アゲマキ・ワコの朝は早い。
日課である禊の為に寝床を抜け出すのは、いつも夜明け前だ。
眠い目を擦って身を清め、鳥居の先にある石段を下って波打ち際で白装束を解く。海辺より突き出た不可思議な形状の岩を前に祈りを捧げる頃、ようやく太陽はゆっくりと水平線から顔を覗かせ始める。
ひと通りの儀式を済ませた後、彼女は身体を拭い、手早く身なりを整えた。
いつものパーカーに袖を通し、元気良く家を飛び出す。学校に登校するには、まだまだ時間的に余裕があった。
「おはようございまーっす」
通い慣れた道を進み、林を抜けた先に現れた屋敷の玄関で威勢よく声を張り上げる。呼び鈴を鳴らした手を意味もなく頭上高くに掲げて、彼女は鍵が外されるのをそわそわと待った。
十年以上付き合いのある家だから、何処になんの施設があるのかもすっかり把握済みだ。台所の方に顔を向け、鼻をクンクンさせれば、焼きたてのパンらしき芳しい香りがした。
「うーん」
あとはオムレツに、カリカリに焼いたベーコンに、香辛料が効いてピリッと辛いソーセージ。
本日の朝のメニューを想像するだけで、彼女の咥内は涎でいっぱいになった。
「おっと」
もう少しで顎に垂れるところだった。
みっともないところを人に見られる前に、と慌てて口元を拭い、頬を叩いて表情を引き締める。それからものの三秒としないうちに、観音開きの扉が内側から開かれた。
「いらっしゃいませ、ワコ様」
「だから、様は止めてよ~」
顔を出したのは、猫耳をつけたボブカットの少女だった。
同じ学年で、クラスは隣。シンドウ家に仕えるメイドのひとり、スガタメ・タイガーだ。
いつもの黒のメイド服に白いエプロンをつけて、すっかり仕事モードだ。畏まった呼び方をされてくすぐったさを覚え、ワコは顔の前で手を振ってから、促されるままに屋内に足を運んだ。
後ろで扉が閉まる音がした。振り返れば、タイガーがワコに向かって深々とお辞儀をしていた。
いくらスガタの婚約者であるとはいえ、ワコは彼女と友人のつもりでいる。仰々しい態度を崩してもらえないのを少し寂しく思いながらも、食欲に負けて、食堂への道を急ぐ。
漂う美味しそうな匂いが強まるにつれ、彼女の足取りは軽やかに、そして速くなった。
「おっはよー!」
閉ざされた扉を元気一杯に押し開き、中にいるだろう男子二名に向かって朝の挨拶を叫ぶ。
空腹は頂点に達しており、彼女の心は屋敷に暮らすスガタやタクトよりも、テーブルに並べられる沢山の料理に真っ先に向けられた。
「ワコ様、おはようございます」
最初に挨拶を返してくれたのは、ジャガーだった。ウサギの耳をつけて、長い髪を背中に垂らしている。タイガーと同じメイド服に身を包み、その手には銀色の丸盆が握られていた。
彼女は慣れた動作でワコのために椅子を引き、どうぞ、と掌を向けた。
「ありがと。スガタ君、タクト君も、おは……ん?」
短く礼を言って腰掛け、前に向き直る。横に長いテーブルのほぼ真向かいには、タクトが座っていた。
が、彼はワコに気付く様子もなく、どこかげっそりやつれた顔をして項垂れていた。
いつもの元気印は何処へ消えてしまったのだろう。怪訝に眉を顰めて、彼女はテーブルの奥に目を向けた。
暖炉の前の席を独占しているスガタは大きな欠伸を手で覆い隠し、凝っているのか首を左右に揺らしていた。タクトもそうだが、かなり眠そうだった。
「どうしたの?」
昨日、学校で別れた時とはまるで別人だ。両肘をテーブルに立てて項垂れている少年に問いかけてみるが、小さな呻き声が聞こえるばかりで、タクトは返事をくれなかった。
食事も進んでいない。彼の好物のオムレツも、全く手がつけられていなかった。
不思議そうにふたりを交互に見詰め、ワコは籠に盛られていたパンをひとつ、手に取った。
「おーい。食べないんなら、食べちゃうぞー」
三日月形のクロワッサンにかじりつき、ワコは椅子を膝で押して立ち上がった。フルーツが満載のプレートを避けて手を伸ばし、タクトの前からオムレツの皿を奪い取る。
制止の声は聞こえず、抵抗もなかった。
