはいえ、いきなりこれでは綱吉も驚く。ビクッとした彼の顔を見下ろして、雲雀は眉を顰めた。
 応接室を不法占拠する、並盛中学校風紀委員長。泣く子も黙ると評判の狂犬は、その巷説に違わぬ不機嫌さでもって綱吉を出迎えた。
 そして。
「えええ!」
 突然、無言でドアを閉められて、彼は素っ頓狂な声を上げた。
 一度は開いた道程が、問答無用で塞がれてしまった。思わず背伸びをして、綱吉は両手の平を分厚い板に押し当てた。乱暴に殴り、横暴な雲雀への抗議にする。
 どんどん響く音が五月蝿かったのだろう、十三発目を数える頃になって、ドアは再び開かれた。
「授業が始まるから、早く帰りなよ」
「まだ十分くらいはあります!」
 そうして息継ぎを挟む間もなく怒鳴り散らされて、綱吉はムキになって言い返した。
 牙を剥いた彼に苦虫を噛み潰したような顔をして、雲雀が目を逸らした。なんとも形容し難い、無理矢理言葉を当て嵌めるなら、とても嫌そうにされて、そんな態度を見せられる覚えが無い綱吉は憤慨して地団太を踏んだ。
 再度ドアを閉めようとする雲雀の手を叩き、先に足を入れて閉じられないようにする。その流れの中で狭い中に身体を押し込んだ彼に、観念したのか、鬼の風紀委員長はついにノブから手を離した。
 一気に視界が開けて、綱吉は眼に飛び込んできた金髪に唖然とした。
「あれ、ツナじゃん」
「ディーノさん?」
 よろめいてつんのめった綱吉の鼓膜に、思ってもいない人物の声が触れた。慌てて顔を上げれば、部屋の真ん中に置かれたソファで、金髪の青年が寛いでいた。
 テーブルには紅茶かコーヒーか、兎も角陶器のカップが置かれて湯気を立てていた。茶菓子の類は用意されておらず、他には何も置かれていない。
 雲雀は目を丸くしている綱吉を面白く無さそうに見下ろして、力任せにドアを閉めた。
 大きな音が響き、油断していた綱吉はビクッと身を強張らせた。ただでさえ逆立っている髪の毛をもっとピンッと尖らせて、雲雀が何故あんなにも不機嫌だったのかを遅れて悟って冷や汗を流す。
 教室に帰れとのコメントも、今なら素直に受け止められた。
 だがこうなってしまった以上、回れ右をして去るのは難しい。
「ひっさしぶりだな、ツナ。どうしたんだ? あ、もしかしてロマーリオに会ったのか?」
「いや、えっと、それはその」
 まさか応接室にディーノがいるなど、誰が予想出来よう。もっともそれは彼も同じらしく、綱吉が訪ねて来たのに驚き、声を弾ませた。
 ソファから腰を浮かせ、立ち上がろうとする。だが靴でも脱いでいたのか、彼は唐突に足を滑らせて後ろ向きに倒れこんだ。
「ぎゃっ」
 痛そうな音と悲鳴が同時にあがって、綱吉はまたもや首を竦めた。我が身に関係ないことながら顔を顰め、足を前に運んでソファを回りこむ。
 上から覗き込むと、ディーノはソファの座面に頭を沈めて苦笑していた。
「大丈夫ですか?」
 相変わらず、部下がいないとてんでダメダメのようだ。ひっくり返った際にテーブルを蹴り飛ばしており、衝撃で倒れたカップからコーヒーが溢れていた。
 天板を濡らす黒い液体に肩を竦め、綱吉は助け起こしてやるべく手を差し出した。
「わりぃな、ツナ」
「いいえ」
 照れ臭そうにしながら握り返してきた手は大きく、温かかった。
 腹に力を込めて踏ん張って、彼に引きずられてしまわないよう注意する。残る手でソファの背凭れを掴んだ彼と、さっきから失敗ばかりの青年とを同時に見て、雲雀は深々と溜息を零した。
