融化

 今年もまた、この日がやって来てしまった。
「はぁぁ」
 重苦しい溜息をついて、綱吉はのっそり顔を上げた。正門を潜ってすぐ、校舎に入って真っ先に目に飛び込んで来た光景に、彼は失笑せざるを得なかった。
 行儀良く並んだ下駄箱の、その一角。二年A組の生徒が使用している一帯には、何時にも増してピンク色のハートが飛び交っていた。
「獄寺君、これ、受け取って!」
「山本君、あの、これ……どうぞ」
 二年生女子の人気を二分している、とも言われている男子生徒の周囲には、朝早い時間にも関わらず素晴らしい人垣が出来上がっていた。紺色のセーターやベスト、或いはベージュ色のジャケットに身を包んだ女子が、この日のために用意したチョコレートを手に、目当ての人物に受け取って貰おうと甲高い声をあげている。
 騒々しい限りの光景に肩を竦め、綱吉は賑わいからちょっと離れた場所で落ちそうになった鞄を担ぎ直した。
 学校に来るだけでも大変だった。彼らは道すがら、余所の中学校の生徒や、小学生らしき私服の女の子、果ては高校生と思しき見知らぬ制服の女子にまで追い掛けられていた。
 そんなふたりの両手には、大きめの紙袋が既に複数ぶら下がっていた。
 対して、彼らの間に挟まれて登校した綱吉の収穫は、ゼロ。
 分かってはいたけれど、なんとももの悲しい結果だった。
「いいなー」
 チョコレートが欲しいわけではないし、ましてや告白されたいわけではない。
 単純に、あれだけの人達に好かれる彼らが羨ましかった。
 遠巻きに光景を眺め、綱吉は呟いた。軽くも重くもない鞄を叩いて小さく嘆息して、まだ玄関から動けずにいる友人等に手を振る。
「教室、先行ってるねー」
 聞こえたかどうかは分からないが一応断りを入れて、混雑している廊下をひとり、歩き出す。履き替えたばかりの上履きは踵が潰れてしまっており、靴というよりはスリッパに近かった。
 実を言えば、少しサイズが小さいのだ。二年生に進級した時に合わせて新しく購入したものだが、この一年で少しばかり足が大きくなったらしい。きっちりと履くと、爪先が苦しい。
 階段で滑って転ばないよう注意しながら、手摺りに掴まって一段ずつ登っていく。ざわっ、と空気が蠢いた気がして、足許ばかりみていた彼は踊り場の手前で顔を上げた。
 てっきり山本達が女子から逃げて来たのかと思ったが、違う。
 落ち着きを失った空気は、上方から流れて来ていた。眉を顰めた綱吉は、程なくして原因を悟り、怪訝にしていた表情を穏やかな笑顔に作り替えた。
 クスリと笑っていたら、下りて来た黒服の生徒に思い切り睨まれてしまった。
「おはようございます」
「おはよう」
 それでも表情を変えず、綱吉は朗らかに朝の挨拶を口遊んだ。
 踊り場まで降りて来た青年は、肩に羽織った学生服を揺らし、緋色の腕章をこれ見よがしに主張しながら短く言い返した。
 この学校で彼を怖がらない生徒は、綱吉の他には山本、獄寺、そして了平くらいではなかろうか。
 それらのメンバーに共通している秘め事に思いを馳せて、綱吉は眉を顰めている雲雀に目尻を下げた。
 笑っている彼を面白く無さそうに見下ろして、雲雀は顎をしゃくった。階下を指し示した彼につられて振り向いて、綱吉は首を傾げた。
「騒がしいね」
「だって、今日は二月十四日じゃないですか」
「……ああ、あれね」
 山本達はまだ玄関先で女子に捕まっているのか、追い掛けて来る気配はなかった。女子のはしゃぐ声はなんとも姦しく、かなり距離がある此処でも聞こえた。
 風紀委員長の不機嫌そうな質問に、綱吉は相好を崩した。
 直ぐにピンと来たらしく、彼は緩慢に頷いた。面倒臭そうに溜息混じりに呟いて、脇に垂らしていた両手をスラックスのポケットへと押し込む。
 外側に向いて肘が広げられて、黒い学生服がふわりと広がった。
「風紀違反だ」
「取り締まっちゃうんですか?」
「群れてる連中は、容赦なく咬み殺す。なに、君も違反組?」
 ぼそりと言って、雲雀は歩き出した。綱吉の横をすり抜けて、一階へ下りようと足を前に繰り出す。
 慌てた綱吉は叫んで、気難しい顔で訊かれて答えに詰まった。
 自分は獄寺や山本とは違って、女子からの人気は最低ランクに留まっている。義理で恵んでくれる子すら、殆ど居ないのが実情だ。
