黙契

 さらり、と柔らかな布が頬を擽った。
「む、う……」
 綱吉は小さく呻き、鼻の穴を半分塞いだ邪魔者を手で追い払った。うつ伏せに横たわり、枕に額だけを埋めて、身じろぐ。
 目を閉じたまま瞼をひくひくさせて、彼は首を振った。頭まですっぽり被っていたタオルケットがずり落ちて、右側に偏った。左肩が露出し、寒気を覚えたのか、小さなくしゃみが出た。
「っしゅ」
 喉を震わせて声を零し、身体の下に埋めていた手をもぞもぞ伸ばしてタオルケットを探す。しかし指は空を掻くばかりで、目当てのものにはなかなか辿り着けなかった。
 顔を顰め、鼻を愚図らせる。また押し寄せてきた寒気に身震いして、彼は長く閉ざしていた唇を薄く開いた。
 ほうっと息を吐き、眉間に寄せた皺を伸ばす。
「……う?」
 夢うつつのまま瞼を持ち上げ、飛び込んできた光の眩しさに嫌々と首を振る。ようやく探り当てた布団を引っ張りあげて陽光を遮断すれば、懐かしい闇が彼を包み込んだ。
 カーテンは半分開き、日差しを受けた空中の埃がきらきらと踊っていた。窓は閉まっているので、風はない。
 何度か瞬きをして深呼吸をして、首を振って枕に右耳を押し当てる。隙間から覗いた景色は穏やかで、昨日までとなんら変わってはいなかった。
 昨晩眠りに就く前に、カーテンは閉めたはずだ。いったい誰があけたのかと、傍迷惑な同居人の顔を思い浮かべて、枕に突っ伏す。
「うぅー」
 耳を澄ますと、色々な音が聞こえて来た。
 時計の針の音、外を走る車のエンジン音、小鳥の声に、階下で騒ぐ子供達の足音。
 地鳴りのように微かに響くのは、洗濯機が回る音だろうか。他にも様々な音色が静かに、時に五月蝿く、鼓膜を叩いた。
「……ふ、あ……」
 大きく欠伸をして、寝足りない頭を抱えてごろん、と寝返りをひとつ。天井を向いた途端に、窓から射す光の量が増えた気がした。
 眩しさに顔を顰め、嫌々と首を振って壁に向く。左を下にした彼は、ふと、なにか大切な事を忘れている気がして口を尖らせた。
 とても重要で、決して忘れてはならないと、寝入る直前まで強く自分に言い聞かせていた。そこだけは覚えているのに、肝心の、何を忘れるべきでないかという、その点だけがどうしても出てこなかった。
 喉に魚の小骨が刺さったような、取れそうで取れないじりじりとした感覚が背中を這いずり回る。鬱陶しくて、少しでも早く解決したいのに、ちっとも頭は働かない。
 十年前の記憶でなし、たった数時間前のことがどうして思い出せないのか。自分自身に苛立って、綱吉はハッと目を見開いた。
「そうだ!」
 寝入っていた脳細胞に電流が走る。閃いて、彼は被っていた布団を跳ね飛ばして身を起こした。
 天井にぶら下がったハンモックは無人で、タオルケットも綺麗に畳まれて片付けられていた。黄色いおしゃぶりをぶら下げた赤ん坊の姿は、探したけれど何処にも見られなかった。
 ただ、今はカーテンを開けた犯人の行方について論議している時ではない。
 そう、時間が無いのだ。
「時計、目覚まし……って、げげ!」
 体感的に、もう日が昇ってからかなり過ぎている。充分な睡眠時間が確保されたからだろう、身体は思いの外軽かった。
 枕元に埋もれていた目覚まし時計はひっくり返っており、文字盤は下を向いていた。急いで掴んで、丸みを帯びたフォルムのアナログ時計を顔の前に持って行き、コチコチ動く針を食い入るように見詰める。
「はちじ、にじゅう、ろっぷん……」
 言葉を覚えたての子供でも、もっとハキハキと喋るに違いない。なんとも舌足らずなたどたどしい口調で現在時刻を読み上げて、彼はくらりと来た頭を慌てて振り回した。
 左を見て、右を見て、またも左を向いて、ひやりと冷たい汗を流す。
「うそ」
