見上げる天井は灰色で、染みひとつ無かった。
目を閉じれば自分の鼓動が喧しく響いて、波立つ心は少しも鎮まってくれない。なかなか訪れない睡魔に焦れて、アリババは寝床から身を起こした。
すぐ隣では髪を解いたアラジンが大の字になって転がっており、反対側には細長い筒状の枕を抱いたモルジアナが、身体をくの字に曲げて眠っていた。
「…………」
穏やかなふたりの寝息を確かめて、眉間に寄った皺を指で解す。そうっと息を吐き、アリババは慎重に寝床の端に移動した。
シーツに浅い波を刻み、床に降り立てば、素足の裏から夜の冷気が音もなく忍び込んできた。
「っ!」
身震いし、出そうになった声を封じて唇を噛み締める。寝間着の上から己を抱き締めて縮こまり、彼は数秒間停止した後、意識して肩の力を抜いた。
四肢の強張りを解いて、腕を解放する。ゆるゆる首を振って後ろを窺うが、チーシャンからなにかと縁の深いふたりは未だ夢の中だった。
彼らの眠りを邪魔しないよう細心の注意を払いながら、向かう先は閉ざされた扉だ。
「開けゴマ、なんちゃって」
アモンの迷宮でアラジンが叫んだ呪文を口にして、目を細めて道を開く。キィ、と微かに蝶番が軋んだ。ドキリと心臓が跳ねたが、寝台までは距離があり、音は届かなかったようだ。
もう一度振り返ってふたりの様子を確かめ、異変ないのに胸を撫で下ろし、アリババは意を決して廊下に出た。
シンドリア王国はまだ建国間もない、若い国だ。七つの迷宮を攻略した英雄シンドバッドが南海の洋上に作り上げた、難攻不落の要塞を兼ねた地上の楽園でもある。
きっとこんな時間になっても、商館では夜通しの宴が繰り広げられているに違いない。
剣術の師匠であるシャルルカンに誘われて何度か足を運んだが、この世のものとは思えない煌びやかさだった。美しい娘、美味しい料理、旨い酒と、まさしくアリババが長く望み続けたものが、そこにはあった。
無意識のうちに右手が腰に伸びて、巻き付けた布を擽った。
「あ、そっか」
普段はそこに、父親であるバルバッド先王の形見ともいうべき剣がぶら下がっているのだが、さすがに寝入る時まで持ち歩いたりはしない。枕元に置いて来たのを思い出して、アリババは閉じたばかりの扉に目を向けた。
逡巡し、指先が空を掻く。五秒ほど悩み、彼は左手で右肘を掴んだ。
ここはシンドリア、その中心部。人々が寝静まった後も、見張りの兵士が常に注意深く周囲を警戒している筈だ。
侵入者などありはしない。ましてや、自分のような人間を襲おうなど。
身の安全は保証されている。衣食住の心配も必要無い。周りの人間からの評価に怯え、追い出されるのではないかとビクビクしていなくてもいい。
そんな安寧とした生活を与えられたお陰ですっかり太ってしまった過去まで思い出して、アリババはふっ、と力なく笑った。
「さすがに、ちょっと寒いか」
等間隔に並ぶ扉の前を足音忍ばせて進み、回廊部へと出る。丁度白羊塔が右手に見える場所で足を止めて、彼は上腕を撫でさすった。
靴を履き、上着も持って来るべきだった。南国の島だから夜も暖かいものと、油断していた。
足踏みもして身体を温め、彼は行き場を探して左右を見回した。
別段、なにか用事があって部屋を出て来たわけではない。単に眠れなかっただけだ。
部屋で読書、という方法もあったのだが、アラジン達を起こすのは忍びない。ひとりで出来る事は思いの外少ないと肩を竦め、アリババは天井を支える回廊の柱に歩み寄った。
転落防止と装飾を兼ねた石積みの柵は、丁度胸の高さまである。ここは地上三階部分に当たり、下を覗き込めば緑に覆われた中庭が黒々と広がっていた。
「おっと」