これはいよいよ、可笑しい。いったい自分が布団とランデブーをしている間に、彼らの身に何があったのか。
眉を顰めた彼女に肩を竦め、タイガーは冷たいカボチャのスープを差し出した。
「ねえねえ。どうしたの、これ」
「さあ。私にも、よく」
朝、食事に呼びに行ったときから、彼らは既にこうだった。
手短に説明をして、彼女はワコに一礼した。
新しく運ばれてきたオムレツも受け取って、ワコは首を傾げつつ口の中に残っていたクロワッサンを一気に飲み込んだ。
ふわふわのオムレツにナイフを入れて、ひとくち頬張る。程よく熱が通った卵はふっくらして、素材本来の旨味が引き出されていた。
「おいっしー」
いつ食べても、シンドウ家のオムレツは絶品だ。
祖母に料理を任せるとすべて和食になってしまうので、ワコはこうしてスガタの家を訪れて、腹いっぱい洋食を食べるのをなにより楽しみにしていた。
歓声をあげ、嬉しそうにパクパク口に押し込んでいく。見事な食べっぷりに、御代わりを持って来たジャガーは微笑んだ。
積み上げられていく皿の音に、長く顔を伏していたタクトはようやく彼女の存在に気付き、目を瞬いた。
「あれ、ワコ……?」
「おはよう、あむ。オムレツ、はむ、冷めちゃうから、んぐ、貰った、よ」
忙しく食べながら、合間に言葉を挟んで行く。口に物を入れたまま喋ってはいけない、という教えは、どうやらアゲマキ家では無視されたようだ。
落ち着きのない手の動きをぼんやり眺め、タクトは皿の減った手元にああ、と頷いた。
疲れた顔をして溜息を零し、癖のある前髪をくしゃりとかき回す。おおよそ彼らしくない態度に、ワコも、タイガーも、きょとんと目を丸くした。
「どしたの?」
反応が鈍かったことといい、なにかあったのは間違いなかろう。
好奇心に負けて訊ねると、彼は長く深い吐息の後、テーブルの隅でスプーンを動かしている青年を睨み付けた。
「スガタが、僕の事捕まえて、寝かせてくれなかった」
「……はい?」
気怠るげな彼の思いがけない台詞に、少女らの目は揃って点になった。
ふたりが凍り付いているのを知らず、スプーンを下ろしたスガタは涼しい顔をして背筋を伸ばし、目を細めて不敵に微笑んだ。
「その言い方はないだろう。お前だって充分、楽しんでいたじゃないか」
「えっ」
得意げに言い放った屋敷の主に吃驚して飛びあがり、ワコは椅子をガタガタ言わせた。振り向けばタイガーが、空の盆を抱えて口元を覆い隠していた。
頬はほんのり色付き、瞳は宙を泳いでいる。なにか思い当たることがあるのかと、ワコが口を開こうとした矢先。
「そんなことない。嫌だって言ったのに、スガタってば、無理矢理僕を部屋に連れ込んで」
「む、無理矢理?」
両手をテーブルに押し当てて、タクトが背筋を伸ばして言った。語気を荒げた彼にびくりとして、ワコは頬をヒクリと痙攣させた。
彼女の手からナイフとフォークが落ちた。切れ目が入ったオムレツが、皿の上でぷるん、と震えた。
スガタに給仕していたジャガーだけが落ち着いているように見えたが、彼女の耳は、頭につけた作り物の分までピクピクしており、男子ふたりのやり取りを一言一句聞き逃すまいと構えていた。
居合わせる女子らの緊張をまるで関知せぬまま、スガタはいきり立つタクトを宥め、口角を歪めて笑った。
「なにを言うんだ、タクト。途中から、お前だってノリノリだったじゃないか」
「の……ノリノリぃ?」
「ちっがーう!」
呵々と笑って言ったスガタに、タクトはついに立ち上がって怒鳴った。顔どころか、目も赤い。白目部分が充血して、瞼も腫れぼったかった。
どうすればこんな顔になるのかと考えて、ワコはハッとして両手を頬に押し当てた。
「僕は、嫌だって……でもスガタが。信じられない、あんなに泣かされるなんて」
「可愛かったぞ、泣いているタクトは」
「言うなー!」
自分まで顔を赤くして、ワコは椅子の上で足をじたばたさせた。
目の前ではタクトが、恥ずかしそうにしながら必死にスガタに反論していた。が、悉く揚げ足を取られ、益々恥ずかしくなる台詞を口にされて、途中から耐えられなくなったのだろう、肩を抱いて椅子に舞い戻った。
