君が、嘘をついた。

 日暮れにはまだ遠い時間ではあったけれど、西日が僅かに差し込むだけの廊下はかなり薄暗かった。
 今日最後の授業も終わって、校舎はがらんとしていた。生徒の多くは下校し、もしくは部活動に出向いてしまっている。人気の乏しい空間は、日中の賑やかさから天と地ほどの差があった。
 薄ら寒いものすら感じて、タクトは制服の上から腕をさすった。
 結局五時間目の体育どころか、その次の授業までサボってしまった。
 昼休みの終了を告げるチャイムは、屋上で聞いた。直前まで話していたワコが慌てて校舎に戻って行くのを呆然と見送って、暫く動けなかった。
 膝が笑って、ぺたんと尻餅をついて、そのまま一時間ほど蹲って過ごした。その後は流石に身体が冷えたので屋内に戻ったけれども、教室には顔を出し辛くて、演劇部の部室で、授業が終わる直前までひとり時間を潰した。
 昔に演じられただろう古い台本を読み、気晴らしにひとり芝居に興じてもみた。だが、ちっとも面白くなかった。
 用意された仮面を被り、与えられた役目をただ全うする。
 そこに演者本人の意志は存在しない。あるのは台本を書いた他人の意識と、それを見る観客の目だけだ。
 自分を空っぽにして、代わりに自分とは違う存在を招き入れる。人形に、命を与えるかのように。
 演劇指南の本もあったので適当に広げてみたが、三ページと読み進めること無く閉じてしまった。
 偽りの仮面を打ち砕くべき自分が、自ら誰かが作り出した仮面を被るなど、本末転倒過ぎる。しかしそれを言えば部長に怒られるだろうから黙っておくことにして、彼は落ちていた紙くずを何気なく拾い、握り締めた。
 どこかにゴミ箱はないかと探して視線を巡らせるが、生憎と見付からない。教室の中に入れば、と思い改めて、彼は一年一組の札の下へと歩を進めた。
 閉じていた扉を横に滑らせて、道を開く。
 誰も居ないと、そう思っていた。
 他の教室がそうだから、此処もそうに違いない。根拠もないままに信じて、疑わなかった。
「……ああ」
 俯いていたタクトの頬を、他人の吐息が擽った。ハッとして顔を上げて、握り締めていた紙くずをレールの上に落としてしまう。
 手放してしまったことにすら気付かずに、彼はその場に立ち尽くした。
 瞬きを忘れて緋色の目を見開いて。息さえも止めて。
 タクトは呆然と、窓辺の机に腰掛けた青年に見入った。
「遅かったな」
 誰も居ないと思い込んでいた。
 居るわけが無いと、そう信じようとした。
 窓際、後ろから二番目。他ならぬタクトの席に浅く腰を預けていたスガタは、投げ出していた長い脚を引き寄せてゆるりと立ち上がった。
 斜めに差し込む日差しが彼の輪郭をあやふやにしていた。それでもはっきりと解る青い髪と涼やかな瞳が、真っ直ぐにタクトへと向けられる。
 穏やかに微笑んでさえいる彼を前に凍り付いていたタクトは、はっと息を吐き、乾いてしまった瞳に潤いを与えようと瞬きを繰り返した。
 夢や幻の類でないのは、分かりきっている。だけれど一縷の望みに賭けてみたくて、目を擦ってみたものの、変わる事無くシンドウ・スガタはそこに在り続けた。
 シャツの裾をスラックスに入れて、お手本のように品良く制服を着こなした青年は、肩を竦めるようにして微笑み、無人の机を叩いた。
「保健室には、いかなかったんだな」
 話しかけられてビクリとして、タクトは返答に窮して視線を泳がせた。
 午後の授業をふたつともサボった事を、遠回しに責められている。一時間目は腹痛だからとどうにか誤魔化せたが、思いの外元気だった彼をクラスの全員が知っている中で、教諭に誤魔化すのは骨が折れた。
 強い眼差しでそう告げられて、タクトは恐縮すると同時に、放っておいてくれても良かったのに、と心の中で悪態をついた。
 スガタが黙ると、また教室は静かになった。
 今なら山辺にある学校からでも、島を囲む海の声が聞こえそうだ。
 歌っているような潮騒を胸の中に響かせて、タクトは胸の前で左右の指を小突き合わせた。
「その、……ごめん」