 放っておくわけにもいかないからと、壁際の棚から布巾を一枚取って綱吉目掛けて放り投げる。頭で受け止めた少年は、渋い顔をして悪戯の犯人を睨んだ。
「もう。それよりディーノさん、今日はどうしたんですか?」
 そ知らぬ顔を決め込んでいる風紀委員長から意識を逸らし、腰を曲げてテーブルを拭く。最中でソファに座り直した青年に問えば、ディーノは嬉しそうに目を輝かせた。
 白い肌に、金の髪、そして艶やかな瑪瑙色の瞳。
 ひと眼で異国の出身と分かる、王子様然とした容姿の青年は、無邪気な子供のようにキラキラ眩しい笑顔を浮かべ、隣に座るよう綱吉に促した。
 忙しく手を上下されて、彼は一寸だけ迷い、後ろを窺った。
「ツナ、ツナ」
「はいはい」
 だが同席しているもうひとりがどんな顔をしているかを確かめる前に、堪え性が無いディーノにせかさされて手を引かれた。
 仕方なく付近を置いて腰を落ち着かせると、突き刺さるような視線を背中に感じた。
 後が五月蝿いだろうと想像しつつ、スッと差し出されたものに目を落とす。ディーノが見るよう促したのは、写真だった。それも小型のアルバムに収められており、十枚近くあった。
 ひとまず受け取って、首を傾げた彼に目を細め、ディーノは屈託なく笑った。
「いいだろー」
「ああ、はい。そうですね」
 いったい何を羨ましがれというのか、未だ不明なままだったが、綱吉はとりあえずと適当に相槌を打ち、アルバムのページを捲った。
 表紙の次に現れたのは、真っ赤なスポーツカーを背景にしたディーノの姿だった。
 場所はイタリアだろうか、港の近くだ。ヨットが停泊しており、鴎が飛んでいた。車体に陽射しが反射して、とても眩しそうだ。ディーノも太陽に負けない笑顔を浮かべ、ピースサインをカメラに向けていた。
 次に出て来たのは、同じく車と一緒に写ったディーノだった。
 今度は車内だ。ハンドルを握り、同じくポーズを決めている。
 ぱらぱらと眺めたすべての写真に、ディーノがいた。
「どうだ?」
「旅行でもしてきたんですか?」
 得意げに問いかけられて、綱吉は閉じたアルバムを彼に返した。受け取ったディーノは、その切り替えしが不満だったのか大人気なく口を尖らせ、頬を膨らませた。
 見た目は立派な大人なのに、表情だけは綱吉と同じくらいか、もっと幼い。
 これでキャバッローネ・ファミリーを束ねるボスなのだから、世の中というものは本当によく分からない。
 膨れ面を向けられる理由が読めなくて、綱吉は首を右に倒した。ディーノは自分でアルバムを広げ、ほら、と写っている己を指差したが、綱吉にはさっぱり意味が分からなかった。
 後ろで見ていた雲雀が、堪えきれずに噴き出した。
「くっ」
「恭弥!」
 丸めた手を口元にやって、小刻みに肩を震わせている。振り返ったディーノが怒号を上げたが、彼はまるで意に介そうとしなかった。
 不思議そうにしている綱吉にしたり顔を向けて、顔を赤くしている青年をやおら指差す。
「車、買ったんだってさ」
「えっ」
「そうだよ、これ。これ!」
 雲雀に教えられて初めて気付いた綱吉は、ディーノが悔しそうに指差す写真を改めて見つめた。言われてみれば確かに、彼と写っている車はどれも同じで、真新しい色合いだった。
 よもや彼は、この事を自慢するためだけにわざわざ日本にやって来たのだろうか。早く着きすぎて綱吉が不在だったからと、沢田家から学校まで足を伸ばしてまで。