膝を抱いて小さくなって、子供みたいに口を尖らせて拗ねてしまう。
本当に、いったい昨晩、このふたりに何があったのか。
イケナイ想像をしてしまって、ワコは垂れそうになった涎を慌てて拭った。
後ろからタイガーが、そっと紙ナプキンを差し出してくれた。礼も言わずにそれで口元を覆い隠し、まだ続いている会話に耳をダンボにする。
「酷いよ、スガタ。そんなに僕を苛めて楽しい?」
「ああ、楽しいな」
「鬼、悪魔! 優しい顔して、僕を騙したな」
「騙してない。ちゃんと先に訊いただろう? 本当にいいんだな、って」
「うわ。うわ、うわあぁ……」
喧々囂々、テーブルを挟んで繰り広げられるやり取りに、ワコの頬はだらしなく緩む一方だった。
見守っていたタイガーが、コホン、とワザとらしく咳払いした。それでハッと我に返り、テーブルに落としていた食器を拾って食事を再開しようとするが、どうしても耳に意識が集中してしまう。
既にかなりの量を食べているが、まだ腹六分目に到達した辺り。このまま学校に行っては、二時間目辺りで空腹になってしまう。
食事か、それとも会話の盗み聞きか。
両立させられない自分の不器用さを呪いながら、彼女はクロワッサンを一個丸まる口に押し込んだ。
「そりゃ、言ったけど。お前となら良いって、確かに言ったけど」
「ドキッ」
「なら、問題ないだろう?」
「あるよ、あるある。っていうか、大有りだよ。あんな風になっちゃうだなんて、僕、全然知らなかったんだから」
「ドキドキっ」
「知っていたら、僕の誘いには乗らなかったって?」
「さ、さそっ……?」
「スガタの、……意地悪」
聞こえてくる台詞の端々に逐一反応して、ワコは飲み込んだクロワッサンを喉に詰まらせた。
違う意味で顔を赤くして、苦しそうに両手で胸を叩く。他に気を取られていたタイガーは気付くのが遅れて、前屈みになっている彼女に慌てて水の入ったグラスを差し出した。
一気に飲み干して、ワコはホッと息を吐いた。胃袋の辺りがちゃぷちゃぷ言っている。ぜいぜいと肩で息を整える間も、男子はまだ口論を続けていた。
「意地悪じゃないさ。ちゃあんと、お前に選ばせてやったじゃないか」
「嘘だ。僕に選択肢なんてなかった」
「だったら最初に、違うのを入れてくれって、そう言えばよかったじゃないか」
「入れる? 入れるって、なに。なにを?」
「どれも似たようなものばっかりだっただろ」
「え、え? 入れちゃったの? 入っちゃったの?」
徐々にヒートアップしていく会話に、ワコは狼狽えた。右に、左に忙しく首を回して、耳を塞ぎたいのと、塞ぎたくないのとで頭がパニックになる。
茹蛸状態の彼女に苦笑して、タイガーは空っぽになったコップを彼女の手から引き抜いた。
「僕としては、目一杯優しくしてやったつもりなんだが」
「あれのどこがあ?」
テーブルに頬杖をついたスガタが、興奮しているタクトに流し目を向けた。意地悪く微笑み、素っ頓狂な声をあげた彼を笑う。
右手を忙しく上下に振り回し、タクトは昨夜の事を思い出したのか、赤い目にうっすら涙を浮かべた。
「あれで優しいなんて、絶対嘘だ。痛かった。すんごく、痛かった」
「おいおい、大袈裟だな」
「あんなにぐちゃぐちゃになっちゃうなんて、思わなかった!」
大きくかぶりを振り、タクトが肩を抱いて叫んだ。凄まじい大音量に、ワコはヒク、と赤い頬を痙攣させた。
タクトの瞳はすっかり潤み、涙を堪えて鼻を愚図つかせていた。何度もしゃくりあげる姿は、確かに乙女心を擽る愛らしさだった。
スガタはと視線を左に流したワコは、そこで楽しそうに、それでいてとても嬉しそうにしている幼馴染を見つけて胸を時めかせた。
彼の眼差しは真っ直ぐタクトに向けられていた。今まで誰も見たこともないくらいに、無邪気な微笑みを浮かべていた。
「うわあ……」
朝からなんたる福眼だろう。早起きしてきて良かったと、禊で洗い流したはずの煩悩を膨らませ、彼女は鼻息を荒くした。
