不完全なふたり(おまけ)

「お前が好きだよ、タクト」
 宵時の睦言のような囁きに、タクトはクスリと笑った。
 コツン、と額をぶつけられた。骨に響く微かな衝撃に首を竦め、目を細める。
 くすぐったそうにしていたら、顔を覗き込まれた。真っ直ぐな眼差しは澄んでおり、穏やかに晴れ渡る空を思わせた。
「お前は?」
 密やかに問われ、堪えきれずに噴き出してしまった。真顔だったスガタは一寸意外そうな顔をして、目を吊り上げて、それからすぐに呆れたように肩を竦めた。
 クスクス声を漏らして、タクトは意地悪く彼を盗み見た。左目は閉じて、右の瞼を僅かに持ち上げて隙間から様子を窺う。
 怒られるかと思ったが、その逆だった。
 呆れて苦笑している彼に小さく舌を出し、タクトは深く息を吐いて居住まいを正した。
 舞台端に座り直して楽な体勢を探し、両手は膝に揃える。身動ぐ彼が落ち着くのを、スガタは辛抱強く待った。
 そしてタクトの尻が安定したと見るや、すかさず身を乗り出して緋色の瞳にぐっと迫った。
「で。お前は?」
 繰り返される質問。やや語気を荒げた彼にしつこく回答を求められて、タクトは大粒の眼をぱちぱちさせた。
「……ぅえ、っと」
「聞かせろ。教えてくれ」
 せっつき、しつこく催促する。いつになく急いているスガタに、彼は瞳を泳がせた。
 人の話を聞けと言ったのは、他ならぬタクトだ。
 思い込みで先走るなと怒鳴り、一方的な価値観だけで決めつけるなと捲し立てたのも、タクトだ。
 だからスガタは訊くことにした。
 聞かせて欲しいと訴えた。
 だが正面から改めて問われた途端、タクトは口籠もり、即答を渋って顔を逸らした。
 揃えて置いた両手を浮かせて、人差し指を小突き合わせる。モジモジと身を捩り、そっぽを向いて頬を赤く染める。
 それまでの余裕綽々とした態度は瞬時に消え失せて、借りてきた猫のように急に大人しくなった。顔を伏して何度も膝を左右ぶつけ合わせ、乱れたネクタイを握って無意味に横に、縦にと引っ張り始める。
 不思議な行動を繰り返す彼に目を眇め、スガタはにっこり微笑んだ。
「タクト?」
 狼狽えている彼に妥協してやらず、尚も答えるよう促して、距離を狭める。
 おでこどころか鼻がぶつかる近さまで来られて、タクトは尺取り虫の要領で身体を丸め、そして伸ばした。
 舞台の中央に向かって尻の位置を滑らせた彼に、スガタがムッとした。
「おい」
「って、いうか。さ。僕、もう言ったし」
 どさくさに紛れて、勢い任せに告げた。直後に「嘘だ」と否定されたりもしたが、その後の遣り取りで気持ちは十分に伝わったと思って良いはずだ。
 今更確認を求められても、困る。視線を浮かせて何も無い天井を見詰めて、タクトは迫り来る影を牽制して両手を伸ばした。
 空を掻く指先をじろりと睨み、スガタは落胆を顔に出して肩を落とした。
「言って、くれないのか」
 とても悲しげな声で呟かれて、タクトはハッと目を見開いた。
「やっ」
 それは違う。思わず声を大にして叫び、背中が床に着くくらいに仰け反っていた上半身を起こした彼の瞳に、不敵な笑みを浮かべる青い髪の青年が映し出された。
 罠だ。
 気付いた時にはもう遅い。逃げようとした手は、抵抗虚しく呆気なく拘束されてしまった。
 両方の手首を捕まれて、引きずられた。さっきから忙しく床を擦る尻が、ズボンの厚み分摩擦が緩和されているとはいえ、少し痛かった。
「スガタ」
「聞かせてくれ、タクト。お前の気持ちを」