落ちたら怪我をするだけでは済まないかもしれない。慌てて仰け反れば、視線は自然と空を向いた。
半月よりも大きく、満月には少し足りない月が、明るく地表を照らしていた。
星も沢山、輝いている。されどそれらは月に近いほど光が弱く、薄ぼんやりしているように見えた。
「やっぱり、少し。違うな」
回廊からでは屋根が邪魔をして、真上までは見渡せない。柱と屋根と、手摺りが作り出す四角形に切り出された景色に見入り、アリババは一瞬の躊躇を挟んで胸を叩いた。
星の配置は、幼い頃に城で学んだ。
バルバッドは、海運業でなり立っている国だ。国王や王族は陸に居を構えて暮らしていたけれど、国民の生活を支える海での掟は、地上でも必須だった。
知らなければ恥をかく。だから剣術や商学、帝王学と同じように、航海術も徹底的に教え込まれた。
もっともアリババは海ではなく、乾いた砂が覆う内陸を逃げ場所として選んだので、折角の知識も宝の持ち腐れと化してしまっているが。
ただ、星の配置については別だ。
荷運びの仕事をしている時などは、特に役に立った。道を見失いやすい砂漠の行路では、どの季節になろうとも位置が変わらない目印の星を探し出すことが、生きることに繋がった。
この場所からも見えるだろうか。探してみたくなって、アリババは柱に左手を添えると、中指の長さほどの厚みがある石積みの柵を右手で掴んだ。
「よっ」
爪先立ちになり、真っ先に右膝を折って手摺りに登らせる。左足が宙に浮いた。重心を前に移動させて、彼は落ちないよう気を配りつつ、左足を前に伸ばした。
上半身を柱に寄せて、右足も柵の外に投げ出す。柱を抱く左腕に力を込めて、ゆっくり、ゆっくり腰を落とせば、冷たく硬い感触が尻に当たった。
「下は見ない、……見ない」
己に繰り返し言い聞かせて、爪先を空中でぶらぶらと揺らす。足の裏に触れるものがないというのは、なんとも心細いものだった。
柵を掴む右手が攣りそうだ。痛い。しかし力を緩めるなど出来ない。上を見る。藍色の闇に浮かぶ月の周囲に、朧気な暈がかかっていた。
落ちるか、落ちないかの瀬戸際の最中にありながら、アリババの心は次第に夜空に吸い込まれ、呆気なく絡めとられた。
「すごい」
満点の夜空だ。
月が明るすぎる所為で、一部の星の輝きに元気が無いものの、それを差し引いても充分過ぎる絶景だった。
今までも何度となく見上げて来たものなのに、今日は格別のものを感じた。感嘆の息を漏らし、口を閉じるのも忘れて、アリババは高鳴る胸に心を躍らせた。
惜しむらくは、白羊塔の存在か。
あれがあるお陰で、西の水平線に近い一帯が見えない。場所を変えた方が良さそうだ。どうせなら寝転がって空を仰げるところがいいと決め、アリババは腰を引いた。
登ったばかりの柵から降りようと身動ぎ、右手の位置を後ろへとずらす。
「アリババくん?」
「うわあ!」
そこへ不意に声が響いて、彼は素っ頓狂な声を上げた。
普段よりも一オクターブは高い悲鳴をあげて、弾みでずり落ちそうになった身体を慌てて引き留める。柱に縋り付いて虚空を蹴った右足を取り戻し、一気に跳ね上がった心拍数に顔を青くする。
回廊の片隅でじたばたしている少年に、声を掛けて来た存在も慌てたのだろう。喧しい足音が夜の静寂を切り裂き、乱れた呼吸がアリババの首筋を撫でた。
依然バクバク言って五月蠅い心臓を抱えたまま、アリババは振り返る事も出来ずに凍り付いた。
丁度後ろに降りようと、体重を一端前に移動させていた瞬間だった。宙に放り出していた脚を引き寄せ、膝を折って踵を柵に引っかけようとしていた、まさにその時だったのだ。
突然の呼び掛けに驚いた足が空振りして、振り子とかした爪先に引きずられて浮かせていた腰までもが前に滑った。左腕を柱に残しておかなかったら、彼は今頃、地上に叩き付けられていた。