後ろでタイガーがまた咳払いをしたが、聞こえていない。目は爛々と輝き、興奮した心臓はハート型で飛び跳ねていた。
スガタの斜め後ろに控えるジャガーも、ワコに負けないくらいの顔をしていた。息を荒くして、給仕の仕事もすっかり疎かになっていた。
だが当のスガタはタクトとの会話に夢中で、それに気付かない。時間は刻々と過ぎて行く。全員が学校に行く準備をしなければならないというのに、朝食はまだ終わりそうになかった。
「痛かった。恐かった。死ぬかと思った」
「だから、そんなわけがないだろう。それだったら、僕の方が痛かった」
思い切り引っ掻いて、とスガタが言いながら右の肩を撫でた。上腕を滑り、肘の辺りまでをゆっくり往復させる。
思い当たる節があったのか、タクトは瞬時にカッと頬を赤らめた。
頭の天辺から湯気を吐き、ぷすぷす言いながら顔を伏す。椅子の上で膝を抱えて丸くなった彼に、ワコはぽかんとなった。大急ぎでスガタにも目をやって、一寸だけ機嫌を損ねている許婚の横顔に釘付けになる。
彼の手は、未だ右腕を撫でまわしていた。
「引っかかれたって、それって……」
「力一杯抱きついてくるし。苦しかったのはこっちだ」
「だって、しょうがないじゃないかさー」
「抱きつっ、いっ」
ひとり青くなっているワコを他所に、タクトはぷっくり頬を膨らませた。口を尖らせて、もじもじしながら上目遣いにスガタを睨む。
怒りの中に恥じらいが混じっており、彼は途中で言葉を止めて黙り込んだ。拗ねているタクトを楽しげに眺め、スガタはグラスを取って揺らした。ぼうとしていたジャガーが、慌てて水差しを取ってグラスに注ぐ。
冷えた水を美味しそうに飲み干して、彼はまだ俯いているタクトに目を細めた。
「なんだかんだ言って、お前だって満足してたじゃないか」
「うぐ。そ、そうなんだけどぉ」
両手の人差し指を小突き合わせ、タクトは何もない壁を向いてボソボソ言った。ようやく認めた彼の恥ずかしそうな横顔に、ワコが鼻血を堪えるべく顔の真ん中に両手を重ねた。
舌足らずに言って、タクトは頭を掻き毟った。目尻に浮かべた涙を袖に吸わせ、恨みがましい目をスガタに投げる。
彼は平然と受け流し、にっこり微笑んだ。
「癖になったんだろう? 二回目からは自分で動いて。随分積極的だったじゃないか」
「なんですと?」
「あれは、だって、スガタに任せてたら大変なことになるって、分かったからであって。別に僕は、そんな趣味は」
「どの口が言うんだ。最後までしっかりいっておきながら」
「イッちゃったの!?」
椅子をガタゴト言わせ、ワコが声を上擦らせた。
今や彼女は全身真っ赤で、体温は上昇一途、顔面汗まみれで目はぐるぐると渦を巻いていた。
サウナに長時間篭もりすぎて逆上せた時の状態に近い。ふらふらしている彼女が倒れないよう肩を支えてやり、タイガーはどうしたものかと終わらない口論に耳を欹てた。
「お前に付き合ってたら、身体が幾つあっても足りないよ」
椅子の上で身動ぎ、タクトが捨て台詞を吐いてふいっ、とそっぽを向いた。
スガタが呆れて肩を竦めた。苦笑して、忘れた頃に戻って来た眠気を払おうと欠伸を零す。
タクトもまた怠そうにして、目尻を擦って赤い頬を叩いた。
乾いた音がひとつ、食堂に響き渡った。撃沈してしまったワコを抱え、タイガーが注意深く息を殺す。スガタは口を閉ざして首を交互に揉み、もうひとつ欠伸をかみ殺した。
「まあ、僕もまさか徹夜になるとは思ってなかったけど」
一睡もしていないと、口の前で手を揺らす。伝染ったのか、タクトも大きく口をあけて首をぐらぐらさせた。
「誰かさんが、止めないでくれって聞かなかった所為だな」
「仕方ないじゃんか。あそこで止められたら、余計に眠れないだろ」
今にも首が落ちそうな彼を嘲り、スガタが意地悪く言う。目を眇めた青い髪の青年を睨み、タクトは不満顔で言い返した。
ワコはピクピクしていた。仰け反って椅子ごと倒れそうになっているのを、タイガーが必死に堰き止めている。
「良かったんだろう?」
両肘をテーブルにつき立て、スガタが両手を重ねた。其処に顎を置き、にっこり笑ってタクトに訊ねる。