 やや掠れた低い声が鼓膜を叩く。触れられてもいないのに、背中が突然むず痒くなった。
 掻きたいのに、手は自由に使えない。腰を僅かに浮かせて肩を揺らすが、全く効果はなかった。
 目の前で奇妙なダンスを披露されて、スガタは不思議そうに目を丸くした。が、特に追求はせず、握った手にほんの少しだけ力を込めた。
 圧迫された骨が軋んで、痛い。タクトは顔を顰めて苦悶を表に出したが、正直に想いを告げない限り、解放して貰えそうになかった。
 鼻を膨らませて大きく息を吸って、スガタ目掛けて吐き出す。本人は嫌がらせのつもりだったのだが、浴びせられた当人は涼しく受け止めて、底意地の悪い笑みを瞳に浮かべた。
「なんなら、身体に聞いても良いんだぞ」
「ひゃっ」
 言うなり、身を屈めてタクトの肩へ顎を置いた。頬に青い髪が掠めて、くすぐったい。
 そこに加わった、耳朶にぬるりとした感触、それと微少な痛み。チリッと来た熱に咄嗟に首を竦め、タクトは信じられないくらいに高く響いた悲鳴に目を丸くした。
 今の声は本当に自分が出したのか。どこかに隠れていた女子が、この光景を見て叫んだだけではないのか。
 疑うが、それらしき人影は部室内には見当たらない。勿論、誰かに見られでもしたら困るから、それはそれで有り難いわけだが。
 赤い舌をくねらせて、スガタがスッと身を引いた。
 咥内へと消えた肉厚のそれに顔を更に赤くして、タクトは落ち着きを欠いた瞳を恐る恐る、目の前の青年に投げた。
「スガタ」
「このまま何も言ってくれなければ、お前も僕と同じ気持ちだと、また勝手に決めつけてしまうが」
 想いは既に告げられた後。だというのにどうしてももう一度、否、何百回とでも言わせたいらしい。
 クラスメイトや夜間飛行のファンらに向けられる、あのにこやかな笑顔からは想像もつかない性格の悪さを滲ませて、スガタは試すようにタクトの頬を撫でた。
 久方ぶりに自由を取り戻した手で舞台の縁をぎゅっと握り、タクトは答えを迫る黄金色の瞳に息を呑んだ。
 視界いっぱいに彼の姿を映し出し、やがて右に逸らしてなにも無い空間をじっと見詰める。朱色に染まった頬に射す西日もまた、淡い紅色をしていた。
 日暮れの時が刻々と迫る。昼を照らす真っ赤な太陽は、青く澄んだ海にくちづけ、その懐に抱かれようとしていた。
「……い、い」
「うん?」
 外は風が出始めているらしく、窓がカタリと鳴った。
 床に落ちる窓の影は、いつの間にか菱形になっていた。その輪郭線をぼんやり眺め、タクトは筋張って硬くなった指を解いた。
 捕まれたままの腕も揃って持ち上げて、スガタの肩へと伸ばす。形良く結ばれたネクタイ、糊の利いたシャツ。微かに香る石鹸の香りに喉を鳴らし、緊張を顔に出して、彼は右に左に視線を泳がせたまま、ゆっくりと距離を詰めた。
 吐息が肌を掠めた。熱を含んで、仄かに甘い。
 瞬きを忘れて見入るスガタの真下につき、タクトは下向かせていた瞳を、思い切って上に向けた。
「同じ、だから」
 蚊の鳴くような声で告げて、首を伸ばす。
 見つめ合ったまま、ガラス越しでないキスをしようとして――
「…………」
 触れあう直前で、タクトは停止した。
 あと、一センチ足らず。
 じわじわと迫るその時に期待を膨らませていたスガタは、残り僅かとなったところで凍り付いてしまった少年に焦れて、勢い余ってその手を掴み取った。
 自分からくちづけてやろうと前に出た瞬間、悟ったタクトが絶叫をあげた。
「うぎゃぁああぁ!」
「タクト!」
「やっぱ無理。絶対無理。こんなのムーリーっ!」