 平日昼間だったという理由で、雲雀は誰よりも先にディーノの相手をさせられた。それであんなにも不機嫌だったのかと、ドアを開けた時の彼を思い出し、綱吉は頷いた。
 町中を走ればさぞや目立つだろう真っ赤な車体を見ても、綱吉にはそれが何処のメーカーの、なんというシリーズのものかさっぱりだ。とりあえず高そうだが、具体的な値段は思い浮かばなかった。
 そもそも沢田家には、昔から車が無かった。
 だから話題に出るのも稀だし、興味を抱きもしなかった。
 いまいち反応が鈍い彼に駄々を捏ねて、ディーノはもっと他にあるだろう、と声高に叫んだ。
「なー、カッコイイだろ?」
「ああ、……そうですね」
 要するにそれを言って欲しかったのかと、綱吉は相槌を打ちながら心の中で嘆息した。
 半ば無理矢理言わせたようなものだが、ディーノはどうやら満足したらしい。荒い鼻息をひとつ吐き、ご満悦の表情を浮かべて白い歯を輝かせた。
 綱吉はまたも押し付けられたアルバムを膝に広げ、楽しげにしている写真の中のディーノを小突いた。
「な、ツナ。ドライブ行こうぜ」
「は?」
 そこへ横からいきなり言われて、彼は目を瞬かせた。
 聞き耳を立てていた雲雀も、移動した先の執務机でぎょっとした。
 ディーノひとりが興奮気味に、瑪瑙色の瞳を輝かせていた。
「いいだろ、な。な?」
「って、でも俺、まだ授業が」
「終わってからでもいいからさー」
 全部を言い切る前に矢継ぎ早に強請られて、綱吉は目を白黒させた。
 思わず雲雀の方を振り返ってしまうが、カーテンを開け放った窓から差し込む光の所為で、表情までは見えない。
 だが間違っても、上機嫌にしているようには感じられなかった。
 改めてディーノを見れば、にこにこと屈託なく笑っている。同席しているもうひとりに気兼ねしている様子は、皆目ない。
 どうしたものかと肩を竦め、綱吉はもう一度、写真の中の真っ赤な車に目を落とした。
 派手な色の、スポーツカー。さほど車に興味が無い綱吉でも、そのフォルムには心惹かれるものがあった。無駄を削ぎ落とした流線型で、車高は低いが中は意外に広そうだ。運転席と、助手席しかない二人乗りで、窓が大きい。
 沢田家には自家用車が無いので、綱吉はあまり乗った経験が無い。小学校や中学校の遠足でバスに乗ったことはあっても、友人の親の車に乗せてもらう、という経験は皆無だった。
 過去の交流関係を振り返って軽く落ち込んでから、ワクワクしつつ返事を待っている青年を仰ぎ見る。
「まさか、持って来たんですか?」
「おうよ!」
 写真の背景は、日本ではない。しかしドライブに誘ってくるところからして、わざわざイタリアから運んで来たのだろう。
 欧州の港から、船で地球をほぼ半周して、日本まで。たった数日の滞在の為だけに、どれだけの時間と費用が掛かったことだろう。
「無駄遣いだよね」
「そうですねー……って」
 心の声がそっくりそのまま後ろから響いて、相槌を打ってから綱吉はハッとして振り返った。ソファ越しに、窓辺に座る存在を見詰めて、苦虫を噛み潰したような顔をする。
 ムッとしたディーノに不敵な笑みを返し、雲雀は得意げに胸を張った。
「ヒバリさん」
 睨みあう両者を交互に見て、綱吉が不安げな声を零す。真っ先に名前を呼ばれた青年は、生意気という言葉に形を与えたかのような表情をして、頬杖をついた。
「大体、貴方の運転じゃ、車庫出しの途中で柱にぶつけて終わりだよ。公道に出る前にスクラップになるのが確実なのに、わざわざ高い金を払って買うなんて、馬鹿じゃない?」