破れそうな心臓が、耳元で爆音を奏でていた。見開いた眼は瞬きを忘れて血走り、美しい夜景を眺めるどころの問題ではなかった。
下手に動いたら、落ちる。かといってこのままこうして居ても、いずれ力尽きて大地に真っ逆さま。
最悪の結末を想像して真っ青になっていた彼の真後ろで、大人の男の、焦りを過分に含んだ低い声が響いた。
「アリババくん!」
「ひぃっ」
声の勢いだけで吹き飛ばされるかと思った。居竦む彼を知らず、太い腕が有無を言わせず腰に回された。
胸の前で交差した手首に、金色が輝く。月の光を浴びていつもより若干白っぽい輝きに、アリババは息を呑んだ。
強く抱き締められ、ぐいっ、と力任せに引っ張られた。柵に半分も残っていなかった尻が、硬い感触を通り越してなにもない空間に漂った。
代わりに太腿に、角張った手摺りの縁が当たった。力なく折れ曲がった膝の内側がストッパーの役目を果たして、唖然とするアリババの左手が最後に柱から落ちた。
背中から人を抱く誰かの腕に当たって、跳ね返る。うなじに夜の寒さを忘れさせる熱風が吹きかけられた。
「なにをやっているんだ、君は!」
心持ち上擦った、動揺がはっきりと現れた怒号に心臓が飛び出そうになった。昼間耳にする活気溢れる、闊達な口調からは想像もつかない音色だった。
アリババは長く忘れていた呼吸を取り戻し、噛み締めていた顎の力を緩めた。ほうっと息を吐き、破れそうな心臓を男の手の上から撫でる。
「アリババくん?」
萎縮した内臓がまだ元の場所に戻ってくれない。言葉を紡ごうとしても唇は強張ったまま思うように動かなくて、仕方無く黙っていたら怪訝に名前を呼ばれた。
大丈夫だと伝えたくて緩まない腕をトントンと叩けば、背後についた背の高い男は戸惑いの末に理解を示し、肩の力を抜いた。周囲を取り巻く尖った空気が、少しだけ緩んだ。
「大丈夫かい?」
「……はい」
優しく問い掛けられて、どうにか頷いて返す。幾ばくか戻って来た余裕に目を細め、アリババはもう一度、男の手首を叩いた。
金属器は避けて、素肌に触れる。温かい。自分が生きているのを、強く意識させられた。
「もう少しで落ちるところだったじゃないか」
「落ちそうになったのは、シンドバッドさんの所為ですよ」
「……ム」
背中にぴったりとシンドバッドの胸が張り付いているので、振り向こうにも振り向けない。落下の危機が回避されたとはいえ、爪先はまだ空中を彷徨ったままであり、命の危険から完全に脱したとはまだ言い切れなかった。
だのに四肢の強張りは急速に解けていく。大きな安堵が、アリババを包み込んだ。
引きつけを起こしていた頬は緩み、口元に笑みが浮かんだ。目を細めてくすくす笑い始めた彼に眉目を顰め、執務室からこっそり抜け出して来たシンドリア王は口を尖らせた。
ジャーファルに徹夜を強いられるのを拒み、監視の目をかいくぐって抜け出して来た矢先に恐ろしい光景に遭遇した。
三階から落下したら、いくらアリババとて無傷ではいられない。慌てて駆け寄って支えてやったつもりが、責任転嫁されて彼は露骨に機嫌を損ねた。
不機嫌なオーラを肌で感じ取って、金髪の少年は琥珀色の目を細めた。
「別に俺、落ちるつもりで此処に居たわけじゃ」
「なら、どうしてだい?」
自殺願望があって手摺りに登ったのではないと言えば、すかさず質問が投げかけられた。横から顔を覗き込まれて、アリババは首を竦めた。
悪戯を見付かった幼子の反応をされて、シンドバッドの眉間の皺が深くなった。
「アリババくん」