 なんとも信じ難い現実に打ち震え、壊れているのではないかと時計を振ってみるものの、秒針は着実に前に向かって進んでいた。
 背伸びをして、壁から迫り出している棚に置いたコンポの表示も確かめる。こちらはデジタル表示で、明滅する数字は赤い目覚まし時計と全く同じ時間を表示していた。
「嘘」
 同じ台詞を繰り返し呟いて、彼は顔面、真っ青になった。
 サーっと血の気が引いていく。始業のチャイムがなるまで、何ということだろう、あと十分足らずしか残されていない。
 ギシ、とパイプベッドが軋んだ。蹴り飛ばしたタオルケットが凹んで、敷布団に沈んでいった。
 パジャマのまま右往左往する彼を他所に、コンポの時計が一分、進んだ。
「ひぎゃぁ!」
 カチリ、と現実には響かなかった音を聞いて、綱吉は素っ頓狂な声をあげた。
 意味もなくタオルケットを掴んで放り投げて、ベッドを飛び降りる。敷き詰めたラグを素足で踏み荒らして落ちていたゴミを蹴散らし、大股で進んでクローゼットを両手で開く。
 乱雑に積み上げられた箱に、袋。一部が崩れて転がり落ちてくるのも無視して、彼は中に突っ込んでいた制服をハンガーごと引っ張りだした。
「遅刻だ、遅刻! 大遅刻! どうしよう、ああ、もう! なんで鳴らなかったんだよ!」
 じたばたと見苦しく足踏みをして、急ぎパジャマのボタンを外していく。ズボンを脱いで、大急ぎで取り出した並盛中学校の制服に着替える。
 カッターシャツは手近なところにあった、恐らくは一度着用して放置していたものを拾って、袖を通す。皺が寄っており、あまつさえ少し汗臭かったが、この際贅沢は言っていられない。
 靴下は、左右で丈の長さが違った。が、こちらも構っている暇はない。
「ええいっ」
 どうせスラックスで見えないのだから、と自分に言い訳をして、ネクタイと鞄を引っつかむ。
 ベージュのジャケットを羽織り、慌しくドアを開けて廊下へ出る。
 時計の針は間もなく八時半に到達する。朝食を摂るどころか、顔を洗う余裕すらなかった。
「遅刻、遅刻しちゃう。遅刻、遅刻だ」
 他に言うことはないのか、というくらいに同じ単語を繰り返して、彼は二段飛ばしで階段を駆け下りた。最後の一段で着地に失敗し、滑って転びそうになったがぎりぎり堪える。
 玄関は明るく、人数分の靴がきちんと揃えて置かれていた。
 既に息が切れて、心臓は爆発寸前だった。
「あら、ツナ」
「母さん、なんで起こしてくれなかったのさ。行って来ます!」
 ドタバタと騒音を撒き散らす彼に、台所から顔を出した奈々が声をかける。目を丸くして驚いている彼女に大声で恨み言を言って、綱吉は通学靴に爪先を押し込んだ。
 踵を踏んでスリッパ状態にしたまま、玄関のドアを押し開けて外へ。
「ちょっと、ツナ。今日は」
 奈々が慌てて声を張り上げたが、綱吉の耳には届かない。騒々しく出て行ってしまった息子の焦った姿に、彼女は呆れ顔で溜息をついた。
 母が何か言いかけていたのも知らず、綱吉は晴れ渡る空の下を全力疾走で駆け抜けた。
 道は空いており、通行人も少ない。車の来ない道を、猫が堂々と横切っていく。上を見れば白い雲がのんびりと漂い、鳥の囀りが何処からともなく聞こえて来た。
 綱吉は息を弾ませ、苦手な犬がいる家の前はなるべく避けるようにして、学校へ急いだ。
 中学校までは、どんなに急いでも十分はかかる。部屋を出る直前に見た時計が正しいとして、ぎりぎりセーフか遅刻かの瀬戸際だ。
 体力に乏しく、運動神経はないに等しい彼だ。直ぐに足は疲弊して、軟弱な精神は休むよう指令を下す。それを力技でねじ伏せて、綱吉は涙を堪えて風を切った。
 既に生徒の殆どは登校を終えた後なのか、通り過ぎた道のどこにも制服姿の人影は見られなかった。
