水平線の彼方から、ゆっくりと太陽が昇り始めた。
闇を切り裂き、眩い光が横一列に広がっていく。中央からなにものにも汚されない黄金色の輝きが現れ、少しずつ、少しずつ、暗く凝り固まってしまっていた世界を融かしていった。
海からもたらされた優しいオレンジ色は、やがて大空を飲み込み、地表を優しく照らした。
高い位置に雲が漂い、陽射しは柔らかく、温かい。
ぽっかりと浮かぶ綿雲をアクセントにした大空は、雨とは無縁の快晴だった。
「んー……」
この数日は寝袋生活で、硬い地面がベッド代わりだ。草を集めて敷き詰めたところで、吹き曝しの中での野宿では快適さを追求するなど不可能だ。
一日や二日程度のキャンプなら良かったのだろうが、生憎と夜営を楽しんでいる余裕はない。寝袋の中でイモムシのように身を捩った彼は、このままでは腕を伸ばすのもままならないと思い出し、顎の辺りにあったファスナーをどうにかこうにか引き摺り下ろした。
眠っている間に飛んできたのだろう落ち葉が挟まってしまったのだ。苦心の末に狭い空間から脱出を果たして、ホッと安堵の息を吐く。
今度こそ両腕を頭上に伸ばして背筋を反らすと、腰の辺りの骨がゴキッ、といい音を響かせた。
「いて、って……」
付近の筋肉も硬直しており、身体は思うように動いてくれなかった。
深く息を吸い込んで、吐き出す。朝靄に濡れた空気は冷たかった。
深呼吸を繰り返してから立ち上がる。今度は膝が鳴った。
「うおっと」
転びそうになったのを耐えて踏み止まり、自分に向かって悪態をつく。後ろを振り返ると、獄寺と山本はまだ夢の中だった。
特に山本は、まだ怪我が完全に癒えきっていない。それなのに火急の事態を知り、駆けつけてくれた。
起こすのは忍びない。今は少しでも長く休んで、早く本調子に戻ってもらいたかった。
「……良かった」
最初は了平用だった寝袋に収まった友人を見詰めて、綱吉は小さく、囁いた。
勿論、良いことばかりではない。晴れの守護者こと笹川了平はヴェンディチェの牢獄に連れ去られたままであるし、過去の亡霊たる男が裏で糸を引いていた事も露見した。
霧の守護者であるクロームは囚われの身どころか、術をかけられて、操り人形と化していた。
すべては、初代霧の守護者だったD・スペードなる男の陰謀だった。
シモンファミリーがボンゴレファミリーに敵対する原因となった、過去の事件はすべて偽りだった。歴史は意図的に歪曲され、真実は闇に隠された。
そこに光が射した今、シモンとボンゴレが対立する必要は、最早何処にも存在しない。
この驚愕の事実を外に知らせる術がないのが、もどかしかった。
通信は遮断されている。島の外で待ってくれている九代目と連絡を取る手段があったなら、今すぐにでも伝えて、炎真の妹が命を落とした事件の真相だって明らかに出来ただろうに。
ひとりで苦しんでいるだろう友人を思い、綱吉は唇を噛んだ。
「ああっ!」
遣る瀬無さに飲み込まれそうになって、鬱々としたものを振り払おうと声を張り上げる。叫んでから、後ろで呻くような声が聞こえて来て、獄寺達がまだ寝入っているのを思い出す。
首を竦めて様子を窺うが、幸いなことに誰も目を覚ましてはいなかった。
リボーンも、ランボも、寝袋の中で鼻ちょうちんを膨らませていた。起きているのは、綱吉だけだ。
正確な時間は分からないものの、西の空はまだ薄暗さが残っているので、夜明け直後と思ってよかろう。となれば、午前六時半前後といったところか。
たいして持ち合わせていない知識を総動員してそう結論付けて、綱吉はもう一度伸びをして、背骨を鳴らした。
屈伸をして、上体を捻って、軽く二度ほどジャンプする。いつ、何処から敵が襲ってくるかも分からないだけに、準備だけは万全にしておきたかった。
「よっ、せい、……と」