 呆れ混じりに呟いて、あからさまに肩を竦めてみせる。珍しく饒舌な彼に唖然とした綱吉は、告げられた台詞の意味を理解すると同時にぷっ、と噴き出してしまった。
 それはまさしく、綱吉が思っていたことに他ならなかったからだ。
「ちょっ、恭弥。ひっでー! ツナまで笑うこたねーだろ」
「あはは、ごめんなさい。っていうか、ディーノさんって免許持ってるんですか?」
「持ってるに決まってんだろ!」
 腹を抱えて問いかけた綱吉に、彼は真っ赤になって反論した。胸を叩いて怒鳴り、ズボンのポケットに両手を突っ込んでなにやらガサゴソ始める。
 出て来たのは財布だった。二つ折りのシンプルなものを広げ、押し込まれていたカード類から一枚を選んだ彼は、それを得意げに、雲雀にも見えるよう高く掲げた。
 今よりちょっとだけ若いディーノの写真と一緒に、アルファベットでなにやら色々記されていた。どうやらそれが、イタリアの免許証らしい。
 それが日本で使えるのかどうかという疑問はひとまず脇に置いて、綱吉は渡された証明書を物珍しげに見詰めた。
「へえ……」
 読めないのでそれが本当に免許証なのかは分からないが、それっぽいのは確かだ。裏も確認して返却すると、彼は紛失しないよう、すぐさま財布にしまった。
「日本の交通ルール、分かってるの?」
「馬鹿にすんな。赤は止まれで、青が進め、だろ」
「……」
 一方、雲雀はまだ収まりが利かないようで、難癖つけるのを止めようとしない。
 尊大に言い返したディーノの台詞が、どうにも雲雀が質問している内容と外れている気がして、綱吉は苦笑した。
 放っておいたら、ずっとこの調子で喧嘩していそうだ。だが生憎と、綱吉にはもう時間が無い。壁の時計を見上げれば、午後の授業開始まであと十分を切っていた。
 教室に戻るのと、途中で手洗いに寄る分を加味すると、あと五分ほどしか応接室にはいられない。
 にわかにそわそわし始めた彼に気付き、ディーノが眉を顰めた。
「ツナ?」
「え? あ、えっと……ドライブ、でしたっけ」
 雲雀と喋っているとばかり思っていた人にいきなり呼ばれて、綱吉は妙に甲高い声を出してしまった。揃えた膝に両手を置いて背筋を伸ばし、わざわざ自分で話を元に戻してしまう。
 あのまま有耶無耶にしてしまえばよかったのに、と後から思ったが、もう遅い。
 彼の言葉にディーノはぱあっ、と目を輝かせた。
「そうそう、ドライブ。行こうぜ」
「いや、あの。俺、授業があるから」
「そんなの、サボっちまえよ」
 学校の中の、しかも泣く子も黙る風紀委員長の前で堂々とサボタージュを推奨しないで欲しい。困った顔で冷や汗を流した綱吉を他所に、ディーノは自分の発言にうんうん頷いた。
 綱吉がイエスもノーとも言わないのをいいことに、勝手に自分の提案が最良と決め付けてしまう。大きな手に手首を掴まれて、引っ張られた綱吉は面食らった。
「ディーノさん」
「なっ、いいだろ」
「ちょっと待ちなよ」
 抵抗して反対方向に身を引いた綱吉をなおも引っ張り、ディーノが破顔する。そこへ後方から、痺れを切らした雲雀が怒鳴った。
 椅子を蹴り飛ばして立ち上がった彼は、勢い良く両手を机に叩きつけ、大きな音を響かせた。
「僕の生徒に、勝手なことしないでくれる」
 目を吊り上げて怒り心頭に叫んだ雲雀に、ディーノは怪訝な顔をした。綱吉も、告げられた言葉の意味が即座に理解出来ず、真ん丸い目を点にした。