 分かってはいるけれど、改めて言葉にするととてつもなく切ない。
 一年に一度、異性から己に対する評価が下される日に、ひとつも得られないというのは悲しすぎる。
「どうせ、俺はひとっつも、貰ってませんよ-、だ」
 山本達ほど大量に欲しいとは、流石に思っていない。だが収穫無しも、男としてかなり情けなく、恥ずかしい。
 頬を膨らませてふて腐れた声で言った綱吉に向き直り、雲雀は出そうとしていた足で床を蹴った。爪先を立てて足首をくるりと回し、呆れ混じりの表情で落ち込んでいる少年を物珍しそうに見詰める。
 蜂蜜色の髪の毛は今日も元気に爆発して、四方八方を向いて棘のように跳ねていた。頬はぷくぷくしており、寒い外から屋内に入ったばかりというのもあって、淡く色付いていた。今は空気を含んで、いつも以上に膨らんでいる。
 思わず指を出して突いてやりたくなって、雲雀はポケットから手を引き抜いた。が、人差し指を伸ばそうとしたところで我に返り、慌てて背中に隠した。
 不自然な動きだったが、綱吉は気付かなかった。まん丸い琥珀色の瞳で年上の青年を目一杯睨み付けた後、ぷいっ、と勢いつけて顔を背けた。
「ヒバリさんだって、くれる人、いないくせに」
 吐き捨てるように言い放った綱吉の横顔にピクリとして、雲雀はムッと口を尖らせた。
 ただでさえ不機嫌全開だったところにとどめの一撃を食らって、彼から立ち上る空気が一気にどす黒く膨らんだ。風もないのにひやりとしたものを感じて、綱吉はハッとして今頃自分の失言を悟った。
 しまった、と口を手で覆うけれど、もう遅い。一度表に飛び出してしまった言葉は、最早無かった事にするなど不可能だ。
 撤回する余地すら与えられず、綱吉はじりじり距離を詰めてくる雲雀に首を振った。
「いや、あの。えっと、ヒバリさん」
「君と一緒にしないでくれるかな」
「ひぃ!」
 巧い言い訳を探すが、頭は真っ白でなにも思い浮かばない。逃げようと鞄を抱えて後退するが、すぐに踊り場の壁に行き当たってしまった。
 通りがかる生徒は、綱吉に絡んでいるのが雲雀だと知った途端に早足になった。仲裁に入ろう、という勇気ある人物は、ひとりとして存在しなかった。
 早く獄寺たちが来ないだろういか。壁際に追い込まれ、綱吉は視界にちらつくトンファーに怯えて涙目で震え上がった。
 朝からついていない。チョコレートを貰うどころか、痛い一撃を喰らう事になるだなんて。
 数秒後の自分を想像して鳥肌を立てて、彼は首を竦めてぎゅっと鞄を抱き締めた。
「ご、ごめんなさい」
「大体ね。僕は、貰わないんじゃない。受け取らないんだよ」
「そ、そそそっ、そうですね! ……え?」
 右手に持ったトンファーを横に構え、綱吉の喉元に突きつけた雲雀が語気を荒くして捲し立てる。恐怖に負けてちゃんと聞いていなかった綱吉は、条件反射で同意の言葉を吐いて、それから一連の会話を振り返って目を丸くした。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、きょとんとしながら目の前の青年を見上げる。
 不思議そうにされて、雲雀は若干気まずい気持ちになって身を引いた。
 トンファーが遠ざかっていく。圧迫感が薄れて、綱吉は壁から背中を引き剥がした。
 汗ばんだシャツが素肌に別れを告げて、ほんのり冷えた空気が間に割り込んで来た。
「え?」
 ぶるりと震えてから、彼は首をコテン、と右に倒した。雲雀は依然余所を向いたまま、目を合わせようとしなかった。
 貰わないのではなく、受け取らない。彼はそう言った。
 つまりは、彼に渡そうとする猛者がこの学校に何人かいる、という事だ。しかし彼はそれを悉く断っている。
「命知らずだなあ」
 泣く子も黙る風紀委員長にチョコレートを渡そうなど、考えるだけでも恐ろしい。結果は目に見えているのに、玉砕覚悟で突撃する女子の気が知れない。
 うっかり声に出てしまった率直な感想に、綱吉はまたも言ってから気付いて口を塞いだ。
 恐る恐る前を窺うと、雲雀はまだ横を向いて、ほんのり頬を紅に染めていた。トンファーは下ろされて、殴りかかってくる様子はみられない。