シンドバッドとしては、彼の窮地に駆けつけて救い出したつもりでいたのだ。それを、感謝されるどころか逆に詰られたに等しいのだから、理由はちゃんと聞いておきたかった。
人間も、獣も、草木ですら夢を見る時間だ。それなのにひとり、灯りのひとつも持たずに回廊の手摺りによじ登っている存在があれば、飛び降りようとしているものと、誰だって真っ先に思うに違いない。
語気を強めたシンドバッドにゆるゆる首を振り、アリババは長らく脇に垂らしていた左腕を伸ばした。
真っ直ぐ、空に突き刺す。
「……?」
人差し指が示す方角に目をやって、シンドバッドは半眼した。
無意識に緩みそうになった腕に力を込め直して、視線を戻して抱き締めた少年の横顔をじっと見つめる。不躾な眼差しに照れたのか彼は肩を揺らし、小さく舌を出した。
「月を。ああ、いえ。星を、ちょっと」
「星?」
「はい。知っている星が無いかと思って」
鸚鵡返しに問われて頷き返し、彼は左腕を引っ込めた。膝の上で掌を上にして転がして、足を交互に、ぶらぶらと揺らす。
真下には何も無く、奈落の底とも思える空虚な空間が広がっているのもすっかり忘れているようだ。
眉目を顰めたシンドバッドは、改めて夜空を仰ぎ、闇を彩る星月の明るさに瞳を細めた。
「シンドリアは、バルバッドよりもかなり南だが」
「はい。でも、年中動くことがない、目印の星があって。キャラバンで働いていた時も、あの星が支えだったから」
見え方が違うのは当たり前、と言いかけた彼を遮り、アリババが早口に捲し立てた。振り返ろうとして首を回し、厚い胸板に耳がぶつかったところで止まる。艶やかな金髪が、シンドバッドの首飾りに重なり合った。
同じ金色でも、微妙に趣が異なる。両者が混ざり合う事は無い。硬い金属とは異なる柔らかな風合いに瞠目した彼は、次に目に飛び込んで来た甘やかな琥珀色に息を呑んだ。
きらきらと輝く、昼の太陽よりもずっと鮮やかな双子の黄金。
思考を停止させたシンドバッドを知りもせず、アリババは嬉しそうにはにかんだ。
「シンドリアでも、あの星が見付かれば。俺はもう、あの時みたいに道に迷う事はないんじゃないかって」
黒い霧に覆われていた、数ヶ月前のバルバッド。
そこに数奇な運命に喘ぎ、懸命に出来る事を模索して、ひとり足掻く少年がいた。
暴走する仲間を留めたいのに声に出せず、答えの無い袋小路に迷い込み、呻くように息をしていた。このままではいけないと分かっていても状況を打開する術が見出せず、途方に暮れて、道標を探して天を仰いでいた。
伸ばした手は、ずっと虚空を掴み続けていた。
ふと気になって、シンドバッドは自分の手の在処を確認した。アリババの細い腰を囲って、手首を交差させて己の小手を掴んでいる。その、上に来ている腕に、アリババの右手が添えられていた。
ただそれだけだ。恐らく彼にとって、さほど意味のある行為ではなかろう。そこにあるから握っているだけ、それ以上でも、それ以下でもない。
だのに何故か、シンドバッドにはそれが妙に象徴的な、感慨深い光景に思えた。
「でも此処からじゃ、ちゃんと見えなくて。もっと広い場所に移動しようと思ってたら、……あの、シンドバッドさん?」
「――え?」
首を竦め、アリババが笑いながら続けた。何故落ちそうになったのか、その原因に言及しようとして、後ろに佇む男の様子がおかしいのに気付く。
下から見上げられて、シンドバッドは目を瞬いた。
突き刺さる眼差しに、頬が引き攣った。話の途中だったのを思い出す。聞いていなかったのだと気取り、今度はアリババの頬が盛大に膨らんだ。
睨まれて、背筋がざわりとざわめいた。
「す、すまない」
「ひぎゃあ!」
悪寒が走って、咄嗟に腕を振り解いてしまう。支えを失い、ただ柵に腰掛けているだけだったアリババの上体がぐらりと傾いだ。