 いつから綱吉は、雲雀の生徒になったのだろう。
 不思議そうに顔を見合わせる両名に嘆息し、雲雀は神経質な手つきで机の縁を小突いた。
 人差し指を下向けて、足元を指し示す。つられて自分の爪先を見た綱吉へ盛大な溜息を零し、雲雀は艶やかな黒髪を掻き上げた。
「並中は、僕の学校だ。そしてその子は、並中の生徒だ」
「ああ」
 うっかり納得しかけて、その論説は色々と突飛だと後から気付き、綱吉は頬を引き攣らせた。
 そもそもいつから、並盛中学校は彼の所有物になったのだろう。学校とは公共の場であり、公共の建物であり、一介の中学生が個人所有できるものではない筈だ。
 だのに雲雀が言うと、奇妙にも説得力を感じてしまう。
 それとも単に自分が感化されすぎているのかと、綱吉は心の中で首を捻った。
 彼の疑問を知りもせず、雲雀はふふん、と鼻を鳴らしてディーノに勝ち誇った顔を向けた。対する金髪の青年は、年下相手に大人げなく悔しがり、歯軋りして拳を硬くした。
「べっつに、いいじゃねーか。ちょっとくらいよ」
「沢田綱吉、もうじき授業が始まる。そんな馬鹿は放っておいて、さっさと教室に帰りな」
「無視すんな、恭弥!」
 口を尖らせるディーノには構わず、雲雀は綱吉に向かって手を振った。犬猫を追い払う仕草だったが、いつものことなので格別気にする事もなく、綱吉は遠慮がちに腰を浮かせた。
 だがすかさず立ち上がったディーノに道を塞がれて、部屋を出るに出られない。
 困ってしまって頬を掻いていたら、言い負かされる一方だった青年が不意に、不遜に笑った。
「そうか。分かったぜ、恭弥」
「ディーノさん?」
 にやりと口角を歪め、大らかで朗らかな彼らしからぬ表情を作る。そうしてやおら綱吉の肩を抱き、傍らに引き寄せた。
 力技でこられては、綱吉は対抗できない。急いで逃げようと足掻いたものの、大きな手にがっしり掴まれてしまって動けなかった。
 じたばたする華奢な彼を懐に抱え込み、雲雀が露骨に眉を顰める様を見て、ディーノは意地の悪い表情を作った。
「お前は、車、運転できないもんな。ツナとふたりっきりでドライブにいける俺が、羨ましいんだろ」
 嫌味たらしく言い放ち、見せ付けるように綱吉をぎゅっと抱き締める。抱えられた方は肋骨を圧迫されて息苦しくてならず、首を振って抗うものの、ディーノはまるで気付いてくれなかった。
 半袖のシャツからはみ出た腕を掴んで引っ掻くが、どうやらそれも、彼には甘えているように思えたらしい。後ろから頬擦りされて、擦られた皮膚が摩擦で痛んだ。
「ディーノさんってば」
「な、いいだろ。行こうぜ、ツナ。すんげー楽しいからさ」
 正直言えば、ロマーリオたちが不在の中でディーノとドライブに行くのは恐い。部下がいないときのディーノのドジっぷりは綱吉のはるか上を行く。それこそ雲雀の言う通り、車庫から出すだけで廃車にする勢いだ。
 だのに当人は、そうなる危険性をまるで考慮に入れていなかった。行こう、行こうと繰り返して、首を縦に振るまで放してくれそうにない。
 苦しさに喘ぎ、束縛を逃れようと暴れていた綱吉は、ふとひんやりした空気を感じ、冷たい汗を流した。
「ん?」
 急に大人しくなった彼に目を瞬き、ディーノが今になってやっと腕の力を緩めた。だがホッと息を吐くことすら出来ず、綱吉はヒクリと頬を痙攣させた。
 執務机を前にして、雲雀が今にも飛びかからん勢いでトンファーを構えていた。
「ひぃぃぃ!」