 どうやら今のひと言は、彼には聞こえなかったようだ。ホッとして、綱吉は胸を撫で下ろした。
「でも」
「……ん?」
「君がくれるっていうなら――貰ってあげてもいいよ」
「はい?」
 相好を崩している彼をちらりと見て、雲雀が誰も後ろを通り掛かっていないのを確認してからぼそり、言った。
 発言内容がいまいち理解出来なかった綱吉は目を点にして、素っ頓狂な声をあげた。
 足許からざわざわした空気が流れてくる。冷たい汗を流し、彼は素早くトンファーを片付けた青年をまじまじと凝視した。
 先ず空耳を疑った。次に、ここにいる人物が本物の雲雀恭弥なのかと疑った。
 幻覚使いの霧の守護者を思い浮かべるが、だとしたらもっと言い表しようのない、腹の奥底を汚れた手で撫でられるに似た、激しい不快感と悪寒に襲われて然るべきだ。
 だからこの人は、綱吉の知る並盛中学校風紀委員長の肩書きを持つ雲雀恭弥に他ならない。先ほどの発言も、聞き間違いかなにかだとは、思えない。
「え、え……っと?」
「じゃあね」
「あっ」
 頭が混乱して、綱吉は顔を引き攣らせた。なにか言わなければ、と思うのに言葉が出てこなくて、そうしているうちに雲雀はさっさと話を切り上げて踵を返してしまった。
 山本と獄寺が、まだしつこくつきまとう女子を懸命に追い払いながら、紙袋を手に階段を登ってきた。
 一足先に上の階へ移動を果たした雲雀の姿は、彼らからは見えなかったようだ。踊り場の片隅で惚けて立ち尽くしている綱吉に気付き、ふたりはどうしたのかと首を傾げた。
「ツナ?」
「十代目、どうかされましたか」
 ぞろぞろと女子を引き連れて歩く彼らの姿は、なにか違うものを想像させた。今し方自分の身に起きた出来事を話すわけにもいかず、綱吉は少々薄気味悪くもある光景に顔を引き攣らせた。
 不思議そうに顔を見合わせる嵐と雨の守護者に見付からぬようそっと嘆息して、綱吉は教科書と弁当が入った鞄に額を沈めた。
 

「持ってこいって事なのかなー」
 教室に入って自席に着いて、綱吉は物憂げな表情で呟いた。
 机に置いた鞄に再び顔を埋め、気怠げに首を振る。鞄の角が額を擦ったがさほど痛くもなくて、彼はそのまま一分近く突っ伏し続けた。
 玄関前での騒動は、教室に到着してからも続いていた。山本と獄寺は各々複数の女子に囲まれて、クラスの男子からやっかみの視線を貰っていた。
 もそもそ顔を上げて、綱吉は彼らの方を何気なく見た。獄寺は愛想悪くして、受け取りはするけれどお礼を言おうとはしない。逆に山本はにこやかに感謝の意を述べて、ひとつひとつ大事に袋に詰めていっていた。
 ふたりの態度は対照的だが、どちらも同じくらい人気がある。三袋目に突入した山本をぼんやり眺めていたら、目があって手を振られた。
「ツナも食うか?」
 早速手近なところにあった箱のリボンを解き始めた彼に、綱吉は慌てて首を振った。がたりと音を響かせ椅子から腰を浮かせて、立ち上がろうとしたのを思い直して再び座る。
 授業開始時間まで残り少ないというのに準備もせず、頬杖付いて天井を仰ぎ、彼は踊り場で雲雀に言われた台詞を頭の中で再生させた。
 もう何十回と繰り返した。発音が近い単語をあれこれ組み合わせて、入れ替えてみたけれど、それではちゃんとした文章にならない。だから一言一句、聞き間違えてはいない筈。
「ああ、もう」
 困り果てて頭を抱え、綱吉は上唇を噛み締めた。
 冷静になって考えると、雲雀のあの台詞は、負け惜しみの強がりにも感じられた。
 綱吉と同じく、彼も本当は誰からもチョコレートが貰えずにいた。しかしそれを認めるのが悔しいから、あんな風に言ったのではなかろうか、と。
 そう考えると、なんだか雲雀がとても可愛らしい人に思えてくるから不思議だ。
「ふふ」
 肩を震わせて笑いを堪え、綱吉は手の甲を口に押し当てた。目を細めて、もう一度雲雀の台詞を反芻する。負けず嫌いが意地を張っているだけ、と思った途端、彼の事がちっとも怖く無くなってしまった。
「あは」
 もうひとつ声に出して笑って、綱吉は両手を広げた。チャイムが鳴ったので、流石に机に置いたままの鞄はどうにかしなければいけない。
 ファスナーを開けて教科書とノート、それに筆記用具を取り出せば、鞄の中は弁当箱だけになった。