 この場にもっと相応しい言葉が、探せば他にあったかもしれない。
 だけれど何も浮かんでこなくて、頭が真っ白のまま、タクトはそれだけを苦労して呟いた。
 頭を垂れて俯いて、レールを踏み越えただけの自分を思い出して少し前に出る。
 寮に手ぶらで帰るのは、余り褒められたものではない。それに財布も、部屋の鍵も、全部鞄に入ったままだ。
 そして彼の鞄は、スガタのすぐ後ろの机にぶら下がっていた。
 荷物を片付けて、鞄を手に教室を出る。そんな簡単なことが今はとても難しい。
 項垂れている彼に目を眇め、スガタは右手を腰に当ててほんの少し立ち位置を左にずらした。
 カナコの机まで後退して、道を広げてやる。衣擦れの音に盗み見たタクトは、ホッとしたような、そうでないような複雑な心境に陥り、前に出るのを躊躇した。
 右足を泳がせて、床に小さな円を描く。
「タクト」
「ごめん」
 呼ばれて、発作的にそう呟いていた。
 先ほど声に出した台詞が、まだ口の中に残っていたらしい。すぽん、と飛び出て行った台詞に自分がなにより吃驚して、タクトは思い切り床を踏みつけた。
 ドン、と大きな音を響かせた彼にぎょっとして、スガタは直ぐに相好を崩した。おかしそうに笑って、肩を揺らして其処にあった机に寄りかかる。
 彼が簡単に笑ってくれたのが嬉しくて、タクトは腹の奥にあった重いものを遠くへ放り投げた。
 問題ない。なにも、問題ない。
 呪文のように言い聞かせて、少し急ぎ足に机の間をすり抜ける。廊下は暗かったが、大きなガラスに覆われた窓辺はまだ充分明るかった。
 差し込むオレンジ色の光に目を細め、眩しそうにして、スガタの元へ。あと二メートルのところまで来て、タクトは足を止めた。
 カナコの机に腰を預けて、スガタは腿に添えた両手を握り締めた。
「そういや、部活は?」
「今日はないよ」
「あれ?」
 ふと胸に抱いた疑問を口にしたタクトに、顔を向けないままスガタが答える。そんなわけは無いとタクトは不思議そうにしたが、彼はその次の句を紡がなかった。
 本当は、休みにしてもらったのだ。
 部活に参加するメンバーと鉢合わせしないように部室を抜け出したタクトは、だから五時間目が終わった直後、スガタがサリナに頼みにいったのを知らない。
 ただでさえ少ない本部員の、更に少ない男子メンバーがふたりとも休むとあれば、部活も立ち行かない。だから自宅で個人練習に勤しむのを条件に、サリナは渋々許してくれた。
 三年生の廊下で取り交わした会話を思い返しながら、スガタは握り合わせていた手を広げ、掌を重ねた。
 祈りにも似た形を作って、人差し指の爪でそっと指先を削る。
「……ま、いっか」
 なんであれ、放課後がフリーになったのは嬉しい。
 前向きな態度を崩さないタクトはあっけらかんとして、引き出しの中から今日使うはずだった教科書類を取り出した。
 鞄のファスナーを開き、中身を急ぎ詰めていく。気忙しい彼の動きを横目で盗み見て、スガタは光と闇が混在する教室の天井を仰いだ。
「あ、スガタ。今日、この後」
「すまなかった」
 昨日の続きで、島を案内して欲しい。
 そう言おうとしたタクトを遮り、何に対してかも不明な謝罪が、スガタの唇から零れ落ちた。
「……え?」
 押し込む隙間を探していた英語の教科書が、タクトの手をすり抜けて床に落ちた。
 角から沈み、弾みもせず横倒しになったそれから目線を浮かせて、彼は首を右に倒した。不思議そうに目を丸くして、ぱちぱちと瞬きを連発させる。
 コミカルな動きに笑いもせず、スガタはカナコの机に座ったまま、立っている少年を見詰めた。
「悪かった」
 言葉を入れ替えただけの謝罪が繰り返されて、タクトは益々きょとんとした。
 落としたものを拾いもせず、今の発言の意図を探ろうとして相手をじっと見詰め返す。無言の時間が過ぎて、先にスガタが白旗を振った。
 ふっ、と気の抜けた笑みを浮かべて、寂しげに眉を寄せる。
「本当はな、言うつもりはなかったんだ。すまない」