 恐怖に負けて竦みあがり、綱吉は咄嗟にディーノの背中に隠れた。背の高い、肩幅も広い青年は怯えて小さくなった少年の突然の動きに翻弄されて、首を後ろに、前にと忙しく動かした。
 そうしてやっと、どす黒いオーラを放っている青年の存在を知り、顔を引き攣らせた。
「お、おい。きょう……や?」
「咬み殺す!」
「ぎゃあ!」
 落ち着くよう諭しかけるが、既に遅い。彼は一足飛びに机を乗り越え、ディーノに向かって銀のトンファーを一閃させた。
 発作的に受け止めようとして失敗して、見事額の真ん中に鉄の棒をめり込ませた青年は、両手を叩き合わせたポーズのまま後ろ向きに、綱吉を巻き込んで倒れた。
 もう少しで押し潰されるところで、蜂蜜色の髪の少年はほうほうの体で脱出し、ようやく人心地ついたと胸を撫で下ろした。
 見れば時計の針は、チャイムが鳴る五分前に達しようとしていた。
「いって、て、て~」
 強烈な一撃を喰らっても尚、ディーノは気を失うようなことは無かった。両手で出来上がったばかりのたんこぶを押さえ、呻きながら身を起こす。テーブルに寄りかかって座る青年を睥睨し、雲雀は若干痺れている右腕を振った。
 トンファーの切っ先を突きつけられて、ディーノが年甲斐もなく頬を膨らませた。
「なにしやがる!」
「僕の前で群れた罰だよ」
 罵声に対してもまるで動じず、平然と言い返し、雲雀は口を尖らせた。
 雲雀恭弥は、人が群れるのを嫌う。彼の性格の根幹を成す部分をすっかり失念していた青年は絶句し、苦虫を噛み潰したような顔をして肩を落とした。
「それに、僕は別に羨ましがってなんかないよ」
「お?」
「車なんて、あんな群れてばっかりの乗り物、頼まれたってお断りだね」
 音もなくトンファーを引き、ふてぶてしく言い捨てた雲雀に、綱吉もディーノも目を丸くした。
 いったい車の何処が、群れている乗り物なのだろう。確かに余程でない限り、車には複数人乗り込める。一度に大人数を運べるというのが、四輪者の利点なのだから当然だ。
 それとも長期休暇時などによく見られる、乗用車の長蛇の列――つまるところ渋滞が、彼の目には群れているように見えるのだろうか。
 首を捻る綱吉を一瞥して、雲雀はトンファーを片付けた。床に座り込んでいる青年に、いい加減きちんとソファに座るよう顎で促し、空になった両手は腰に据える。
 綱吉としてはいい加減部屋を辞したかったのだが、雲雀の発言が気になって動けない。時計と交互に見詰められて、黒髪の青年は不機嫌に口を尖らせた。
「バイクの方がずっと良い」
 後部座席にひとり乗せられるけれども、基本的にバイクは一人乗り。
 どれだけ渋滞していても、隙間を縫うようにしていけば、ある程度は先に進める。
 腕を組んで居丈高に言い放った彼に絶句して、綱吉は数秒後、ぷっ、と噴き出した。
「ム」
「ツナ?」
 唐突にケラケラ笑い出した彼を怪訝に見て、雲雀とディーノがほぼ同時に声を出した。それが殊更可笑しくて、綱吉は更に声を高く響かせると、腹を抱えて苦しそうに息継ぎした。
 濡れてもない目尻を拭い、垂れそうになった涎を飲み込んで深呼吸をひとつ。
 眉を顰めているふたりを順に見て、
「いいなー」
 なにが、という説明もないままにそれだけを言った。
 意味が分からず、ふたりは首を傾げた。お互いに顔を見合わせて、目があった瞬間互いにそっぽを向いてしまう。
 そのタイミングもぴったり揃っていて、綱吉はまた楽しそうに笑って胸を撫でた。
「小動物」