 今朝は余裕を持って家を出られた。奈々がこの弁当を作っているところも、歯を磨きながらだったが、ちょっとだけ盗み見る事が出来た。
 中身はご飯に、卵焼きに、肉団子に、ポテトサラダ。あとはデザート。
「……お?」
 手際よく詰められていく主菜や副菜を順に思い浮かべていくうちに、彼はとある事を思い出して目を見開いた。
 前方の扉から、一時間目の担当教諭がのっそりとした足取りで入って来た。綱吉は急ぎ鞄を片付けて机のフックに引っかけて吊し、ノートを広げて筆箱からはシャープペンシルを取り出した。
 ちらりと横を見れば、獄寺が山盛りのチョコレートを前に途方に暮れていた。片付けるのも面倒なのか、ひとつ溜息をついた後は左右に分けて積み上げて、真ん中の空間に顔を埋めてしまった。
 彼は今日も、授業は寝て過ごすつもりらしい。いったい何のために毎日学校に来ているのかと苦笑して、続けて山本の様子を窺って肩越しに振り返る。
 彼は獄寺とは違い、チョコレートはきちんと紙袋にしまって、床に並べていた。
 もっとも彼も授業を真面目に聞くタイプではない。先ほど封を解いたチョコレートの箱の中身を物色して、早速ひとつ口に含んでもぐもぐしていた。
 思わず噴き出してしまって、両隣から冷たい視線を浴びた綱吉は慌てて垂れた涎を拭って顔を引き締めた。頬を軽く叩き、真剣に聞いていてもさっぱり理解出来ない授業に集中する。
 だが案の定、途中からは他の事に気持ちが向いて、ノートは最初の三行が埋まっただけで後は真っ白だった。
 休み時間の度に他のクラスからも女子が押しかけて、約二名の席だけは随分と賑やかだった。去年も見た光景に多くは呆れ顔で、綱吉もほんわかした気持ちで彼らの遣り取りを見守った。
 親しくしている友人が、大勢から好かれているのは嬉しい。
 だから、皆から距離を置かれている人にも、今日くらいは優しく接してやろう。
 他から貰えないのなら、一個くらい恵んでやってもバチは当たるまい。そんな大袈裟な、ちょっと気が大きくなった事を考えながら、綱吉は午前の授業が全て終わるのをひたすら待った。
 彼はいったいどんな顔をするだろうか。
 想像するけれど、全く思い浮かばない。驚くか、笑うか、もしかしたら怒るかもしれない。
「でも、持って来いって言ったのはヒバリさんだしな」
 トンファーで殴られるような事は、流石になかろう。ふふふ、と含み笑いを零して、綱吉は四時間目の授業終了を告げるチャイムと同時に立ち上がった。
 急いで机の上を片付け、弁当だけが入っている鞄を手に取る。すかさず獄寺から何処へ行くのか、の声が飛んだが、追い掛けようとした彼の前には、例の如くチョコレートを手にした女子がどっと押し寄せて列を作った。
 山本も似たり寄ったりの状態で、素早くドアの前へ移動した綱吉に首を傾げた。
「ツナ。お前、昼は?」
「ふたりは忙しそうだし、俺は、バレンタインと無関係の者同士でのんびり食べて来るよ」
「誰ですか、それは」
「食べ過ぎて鼻血出さないようにねー」
 言って、ひらりと手を振って綱吉は教室を出た。後ろから獄寺の悲鳴じみた叫び声が響いたが、それも女子の騒がしい歓声に掻き消され、綱吉の耳には届かなかった。
 奈々お手製の弁当を抱き抱え、生徒でごった返す廊下を急ぎ足で通り抜ける。食堂へ行く生徒、購買へ行く生徒、或いはトイレに向かう人。
 各々が思い思いに時間を過ごす中、綱吉は徐々に静けさを増していく乾いた空気に唾を飲んだ。
 思えば、彼処に行くのは久しぶりだ。よっぽど用事が無い限り、応接室になど足を向ける機会はそう多くない。
「……うぅ」
 人気が無くなった空間に尻込みして、彼は小さく唸った。冷静になって考えてみたら、自分はかなり大胆な事をしようとしているのだ。あの鬼の風紀委員長こと雲雀恭弥に、チョコレートを恵んでやろう、など。
 いや、彼に分けてやるつもりでいるのは、具体的に言えばチョコレートではないのだけれども。
「うむ、ぐ」
 山本や獄寺についてきて貰えば良かったか。教室に置いてきた友人ふたりを思い出すが、あの女子の群れから引きずり出すのはかなりの勇気が要る。
 だからふたりを残して来たのは正解だったと自分を慰めて、綱吉は胸に手を当てて深呼吸した。