だがラジオ体操第一を最後まで遣り通して、第二に入ろうとしたところで手の動きがストップした。
「なんだっけ」
体育の授業で習ったのに、まるで思い出せない。両腕を真っ直ぐ伸ばして耳を挟んだ状態で停止して、彼は苦笑した。
その体勢で暫く待ってみるが、なにも出てこなかった。仕方なく腕を下ろして適当にスクワットして、最後に両手を広げて深呼吸。
もうこれでよかろう、と自分に言い聞かせ、彼は木々の天辺から顔を出した太陽に一礼した。
途端にぐぅ、と腹の虫が鳴いた。
「うぐ」
当面の食糧は持ち込んでいるけれど、なにせ成長期の少年ばかりなのだ、足りるわけが無い。それに食事の内容も缶詰や、湯煎で温めるだけのレトルトばかりで、なんとも味気なかった。
早くも母の手料理が恋しくてならない。未来で、京子やハルの反乱に遭った時の事が思い出されて、ひもじさは尚更だった。
しかも其処に、大食漢の山本が加わった。
もっとも彼だけなら、了平が食するはずだった分を回せばなんとかなる。が、今は他にもうひとり、いるのだ。
「あれ?」
そういえば、と綱吉は目を丸くした。
琥珀色の瞳を見開いて、周囲をぐるりと見回す。
今は空っぽの綱吉の寝袋に、中身が詰まっている寝袋が合計四つ。焚き火の跡の横には、夕飯の残骸が無造作に転がっていた。
反対側を見る。鈴木アーデルハイドとの戦闘で一部が凍りついたままの滝と、川があった。
水はいかにも冷たそうだ。白い玉砂利で覆われた川原が両側に広がって、その片側に綱吉たちはいた。
ザクザクと粒の大きい石を踏みしめて、少し歩く。辿り着いた先、乾いた土の上には何かが寝転がっていた形跡が残されていたけれど、触れてもぬくもりは感じられなかった。
此処で横になっていた人は、何処へ行ってしまったのだろう。
「ヒバリさん」
話の途中で飽きたのか、日暮れを待たずして寝てしまった青年。直前まで死闘を演じていたのだから、疲れもあったのだろう。
寝袋を使わずに、平然と寝ていた。思えば彼は、学校の屋上で良く昼寝をしていたから、硬い寝床に慣れていてもなんら不思議ではない。
それでも、寒い夜を学生服一枚で過ごすのは、辛かったはずだ。
「風邪引いてなきゃいいけど」
呟き、左右を見渡す。だが見える範囲に、それらしき人影はなかった。
勝手に先に進んでしまったのだろうか。独自の立場を貫き、独自の考えを持って行動する彼はまさしく雲の守護者の体現であり、その可能性は充分ありえた。
「……」
だのに胸がちくりと痛んで、綱吉は無意識に左胸を押さえ込んだ。
まだお礼を言っていないのに。
昨日までの綱吉は、炎真の言葉に強いショックを受け、自分は間違っていたのでは、と思っていた。
父親への信頼が揺らぎ、これまで信じてきたものがすべて偽りなのかもしれないと、そんな風にさえ考えていた。
償うべきは自分の方で、炎真に恨まれるのも仕方が無い、とすら。
けれど、違った。
ジョットはシモン・コザァートを裏切っていなかった。卑怯な罠に嵌められても、ふたりの友情は最後まで突き崩されることは無かった。
「ちゃんと、お礼、言わせて欲しかった」
それが分かったのだって、雲雀のお陰だ。
彼が誇りとは何であるかを教えてくれなければ、綱吉は今でも陰鬱とした闇の中、あてもなく彷徨っていたに違いない。
拳を作って胸を叩き、顔を上げる。もう一度注意深く辺りを探ってみるものの、動くものの気配はてんでなかった。
矢張り先に行ってしまったか。
落胆を顔に出し、背中を丸めて溜息をひとつ。あの身勝手極まりない暴君が、団体行動に参加してくれるわけが無いと分かっていても、少なからず寂しかった。
来てくれただけでも万々歳なのに、自分はなんと贅沢なのだろう。
「ヒバリさん」
せめて感謝の思いだけでも伝われば。そう願って、祈るように目を閉じる。
「でっ!」