 自分ひとりだけ遅刻して、風紀委員に捕まって説教、挙句反省文の提出と罰掃除。最悪な展開を想像して背筋を粟立て、彼は緩みそうになった足を必死に前に運んだ。
 信号に引っかかっていては、間に合わない。心を鬼にして、いるかどうかも分からない神様に懺悔して、左右どちらからも車が来ないのを確かめてから横断歩道を渡る。
 無事反対側に到着した直後にプーッ、と音がしたが、振り返らない。
「ひっ、は、は、ひぃー」
 熱い息を吐き、汗を滴らせてアスファルトを蹴り飛ばす。住宅の屋根の向こうに、中学校の校舎が見え始めた。
 もう少しで着く。チャイムの音はまだ聞こえない。
「まに、あ、う……かっ」
 本当にぎりぎりだ。この一歩が長いか、短いかの差ひとつで、待ち受ける世界が天国か地獄かが決まる。
 待ち構える風紀委員の列を想像して震え上がり、歯を食い縛って彼は走った。
 学校をぐるりと囲む白い壁沿いに道を曲がり、正門を遠くに仰ぐ。人影は依然見えず、始業開始前だというのに学校はやけに静かだった。
 ここで気付けたら良かったのだが、生憎と綱吉は遅刻、という悪夢に取り付かれて他の事は一切考えられなかった。だらだらと汗を流し、全力疾走して正門へと滑り込む。
「うがっ」
 そうして目の前が鉄門で塞がっている現実に、目を瞬いた。
 勢いに乗って通り抜けようとしただけに、綱吉は慌てた。急いで両足で踏ん張ってブレーキをかけ、両手を伸ばして顔との間に鞄を差し込む。
 正面衝突をすんでのところで回避して、彼は口から飛び出そうになっていた心臓を唾と一緒に飲み込んだ。
 ひゅるる、と冷たい風が後ろを通り過ぎて行った。舞い上がった枯葉が一枚、立ち尽くす彼を慰めるかのように足元に落ちた。
「……へ?」
 並盛中学校の正門は、閉まっていた。鎖で結ばれて、外れないよう南京錠で固定されている。
 ぶら下がるくすんだ金色の鍵を呆然と見詰めて、彼は間抜けに口を開いた。
「え?」
 これはどういう事なのだろう。理解が追いつかず、棘だらけの頭からは無数のクエスチョンマークが零れ落ちた。
 目を点にして立ちつくしていたら、偶々後ろを通り掛った女性二人組みが、綱吉を見てクスクス笑い出した。小突きあうふたりを怪訝に振り返り、今一度静寂に包まれた学校を見る。
 嫌な予感がして、彼は頬を強張らせた。
「え、っと」
 目覚ましは、鳴らなかった。
 大慌てで家を出る間際、奈々は何かを言いかけていた。
 制服は、クローゼットに突っ込まれていた。翌日授業がある日は、起きて直ぐに着替えられるように外に吊るしておくのが常なのに。
「あ、あれ?」
 なにかがおかしい。
 なにかがずれている。
 無人だったハンモック。綱吉が寝坊しようものなら容赦なく拳銃をぶっ放してくる赤子も、今日に限って放置だった。奈々も起こしにきてくれなかった。
 カレンダーを思い出す。昨晩、寝入りしなに呟いた呪文が蘇る。
「今日って、もしかして」
「なにやってるの、君」
 夢うつつの中で繰り返したのは、明日は昼まで寝るぞ、の幸せすぎる言葉。
 今の今になって思い出した彼の耳を、甘いテノールが擽った。
 真っ白く濁った視界に、黒髪が紛れ込んだ。頑丈な鉄門越しに、腕章を留める安全ピンがきらりと輝く。
 見えているのに見ていない綱吉に眉を顰め、声の主は正面まで移動した。柵があるとはいえ、視界は開けている。試しに手を振ってみると、鞄を抱きかかえた少年はハッとして、忙しく目をぱちぱちさせた。
 琥珀色の瞳を大きく見開いて、現れた青年におっかなびっくり飛びあがる。失礼な反応に顔を顰め、学生服を羽織った青年は胸の前で腕を組み、不満げな表情を作った。
 切れ長の目を眇めて見下ろされて、綱吉は内股気味に膝を畳み、もぞもぞと身を捩った。
「あの。あれ、俺……」