「あ、そうだ」
 そうして指先に触れた凹凸に、彼は妙案だと目を瞬いた。
 急ぎ襟からシャツの中に手を入れて、首からぶら下げていた銀チェーンを引き抜く。出て来たのはごてごてした装飾の指輪だった。
「ナッツ、おいで」
 周囲に人が居ないのを急ぎ確かめて、指に嵌めてそっと囁きかける。同時に拳を作って大空の炎をほんの少し注ぎ込んでやれば、ぽわん、とオレンジ色の毛玉が綱吉の前に突如現れた
 くるくる回って、四本足で綺麗に着地する。だが直ぐにバランスを崩してコロン、と後ろ向きに転がった。
「ガウ、ガッ、ガウゥ~~」
「お前さ。なんで、なにもない所で転けるんだ?」
 自分の運動神経の無さを棚に上げて、綱吉は片膝を付いて現れた小動物に手を差し伸べた。起こしてやり、サンバイザーを被った頭を優しく撫でてやる。
 彼の指先を気持ちよさそうに受け止めて、橙色をした毛玉、もとい天空仔ライオンのナッツは機嫌よさげにごろごろ喉を鳴らした。
 好奇心旺盛な眼が辺りを見回して、不思議そうに細められた。
「ガウゥ?」
「おいで、ナッツ。お前が一緒なら、ちょっとは、うん。心強い」
 ひとりきりで行くよりは、幾分マシ。なんとも頼もしくない相棒を連れて、綱吉は長らく休めていた足を前に繰り出した。
「ガウ?」
 呼びだされた理由が良く分からないまま、ナッツも彼に続いた。短い脚をこちょこちょ動かして、応接室のドアの前を通り過ぎようとして立ち止まった綱吉の元へ慌てて戻ってくる。
 緊張を顔に出した主をきょとんとした顔で見詰めた後、ノックの音を聞いて耳をぴくりと立てた。
「居るかな」
 まだ季節は冬で、外は寒い。屋上で昼寝をするには無謀な気温だ。
 だから此処に居る筈だと当たりをつけたのだが、返事はなかなか返ってこなかった。
 不在を疑い始めた頃、大人しく足許に座っていたナッツが鼻をぴくぴくさせた。
「ガウ!」
「ん?」
「キュウゥ?」
 ナッツに鳴き声に合わせ、扉を挟んだ向こう側から可愛らしい獣の声がした。思わず仰け反ってドアから離れた綱吉の前で、ドアはゆっくりと内側に引き込まれた。
「ガウ。ガウガウ、ガウ~」
 道が出来て、飛び跳ねたナッツが細い隙間に身を躍らせた。
 突然駆け出した匣アニマルに吃驚して、綱吉は慌てて半端に開いているドアを押した。
「あっ」
 そこには当然、ノブを握って回した人物が立っていた。
 すっかりそのことを忘れていた綱吉は目を丸くして、頭から突進していった己を受け止めた青年を呆然と見上げた。
 左手はドアに、右手は綱吉の肩に添えて、雲雀は飛び込んで来た二匹の小動物に目を瞬いた。
「……どうしたの」
 質問する声が少し掠れていた。耳慣れた、不機嫌に歪んだ声とは一寸違うトーンに綱吉は琥珀の目をまん丸にして、それから自分の状況を思い出して顔を赤くした。
 これでは抱き抱えられているようなものだ。
 爪先立ちのまま身を捩っていたら、気付いた雲雀が手を下ろした。ドアを閉めて温かい空気がこれ以上外に流れるのを防ぎ、俯いている綱吉の項を何ともなしに眺める。
 彼らの足許では、ハリネズミと仔ライオンが楽しそうに鼻を小突き合わせていた。
「ガウ、ガウゥ、ガウ~」
「キュ、キュキュー」
「仲良し……なんだ」
「小さい者同士、気が合うんじゃないの?」
 今までさほど接触する機会が無かったのに、すっかり打ち解け合っている。意外だと驚く綱吉に素っ気なく言って、雲雀はカツカツ足音を響かせて奥の執務机へと戻った。
 じゃれ合っている獣二匹から顔を上げて、綱吉は椅子を引いて座る彼に視線を向けた。
「それで。なに?」
「へ?」
「用があるから来たんじゃないの」
 この時間、常なら綱吉は同じクラスのふたりとつるんでいる。群れたがる草食動物が珍しくひとりで応接室を訪ねて来たのだから、余程の理由があるに違いない。
 そう言った彼は、朝のあの約束を忘れているようだった。
「いや、あの。ヒバリさん、チョコレート」
「?」
「あ、チョコレートじゃないんですけど。ほら、俺も、ヒバリさんも、貰えない者同士って事で」
「…………」
 言葉を詰まらせながら事情の説明を開始した綱吉の前で、雲雀の顔がどんどん不機嫌に歪んで行った。