ゆっくり前のめりに倒れて行く彼の視界に、真っ黒い闇が広がった。迫ってくる。下から吹き上げる風が金髪を攫い、目に見えない無数の触手が白い肢体に絡みついた。
引き込まれる。恐怖に竦んだ身体は凍り付き、自由を失った両手が虚無を掴んだ。
「アリババくん!」
絶叫が闇を劈く。鼓膜を突き破る怒号が、深淵から伸びる死者の手を薙ぎ払った。
これまで以上の力を込めて、シンドバッドがアリババを抱き締めた。捕まえ直し、力業で引き寄せる。
担ぎ上げられて、雪のように白い爪先が空を蹴り飛ばした。
ばたばたとふたりして回廊の端で暴れ回り、息を切らし、急上昇した心拍数に温い汗を流した。ぜいぜいと喘ぎながら肩を上下させて、アリババはやがて窄めた口から息を吐き、真後ろの温かい壁に背中を預けて寄り掛かった。
のし掛かる重みを胸で受け止めて、シンドバッドは咥内に溢れた唾を飲みこんだ。
「吃驚させないでくれ」
「……すみません」
うなじに顔を埋めて来た男の独白に、アリババは一呼吸挟んで項垂れた。
今のだって、本当はシンドバッドの方が悪い。彼が急に手を離したりしなければ、アリババは二度も死を意識せずに済んだのだ。
だがそれは言わずに済ませ、抱き締める、というよりはしがみついて来る男の手を叩き、撫でてやる。
背中越しに感じる体温は焼け焦げそうに熱く、聞こえて来る鼓動はアリババのそれよりもずっと速かった。
星を探したいのに、上を向く気になれない。重なり合うシンドバッドの大きな、ペンを執るよりも剣を握る方が似合いそうな無骨な手が気になって、そればかり眺めてしまう。
幾らか落ち着きを取り戻した心臓に胸を撫で下ろして、アリババは心地よい温もりに身を委ねた。
ごろりと首を左右に振って後ろにしなだれかかると、短い髪に頸を擽られた男が身じろいだ。
瑪瑙色の目を眇め、怪訝にしながら相手を窺う。アリババは気にせず、不安定な足場に己を据えたままシンドバッドに笑いかけた。
今し方、彼は死にかけた。
にも拘わらず、だ。シンドバッドにその意志がなかったとはいえ、自分を突き落としかけた男を疑いもしない。
全幅の信頼を置いて、顧みようともしない。
どくん、と強く心臓が戦慄いた。
「っ……」
「シンドバッドさん?」
「君は知らなくていい」
「え?」
真横で息を潜めた男に、アリババが小首を傾げる。その細い体躯を力任せに抱き締めて、シンドバッドは呻くように囁いた。
耳朶に触れる微風に鳥肌を立てて、アリババの瞳が僅かに翳った。発言の意図を探ろうとする彼を胸の中に閉じ込めて、シンドバッドは彼の眼から光さえ奪った。
柵から引きずり下ろし、立たせる最中に半回転させて自分の方に向かせる。正面から改めて抱き締めて、身動きを封じこめる。
圧迫感に息苦しさを覚え、アリババが嫌がって頭を振った。抜け出そうと藻掻く少年を力業でねじ伏せて、足りていない言葉を補う。
「君がこの国にいる限り、道標となる星など、必要ない」
永遠に手が届かないような、夜空の星を求めなくてもいい。救いを求めたところで手を差し伸べてもくれない、冷酷な天に焦がれ続ける理由などない。
この国には、星月の心細い明かりよりももっと眩く、大きな、太陽のような輝きが集っている。
だから。
「必要無いんだ」
繰り返される、呻くように絞り出された言葉。
身を抱くには些か強すぎる力に四肢を締め上げられて、アリババは見開いた目を細め、時間をかけて静かに閉ざした。束縛から辛うじて逃れた利き腕を伸ばし、空へと伸ばす。
抱き締めた子に背を撫でられる男の姿は、贖罪を求めて頭を垂れる巡礼者の影に似ていた。
2011/12/11 脱稿