 折角の艶めいた雰囲気を一気に台無しにして、彼は迫り来るスガタの顔を引っ掻き、押し返した。
 鼻の穴に指を突っ込まれそうになって、流石のスガタもこれには引き下がらずを得なかった。仕方無く手を放して、顰め面をして右足を横に伸ばす。
 ずっと腰を浮かせて屈んでいたので、足首が疲れ始めていた。屈伸をして凝り固まっていた関節を解して、今度はタクトと同じ舞台の端に並んで座る。
 隣に居場所を定めた途端、タクトは何故かそそくさと反対側へ逃げていった。
「……傷つく」
「うっ」
「本当は嫌いなんじゃないのか、僕のこと」
「そんなわけ」
「なら、どうして離れるん、だっ」
 よいしょ、と腰を浮かせ、スガタは出来上がったばかりの空間を一足飛びに飛び越えた。
 先ほどよりもずっと近くに来られて、腰骨がぶつかる感触にタクトは頬を痙攣させた。
 ふて腐れている横顔を窺って、目が合いそうになった途端にパッと逸らす。頬は赤いまま、夕焼けよりも色の濃い瞳も宙を彷徨い安定しない。
 三角に立てた膝に顎を置いて、両手で足を囲んで背中は丸めて。
 実際よりも随分と小さく見える彼に肩を竦め、スガタは足を投げ出し、背筋を反らした。
 ぐーっと身体を伸ばして、右腕一本を支えに上半身を斜めに傾がせる。タクトの燃えるように赤い髪に触れて軽く引っ張り、痛がった彼が自分の方を振り向くように仕掛ける。
 悪巧みを成功させて微笑み、スガタは目を細めた。
「逃げないでくれ」
「スガタ……」
「たとえお前が僕を好いてくれていると分かっていても、こうも露骨に避けられたら、不安になる」
 好きな人を前にしたら、ドキドキして、ソワソワして、むずむずして、じっとなんかしていられない。嬉しいのに恥ずかしくて、楽しいのに怖くて、笑いたいのに笑えない。
 相反する感情が同時に湧き起こり、それぞれ別々の方向に走り出そうとして、綱引きの結果「逃げる」という選択肢が最優先されてしまう。
 タクトがスガタに、勝手に決めつけないで欲しいと訴えたように。
 スガタもタクトに、感情と向き合うのを避けて楽な方に逃げ込まないで欲しいと願った。
「僕だって、同じなんだ」
 捕まえた手を優しく引き寄せて、己の左胸へと押し当てる。広げた掌が布越しに鍛えられた胸板に触れて、タクトは咄嗟に肩を引こうとした。
 ピクリと震えた指先に、トクン、と鼓動が生まれた。
「あ……」
 脈打つ鼓動は、力強く、温かかった。緊張しているのか、少しだけテンポが速い。とくとく言っている。スガタが生きている、なによりの証だ。
 目を見張り、タクトは顔を上げた。久方ぶりに正面から彼を見詰めて、頬を紅潮させる。
 視線が交差したのが嬉しいのか、スガタは子供みたいにはにかんだ。
「好きだよ、タクト」
 囁き、首を伸ばす。
 無防備な額にちゅ、とくちづけて、彼は甘えるようにタクトの肩に寄り掛かった。
 横から体重を預けられて、タクトは発作的に飛び退こうとしたのをぐっと堪えた。しなだれ掛かってくる身体を受け止めて、空を握った両手を広げる。
 爆発しそうな心臓を必死に宥めて、襟を掴んで思い切り引っ張る。
「ぼく、も」
 声が震えるのを止められない。首を振って顔を上げて、スガタは唇を戦慄かせているタクトに目を細めた。
 背中を丸め、身を屈める。緋色の眼を覗き込む彼に、タクトはハッと息を吐いた。
 迷いを打ち消し、瞼を閉ざす。
「好き……だよ」
 精一杯の想いは、そうっと下りて来たスガタの唇に吸い込まれていった。
 

2011/02/19  脱稿