 ナッツとロールは彼の焦り具合には無関心で、じゃれ合い、ころころと転がっていた。見ていて和む光景だが笑う事も出来なくて、綱吉は鞄をぎゅっと抱き締めた。
 頬杖ついた雲雀が頬を膨らませてそっぽを向いた。
「貰えないんじゃない。貰わないんだよ」
「ああ、そうでした。そうですよね」
 微妙な言葉の違いだが、意味合いはかなり違う。
 ふて腐れて言った雲雀に同調して頷いて、綱吉は冷や汗を拭って拉げている鞄を揺らした。
 勝手に使って良いものか迷ったが、他に置く場所もないので応接セットのテーブルを借りて、中身を取り出す。雲雀が横目でちらちら窺っているのを肌で感じながら、綱吉は母が持たせてくれた弁当の包みを解いた。
 四隅に皺が寄った布の真ん中に、小規模なピラミッドが現れた。
「ガウ!」
「こら、ナッツ。ダメだよ」
 匂いを気取ったナッツが、ぴょん、と飛び跳ねてテーブルの縁に前脚を引っかけた。鼻をふんふん言わせて興奮気味に目を輝かせている。だが、基本的に匣アニマルに食べ物は必要無い。
 新しい玩具を見つけた気分なのだろう。短い脚で引っ掻こうとするナッツを払い除けて、綱吉は上に載せられていた小さなタッパーを持ち上げた。
 ナッツと戯れる綱吉をぼんやり眺めていた雲雀は、彼が振り向くに合わせて急ぎ首を横に向けた。
「これ、少ないですけど」
「なに」
「イチゴです」
 恵まれない寂しい者同士、フルーツを抓んで心を慰め合おう。
 そんな事を口にして、綱吉は四角形の蓋を外した。
「誤解してる」
「なにか言いました?」
 心なしかウキウキしている綱吉を横目で睨み、雲雀がぼそりと言った。聞こえなかった綱吉は即座に訊き返したが、彼はむすっとしただけでなにも教えてくれなかった。
 椅子ごと右手の壁を向いてしまった彼に肩を竦め、綱吉はメインの弁当に悪戯されぬよう布を被せると、赤色のタッパーを手に歩き出した。
 ナッツの注意は、今度は空になった鞄に向いた。引っ掻いてテーブルから落とし、じゃれついてころん、と仰向けになる。ロールが隣で心配そうに見上げるが、針だらけの背中では助け起こしてやれない。
 キュウキュウ言っている小動物に微笑んで、綱吉は仕事中の机に、遠慮がちにタッパーを置いた。
 雲雀がちらりと視線を流す。中に入っていたのは、まさしく苺だった。
 ヘタが取り除かれた、赤い果実。だがその下半分は、茶色に染まっていた。
 腐っているのではない。
「えへへ」
 僅かに目を見張った雲雀に、綱吉は得意げに胸を張った。
「ヒバリさんにも、お裾分けです」
 溶かしたチョコレートをコーティングしたのは勿論奈々で、綱吉は後ろで見ていただけ。
 昼食のデザ―トにここまで威張れる子は珍しいと、雲雀は表情を引き締めて肩を竦めた。
「別に僕は、甘い物は好きじゃないんだけどね」
「む」
「でも、くれるって言うなら、貰ってあげるよ」
 何故素直にお礼を言えないのだろう、この人は。
 綱吉が膨れ面をする中、わざわざ人の気を悪くさせる事を口にして、雲雀はツ……と手を伸ばした。
 椅子が軋む音がした。彼の長く、しなやかな指がタッパーに埋もれる苺をひとつ、摘み上げた。
 たったそれだけなのに、妙な色気が感じられて、綱吉は知れず頬を赤く染めた。
 雲雀が口を開く。チョコレートが塗された先端を、赤い唇が包み込む。柔らかな果肉を咬み千切る、白い歯が隙間から覗いて見えた。
 思わずゴクリと唾を飲み、綱吉は緊張に顔を強張らせて彼の動向を見守った。
 瞬きすら忘れて、一心に見入る。そんな彼を脇に置いて、雲雀は半分になった果実を口の中へ押し込んだ。
 数回の咀嚼を経て、飲み込む。男らしい立派な喉仏が上下に動く様に釘付けになって、綱吉はカーッと熱くなる身体に身を捩った。
 見てはいけないものを見てしまった気分だ。人が食べているところなど、これまで何百回と目にして来ているのに、相手が雲雀だというだけで、どうしてここまで恥ずかしくならなければならないのだろう。
 両手を頬に添えて目をぐるぐる回している彼を不審げに見上げて、雲雀は指先に残った甘い汁を舐めた。
「酸っぱい」
 ぼそり、呟く。
「へ?」
 聞き間違いを疑い、綱吉は目を丸くした。
 目の前に座る青年は渋い顔をして、眉間には深く皺を刻んでいた。虚空を睨み付ける黒水晶の瞳は、真剣そのものだ。