 並盛中学校風紀委員長、雲雀恭弥。
 彼が学校に来ている、ということは授業が始まっている、という事なのだろうか。
 しかし見上げた校舎は静まり返り、聞こえてくるのは鳥の声くらい。高らかと、それでいてちょっとばかり音を外して校歌を謳い上げ、黄色い羽根を閉じた小鳥が綱吉の頭の上に落ちてきた。
 ぼふっと沈んでこられて、彼は咄嗟に首を竦めた。
「わっ」
「なにしてるの」
 果たして雲雀は、誰に質問したのだろう。綱吉か、それとも跳ね放題の髪の毛を巣と勘違いした小鳥にか。
 判断がつかなくて、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。口をヘの字に曲げて鼻を膨らませ、恨めしげな眼差しを前方に投げる。
 小生意気な視線に肩を竦めて笑い、雲雀は鍵がかけられた正門前から退いた。門扉の影に隠れてしまう。おや、と思っている間に、その横の非常用扉が内側から開かれた。
 キィ、と蝶番が軋む音に続いて、見えなくなっていた顔がひょっこり現れた。
「いつまで其処に居るつもり?」
 正門は、始業時間が来たら閉められる。不審者が入って来ないための防御手段だ。
 だが鎖で縛って鍵を掛けているところは、あまり見た事が無い。いつもこんな面倒臭い事をやっているのかと思いつつ、綱吉は不躾にいった雲雀に頷き、狭い通用口を潜り抜けた。
 雲雀が戸を閉めて、鍵を掛ける。手馴れた感じのする彼をぼんやり眺めて、綱吉は随分と軽い鞄を右手にぶら下げた。
 急いでいたので中身を入れ替える暇もなかった。
 頭の片隅に嫌な予感を残したまま、彼は持って来たものを確認しようとファスナーに手を掛けた。その間に雲雀は踵を返し、校舎に向かって歩き出した。
「あ」
「早くおいで」
「え?」
 動く影に気を取られた綱吉に、すれ違いざまに言う。
 頭に小鳥を乗せたまま、綱吉はぽかんと間抜けな顔で彼を見送った。
 綱吉がこれから向かうべき場所は教室で、今更案内は必要ない。だのに雲雀は彼が追いかけてこないと知ると、校舎から突き出た庇の下で足を止め、斜めに振り返った。
 急かされて、綱吉は首を傾げた。が、従わずに居ると殴られそうで恐くて、渋々後ろにつく。
 上履きに履き替えるべく玄関を潜れば、空気は外よりもずっと冷えていた。
「……あれ」
 日頃から雑然としている空間は、水を打ったように静かだった。人の姿が見えないどころか、大勢が通り抜けた後の賑やかさの名残さえまるで感じられない。
 いよいよ不安を強め、綱吉は薄っぺらな鞄を強く抱き締めた。
「あの」
「赤ん坊から話は聞いてる」
「え」
 何故此処でリボーンが出て来るのか。前を見たまま言った雲雀に素っ頓狂な声をあげ、綱吉は目を点にした。
 伸び上がった彼の頭上から、黄色い小鳥が飛び立った。羽根を広げて悠然と空に舞い上がり、天井すれすれのところを旋回する。
 機嫌よく歌う鳥を一瞥し、雲雀は驚いている綱吉に目を眇めた。微笑んでいるようにも見える表情は、けれど一瞬で掻き消えた。
 きょとんとしている少年を置き去りに、彼はまた歩き出した。スノコの上で上履きに履き直して、人気のない廊下をゆっくり進んで行く。歩調は、綱吉に合わせているようだった。
 駆け足で追いかけようとして、前を行くのが誰なのかを思い出して慌てて出した足を引っ込める。
 そろり、音を響かせないよう気をつけながら、早歩きで後ろに続く。
 小鳥は速度を上げて二人を追い抜き、減速して雲雀の肩に着地した。
「あの、ヒバリさん」
 静まり返った校舎、誰も居ないグラウンド。
 間違っても土曜日や日曜日ではない。昨日は火曜日だったことくらいなら、綱吉も覚えている。
 だのに、誰ともすれ違わない。
「今日って、もしかして」