直後、無防備だった彼の後頭部に硬いものがぶつかった。
全く警戒していなかったところに、まともに食らってしまった。姿勢を維持することも出来ず、前のめりに傾いだ彼の身体は呆気ないほど簡単に地面に倒れこんだ。
受身すら取れず、顔面から川原に突っ込んでいった。ぐしゃ、と嫌な音がして、投げた方は唖然となった。
避けるか、それとも踏ん張るかすると思っていたのに、何たることだろう。
「……小動物?」
パタパタと風を起こし、黄色い小鳥が倒れ伏した綱吉の後頭部に着地した。瞬間。
「いでえ!」
雄叫びを上げ、彼は身を起こした。
小鳥がコロン、と彼の背中を転がっていった。額に食い込んだ小石が落ちて、後には真っ赤な林檎が残された。
それくらいに顔面を赤く腫らした少年は、涙目で潰れた鼻を撫で、足元に転がる小鳥とオレンジ色のボールに苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ピ」
綿毛のような小鳥が不思議そうに首を傾げ、綱吉を見上げていた。横に長い嘴を器用に動かして、可愛らしい声で鳴く。
雲雀のボンゴレ・ギアの影響を受けた時の、あの奇抜な鶏冠は消えていた。見慣れた真ん丸いフォルムにホッとして、綱吉は横に転がっている球体を掴んだ。
左手は鼻を撫で続け、じくじくした痛みを慰める。
「なに、これ」
それは見たこともない物体だった。
果物のようだが、沢田家の食卓に並んだ事はない。皮の色合いは蜜柑だが、触り心地は林檎や梨に近かった。
力を込めて握っても、潰れない。歯を食い縛っていたら、投げた張本人が石を踏みしめて歩み寄ってきた。
顔を上げると、雲雀はそのオレンジ色の果実に齧り付いていた。
皮ごと頬張って、種は後から吐き出す。なんともダイナミックな食べ方に、綱吉はしゃがみ込んだまま呆然となった。
「え、……え?」
「食べられるよ」
「それって、大丈夫なんですか?」
痛みも忘れて雲雀と手元の果実を見比べた彼は、最後に恐る恐る訊ねた。
こんな地図にも忘れ去られた島に自生する植物を口にして、万が一毒があったらどうするのか。考え無しに行動する彼に惚けていたら、地面で羽根を休めていた小鳥が得意げに胸を張った。
偉そうに踏ん反り返って「ピヨ」と鳴く。
「その子が」
「ヒバードが?」
「食べられるって、言ったから」
「……はあ」
いつから雲雀は、鳥語が話せるようになったのだろう。
それとも、逆か。未来の世界でヒバードと呼ばれていたこの小鳥が、人語を操れるようになったのか。
真面目に考えると頭が痛くなりそうで、綱吉は早々に思考を放棄した。
動物の方が嗅覚は鋭く、危険を回避する能力に長けているという話も聞く。小鳥が啄んだ果実なら安全だと、雲雀はそう考えたのだろう。
そうはいっても、見るからに硬そうなこの果実。雲雀の真似をしたら歯茎から血が出そうだ。
「ナイフ、あったよな」
九代目が持たせてくれた荷物の中に、ハムを切り分けるための小型のナイフがあったはず。叩けばコンコン音がする果実をじっと見詰めて、綱吉は眉を顰めた。
雲雀は芯だけになった果実を揺らすと、足元に落とした。すかさず小鳥が駆け寄って、余りものを啄み始める。
「食べないの?」
「え?」
飛び跳ねるように移動した小鳥を目で追っていたら、訊かれた。雲雀の存在を忘れかけていた綱吉は、琥珀色の目を真ん丸にしてから、困ったように首を倒した。
「あ。後で、……みんなで、頂きます」
「そう」
獄寺達と朝食を取った後、デザートに。山本に頼めば綺麗に切り分けてくれるだろう。
固い果実を両手で挟んで持ち、綱吉ははにかんだ。
急にニコニコと笑い出した彼に、雲雀は不思議そうに眉を顰めた。
「なに」
気味悪がって、怪訝に問う。綱吉はそれでも「へへ」と笑って、まだ赤い額に冷たい果実を押し当てた。