 彼からタッパーの中身へと視線を移し替えて、綱吉は口を尖らせた。
「そんな筈は……」
「酸っぱいよ」
 確かに二月はまだ苺の季節ではなくて、市場に出回っているのもハウス栽培のものばかりだ。甘みが足りず、酸味が強いものが紛れていてもなんら不思議ではない。
 が、それもチョコレートで中和されて然るべきだ。
 語気を強めて繰り返した雲雀に弱り切った表情を向けて、綱吉はタッパーを両手で持ち上げた。例しにひとつ、抓んで口に含んでみる。
 ねめつけるような視線を感じながら齧り付いた赤い果実は、チョコレートの効力もあってかなり甘かった。じゅわっ、と果汁がいっぱいに広がって、熱で溶けたチョコレートが津波を起こした。
 ひとくちに飲み干して、満足げに微笑む。ころころと変わる表情を眺め、雲雀は組んでいた脚の左右を入れ替えた。
「甘いじゃないですか」
「酸っぱかったよ」
「じゃあ、ヒバリさんが食べたのが、偶々酸っぱかっただけですよ」
 自分が食べた分は、彼が言うような酸味をまるで感じなかった。意見を覆さない雲雀の強気な態度に肩を竦め、綱吉はほら、と残り三個になった苺をタッパーの中で転がした。
 ごろん、と一斉に坂道を下っていった苺は、壁にぶつかってそこで団子になった。ケースから飛び出そうとしているひとつに目を留めて、雲雀は渋々といった様子で右手を持ち上げた。
 綱吉の表情がにわかに緊張を帯びて強張った。
「……ン」
 雲雀がもぐもぐと口を動かして、苺を齧る。先ほどと同じように先っぽから半分、続けて残り半分を口の中へ。
 思えば彼がなにかを食べているところに遭遇するのは、これが初めてだった。彼もちゃんと食事をするのだと、妙に感心してしまった。
 黙りこくって唾を飲んでいる綱吉を盗み見て、雲雀は伸ばした舌で指を舐めた。
 赤い舌がちろりと動き、瞬く間に唇に吸い込まれていく。やけに色っぽいその仕草にハッとして、綱吉はぼんっ、と真っ赤になった。
 男のくせに、どうしてこうも艶っぽいのだろう。狂った野獣めいた凶暴さを秘めておきながら、時に俊敏な猫のようであり、また寂しがり屋の犬のようでもある。
 捉え処のない彼に戸惑っていたら、椅子ごと綱吉に向き直った雲雀が薄く唇を開いた。
「酸っぱい」
「ええー?」
 先ほどと全く同じ感想を告げられて、彼は素っ頓狂な声をあげた。タッパーを顔の前にやってちょっとだけ表面が潰れてしまっている苺を睨むが、そんなことをしたところで甘いかどうか、分かるわけがない。
 念のためにと顔を上げて雲雀を見ると、彼は視線の意味を即座に理解し、むん、と深く頷いた。
「そんな筈ないと思うんだけどなあ」
 残り二個になった苺の片方を摘み、綱吉は光に透かした。揺り動かした所為で水分が表面に出て来ている。垂れた雫を指に絡め、彼はそれを大きく開けた口に放り込んだ。
 奥歯で磨り潰し、チョコレートと果肉を混ぜていく。
 甘い、甘い香りが鼻腔を流れていった。
「ン、美味しい」
「酸っぱかったよ」
「嘘だ。すっごく甘いですよ、やっぱり」
 残った苺を指差しながら、綱吉は捲し立てた。荒い鼻息を浴びせられて、雲雀は柳眉を顰めた。
 五個のうち、とてもすっぱいものがふたつだけ紛れ混んでいて、その両方を彼が取った。こんな確率、いったいどれくらいなのだろう。
 天文学的数字を想像して頬を膨らませ、綱吉は折角の人の親切に難癖ばかりつける青年を睨んだ。
「酸っぱいものを酸っぱいと言って、何が悪いの」
「だったら、ヒバリさんの舌が変なんです。こんなに甘いのに」
 納得がいかなくて、彼はぶつぶつ言いながら最後の一個をタッパーの中で転がした。
 いったいなにが気に入らないのだろう。持って来たら受け取ってやると、そう言われたから、お情けで恵んでやろうと大空よりも広い心で訪ねて来てやったのに。
 文句を並べ立て、綱吉は残ったひとつを摘み上げた。奈々が朝早くから準備してくれたデザートにケチをつけられたのも大いに不満で、もう絶対彼には分けてやるものか、と意気込んで口を開く。
 雲雀が椅子を引いて立ち上がった。机を回り込んでくる彼を尻目に、綱吉は苺を丸々ひとつ頬張った。
「ん」