 目を逸らした彼の横顔に、タクトはワコと交わした会話の、その最後のひと言を思い出した。
 スガタを恐がらないでやってくれと、彼女はそう、タクトに頼んだ。
 彼が何を指して「言うつもりがなかった」と言っているのか。敢えて言葉にされずとも、すぐに想像がついた。
 答えは、この世にひとつしか存在しない。
 繰り返される謝罪の文言にも腹が立って、タクトは落ち込んでいるようにも映る親友にかぶりを振った。
 空っぽの手を握り、広げ、横薙ぎに払う。巻き起こされた風に頬を叩かれ、スガタは背中を伸ばして顔を上げた。
 斜め後ろから西日を浴びた少年は、真っ赤な髪をもっと赤く染めて、悔しそうに、哀しそうに唇を噛み締めていた。
「なんでそんな事言うんだよ!」
 振り翳した右手を己の机に叩きつけて、彼は叫んだ。
 殴られるのも覚悟していたスガタは、本能的に身構えて、前方で響いた痛そうな音に眉を顰めた。肩を小刻みに震わせたタクトは、スガタにではなく、自分自身に怒っているようだった。
「タクト」
「なんでだよ。なんで、謝るんだよ!」
 だったら最初から言わなければ良かったのだ。
 永遠に胸の中に留めて、誰にも見付からないところに隠し続けておけばよかったのだ。
 一度曝け出してから、謝るのはずるい。
 だのに息が詰まってしまって、言葉が巧く出てこない。言いたい事は山ほどあったはずなのに、なにひとつ音に出来なくて、タクトは鼻を愚図らせた。
 赤くなった手で髪の毛を掻き回し、ピンク色のネクタイを前後に波立たせる。癇癪を爆発させている彼を呆然と見上げて、スガタは立ち上がろうとして失敗し、つんのめってまた机へと戻った。
 たたらを踏んだ彼を睥睨し、タクトは喉元につっかえている空気を踏ん張って飲み込んだ。
 謝る、という事は、あの告白をスガタは後悔しているということだ。
 言ってはならない事を口にしたと、悔やんでいる。悪い事をしたと、そう考えている。
 立場を重んじ、建前をなにより優先させてきたスガタが、タクトに対して本音を語ったのを過ちだったと思っている。
 そのことがなにより不愉快で、面白くなくて。
 ショックだった。
 激高している彼を上から下まで眺めて、スガタは表情を翳らせた。
 タクトが何に対して怒っているのか、その判断を付けあぐねている。思案気味のその顔も、何もかも気に入らなくて、タクトは一層怒りを表に出し、床を激しく踏み鳴らした。
 けたたましい騒音に顔を顰め、スガタは今度こそ立ち上がってタクトの前に立ちはだかった。
 視界の大半を彼が占めるようになって、タクトは蹴り上げていた足を下ろし、後ろ向きにふらついて腰から机にぶつかっていった。
 またもや沈黙が場を埋めた。
 跳ね上がった心拍数に苦しめられて、タクトが小さく咳き込む。顔を背け、西日に赤い顔を誤魔化している彼を見据えて、スガタはゆるゆる首を振った。
「すまない」
「また!」
「お前を、……恐がらせるのは、本意じゃないんだ」
 他に語る言葉を持たない彼に罵声をあげようとして、タクトは意外なほどに澄んだスガタの眼差しに凍りついた。
 ワコの言葉が蘇る。頭の中で延々繰り返されている言葉にまたもや頭を殴られて、タクトは吐き出そうとしていた台詞を忘れ、ぶつけた腰を抱いて机に寄りかかった。
 一瞬だけ勢いが良かったスガタも、後ろに行くに従って声が萎んでいった。
 最後は聞き取れないくらいの掠れ具合で、タクトは懸命に息を整えて心を鎮めた。
 スガタが恐かったわけではない。そうではない。
「だから」
「違う」
 また、謝る。
 聞きたくなくて、タクトは声を張り上げた。
 遮られ、思わぬ反撃にスガタが怯んだ。目を見開いた彼の青い髪が揺れている。睨みつけて、タクトは牙を剥いた。
「違う。そうじゃない」
 朝、廊下で顔を合わせた時に過剰に反応したのも。
 一目散に逃げ出したのも。
 休憩時間、まともに顔を見られなかったのも。
 全部。
「違わないさ」
「違う」
「違わない」
 涼しげなスガタの反論を突っぱねて、タクトは首を振った。押し問答が繰り返されて、堂々巡りの結論は意外なところから生まれ落ちた。