「ヒバリさんがいてくれて、よかった」
面と向かって言うのが恥ずかしいからと、顔を隠して呟く。照れ臭そうにしている彼の台詞に呆気に取られて、雲雀はぽかんと口を開いた。
そして間抜け顔は一瞬で消して、きつく唇を引き結んだ。意味もなく口元をぐいっと拭って、綱吉との距離を一歩詰めた。
踏み潰されそうになって、小鳥が慌てて避けた。綱吉はまだ果実を高く掲げ、嬉しそうに目を細めていた。
「ヒバリさんが、雲の守護者で良かった。いなくなっちゃわなくて、良かった。俺、ずっとお礼言いたかったんです。ヒバリさん、あり――――ぎゃぶっ!」
昨日の出来事を思い出すだけで、涙が出て来そうになった。
鼻を愚図らせて礼を告げようとした綱吉は、唐突に真横から飛んできた拳骨を避けきれず、あえなく吹っ飛ばされて再度川原に身を横たえた。
出来上がったタンコブがぷすぷす煙を吐いた。雲雀は僅かに赤くなった拳を震わせて、ふいっとそっぽを向いた。
「その言い方は嫌いだって、言わなかった?」
「い、い……まひ、た……」
吐き捨てられて、綱吉は地面に顔を半分めり込ませたまま答えた。
アーデルハイド相手にだが、確かに彼は言っていた。
雲は空があるから自由に浮いていられる、とも。
強かにぶつけた顎と、殴られた後頭部の両方を庇い、身を起こす。たらり、と鼻血が垂れて唇を濡らした。
鉄錆びた味を舐め取って、袖で擦って指で横から鼻腔を押さえる。血が止まるまでしばし黙り込んだ彼だけれど、乱暴にされたに関わらず、表情はどうにも嬉しげだった。
琥珀色の目を細め、にこにこと屈託なく笑い続ける。
頭の螺子が一本吹っ飛んだかと心配になった。雲雀が顔を顰める中、彼は呵々と喉を鳴らし、ふっと真顔になった。
「ありがとうございます」
良く通る声ではっきりと告げて、深く頭を下げる。
土下座にも似たポーズを取られて、雲雀は面食らった。
「な、なに」
思い切り殴ったのに、礼を言われた。いよいよ頭が可笑しくなったかと疑うが、綱吉の目はいたって真剣だった。
「ヒバリさんが俺の守護者でいてくれて、凄く、嬉しい」
誇りとは如何なるものか、彼自ら証明してくれた。揺らぐ心に隠れていた、譲れないものを思い出させてくれた。
群れを嫌う雲雀には、嫌な称号かもしれない。
だけれど綱吉は、彼が雲の守護者である事を誇りに思う。
今度こそ真っ直ぐに見詰めて告げた彼に唖然として、雲雀は奥歯をギッ、と噛み締めた。
次の瞬間、綱吉の身体は冷たい川の中に飛び込んでいた。
「ぶぎゃあっ」
凍え死にそうになって、慌てて水面から顔を出す。震え上がる彼を睨み、雲雀は右手に握ったトンファーをくるりと回した。
「勘違いしないでよね」
「酷い、ヒバリさん」
「君は、僕の獲物なんだよ」
苦情はあっさり無視された。鼻水を垂らす少年を見据え、雲雀は不敵に笑った。
「君も、房も、あのわけ目ふたつも。全部、僕の獲物なんだから」
狩りは、強いものと遣り合ってこそ楽しい。
あんなしょぼくれた顔をした獲物を倒しても、ちっとも嬉しくなんかない。
いつになく早口に、声を大きくして捲くし立てる彼にぽかんとして、綱吉は次の瞬間、噴き出した。
ああ、雲雀だ。
これでこそ並盛中学校の影の支配者、風紀委員長雲雀恭弥だ。
安心すると同時に寒さに襲われて、ついでに忘れていた空腹が戻って来た。
ぐぅ、と腹の虫が鳴いた。騒ぐ彼らの声が目覚まし時計となり、寝袋で高いびきをかいていた四名も次々に起き出した。
遠くで獄寺がなにか喚いている。山本がたしなめて、ランボはまだ寝ぼけており、リボーンはそ知らぬ顔だ。
綱吉はくしゃみをした。雲雀が踵を返す。転がり落ちていた丸い果実を拾って、スラックスで汚れを拭ってからぽい、と放り投げる。
弧を描いたそれを受け取って、綱吉ははにかんだ。
2011/03/12 脱稿