 甘い匂い、甘い果汁が口の中に広がっていく。たったそれだけの事なのに、ささくれ立っていた心は一気に綻んで、花開いた。
 幸せそうにしている彼を眺め、雲雀は資料だらけの机をコツン、と叩いた。
「甘い?」
「あむぁいれふよー、だ」
 問えば、ものを含んだまま言い返された。呂律の回りきらない舌足らずな声に肩を竦め、雲雀は更に一歩、綱吉に近付いた。
 空っぽのタッパーを一瞥して、口端から零れた汁を拭っている綱吉へと手を伸ばす。
「ン?」
「だったら、その甘いの、僕にも頂戴」
 酸っぱい苺ばかり食べさせられたから、口直しが欲しい。そんな事を嘯いて、彼は振り返った綱吉へ身を乗り出した。
 逃げられないよう手首を掴んで束縛し、驚愕に見開かれた琥珀の彩を満足げに見詰める。
 ふっ、と苺の匂いが混じった吐息が鼻先を掠めていって、綱吉は黒に埋まる視界に戦き、ぎゅっと目を閉じた。
「――ンぅ」
 唇に触れた、熱。
 柔らかく蠢くものに舐められて、ビクリと肩が震えた。雲雀が笑う気配が、とても、とても近い場所からした。
 ちゅくり、と濡れた音がして、怯えているうちに何かが歯列を割って入り込んでくる。また、水音。頭の中で響いた音色にぞわぞわと鳥肌が立つ。遅れて痺れるような感覚が爪先から上ってきて、綱吉の全身を縛り付けた。
 温かなものが、口の中を這い回っていた。思わず咬み千切りそうになって、厚みのある肉に前歯が触れた瞬間、彼はそれが何なのかを理解した。
「んぁ、や……っン」
 吃驚して突き飛ばそうとして、けれど力勝負ではてんで敵わなくて綱吉はたたらを踏んだ。後ろに倒れそうになった彼の腰を抱え込み、雲雀は硬く目を閉じている少年に相好を崩した。
 くちづけを深め、空気が漏れるのを封じ込める。声さえも奪って、苺の果肉が残る咥内を存分に荒らして回る。
 粒の大きな果肉を見つけて、舌で拾って彼の奥歯に擦りつけてやれば、彼は飲み干せなかった唾液を垂らして塊のまま飲み込んだ。
 コクン、と動いた喉仏はあまり目立たない。雲雀は雫を滴らす舌を戻し、彼を解放すると同時に顎に伝った甘い香りの液体に唇を寄せた。
 つ、と舐め取って、もう一度くちづける。
「は……」
 息継ぎの為に口を開いただけだろうが、それが誘っているように見えて、雲雀は本能の赴くまま再び綱吉に貪り付いた。
 頭がくらくらした。
 どうして自分は、この人にキスされているのだろう。
 苺が甘いだのなんだの言っていた気がするが、それすらもう思い出せない。
「や、ンぁ、ふ……んく」
 顎を抓まれて上向かされて、咥内に溢れていた甘い雫が喉に押し寄せて来た。苦しくなって喘いで、綱吉は嫌々と首を振って手を伸ばした。
 タッパーが床に落ちて跳ねて、転がった。空を掻いた指が雲雀のシャツに触れて、引き寄せて、掻き毟る。
「ンぁ――」
 長い、けれどもしかしたらとても短かったかもしれない時間が終わる。
 熱が遠退く。ゆっくり、静かに。
「ふ」
 甘い吐息が鼻腔を掠める。濡れた唇にちゅ、と触れられて、綱吉は寄り掛かっていた机にそのまま座り込んだ。
 足がふらついて、膝に力が入らない。自力では立てないでいる彼に目を細め、雲雀は揺れる肩を捕まえて無防備な額にも軽く唇を寄せた。
「ご馳走様」
 とても甘かった。そんな言葉を笑みを含んだ声で囁き、惚けたままの綱吉を残して踵を返す。床の上で、綱吉の鞄を挟んでじゃれ合う二匹に手を振って、雲雀は応接室のドアを開けた。
 赤い顔をして額を隠している少年に目尻を下げて、微笑む。
「昼は此処で食べて行くと良い。授業に遅刻したら、咬み殺すよ」
 それだけを言い残して、彼は部屋を出て行った。
 ひとり取り残されて、綱吉は。
「……え?」
 額にあった手をゆっくり下にずり下ろしながら、同じく机から床に身を沈めて、
「えーーーーーーっ!」
 ナッツとロールが吃驚して目を丸くする程の大声で、悲鳴をあげた。
「俺の、ファーストキス……」
 火照った頬を撫で、唇をなぞり、まだ甘ったるい唾を飲み干す。
 あんなにも甘い、蕩けそうに甘い、苺味のキス。
「とら、れ、ちゃった」
「ガウ?」
「キュゥ?」
 蹲ってぼそりと呟いた彼を見上げ、ナッツとロールは仲良く並んで首を傾げた。

2011/02/13 脱稿