「タクト」
 愛おしげに名前を呼ばれて、弾かれたように彼を見る。
 タクトの瞳に、彼の白い右手が映りこんだ。
 それまで脇に垂れ下がるだけだったそれが、ゆっくりと持ち上がる。空を握り、開かれた手が静かに、タクトへと差し伸べられる。
 高い位置、このままでは頬に触れる。
「……っ」
 ハッと息を吐き、この後を想像してタクトは顔を強張らせた。咄嗟にぎゅうっと硬く目を閉じて、首を亀みたいに引っ込めて緊張を四肢に走らせる。
 大袈裟としか言い表しようのない反応を見せた彼を見詰めて、スガタは音もなく手を引っ込めた。
 五秒経っても、十秒経っても何も起きない。流石に訝しんだタクトが恐々目を開けば、そこには変わらずスガタが居て、右手は脇腹の横で、力なく垂れ下がっていた。
「ほら、な」
 揶揄されて、タクトはカッと顔を赤くした。
 掌を上向かせ、スガタが右手を上下に振る。今は彼の傍にある指先が頬を掠める錯覚に、タクトは過剰なまでに竦んでしまった。
 昨日の、放課後が始まるまでは、こんな風にはならなかった。
 スキンシップはいつものことで、脇を小突きあったり、額が擦れるくらいに近いところで笑い合ったりもしていた。
 それが、今はもう出来ない。
 あの頃と同じように、深く考えないまま彼を受け入れるのは難しい。
 改めて突きつけられた現実に眩暈を起こし、タクトは火照った肌に手の甲を押し当てた。ごしごし擦り、これは摩擦による赤味と熱だと必死に自分に言い聞かせる。
 目線の高さは逆転して、今はスガタの方が上にあった。彼は悪足掻きをやめない少年を寂しげに見下ろし、上着の裾を少し捲ってスラックスのポケットに指先を捻じ込んだ。
 背中を丸め、カナコの机にまたも腰を預けて爪先を揺らす。ふたりして廊下のある方角ばかり見て、顔を合わせようともしない。
「タクト」
「違う、よ。スガタ。僕は」
「良いんだ。お前を困らせるつもりはなかった」
 タクトの気持ちが誰に向かおうとしているのかを知った上で、思いを告げた。卑怯といわれても仕方が無いと、彼は自嘲気味に囁いた。
 そんなつもりは毛頭なかったのに、急にそんな話を持ってこられて、タクトは面食らった。
「ス……」
「浮かれていたんだろうな。お前が、あんまりにも無邪気で」
 一緒に居るのが楽しくて、つい心の箍が緩んでしまった。
 言うつもりはなかった、という彼の先ほどの言葉が脳裏を過ぎり、タクトは息を飲んだ。
 遠くを見ているスガタの横顔を窺うが、彼が何を考えているのかはさっぱり読み解けない。このまま彼を喋らせていたら、とても恐い事になるのではないかという、そんな言い知れぬ不安がタクトの頭上に舞い降りた。
 唾を飲み、息を吐く。
 たったそれだけの事に随分と時間を浪費して、彼は生温い汗を首筋に垂らした。
「スガタ」
「嬉しかったんだ。お前みたいな奴が、僕の前に現れたことが。なんだか、な。変な言い方だが、夢みたいだった」
 依然遠くしか見ていない彼の耳に、隣に居るタクトの声は届かない。
 手を伸ばすのに掴むのを躊躇してしまって、彼は痙攣を起こした指に爪を立てた。
「夢だったら、……良かったのかもな」
 ぽつりと呟かれたひと言は、タクトには聞こえなかった。
「スガタ?」
「今日一日、考えたんだ」
 自分の胸の中に思いをそっと仕舞いこんで、スガタはかぶりを振り、久方ぶりにタクトを見た。
 西日をまともに浴びている所為で、表情が見え辛い。ただでさえ感情が表に出にくい彼なのに、と心の中で舌打ちして、タクトは窄めた口から短く息を吐いた。
 言わせたくない。
 聞きたい。
 聞きたくない。
 知りたい。
 伝えたい。
 分かりたい。
 教えたい。
 此処に気持ちがある事を。
「忘れてくれ」
 一瞬胸に抱いた期待は、粉々に砕け散った。
 自席から身を乗り出したタクトの表情が強張り、やがて沈んだ。ずっと前に落とした教科書を今やっと拾い上げて、関節をギシギシ言わせながら表面の汚れを払い落とす。