「顔、洗っておいで」
「どうしてそれを」
 恐る恐る問いかければ、話をすりかえられてしまった。
 男子トイレの前で立ち止まった彼に言われて、綱吉は首を竦め、口を尖らせた。
 不敵に笑い、雲雀が振り返る。ポケットに手を入れて携帯電話を取り出して、顔の前で揺らす。
 黒色のフォルムを視界に収め、綱吉はムスッと黙り込んだ。
 見た目に反して凶悪極まりない家庭教師の名前が出たところから、そんな予想はしていた。綱吉が時間ぎりぎりに到着する事を、あの赤子が伝えていたのだろう。ナイスタイミングで雲雀が正門前に居たのも、それなら納得が行く。
 顔を洗っていないのも、朝食を摂ってもないことも、全部筒抜けだと思っていい。
 意地悪い顔をしている風紀委員長を睨み返し、綱吉はリスのように頬を膨らませた。
 全力疾走で乱れた息もすっかり元通りになり、心拍数も平常値に戻った。眠気も完全に何処かへ消え去り、学校がほぼ無人の理由も自然と思い出された。
 今すぐ回れ右をして、家に帰りたい。
 だがにこやかに笑む雲雀は、それを許してくれそうになかった。
「君がそんなに学校が好きだなんて、知らなかったよ」
「俺も、今日初めて知りました」
「創立記念日にまで登校してくるなんて、感心だ」
「……そうですね」
 学校全体が静まり返っていて当然だ。今日は平日だが、並盛中学校のカレンダーは休日扱いなのだ。
 間違えないよう、昨晩あれだけ自分に念押しして眠ったというのに。まるで意味がなかったと頭を抱え、綱吉は前方で満足げにしている雲雀を盗み見た。
 小鳥の居場所は、いつの間にやら彼の指先に移り変わっていた。
 楽しげに、並盛中学校の校歌を口ずさんでいる。雲雀が歌って聞かせて、教えたのだと思うと、不思議な気がした。
 彼がマイクを手に歌うところが想像出来ない。彼はそういう、浮ついたことは嫌いだと勝手に思い込んでいた。
「……ん?」
「どうしたの」
 動かない綱吉を急かし、雲雀が顎をしゃくった。早く顔を洗ってくるよう言って、痺れを切らして戻って来る。
 目の前まで来られて、綱吉は琥珀色の瞳を真ん丸に見開いた。
 雲雀の携帯電話は、設定が変更されていなければ、校歌だ。過去に一度だけ聞いた事がある。
 だがそんな事はどうでも良かった。気になったのは、もっと別のことだ。
「ヒバリさんって」
「なに」
「リボーンは、ヒバリさんの電話番号、知ってるんだ」
 遠いところを見詰めた綱吉がボソリと言って、俯く。
 話しかけたというよりは、独り言に近い。どう返すべきかで迷い、雲雀は頭上に舞い上がった鳥の行方をなんとはなしに眺めた。
 創立記念日で授業がないとはいえ、風紀委員に休みはない。今日も早くから、委員長である彼は学校に出向き、校内に異常が無いかどうかを確かめて回った。
 夜間に侵入した輩はないか。窓は割られていないか。学校の備品は壊されていないか、などなど。
 それが終われば、別の仕事が待っている。休日とあって、学外で群れを成す輩も大勢いるから、町内の見回りは必要不可欠だ。
 そんな忙しい彼の携帯電話を鳴らしたのが、リボーン。
 黄色いおしゃぶりを首にぶら下げた、最強のヒットマンを自称する赤ん坊だ。
 リボーンが雲雀を高く買っているのは知っていた。雲雀も、並々ならぬ強さを秘める不思議な赤子を気に入っていた。
 彼らが綱吉の知らないところで交流を持っているというのも、薄らと感じていた。だがまさか、お互いの携帯電話の番号を交換しているとまでは、思っていなかった。
「そうだけど?」
 何故そんな事を言うのかと、雲雀は右の眉を持ち上げた。
 ポケットの上から携帯電話を撫で、リボーンからの電話の内容を思い出す。
 馬鹿が一匹そちらに行ったので、捕獲してくれと頼まれた。