無邪気な質問に、彼は一瞬息を詰まらせた後、頬を赤らめ頷いた。
スガタの背後で、ジャガーがガッツポーズを決めていた。続けて悔しそうにハンカチを噛み締め地団太を踏む。声をあげず、物音さえ殆ど立てずにじたばたする同僚に、タイガーは小さく嘆息した。
恐らくは、どうして昨日は早く寝床に入ってしまったのかと、後悔しているに違いない。
なんとも分かり易い彼女に苦笑して、タイガーはワコを、椅子へ押し戻した。
「で? 今夜も部屋に来るか?」
「それは……」
「なんなら、僕がお前の部屋に行ってもいいが」
「や、やっぱ、今夜はやめよう? 二日連続は、きついよ」
次の約束を急かすスガタに、タクトは慌てふためき首を振った。両手も顔の前で横に揺らして、視線は天井付近を彷徨わせる。
目を輝かせたジャガーが、聞こえない「キャー」という悲鳴をあげて腕を振り回していた。ワコは幸せそうな顔をして、目を回していた。
花も恥らう少女らを前にして、分別を弁えた人間は果たして。
朝っぱらから堂々と猥談をするだろうか。
「ゴホン」
広い食堂全体に響き渡るくらいの大音響で咳払いをして、小さな疑問を抱えたタイガーは、熱を帯びる会話を不躾に遮った。
タクトを更に誘惑すべく口を開いていたスガタは、一音目を発する直前でハッとして、窓辺の席で畏まっている猫耳の少女に目を瞬いた。タクトも椅子から足を下ろし、頬を赤らめているタイガーに首を傾げた。
彼女は丸めた手を下ろして胸の前で重ね、ぎこちなくではあったが、にっこりと微笑んだ。
「ぼっちゃま」
言って、スガタを見る。目をパチパチさせて、青い髪の青年は眉間に皺を寄せた。
「タクト様も」
「なに?」
魂が抜けているワコに初めて気付いて、呼ばれたタクトはきょとんと目を丸くした。
あっけらかんとされて、タイガーは耳がカーッと熱くなるのを感じた。
スガタの後ろで、ジャガーが両手を振ってなにやら合図を送っていた。だが何が言いたいのか、付き合いが長いタイガーでもさっぱり見当がつかなかった。
「あの。お二方は、えっと、昨日、なにを」
「そうだ、聞いてよ。スガタって酷いんだよ」
「おい、タクト」
「これくらいは優しいから平気だろうって、ゾンビホラーのDVD借りてきてさ。僕、スプラッタはダメだって言ってるのに。ゾンビに咬まれた人がもう、すっごく痛そうで、見てるこっちまで痛くなっちゃって」
喋っているうちに思い出したのか身震いして、彼はまたも両手で己を抱き締めた。鳥肌を立て、心底嫌そうに奥歯を噛み締める。
早口で告げられた内容に、タイガーもジャガーも凍りついた。
「え?」
「でぃーぶい、でぃー……?」
「お前が、これが良いって言ったんだろう」
「だって、他の奴はもっと恐そうだったんだもん。しかも、やっぱヤダって言ったのに、勝手にプレイヤーに入れちゃうし」
口を窄ませて文句を並べ立て、タクトは言い訳がましいスガタをねめつけた。
ジャガーの長いウサギ耳が片方、真ん中でぺたん、と折れ曲がった。タイガーの丸眼鏡も、カクン、と右に滑って傾いた。
ホラー映画のスプラッタシーンが痛かった。
恐さのあまり隣にいたスガタの腕にしがみ付いて、恐怖に負けて思い切り引っ掻いた。
恐いのに続きが気になって、最後のスタッフロールまで行ってしまった。一本見終えた後、ホッとすると同時に負けん気が起こり、これくらい平気だと息巻いた結果、スガタに挑発されて、二本目に突入してしまった。
そうしていつの間にか、外が明るくなっていた。
事の顛末をあっさり告白されて、タイガーは軽い眩暈を覚えた。ジャガーは白いエプロンで顔を覆い、さめざめと泣いていた。
ワコは椅子に寄りかかり、未だ魂を飛ばしていた。
「そうですか。DVDですか。そうですか。そうですよね、そうでしょうとも」
額に手を当て、タイガーが呻くように呟く。
「あの。……なに?」
「どうしたんだ、お前達」
紛らわしい会話で妙な誤解をされてしまったとも知らず、男子二名は首を傾げて顔を見あわせた。
2011/02/24 脱稿