 聞こえなかったと勘繰ったスガタはちょっと迷い、恐る恐る彼を呼んだ。
「タクト」
「それって、……どういう意味」
 はっきりと響く声の下に、くぐもった掠れ声が混ざりこむ。
 ハッとして息を止め、スガタは俯いたままの少年の項を見た。
 赤い髪までもが項垂れて、萎れている。このまま枯れてしまうのではないかと恐くなって、自分の選んだ選択肢が間違いだったのかもしれない可能性にも思い至り、スガタは瞠目した。
 タクトは顔を上げない。黙って返事を待っている。
 見えない表情に思いを馳せて、彼は唇を噛み締めた。
「お前を、……僕の一方的な思いだけで、失いたくはない」
 露骨に避けられて、目もあわせてもらえず、交わす言葉はぎこちなくて余所余所しい。
 そんな風になりたかったのではない。
 後の事は一切考えずに、思いだけが先走って溢れたのだと、先ほどスガタは言った。
 タクトを好きだと伝えて、そこから何かを生み出したかったのではないのだ、と。
 ただ知っておいて欲しかった。気付いて欲しかった。
 気付いてもらえて嬉しかった。
 それだけだった。
 その結果が、今日という日に現れている。タクトはスガタを避けた。その事実で、もう充分だった。
 スガタの想いが重いのだというのなら、忘れてくれて構わない。いや、忘れて欲しい。
 昨日、ふたりは一緒に帰らなかった。
 細い道で猫にも会わず、他愛もない会話に花を咲かせもしなかった。
 自分たちは校門で手を振り、別れて、今日の朝何事もなかったかのように学校で顔を合わせた。
 そんな風に記憶を操作して、あった事をなかった事にして欲しい。
 短いひと言に詰め込まれたありったけの願いを紐解いて、タクトは唇を戦慄かせた。
「スガタは、……それで、いいの」
「構わない」
「嘘だ」
「嘘なものか。良いんだ。……良いんだよ、タクト」
 駄々を捏ねる小さな子供に諭しかけるように、スガタの声は優しく、暖かい。
 だからこそ苦しくて、タクトは弱々しく首を振った。
 浜に流れ着いた彼を助けてくれたのは、ワコと、スガタだった。
 直ぐに親しくなった。性格は正反対の筈なのに、妙に馬があって、一緒に居ると楽しかった。
 出会ってからまだ数ヶ月も経っていないのに、十年来の友人の気分になっていた。幼馴染の多い彼だけれど、その誰よりも深く心に踏み込めていると、変な自負があった。
 開かれていた扉が、目の前で音立てて閉ざされようとしていた。
「それを、言いたかったんだ」
 気心の知れた仲が壊れるくらいなら、胸に秘めた淡い恋心は捨てる。
 迷いのない口調で告げて、スガタは立ち上がり、ポケットから手を引きぬいた。真っ直ぐに歩き出す彼の背中へ慌てて手を伸ばすが、タクトの指は空を切り、何も掴み取れなかった。
「……スガタ!」
 誰にも、何も言わずに、自分ひとりだけで悩みを抱えて、解決しようとする。
 それがスガタの悪い癖だと、ワコも言っていたのに。
 届かない手をもう一度前に繰り出して、タクトはこみ上げる様々なものを奥歯で擂り潰した。
 握ったままだった教科書を投げ捨て、いきりたって立ち上がる。スガタは淡々と騒音を受け流し、自席から鞄を取り上げた。肩に担ぎ、まるで何事もなかったかのように扉に手をかける。
 出て行く寸前に、振り返る。
「また明日」
 なにもなかったかのように。
 なにも起こらなかったように。
 彼は涼しげに別れの挨拶を口ずさんだ。
 肩で息をしていたタクトは面くらい、目を丸くして、出て行く彼をただ見送ることしか出来なかった。
「……なん、で」
 生温い汗を流し、苦い息と唾を飲み込んで、喘ぐように呟く。呆然とする彼を暮れ行く太陽が、遠慮がちに照らした。
 何もなかった。
 それは、奇しくもタクトが願った結果に違いなかった。
 昨日までと変わる事無く、これからも変わる事無く。
 望んだ結果が得られたのだ、喜んで良い筈だ。
「なんで、だよ」
 それなのに。
 どうして。
 頬を伝う冷たい雫を撫で擦り、彼は唇に牙を衝きたてた。

2011/01/15 脱稿