 朝食に手をつけるどころか、顔すら洗わずに飛び出して行ったから、かなりみすぼらしいことになっているだろう、とも。
 実際、綱吉は酷い有様だった。髪の毛は寝癖の影響もあり、いつも以上に爆発していた。ジャケットの中に着込んだシャツは皺だらけでよれよれで、ネクタイもしていない。
 ついでに言えば、ボタンも掛け違えている。
 よくぞそんな風体で此処まで走ってこられたものだ。トイレに入って鏡を見た瞬間、綱吉がどんな顔をするか、想像するだけで面白い。
「君の事、頼まれたよ。折角学校に来たんだ。勉強熱心な君に免じて、今日は一日、僕が臨時教師をしてあげる」
「……うげ」
 右手を腰に当て、雲雀が不遜に言い放った。
 なんて余計な事をしてくれたのかと、綱吉は即座に顔を青くしてお節介な家庭教師に悪態をついた。
「僕じゃ不満?」
 その態度を勘違いしたか、雲雀が声を潜めた。彼は弾かれたように顔を上げると、大急ぎで首をぶんぶん横に振った。
 飛んで行きそうな勢いの彼を笑い、雲雀が目尻を下げる。滅多に見るのも叶わない笑顔に騒然として、綱吉は中身の少ない鞄をぎゅうう、と抱き締めた。
「う」
 直後、ぼすっと覚えのある重みが頭の天辺に落ちてきた。
「カミコロス、カミコロス」
 どこで誰に教わったのやら、物騒な台詞を甲高い声で繰り返す小鳥に首を竦め、綱吉はあっさり無表情に戻ってしまった雲雀を盗み見た。
 機嫌を損ねた彼に殴られるのが嫌で首を振っただけなのに、あんな表情を見せられたら、断らなくて良かったと思ってしまうではないか。
 群れるのを極端に嫌い、人の話に一切耳を傾けない、傲岸不遜を絵に書いたような彼なのに、リボーンの頼みならば素直に聞くのか。知らないところで繋がりあっていたふたりの絆を思うと、何故だか胸の奥底がチリチリして、むずむずして、もぞもぞした。
 落ち着かなくて、膝の左右をぶつけ合わせ、綱吉は小鳥を頭に乗せたまま背筋を伸ばした。
 雲雀のことは、リボーンが日本に来る前から知っていた。
 それなのに、いつの間にか彼の方がこの人と親しくなっていた。
 それが悔しくて、ちょっと、ムカついた。
「分かったら、さっさと顔、洗ってきなよ」
 視線でトイレへ行くよう指示を出した雲雀を無視し、綱吉は唇を戦慄かせた。
「俺も」
 競い合うようなことではない。それくらい、分かっている。
 だけれど、思わずにいられない。卑小すぎる自分の心を恨めしく思いながら、彼は目を瞬いた雲雀を睨んだ。
 淡い琥珀色の瞳を僅かに潤ませて、鼻を愚図らせる。急に表情を変えた綱吉に吃驚して、雲雀は息を飲んだ。
「俺も、ヒバリさんのケータイ番号。欲しい」
「……え?」
「リボーンだけ、ずるい」
 頬を膨らませた彼の台詞に、目が点になる。
 唖然としてしまって、二秒後我に返った雲雀は口元をパッと手で覆い隠し、こみ上げてくる色々なものを無理矢理喉の奥へ推し戻した。
 力技でねじ伏せた彼を知らず、綱吉は爪先を立てて上履きで床を蹴った。そっぽを向いて、負けず嫌いの顔を覗かせる。
 声を立てて笑いたいのを必死に我慢して、雲雀は頭を鳥の巣にしている彼に肩を竦めた。
「だって君、持ってないじゃない」
「ふがっ」
 淡々と事実を指摘してやれば、彼は盛大にショックを受けて仰け反った。真ん丸い琥珀を零れ落ちそうなくらいに見開いて後、鳥が飛び去るのを待って姿勢を正す。言いたい事があるのに言葉が見付からない、そんな顔をして、上目遣いに雲雀を見る。
 ねめつけられても、ちっとも恐くない。
 愛らしくもある表情に苦笑を零し、雲雀は手を伸ばした。とんでもない方向を向いている、蜂蜜色の髪の毛にそっと触れる。思う以上に柔らかな質感に内心驚きながら、わしゃわしゃとかき回す。