 大きく息を吸って吐いた彼に肩を竦め、雲雀が顎をしゃくった。
 風紀第一の人だから、予鈴が鳴ったら問答無用で綱吉を追い出しにかかりかねない。そうなる前に、と綱吉は壁時計を一瞥してから上唇を舐めた。
 ソファの上で耳を欹てている青年にも視線を向けて、両手を背中に隠してはにかむ。
「だって、ふたりとも自由に乗り回せる乗り物があるんだもん。俺、そういうの、ないから」
 自転車だって、長いこと乗っていない。運転出来るようになったのは小学校にあがってからで、それだってあまり得意ではない。
 だから綱吉の行動範囲は自宅の周辺、せいぜい三キロ圏内。遠出をするには公共の交通機関を利用しなければいけないが、その運賃を払うのは正直惜しかった。
 車やバイクの維持にどれくらいの費用が必要かを、綱吉は知らない。
 呑気に言ってのけた彼にぽかんとして、はたと我に返ったディーノは自分を指差して勢い良く身を乗り出した。
 瑪瑙色の瞳で熱心に綱吉を見詰めて、
「だったらさ、余計にさ。行こうぜ、な!」
 にわかに元気を取り戻した彼を不快げに見下ろし、雲雀が拗ねた表情で綱吉を睨む。蜂蜜色の髪の少年は苦笑を浮かべて首を竦め、小さく舌を出した。
「そうですね。ロマーリオさんや、うちのチビたちも一緒なら、喜んで」
「え……」
「俺だけなんて、不公平ですよ」
 言って、綱吉はちらりと雲雀を見た。彼は腕組みしたまま明後日の方向を見ていた。
 ディーノは落胆をありありと顔に出し、しょんぼりしながら右手を下ろした。もう二十台も半ばだというのに、哀しみに瞳を曇らせて鼻を愚図らせる。
 写真で見る限り、彼の車は二人乗りだ。運転席と助手席しかないので、綱吉の願いを叶えたければもっと大型の、ワゴン車でも借りてくるしかない。
 角が立たないようやんわりと断った綱吉は、落ち込むディーノに心の中で手を合わせて後退した。彼が立ち上がって手を伸ばしても届かないところまで移動して、もう一度雲雀を見る。
 物言いたげな視線を向けられたが、彼は結局、最後まで何も言わなかった。
「じゃ、俺、授業あるんで。ディーノさん、また後で」
 どうせ彼は綱吉の家に泊まるのだろうから、授業が終われば一緒に帰れる。それで我慢してもらうことにして、綱吉はチャイムが鳴るのにあわせて応接室のドアを開けた。
 素早く廊下に出て、忙しく閉める。隙間から見えた雲雀はもう綱吉を見ておらず、手元で何かを操作していた。
 もうトイレに寄っている暇はない。結局何をしに応接室に行ったのか、自分でも良く分からないまま、綱吉は自分のクラスへ戻ろうと小走りに駆け出した。
 だが。
「ん?」
 階段の手前でポケットが震えて、彼は首を捻りつつ足を止めた。スラックスから携帯電話を引き抜き、周囲に注意しながら恐る恐る画面を開く。
 新規着信メールを選択してボタンを押せば、簡素極まりない文章がモニターを飾った。
「今度、……一緒に」
 バイクで何処かへ行こう。誰にも、内緒で。
 声に出して読み上げて、綱吉はハッと後ろを振り返った。人気のない廊下はがらんどうとしていて、風さえ吹かず、静かだった。
 その中で、心臓がドクンと大きく脈打った。
 もう一度画面に目を落とし、簡潔すぎる一文に見入る。彼の脳裏に、忙しく親指を動かしていた雲雀の姿が蘇った。
 頬が勝手に紅潮して、期待と興奮に胸は高まるばかり。心地よい息苦しさを覚え、綱吉は風紀違反も恐れずに走り出した。

2011/05/02 脱稿