 ただでさえぐちゃぐちゃなところをもっと酷い有様にされて、綱吉は膨れ面で彼の手を跳ね除けた。
 後退して、距離を取って威嚇する。小動物のくせに肉食獣に刃向かう姿に目を細め、雲雀は肩を竦めた。
「持ってないのに、知って、どうするの」
 雲雀と綱吉は、普段の生活で殆ど接点を持たない。
 せいぜい遅刻の罰掃除を言いつけられるだとか、反省文の提出を迫られるだとか、その程度だ。
 本日遅刻します、とわざわざ電話で先に伝えるのも滑稽な話だ。
 聞かれて、綱吉は押し黙った。唇を真一文字に引き結び、眉間に皺を寄せて巧い理由を考える。
 三十秒待って、雲雀は小首を傾げた。
「沢田綱吉?」
「だ、だって。……えと、そうだ。携帯電話買った時に、登録する番号が自分の家だけって、その。寂しいじゃないですか」
 新品の携帯電話を手に入れても、メモリーに登録する番号が少ないと、まるで友達がいないみたいではないか。
 もっとも、綱吉は本当に友人が少ない。だからひとつでも多く登録するためにも、嵩上げで雲雀の番号を知りたい。
 他にもっとマシな言い訳がなかったのかと思うが、生憎と綱吉の頭はそこまで万能ではなかった。しどろもどろな説明を繰り広げた彼に目を瞬き、雲雀はたっぷり五秒経ってからぶっ、と噴き出した。
 堪えていたのに、耐え切れなかった。
 腹を抱えてヒクヒク震える彼に呆気にとられ、綱吉は凍りついた。
 雲雀がこんな風に笑うところを、初めて見た。今日は快晴だけれど、雨が降るかもしれない。
 大変失礼な事を考えながら、綱吉もまた、今し方口にした台詞を振り返り、カーッと顔を赤くした。
「って、ていうか」
「そんな理由じゃ、教えてあげない」
「ええっ」
 登録するだけして、一度もかかって来ない番号なら要らない。
 メモリーだって無限ではない、と胸を張った彼に打ちのめされて、綱吉はしなしなと萎びれて小さくなった。
 水分が抜けてしまった彼に嘆息して、雲雀は晴れ渡る大空を仰いだ。窓の向こうはぽかぽか陽気で、陽射しを浴びているとそれだけで眠くなる。
 昼寝日和だ。
「分かったら、さっさと顔を洗ってきなよ。言っておくけど、僕はスパルタだよ」
「うえぇぇ」
 トイレの扉を指差し、勝ち誇った顔で雲雀が言った。綱吉は心底嫌そうにして、鞄を抱いて嫌々と身を捩った。
 だが、いつまでも此処でこうしているわけにもいかない。トホホと涙を呑んで肩を落とし、彼は渋々雲雀の脇を通り抜けた。日頃は使用を禁止されている、教員用のトイレのドアを押して中に入ろうとする。
 ヒヤッとした風を頬に浴びて、彼は一瞬怯んだ。
「番号なんか知らなくても」
「……え?」
 背中越し、声が届く。低い、掠れた、小さな声が。
 振り向こうとして、綱吉は途中で思い留まった。顔が自然と赤く、熱くなる。
「どうしても僕が必要な時は、呼びなよ」
 囁く声が、近い。
 どうやって呼べばいいのかと、リアリストな部分が疑問を呈す。けれど綱吉はその疑問を、理屈ではない部分で押し潰した。
 呼べばいい。
 本当にどうしようもなくて、信じてきたものの根幹がぐにゃりと折れ曲がり、拉げて壊れてしまいそうになった時。
 不安で、心細くて、恐くて、なにが正しいのか見えなくなってしまったときには。
 ただひと言、会いたいと。
 助けて欲しいと。
 呼べば、必ず。
 必ず。
 ヘリコプターが巻き起こす暴風に煽られて、倒れそうになった。吹き飛ばされそうなのを堪えて踏み止まり、信じられない目で前方を凝視する。
 届いたのだろうか。
 聞こえたのだろうか。
「今の君の顔、つまらないな」
 地上に降り立った彼の言葉に息を詰まらせ、綱吉は。
「見てて」
 あの日のように頭を撫でられた気がして、目を見張った。

2011/03/16 脱稿